ディレニスの雪・中編
凍てつくディレニスの最高峰、聖山バナンシの凍った地底湖の聖域。
焼け焦げたダークスレイヤーの腕を抱いたサーリャは爆発的な黒炎に包まれた。熱いという表現では追い付かない、押しつぶされるような激痛。しかし、この激痛はこの男が強大な力を揮う時にしばしば苛まれていた苦痛であることをサーリャは良く知っていた。
(何という痛み! 何という熱さなの! でも……)
今、その痛みに触れている事が、ダークスレイヤーと何かを分かち合っているようで、サーリャは苦痛の中に不思議な安堵を感じてもいた。
(変ね。私は冷たい心を持つ氷の女王だというのに、なぜこんなに強い思いを?)
黒い炎はサーリャの全てを激痛と暗黒に呑み込んだ。これは今まさに、サーリャが意識を呼び戻そうとしている男と同じ状態になった事を意味する。しかし、既に強すぎる激痛はかえって全てを鈍くしており、奇妙な冷静さもどこかにあった。
(意識は失いたくないわ。あなたを見つけたいの!)
サーリャの白い胸に触れるダークスレイヤーの焦げた腕は、心強い逞しさに今なお満ちている。簡単に自分を殺し、その気になれば凌辱もできたはずだった。実際に敵だったのだから。しかし、いつまでもいつまでもそうせず、サーリャの心の吐露を受け止め続けたこの男の血潮は、深い優しさとそれゆえの激しい怒りで出来ている事をサーリャは良く知っていた。
(ダークスレイヤー、あなたの名前を呼べない事が本当にもどかしい!)
より意識を強く持とうとしたその時、かつて存在した溶岩のような暗黒の炎の怒涛が押し寄せ、サーリャは粉々に焼き尽くされるような衝撃を受けた。
(ああ……!)
そして全てが闇に沈んだ。
耳の辺りに何かが触れる感覚に、サーリャはうっすらを目を開けた。心地よい誰かの手のひらが髪を優しく撫でている。
(ここは?)
サーリャは遠く月が冴えた青い夜空の下、雪原のただなかで誰かの暖かな膝に頭を乗せていた。
(黒い炎に焼かれていたはず……?)
サーリャは自分の身体が縮んでいるような感覚に気づき、手を見て驚いた。幼い子供の頃の手をしていた。グラネクサルの王宮での子供時代が思い出される。
「えっ⁉」
思わず声をあげたサーリャに答えるものがあった。
「気が付いたのね、サリヤ」
その声の振動は、サーリャが枕にしている腿からも伝わってきていた。その声の主が誰か気づく前に、サーリャの視界は涙でひどくぼやけた。
「お母さま……!」
「あらあら、私まで泣きたくなってしまうわ」
聞いたことがないのに懐かしい声は、途中から涙声だった。サーリャは失われた母、サタの膝を枕に、幼女の姿で目を覚ましていた。
世界と時を超えて再会した母子は与えられなかった愛を交わすようにしばらく強く抱き合い、長く泣いていた。泣き疲れるとともに何かが満ちたサーリャは再び母の膝を枕にする。
「サリヤ、あなたの生まれた経緯は納得がいかなかったかもしれませんが、私はずっとこうして、我が子を抱きしめたかったのよ。愛する男性を見つけるより、この手に我が子を抱きしめたかった。そして、もしも我が子が生まれるなら、その子はおそらく最後の『氷の女王』。世界の終焉に関わる宿命を持ちます。だからなるべく多くのものを持たせてあげたかった」
「でも、コルベックは『夢幻の酒』を使ってお母様を……」
サーリャを乗せた膝が愉快そうに揺れる。
「コルベックは私という悪い女に引っかかっただけですよ。あなたはコルベックの率いていた神々の権能をすべて手にしたのですから。むしろ一夜の夢くらい与えてやらねば悪女に過ぎるというものです。まあ良い生涯だったのではないですか? ふふふふ!」
「ええ? ……そうなの?」
おかしそうに笑うサタは、サーリャが長く想像していた儚げで美しい母とは全く異なっていた。しかし、より逞しく強かで自信に満ちており、この母に望まれて生まれた自分が嬉しくなっていた。それでも一抹の困惑は顔に出ていたらしい。
