氷獄のふたり・後編
無限世界の外側、世界の終焉とされる凍てついた領域、氷獄。
崩落と共に開いた巨大な暗い縦穴を、三眼有角の黒馬に乗ったダークスレイヤーとサーリャは静かに降下していた。
もともと暗い領域である氷獄の縦穴は既に暗黒に包まれていたが、ダークスレイヤーは永劫回帰獄の知覚力で、サーリャは氷獄の管理者の知覚力で分厚い氷さえ透過して広範囲を認識し、さらにその感覚を互いに触れている事で共有して油断なく警戒しつつ高度を下げていた。
「サーリャ、この縦穴の深さは尋常ではないな」
ダークスレイヤーの声は何かに対しての警戒を隠していなかった。
「この領域の氷の厚さは、無限世界の積み重なった時の厚みに等しいとされています。氷に残る分かりやすい知性ある者の時代の痕跡を過ぎた時点で、私たちにさえ想像しがたい何かが眠っているのかも」
「永劫回帰獄の力ある存在が言っていた。無限世界が『人なる神の時代』となる頃、主物質界では『人なる神』の理解と知覚で把握しきれない存在は全て氷獄に封じられたと」
ダークスレイヤーは背後で、サーリャが少しだけ息をのんで逡巡する気配を感じ取った。
「永劫回帰獄にはそんな知識まであるの? それは私たち『冷たい人々』と呼ばれる氷の一族でさえ失いかけている伝説よ。辺境世界はいずれ氷獄に呑み込まれる地だけど、幾つかの『無形のもの』たちにあえて形を与え、その後封じたり討伐する歌が残っていたのよ。でもそれらはほぼ失われてもいるわ」
「興味深い。我々に分かる形を与えたからこそ、理解の外の無形の存在に干渉できるようになるという考え方か。裏を返せば、それらが無形で我々に理解できないままの存在だったら……」
「私たちでさえ危険にさらされる可能性はあるわね」
ダークスレイヤーは鎖で絡めて腰に下げていた魔剣ネザーメアを引き抜いた。暗い炎のような揺らぎを帯びた魔剣の文言『永劫回帰獄碑文』は刻々と変化して定まる事がない。
「今のところ剣は大人しい。何かあるな。無形の存在に形を与えて戦ってみるのも面白そうではあるが」
意外な言葉にサーリャは呆気にとられた。
「面白そうと言ったの?」
「あくまで興味深いという意味だぞ」
しかし、サーリャにはこの男の中に燃える闘争心が、既にある種の期待感を帯びた物に代わっている事が何となく感じ取れていた。
(楽しそうね……)
サーリャの心の声を感じたかのように、ダークスレイヤーは言葉を足した。
「決して未知との遭遇や、さらには戦いを期待しているわけでは決してないぞ。まして今は女連れだ。危険は少ないに越したことはない」
「女連れ……そうね」
「深い意味はないぞ」
「わかっているわ。悪い気はしないから大丈夫よ」
黒馬の背に横座りしてその半身をダークスレイヤーに預けた形になっているサーリャは、暖かな鋼鉄のようなその背中にとても頼もしいものを感じていた。ずっと孤独に生きていくと思っていた自分の肩が、見えざる柔らかな空気に包まれているような、そんな温かさを感じていた。
(わからないものね、私がこんなになるなんて……)
サーリャのそんな淡い思いは、周囲に漂う気配の一変で霧散した。
「この感じ……!」
ダークスレイヤーの気配も警戒の強いものになった。
「ああ、分かっている。言葉を持たない知覚力のようなものがおれたちに興味を持っている。呼び声に等しい気もするが……」
超越した感覚を持つ二人には、氷からにじみ出ていた『人なる神の時代』の記憶の残滓は感じられなくなり、まばらに力の分散した、混沌とした闇が感じられるようになっていた。
「無限世界が整う前からこの領域はあったと?」
重大な秘密に近づいている予感が二人の気を引き締めている。
──…………………!
