第四幕 月を喚ぶ
『豊穣なる雨の地』を意味する世界ウル・インテス。
その世界の遥か上空、暗い星の海には、普段はウロンダリアの夜空にしばしば現れ『モノリス』と呼び親しまれている直方体の超大型構造物、『不滅の堅座』ヴァジル・アマラが浮かんでいる。
普段、ウロンダリアの人々はこの構造物の底面しか見ていないため、小さめの月ルンネよりやや大きく見える鈍色の直方体、程度の認識しかないが、その上面は中央後部に次第にせりあがる、滑らかな鰭のような突起部を頂点として起伏に富み、多くの開口部があった。
よくよく見ればそれは、どこかの巨大な都市か星船の一部を直方体に切り取って空に浮かべたようにも見えるだろう。
今、鰭のような突起のテラス状の開口部に、薄い白銀のドレスに聴色の髪の美女が、不機嫌ゆえに美しい難解なまなざしで星の海の一点を見つめている。
──無限世界二番目の美女、『不機嫌なセア』。
セアは左手に、ランプと砂時計を合わせて複雑で美しいねじれを加えたような器具を手にしており、それで何かを照らすように目を凝らしている。
「セア様、そろそろでしょうか?」
ドレスの大きく開いたセアの背中に、星々の光に声を当てたらさもありなんと思わせる、不思議な声を掛ける者があった。
「そうね、もうそろそろ始めるわ。遠き星辰、星々と世界の座標、計算の通りにとても良い頃合いね。よろしく頼むわ、アムニステラ」
セアの振り向いた先には、藍色がかった夜空色の闇と、星々のような小さな光の粒の舞う、半透明の女神が微笑んでいる。
──星辰の運行を司る高位の女神、『星喚び』のアムニステラ。
「あら、準備がいいのね? 星喚びの相に変えたのね?」
「はい、そろそろ頃合いかと思いましたので」
この時、テラスの奥の広間に、薄水色の光が壁のように立ち上り、様々な文明の高度な術式文字と転移門が展開して、多くの人型の存在たちが現れた。
トカゲのような者、昆虫のような者、岩のような者、獣の特徴を持つ者、さらには金属製の機械のような者もいた。それぞれの姿は個性的に過ぎるが、皆その眼に深い知性が宿っており、また黒地に金銀の刺繍の衣やマントを身に着けている。
その集団の中から、人の半分ほどの背丈の者がゆっくりと歩み出てきた。小人のような小さな体に、異様に大きな頭を持ち、その頭は芋虫のように後方に長く、まるで人面の芋虫から小さな人の身体が生えたような見た目だが、長い後頭部からも幾つかの足が生えて、その重そうな部位を支えている。
──『叛逆の十賢者』の一賢、『蟲の賢者』、大賢者ウルボルスト。
「セア様、アムニステラ様、今宵はご協力いただき感謝いたしまする」
ウルボルストは海星か軟体生物のような手とその指を組み、深々と一礼する。
『不機嫌なセア』は、その表情を変えずにつかつかとウルボルストに歩み寄り、背後の異形の一団に小さな緊張が走った。しかしセアの言動は意外なもので、セアはウルボルストの手と頭に触れ一瞬だけ笑みを浮かべる。
「相変わらず柔らかいし、可愛い! 蟲の賢者ウルボルスト、あなたは本当に愛くるしい存在ね!」
ウルボルストの瞼の無い昆虫のような黒い目が、それでも丸く見開かれているのが誰の目にも明らかだった。大賢者がひどく驚いていた。
「セア様無体な事はおやめくだされ! いかなる風体や由来の者も決して厭わぬ方なのは知っておりますが、老醜にして異形の私に毎度そのような対応をされるのはいまだに慣れませぬぞ!」
微妙に軋りがちな独特な声で、ウルボルストが狼狽している。