「……あら、なぁに? その顔は。 母がこんな女で驚きましたか? そもそも『氷の女王』とは、界央の地では冷たき悪女の代名詞。この肢体を楽しむにはそれなりの代価も支払わねばならないのは当然の事よ?」
サーリャは長い間苦しんできた孤独がどうでもいい事のように感じられた。孤独などは自分を煩わせられるようなものではなかったのだと理解できた。母の姿は圧倒的に自分の全てを肯定していた。
そんなサーリャの頭をサタはくしゃくしゃに撫でる。
「本当に賢い子! 言わなくてもあなたには伝わるのね。さすが私の娘よ!」
しかし、やがて意味深な沈黙が漂った。
「……出会ったのね、ダークスレイヤーと呼ばれる人と」
「……うん」
「この時間のもう一つの意味を伝えておくわ。私の可愛い娘、『氷の女王』がどうして始まり、あなたが何を受け継いでいるのか、これから伝えるわ。……私の目を見て」
幼い姿のサーリャは座り直して母に向き合った。サタは愛おしげにその小さな頭を両手で抱え込む。
「表の世界では決して漏らしてはならない、無限世界と私たちの大切な真実と願いを、あなたに託すわ」
サタの目を覗き込んだサーリャの脳裏に、『氷の女王』と呼ばれるようになった女性と、『冷たい人々』と呼ばれる氷の一族の始まりの歴史が流れ込んできた。
「お母様、これは……!」
それは高い文明を持ち、複数世界を統べた民同士の、長きにわたる戦いとその結果だった。世界と世界を隔てる領域さえ飛び越えて戦う、異なる巨大な文明圏。サーリャたちの先祖にあたる民たちは進んだ文明を持ち、調和を重んじていたが、戦いを捨てて久しく、それが初手から最後まで後れを取り続けて敗れていく様子が伝わってきた。
巨大な鈍色の平鏨といった見た目の無数の星船が、星の海を埋めるほどの青白い火線を放ち、雪の結晶のように優美な星船を次々と破壊し、さらには多くの白く繊細な都市に降り注いで破壊された。
「私たちの暮らすディレニスがあるでしょう? この言葉の意味は『遅きに失した』なのよ。私たちは戒めを込めて、自分たちの暮らす最後の世界をこう名付けたの。冷えていく世界と共に静かな文明の中で緩慢に滅んでいく事を私たちは受け入れていたらしいけれど、しかし、実際には異なる文明の民の侵攻で事実上の滅亡に等しい経過を辿ったからね。戦う事を忘れてはいけなかったのよ。この世界の残酷な理を知るのが遅かったの。だから、『遅きに失した』とね」
「この世界の、理?」
「私の可愛い娘、よく覚えておいて。この世界の残酷な理、それは『永遠に戦い続けなくてはならない』よ」
サタの微笑みには、その理に対する侮蔑的な諦めがあった。
「そんな……」
「私たちの先祖を攻撃し、辺境に追いやった民たちは戦いを第一に掲げていたの。戦って戦って、自分たちがいかなる民族よりも優れていると実証しようとし続けた。そんな蛮族どもには、私たちは怠惰な文化人でしかなかったでしょうよ」
「でも『界央の地』は?」
「この病んだ理の最高の象徴みたいなあそこが、そこまで役に立つと思う? まあ一応、全滅は免れたわ。『停戦の令』が出たから。私たちは攻撃を受けない代わりに、やがて氷に閉ざされる世界に全員が押しやられたけれどね。聖魔王の形ばかりの妻を代々選出するという『格』を与えられて」
「では……あれは」
「あなたも一度は嫁いだでしょう? この時から決められている事よ。そして聖魔王は私たちを本気で妻にする気などないの。私たちは今のこの世界に従わない側の民だから。何より、他の小汚い女たちがそれを許さないでしょうしね」
サーリャはかつて『界央の地』に聖魔王の妻の一人として過ごしていた日々を思い出した。良かれと思って出した言葉はほとんど否定されていた。果てしなく広い至極の美の宮殿でしばしば遠目に見る他の妻たち。限りなく清浄で気高く美しいが、何かが正しくない違和感と疎外感。自分にだけは知らされていない法則が働き、理の外に置かれているような、しかし決して自分が間違っているとは思えない、どうにも居心地の悪い感覚。その違和感の原因の話のような気がしていた。