何かが二人を明確に感知し、巨大な知覚の波が湿った闇の風のように二人に触れた。暗黒の空間は定まりの無い灰色となり、同じ色の何かが舞い降りているが、それが何かは二人とも良く見えていなかった。
「これは? 意味が分からんな」
ダークスレイヤーは周囲を見回し、サーリャには後ろ姿からでも彼がかなり驚いていると気付いた。
「どうしたの?」
「ここはおそらく永劫回帰獄の一部だ。この舞い飛んでいる物はおそらくこの領域に漂う焼かれし者どもの灰。しかしなぜこんな事が?」
──惜しいかな、正確には違うぞ、客人よ。
「何者だ?」
魔剣ネザーメアを抜いたダークスレイヤーの声に対して、舞い散る曖昧な灰は一つ所で妙に濃くなり、印を結んだまま亡くなったと思われる高位の聖職者のミイラとなって宙に浮いていた。様々な灰色で統一された長い法衣が緩い風になびいている。
──珍しい事も有るものよ。そうか、遂に人々の意志は度重なる世界の更新にも消えぬ怨嗟を抱え、お前を呼び出す事になったか。
いつしかダークスレイヤーとサーリャの乗る黒馬アクリシオスは、足元の見えない明るい灰色の地平に降り立っていた。
「あんたは何者だ? そしてこの領域は?」
──ほほう、あの女の娘はずいぶんと健気なものよ。げに恐ろしきは女の業か。そなたのような者をこのような手まで使って。
「あの女の娘? 我が母サタと私の事ですか?」
サーリャが訝し気に問う。
──違う。お前たちをこの領域に至れるようにした者たちの話だ。この領域は理論上は存在していたが、今の今まで実在した事がなかった。私とこの領域に時の概念がないためにこのような言い方しかできないが。
緊張感の漂う沈黙の時が過ぎ、ダークスレイヤーとサーリャは馬から降りて話を続けた。
「ここは永劫回帰獄のようだが、そうとも言えない微妙な曖昧さがある。しかも、しばらく前から漂っているおれたちを知覚しようとしている巨大な力の気配はあんたのものではない。これはどういう事だ?」
──私の名前もまた忘れられたものだ。名前の有限性の問題故にそうしたとも言える。私はお前たちが言うところの『隠れし神々』の一柱にも等しき存在だが、ある者の秘められた行いがお前たちの合一を生み、この領域に立ち入って私と話せる状態にしたのだ。
(合一と言ったか……?)
(合一って……まさか……)
灰の法衣のミイラの『合一』という言葉に、ダークスレイヤーとサーリャにはそれぞれ微妙な空気が漂った。二人はしばらく前の夢とも現実ともつかない百年ほどの間の、深く触れ合い、愛し合った記憶に思い至っていた。そんな二人がそれぞれ互いにどう切り出すべきか迷っている間にも、灰の法衣のミイラは話を続ける。
──私に名は無く、『普く知を持つもの』とのみ呼ばれる。同じような者は無限世界に他にも存在しているが、私はある一つの役割に臨み続けており、それは秘匿されしものなのだ。それこそがお前たちが感じ取っている気配の正体だ。見るがいい。
舞い散る灰が色濃くなって視界は遮られ、灰色の曖昧な空間にいずこからか強い闇が射しこんだ。ダークスレイヤーとサーリャはその差し込む闇の巨大な根源に目を向ける。
「下がっていろ、サーリャ!」
それが何かサーリャが見知る前に、ダークスレイヤーは魔剣ネザーメアを構えてだいぶ先に飛び出した。そのダークスレイヤーの先にある闇の根源、ひたすらに巨大な闇の根源の形を見て、サーリャは声を上げる。
「ああ!」
それはまばゆい闇を放つ巨大な、視界を埋め尽くすほどに巨大な、鋭い目をした獣の頭骨のような顔だった。その顔部分をおそらく胴として腕のように二つの獰猛な化け物の頭骨と骨の太い鉤爪を持つ腕が生えており、竜のような角のある首と、尖った峰々を持つ山脈のような胴が蛇のように彼方まで続いている。
この巨大な存在の胴部分の顔の眼に白い炎が宿り、ダークスレイヤーとサーリャの心に、無数のとにかく相いれない者たちが叫ぶような声が響いた。
──我は『暴』なり。全てを引き裂き白日に晒す者なり。
灰色の光を放つ『普く知を持つ者』がゆっくりと降りてきた。