「ああ、ごめんなさい。多種多様な人々に出会えた喜びに、さらにあなたで駄目押しをされて、ついはしゃいでしまったわ。……とはいえ」
セアはやや不機嫌そうな静謐な目をして言葉を続ける。
「私にとって、他者を踏みにじらぬ選択をした者は全て慈しむべき存在。私には他者を忌むという感覚が本来ないのよ。真に美しき者であるがゆえにね。あなたたちはみな美しく、そして可愛らしいのよ」
セアは言いながら、いつも手にしている不思議な器具で皆を照らした。
「それが『ルブラ・サの絞り』ですかな?」
大賢者ウルボルストは、セアの持つ砂時計ともランプともつかない、不思議なねじれのある器具について問うた。
「そうよ。時と無数の世界の焦点と座標を自在に切り替える『無限世界原器』の一つね。原器であるがゆえに、これは無限世界の外側で造られたものよ。夢の領域、夢幻時の中でね」
この説明に、ウルボルストから軽い気配が消えた。
「セア様、この無限世界は夢の世界たる夢幻時の概念から生まれておるのですか? それはつまり、この物質の世界が心を由来にしているように理解できるのですが……」
「あなたほどの知性があれば、無限世界を構成している主物質界が、あまりに有限性に呪われている事に気づいたのではないかしら?」
「確かに、多くの呪いが存在しておりますな。『界央の地』と『間の投錨の地』を除いては永遠性さえありませぬ。……セア様、つまるところ物質とは欺瞞なのですかな?」
大賢者の深遠なる問いに、背後の様々な姿の者たちも真剣に聞き入る。
「欺瞞ではないわ。多くの者たちが物質に惑わされているだけよ。物質とは『相』の一部に過ぎないの。そのようなものに心が縛られ過ぎるのはとても残念な事よね」
大賢者ウルボルストと、その背後の者たちから嘆息が漏れる。しかし、一瞬漂いかけた虚無をセアの声が追い払った。
「しかし、それは私たちにはあまり重要ではない事よ。今夜は月を喚ぶのだから、眼下の世界の再出発を祝福しつつ事にあたりましょう?」
セアの声には人々の心のありようを変える力があり、広間は希望の気配に満ち溢れ始める。
「全く、そうですな!」
ウルボルストも力強く応じた。
続いて、ウロンダリアの何柱かの神々も現れ、ウル・インテスに月を喚ぶ儀式はいよいよ開始される事となった。
『不滅の堅座』ヴァジル・アマラのテラスから、『星喚び』のアムニステラが下げていた両手を少しだけ起こし、一歩踏み出した。
アムニステラはその幻影のように透けた姿が非現実的なほどに大きくなり、頭の部分だけでもヴァジル・アマラよりも大きいほどだ。それでも巨大化は終わらず、星の海は彼女の藍色がかった夜空色の闇と、星々のような小さな光の粒の舞う暖かな空間となり、さらに無数の歌声が響き始めた。
──星喚びの歌。
ウロンダリアの神々もこの歌に加わる。
「頃合いね。大地の方も頼むわ」
『不機嫌なセア』はウル・インテスの大地にいるであろう『白い女』の二柱、アマルシアとミルフィルに心の声を掛け、砂時計ともランプともつかない『ルブラ・サの絞り』を掲げる。
「ウル・インテスの時よ、真の時たる夢幻時に回帰し、併せて失われた祝福に回帰せよ! 彼方の闇を彷徨う寂しき月よ、あなたの美しい顔を眺めんとする新たな者たちの求める声を聞き給え!」
『ルブラ・サの絞り』はセアの言葉に合わせて複雑に縦横に回転し、やがて停止すると、淡い聴色(※ピンク色の一種)の光が無限に広がった。
──見つけました! 冷たく美しい月です。皆様の希望通り、中にたくさんの水があります!