しかし、なぜかサーリャは思考より先に母の言葉で吹き出してしまった。
「小汚い女って! みんなとても気高くて名のある神々でしたよ? ふふふ、小汚いって……!」
自信に満ちてあけすけな母の言葉がサーリャを笑わせた。複数世界を俯瞰して統べるほどの権能を持つ、絶美の女神たちをあっさりと『小汚い』と言い放つ。しかし、続く母の言葉は意外なものだった。
「笑い話だと思っているのね? サリヤ、これも大事な話だからよく聞いておきなさい」
サタの眼は笑っていなかった。
「今のこの世界は、『界央の地』を軸とする偽りの男の世界なのよ。だから、聖魔王の妻たちもどれほど美しく素晴らしかろうが、位が高い女神であろうが、結局は男に媚び、女の真の美しさからは程遠い存在に過ぎないの。そして、そんな女たちは次第に男たちを穢すわ。既に世界はだいぶ穢れているもの。一度焼き払った方が良いくらいに」
焼き払うという言葉に、サーリャはかつて見てしまったダークスレイヤーの苦悩を思い出した。
「世界が焼き払われるのを必死に止めようとしている人がいるわ。自分も世界は焼かれた方が良いとも思っているのに、あえて人々と世界に希望を持ち続けるために」
「そうね」
サタは優しいまなざしでサーリャの頭を撫でる。
「私も全てが終わるまで、ずっと苦悩を抱えることになったわ。私たち氷の一族はあの人に返しきれない恩がある。今の無限世界とは異なる、本来の世界の価値観に拠る私たちから、あの人に寄り添う女が現れたのは嬉しいけれど、愛しい自分の娘をそんな過酷な運命に送り出してしまうのは、母として正しい事なのか……」
サーリャは母に強く抱きしめられた。ぬくもりと共に流れ込んできたのは、のちにディレニスと呼ばれる世界に逃げる先祖たちの星船を執拗に追い、楽しむように略奪と破壊を続ける敵対者たちと、途中から現れてそれを撃退するダークスレイヤーの姿だった。
「これは……!」
「そう、『界央の地』は停戦の令を出したけれど、それは表向きの話でしかない面もあるのよ。あの蛮族ども……ハーシュダインの戦士たちは、戦う意思のない氷の一族の船まで襲い、女子供まで皆殺しにしようとした。そこにあの人が現れたの。私たちの先祖は、蛮行に怒り狂うあの人の恐ろしい戦いぶりを目に焼きつけているわ」
星の海の彼方から黒い炎の鳥が現れ、放たれた黒い雷霆はいくつもの星船を穿ち、黒炎の斬撃は氷柱を折るように容易く星船を断ち、勇壮だった戦士たちは大混乱に陥っていく。
星の海でさえ活動できる重厚な甲冑の戦士たちは、ダークスレイヤーの黒炎に焼かれ、生きたまま血肉を失って骨だけとなり、恐ろしい絶叫が止まなかった。
──茶番は飽き飽きだ。世界とはつまるところ、力ある弱者が力なき弱者を毀損するのみか! 何度繰り返せばわかる! すべて殺せばよいのか⁉
星の海に響く、呆れかえったダークスレイヤーの怒りの声。苛立ちは荒々しい斬撃として顕現したように、いくつもの堅牢な星船が容易く叩き斬られてゆく。
「私たちの戦争は、あの戦士の介入で、勝った側が大損害を被るというおかしな結果に終わったの。『停戦の令』によって隠されてしまったけどね」
サーリャは全てが腑に落ちた。過去があって今があり、自分がいる。全てが繋がっており、自分は単独の存在などでは決してなかった。そして今、一番しなくてはならない事も。
「お母さま、そろそろ行くわ。あの人が苦しんでいるもの」
「……そうね」
サタはいとおしそうに娘を離す。
「イシュクラダや、ブライとニクルによろしく言っておいて。……最後にサリヤ、私の可愛い娘。『氷の女王』として、いつも気高い悪女でありなさい」
サタは微笑み、やがて眩しい吹雪のように消えた。
「分かっているわ。お母さま……」
サーリャははっとして目を開けた。静寂に過ぎる地底湖の様子は何も変わらず、ダークスレイヤーの黒い炎の勢いはだいぶ弱くなっている。