──『暴』とは自然には非ざる過剰な破壊。それをもたらしたのは『知』だ。ゆえに、知は暴をある程度は御する力を持つ。これを時の終わりか、ある局面まで続けるのが私の役目。
当面の危険はないと判断したダークスレイヤーは、魔剣を背に収めて尋ねた。
「ある局面とは?」
──氷獄の管理者をお前のようなものが殺すか、または強引に穢す形で合一した場合だ。その場合『暴』は氷獄の管理者の女の腹に宿り、やがてその女を氷獄ごと引き裂いて、世界は終焉へと向かい始める。今まではそのような結末しか無かった。
「何ですって……!」
──しかし、そのような虚しい繰り返しも遂には無限世界の魂たちの怨嗟を誤魔化し続ける事が出来なくなり、ダークスレイヤーよ、お前が現れたのだ。
「そんなはずはない!」
珍しい事にダークスレイヤーが声を荒げた。
「おれがこの眼で見てきたものは到底納得のいく世界のありようではない。おれはただ怒りを抱えて戦い、やがて消えゆくのみ。そのような運命論を信じる気は一切ない! 『普く知を持つ者』よ、あんたならわかるだろう? 絶対者と呼ばれる存在が、地上の荒廃ぶりは無視して競争に明け暮れ、気に入らなければ対話ではなく力で全てを御さんとする有様を! 野盗も蛮族も大国も界央の地も、規模の違いだけで等しく違いがない! そんな世界に属する運命論など信じない!」
しかし、『普く知を持つ者』は静かに話を続けた。
──永劫回帰獄を抜けた者はかつて一人たりとも存在しなかった。しかし、あの地を抜けた時点でお前は運命に縛られぬ。その自由なる意思がそこの氷の女をもむごたらしい運命から解放したのだ。お前とその女は和合し、だからお前たちの領域の狭間であるこの地に二人で訪れる事が出来たのだ。
「何だと……!」
──世界は何度も無意味な回帰を繰り返し、ある種の諦めに近い悟りが永劫回帰獄には秘められていたが、お前はその定めを刃として傲慢な者たちの矛盾に向ける事とした。この背理からは何者も逃れられぬ。存在する限りは真の悟りに至らぬゆえにな。
沈黙が漂い、『普く知を持つ者』は再び話を続けた。
──私が現時点で語れるのはここまでだ。『暴』の言葉を聞き、立ち去って和するが良い。
『普く知を持つ者』はどこか微笑の気配を漂わせつつ、灰が舞い散るように消えてしまった。続いて、瓦礫の山が直接心に触れる様な不快な声が響く。
──お前は今、剣の形に焼き固めた地獄の力の本質に向き合っている。即ち我こと『暴』なり。我は『知』によりもたらされた全ての忌むべきものを破壊するためにある。心せよ、我と同じ蛇の痕跡を見逃すな。それこそが我とお前の真なる敵となろう。
『暴』もまた拡散する闇となって消えてしまい、灰色のまばゆい光があふれ始め、まるでこの領域そのものが消えるような気配が漂い始めた。最後に声が響く。
──急ぎ、去るが良い。
ダークスレイヤーは黒馬に乗ると、サーリャの手を取って今度は自分の前に座らせ、馬に声をかける。
「アクリシオス、炎の鳥となれ。急いで立ち去るぞ」
二人を乗せた黒馬は空中に駆け、やがて黒い炎の巨鳥と化すと、稲妻のような速さで氷獄に向かって上昇していった。消えていく下方を時おり見やるダークスレイヤーに対して、その胸に身を寄せているサーリャは、たまに自分の頭が男の胸に軽く当たるのを心地よく思っていた。
サーリャには遠い昔から長い間、自分は長く不幸な生を送り、やがて不幸の極致のような凄惨な結末を迎えるという薄暗い予感があった。しかしいつしかそれは無くなり、良い意味で未来が分からなくなっている。それをもたらした男は今も、下方と上空を交互に見やりながら、時折サーリャにも気を配って飛び続けている。
「見えたな、氷獄の月だ」
ダークスレイヤーの安心した声とともに、サーリャの肌に触れる冷気が慣れ親しんだものに変わった。黒炎の巨鳥は氷獄の空に至り、黒馬の姿に戻ってゆっくりと駆けると、やがて氷の花の咲く平原に静かに降り立った。
ダークスレイヤーはサーリャの手を引いて馬から降ろすと、黒馬をいずこかの領域へと戻して氷の花園をしばし眺めている。その後ろ姿に、サーリャはこの男が自分と同じ事柄について考えていると自然に感じられていた。声をかけようかとサーリャが思った時に、男がゆっくりと振り返る。