広間の空中に暗黒の星の海を漂う、凍てついた白銀の月の映像が現れた。大賢者ウルボルストは沢山の輪をはめた小さな杖を出し、それらの輪を難しい顔をして様々な組み合わせで回した。この作業に連動するように高度な言語の短文が月の映像の周囲に現れる。
それらの文言を理解している者たちは感心や驚きの声を上げていたが、やがてそれらは厳かな雰囲気の中で沈黙に変わっていった。
大賢者ウルボルストは重々しく頷いて口を開く。
「うむ、計算しましたが、現時点ではいささか重いこの月は、内部に凍てついた多くの水を含んでおります。周期を密に計算して、最も影響の少ない時にこの水を大地に落とせば、ウル・インテスはかつての『豊穣なる雨の地』にふさわしい姿を取り戻すのも難しくありませんな。精妙な計算と調整は必要になりますが……」
セアは広間の神々や賢者たちに振り向いた。全員が黙って頷く。
「アムニステラ、その月でいいわ。引っ張って。そろそろカグヤも着くはずよ」
『星喚びの歌』は強くなり、遥か彼方の闇から笛のような鳴き声が無数に聞こえ、一点のぼんやりとした光が現れるとそれは次第に大きくなり始めた。
「おお、星鯨だ!」
誰かの感嘆する声が終わらぬうちに、淡く輝く鰭の長い星鯨の大群が彼方から現れ始め、その向こうに白銀の小さな月が見え始めた。
時を同じくして、ヴァジル・アマラのテラスの前に、鏡のように磨かれた円盤が現れると、その円盤の中央にウロンダリアはフソウ国の重ね着した大きな衣装を着て、優雅に座した黒髪の女が現れた。
──月の眠り人、フソウ国の神姫カグヤ。
カグヤは小さな黒曜石の扇子で口元を隠すと、わずかに首を傾げ、銀の艶のある黒髪が衣装を波のように流れ落ちる。深い青から闇に変容する瞳をした切れ長の目が細められた。
「セア様と来たら全く人使いの荒い。私に無限世界の全ての月を整えさせるおつもりか。しかし、私こそは月を良く知る者。結局は今宵も新たな月を見てはさもありなんと思わされ、まこと不愉快にして愉快じゃな」
カグヤはまんざらでもなさそうに笑い、彼方の月を見やる。
「月よ。そなたは人に知られねばただの丸い石ころじゃ。昼間を照らす燃える星と、人々の心に照らされて、初めて月と呼ばれるものになる。さて、そなたはいかなる名を持つ月となる?」
カグヤは招くように扇子を仰いだ。ぐんぐんと近づく月は次第にかつてのウル・インテスに合わせるように、その白銀の中にわずかな碧色を帯びた輝きとなる
「ふむ、良い。気性穏やかな月じゃ。アムニステラは相変わらず良い月を探すのが巧いのう」
──恐縮です。月をウル・インテスに落ち着けますので、あとはお願いいたします。カグヤ様。
引き寄せられた月はウル・インテスと呼ばれていた星の周りを遠大に周回し始めた星鯨たちについていくように、同じように周回し始める。
「しからば、より精妙に未来の予測をば……」
大賢者ウルボルストと異形の賢者たちは、新たな月の軌道から数字ではなく言語で遠い未来までを計算し、何度かの大災厄は避けられないとしても、最も有益で希望の大きい月の軌道を導き出す作業をはじめた。
無数の言葉による計算書が広間の空中に浮かんでは消え続け、やがて一つが残る。
「これしかあるまい……」
難しい顔をして呟くウルボルストに対して、セアが一瞬笑みを浮かべた。
「ありがとう。この運行が一番優しいようね。……カグヤ!」
セアはカグヤに呼び掛け、カグヤのそばにも同じ計算結果が現れる。
「……ふむ、良かろう。これで決めるか」
カグヤの周囲に幻影の風雅な楽団が現れると、カグヤは立ち上がって舞いを始めた。その腰には優美なフソウ国の太刀を佩いている。その足元の鏡のような盤に、たった今曳いて来られた月が写り込んだ。
──月読の舞い・月惑い、不惑。
優雅に何かを引き、または上下左右に繊細に位置を変えることを扇子で促すような舞。
この動きに合わせて新たな月は少しだけその位置を変えつつ周回し、次第に星鯨たちは散り始める。
やがて、カグヤは舞いと楽の音を止めて幻影の楽隊に指示しては、次は厳かで重々しい儀式的な舞を始めた。
──月読の舞い・月仕舞い。
この舞は長く、いつの間にか星喚びの女神アムニステラも普通の姿に戻ってはこの舞いを眺め聴き入っていた。やがて、厳かな踏み込みと共にカグヤの扇子はぴしりと閉じて舞いが終わる。同時に、カグヤに連動していた足元の月も消えてしまった。
「良し、これにて『月読の舞い』は全て仕舞いとする。新たなる月よ、いつか戻り来る民にその美しき顔を見せ、いつまでも互いに良い関係でいるのじゃぞ」
次に、カグヤはセアに向いた。
「さて、人使いの荒いセア様よ、私の仕事は終わったぞ?」