「あなたとの事はすべて受け入れるわ」
二本めの『夢幻の酒』を飲み干すと、サーリャは再びダークスレイヤーの焦げた腕を抱いて目を閉じた。大きな黒い炎が燃え上がった気がし、再びすべてが闇に包まれた。
サーリャは黒炎渦巻く闇の中を彷徨っていた。『夢幻の酒』のせいで、夢と現実のはざまか、あるいはダークスレイヤーの心の世界に入っているのかもしれない。
「あなたの苦痛を和らげに来たわ。何があったのかは分からないけれど、良ければ話して。きっと何かで自分を責めているのでしょう?」
突如として誰かの視界が流れ始めた。それは直接見ているのか、心に流れ込んでいるのかが曖昧だったが、その視界はまるで自分の体験のように入ってくる。
(これは……)
サーリャは壮大な戦いの情景から、それが直近のアスギミリアの地でのものだとすぐに理解できた。複数世界を縦に貫く大穴のようなアスギミリアの地は、上方の神々の世界から、下方の地獄界までが一望できる。
この由来の分からない特殊な地で、ダークスレイヤーははるかに遠い天を睨み、光の海のように降下してくる無数の天使たちを黒炎の剣風で切り伏せ続けていた。
しかし。
天使たちは次第に戦意を失って反応が鈍くなり、その翼や全身の輝きが衰えるものが現れ始めていた。それでもダークスレイヤーの黒炎の剣風は、農夫の大鎌が雑草を刈るように容易く、彼らの組んだ美しい戦列を斬り払っていく。
(天使たちが、変質し始めている⁉)
サーリャが疑問に思ったその時、上方の戦列から小さな光が流星のように降り、ダークスレイヤーの前に立ちはだかった。
──どうか、もうやめてください! 私たちの行いが必ずしも正しくない事は伝わりました。もう、殺さないでください! どうか!
位の低い、やや女性的な碧眼の天使は武器を捨て、両手を広げる。
(天使が自我を? あっ、駄目よ!)
ダークスレイヤーの天をも断つ黒い斬撃は、容赦なくその天使を両断すると思われた。しかし、超絶の技量がそうさせるのか、剣は天使の首の骨を断つ寸前で止まった。
静寂と、天使たちの驚愕。しかし、ダークスレイヤーは魔剣から逆流した炎で黒い火の玉と化して、いずこかへと落ちて行った。
(ああ、あなたを止めるだけの正しさが、よりによって天使の中に見いだされたのね……)
無いとされていた天使たちの自我と悲しみ、恐れ。それがダークスレイヤーの迷いとなり、黒炎が容赦なくあの男を燃やし始めたのだとサーリャは気づいた。
(あなたの強さは、どこまでも自分に厳しく、問う事をやめない優しさにあるものね)
視界は途切れ、暗黒の炎がごうごうと渦巻いている。サーリャも自分の身体さえ見えなかったが、黒炎はそれほど自分を焼かない。
(不思議ね。お母様に会ったから? 迷いが消えたから? あまり苦しくないわ……)
「ダークスレイヤー、あまり自分を責めないで! 苦しみが終わらないなら、私に苦しみを分けて!」
──……誰だ?
苦しむ獣のような哀しい声だった。
「サーリャよ。あなたが名付けてくれた」
──サーリャ?
「氷獄でずっと剣を合わせていたでしょう?」
──……サーリャ。冷たくて美しい……女。
突如として、背後から太い腕がサーリャの白い腹を抱きかかえ、サーリャの足は浮いた。今までダークスレイヤーに感じた事のない、男の欲の気配をサーリャは感じたが、気丈に言葉をかけた。
「私をわがものにしてあなたの心が鎮まるなら、それでいいわ」
サーリャは自分を抱きかかえている男の首に手をまわした。熱い鋼鉄のような力強さに溢れた首や胸板にたぎる何か。それは静かで理性的なあの男にサーリャがごくまれに感じていたものだった。それは決して嫌いではなかった。
しかし、より激しく黒い炎が舞い上がり、全てはさらに色濃い闇に包まれた。
初稿2022.10.18
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