「合一と言っていたな、あれは……」
「男女の……そういう事よね? 私たちがそうなったからあの領域が現れ、そこに行けたと解釈するべきよね。つまり私たちは、その……」
「信じがたいがあの空白の百年の間に、どこか異なる領域でそうなったのか。記憶を手繰れば確かにそういう情景は色々と思い出される気がするが」
「情景って……恥ずかしいからやめて」
サーリャは顔を伏せて小声でたしなめた。
「ああ、すまない。……本当に」
サーリャはしばらく俯いていたが、やがて顔を上げて意志の強い目をダークスレイヤーに向けた。
「以前、あなたの心を見たから、あなたが何を考えているかわかる。あなたは関係が深くなった私に何か災いが訪れる事を心配しているわよね? そして、どんな女とももう関係を作らないつもりだったのに、それを違えてしまったことに困惑している。違う?」
「……その通りだ」
「私はこれで良かったと思っているわ。あなたはとても恐ろしくて強いけど、秘めた誓いのせいなのか、あるいは……」
サーリャはこの男の過去の心の傷について言及しかけてやめた。
「あるいは?」
「ううん、どうでもいい事だわ。あなたは私にとても優しく丁寧に接してくれていた。私はこれでも自分の厄介さは分かっているつもりよ。そんな私にあなた以外の人は現れないのも分かっているわ。だから……だからこれで良かったのよ」
何か諦めとも納得ともつかない気持ちに、大きな喜び。そんな複雑な気持ちをサーリャはそのまま言葉に乗せた。しかし、ダークスレイヤーは少しおかしみの漂う笑みを浮かべた。
「あれはただの夢だな。夢に決まってる」
「何を言ってるの?」
「先ほど言いよどんだ話だが、男はしばしば、戦いのさなかに愛した女の感触や姿が蘇る事がある。長い間そんな事がなかったのに、ここしばらくはたまに君の姿がよぎっておかしいなとは思っていた。しかしこれは、おれの筋が通せなくなってしまうからな。だから認めないし夢に決まっているさ」
それが嘘なのはサーリャに向けられた笑顔がありありと物語っていた。サーリャは溜め息のように息をついて微笑む。
「そう夢よ。でも、とても良い夢だからずっと続いたらいいとあなたは思っている。違う?」
「そうだな、ずっと続いてよい夢だと思う」
「続くわ。ずっと、いつまでも」
微笑んで言いながら伸ばしたサーリャの手を、ダークスレイヤーはそっと取り、二人は手をつないだまま見つめ合った。長く道を共にしていく予感が二人を満たしている。
やがて、ダークスレイヤーが氷獄の暗い夜空のほうを見、再び振り返ったその眼はわずかに赤く燃えていた。
「聞こえてくる。人々の魂の慟哭が。そろそろ行くよ」
ダークスレイヤーの側に黒い炎が舞い上がると、再び黒馬が現れ、ダークスレイヤーは慣れた動作で跨る。
「この領域と、おれと君の関りにも大きな秘密があるようだ。今後はしばしばここに来て話したいと思う」
「ええ。待っているわ。ここでもディレニスでも」
サーリャの言葉にダークスレイヤーは精悍な笑みを浮かべると、何かを思い出したように手のひらを出し、そこに黒い炎が燃えた。炎は細く流れてねじれ、ダークスレイヤーの手に一握りの黒い紐が残る。
「危うく忘れるところだった。これを渡しておくよ。永劫回帰獄の黒炎で編まれた紐だが、おれと関りが深くなった君にはきっと有意義に使えるはずだ。普段は髪を束ねても飾り紐にしてもいい」
「これを私に? ありがとう。次に会う時までに身に着け方を考えておくわ」
「では」
ダークスレイヤーとその愛馬は黒い炎と化し、稲妻のように一瞬で彼方へと消えた。
「また戦いに行くのね……」
手に残った黒い紐を大事そうに掴み、サーリャは男の無事を祈る。
(武運を!)
祈りつつ目を閉じるサーリャの背後に、氷獄にはあり得ない聴色(※ピンク色の一種)の光が広がっていたが、サーリャはそれに気づいていなかった。二人の逢瀬は壮大な陰謀の縦糸と横糸に等しかった。
初稿2023.08.07
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