カグヤの切れ長の目が細められ、その口元は再び黒曜石の扇子で隠された。
「ありがとう。人使いが荒いは一言余計だけれども。……ではみんな、『ルブラ・サの絞り』を元に戻すわ」
セアは聞き慣れない言語で何かを唱えた。この言語は夢幻時の中にある真なる言語の一種とされているが、誰にも真偽が分からない。『ルブラ・サの絞り』は再び複雑に縦横に回転すると、淡い聴色の光がこの器具に収縮し、どこか幻想的なぼんやりした気配は消え、星の海は冷たいものに戻っていた。
しかし、今は彼方に大きな月が存在しており、災いの多かった赤い月シンの代わりに、落ち着いた淡い碧みを帯びた白い光を跳ね返し、民を失った星を見つめる慈母のような趣がある。
「こうしてあらためて眺めても良い月じゃ。品がある。戻った民たちはこの月の女神を淑女のように思うであろうな」
カグヤの感想に誰もが納得していた。
「ああ、ところでシグマス」
セアはウロンダリアの神々の集団に呼び掛けた。その集団の中から、屈強で肌の露出の多い衣服を着た男の身体を持ちながら、首から上は黒銀のてかてかとした大きな球体である存在が進み出る。
──ウロンダリアの主神、『全知座標のシグマス』。
「はて、何ですかな? セア殿」
よく通るがどこか不思議に響く声とともに、シグマスの球体の中に星の渦が現れ、それは単眼の形になると怪訝そうな表情を浮かべた。全知であるがゆえにセアの話が慮外であり、だからこそ現れた表情だった。
「ずいぶん遠くに行かせたあの子、マリーシアだけど、予想より早く帰って来そうよ?」
「何ですと!」
シグマスの球体の中の眼は再び星の渦に変わったが、そこに大きな星がぶつかって砕け散る映像に変わり、今は火の粉のような物がひらひらと舞っている。
ウロンダリアで最強の美しき武神マリーシアは、現在は多くの賢い者たちの考えでウロンダリアから遠く離れさせられて久しいが、それが運命の組立てより早く帰ってくるというセアの見立てだった。
「これはいけませんな。セア様はどうお考えですか?」
大賢者ウルボルストも、小さな杖の輪を回して様々な予測を行ったらしい。
セアは『ルブラ・サの絞り』で周囲を照らして答えた。
「それがね、思いきりあの人にぶつけた方が良さそうよ。距離を開ける事ばかり考えていたから上手く行かなかったみたい。それ以外は全て悪手になりそうな気配ね。ああ、また不機嫌の種が増えるわ」
セアは少し大げさなため息をついて話を続ける。
「よりによって自分の夫にたくさんの女を引き合わせる選択をしなくてはならないだなんて、私の血は本当に業が深いものなのね……」
「夫⁉」
「夫ですと⁉」
主神シグマスの頭部は宇宙開闢のような壮大な爆発が拡散する様に変わり、大賢者ウルボルストはその目と口が大きく開かれている。
しかし、『不機嫌なセア』は一瞬だけ笑みを浮かべて事も無げに言った。
「冗談よ?」
広間に微妙な、真偽定かならぬ空気が漂った。セアを良く知ってるアムニステラだけは口元を抑えて顔をそらし、その肩が震えている。
「なんじゃ、私をほったらかして何やら面白い話をしおってからに。何の話じゃ?」
広間に『月の眠り人』カグヤが現れる。
「それが、マリーシア様が早く戻って来られるようで、最適解はあの方にぶつける事だとか」
アムニステラはおかしそうにカグヤに伝えた。
「ああ、さもありなんだろうな」
意外な事にカグヤは驚かず、かえってその様子にアムニステラが驚いた。
「何か兆しでも?」
「わが友シノの刀が眠り人に渡ったようでな、あの得体の知れない友にも捕捉されておるぞ? 眠り人は」
「あの狐神の姫様もなかなかやりますね」
「もしかすると、マリー殿を抑える結果になるかもしれぬな。刀を持たせたらわが友は万夫不当じゃし、さらにその打つ刀の美しく強い事よ!」
カグヤは腰の太刀を外して両手で支えるように持った。この太刀は眠り女の一人、巫女にして刀匠であるシノ・カガリの打った業物であり、『離心龍月姫』と呼ばれる大変な名刀だった。その刃は存在の本質を断つと言い伝えられている。
「まあ、力ある者の雑談は世界にあまり良い影響を与えないから、そろそろお開きにしましょうか? 無事に月は喚べたのだから」
場を仕切るように手を叩いて解散を促すセア。
やがて、セアや神々、月の眠り人カグヤは、不滅の堅座ヴァジル・アマラとともにいずこかへと消え去った。
こうして、新たに喚ばれた月はウル・インテスの星の海を巡るようになり、いずれ名付け主となるであろう人々を静かに待つこととなった。
first draft:2022.05.06
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