ディレニスの雪・後編

ディレニスの雪・後編

 不確かな闇の中。

 サーリャはダークスレイヤーの首に手をまわして力を抜いた。この後の事は全て受け入れ、この男の苦しみを分かち合うつもりでいた。

「目を見せて。たとえ怒りや欲に満ちていても、私はいとわないわ……」

 かつてこの男と出会って間もなく、必死で剣を合わせていた頃は、敗北の末に恐ろしい凌辱と恐怖、そして死があると覚悟していた。しかし、それは全く了見の狭い思い込みに過ぎず、いつしか舞踏のように楽しい時間に至った。

(あの頃さえ懐かしいわ)

今となっては否定しようのない強い思いで、この男の全てを受け入れたかった。正気を失ったこの男にけもののようにむさぼられたとしても、それで希望を見出せるなら良いと考えていた。

 暗黒の中に熾火おきびのように赤く燃える目が開いた。その眼を覗き込んでサーリャは息を呑んだ。男は自分の、世界への理解の足りなさを責めていた。

 黒い炎が勢いを強め、サーリャの肌を焦がし始める。

天使プラエトたちは沢山の世界を焼き滅ぼして来たわ! その因果は避けられない! 絶対者たる彼らに因果を与えられるのはあなただけ! 彼らが恐れるのはあなただけよ! 物事全てに厳格な線が引けるわけではないわ。もう自分を責めるのはやめて! 自責の炎があなたを焼くなら、私も一緒に焼かれるわ。……私がいて何か楽になるなら、いくらでも受け止めるわ……だから!」

 冷たいサーリャの頬を伝う涙は熱いものだった。それが男の胸に落ち、淡い光を放った。

 男は片膝をつき、サーリャはそこに座った形になる。

──おれは……何を……!

「そんなに自分を責めないで、考えて! 私も一緒に考えるわ!」

 サーリャは男の頭を抱きしめた。黒い炎が男と自分を焼く。

「ああ!」

 苦し過ぎて息が止まりそうになったサーリャは、おそらくそれ以上に苦しいであろう男の事を思って、最大限に冷気をまとった。

(あなたは一人ではないのよ! 私がそうなったように!)

 凍った一筋の涙がサーリャの目からこぼれ、静かに黒炎こくえんを切り裂いて落ち、男の肩でりんとした音を立てて砕けた。サーリャを抱える男の腕の力が緩み、黒炎こくえんが収まっていく。

──サーリャ……こんなところまで、それを言いに来たのか。

 ダークスレイヤーの心が伝わって来る。

「とても放っておけないわ!」

「あああぁぁ‼」

 男は何かを振り払うように空間が震えるほどの大声を上げ、闇の炎が散った。サーリャを見つめる目から炎が消え、サーリャが好きな、遠い哀しみと自信を帯びた鳶色とびいろの目に戻っていた。

「ああ!」

 息が止まるほどにサーリャは嬉しく、そんな自分に心底驚いてもいた。

「大変な面倒をかけてしまったな」

 黒い炎は散り、薄明るい灰色の視界の中、わずかにくすぶる煙を全身から立ち上らせつつ、ダークスレイヤーは微笑んだ。肉体の再生する生命の匂いが漂っている。

「いいのよ。……良かった。本当に良かったわ」

 さらに数滴の涙がサーリャの頬から男の肩に落ちる。その男の目にあるのは深い心配だった。

「私は大丈夫よ。私であるだけ」

 涙目で微笑むサーリャに対してダークスレイヤーは何かを思い出したようにサーリャを下すと、その白い両肩を掴んだ。

「そういえば、『炎と氷の剣』の封印を解いたろう? しかも聖魔王しょうまおう離縁りえんまで言い渡して。あんな事をしたら……大丈夫なのか?」

聖魔王しょうまおうイスラウスに離縁を宣言して、形式ばかりとはいえ夫だった人の最大の敵に力を貸す私は、思えばとても悪い女ね」

──気高い悪女でありなさい。

(そうね。そういう事ね)

 サーリャは強かな母の姿と言葉を思い出し、思わず笑った。

「何という事だ。大変なことに君を巻き込んでしまっているな。……笑ってる場合ではないだろう?」

「今度は私の心配をしているのね? 界央セトラの地は全てを不問にして、私は引き続き氷獄クエリスの守護者も務めることになったわ。とはいえ、もともと私以外の人には無理な仕事のはずだけど」

「あっさり言ってる場合か? これはもう引き返せない道だぞ。おれは君をこんな事に巻き込む考えで傷つけなかったわけではないぞ? 幸せになれと言ったはず」

「ああ、もう……」

 サーリャは心配するダークスレイヤーの両手を外すようにより距離を詰め、もう一度男の首に腕を回した。

「もう幸せになっているわ。むしろ私をそんなに案じるなら、腕ぐらい回したら?」

「……おれは基本的に反逆者で、要するにこの世界にとっては悪い男であってだな」

 しかし、言いながらもダークスレイヤーはサーリャの肩に慎重に手をまわした。自分を案じて歯切れの悪い様子に、サーリャは再び笑った。

「あまり笑わせないで。でも理性を取り戻したあなたの心からしたら、これが最大限なのもよく理解しているわ。これが……」

 サーリャは男の過去を見てしまったせいで、自我を失いでもしない限り、この男が女に手を出さない事をよく理解してもいた。そのつもりだった。しかし予想もしていなかった切なさと寂しさが溢れ、堰を切ったように涙が止まらなくなった。

「ごめんなさい、変だわ私。色々と覚悟してここにいるのに、何だかとても哀しいのよ……」

「ここまでした君に本当はどうすべきかは分かっている。しかしそれは……」

「本当に、どうしたらいいのかしらね」

 涙ながらに気丈に笑うサーリャ。ダークスレイヤーもまた苦悩している。二人の気持ちは良く通じ合い、互いを案じているからこそ動けなくなってしまった。

 サーリャはこの男が自分と結ばれたら、それはおそらく筋が通らないことになり、黒炎はこの男を長く焼き続けてしまうだろう事を理解していた。この男の女への接し方の原因となった過去の傷は、おそらく今でも開いたままで血が滴っている。

 ダークスレイヤーもまた、これ以上サーリャと距離を近づければ、界央の地を敵に回した彼女にどれだけの危険が及ぶのか想像しきれなかった。

 二人は互いの瞳の中に、相手を案じる思いを垣間見た。心の距離は既にない。

「せめて一緒に少し眠るか。そうして目を閉じるだけでも、この身に課された呪いも少し和らぐ気がする」

「そうしましょうか。少し休んだ方がいいわ。私たち」

 灰色の曖昧あいまいな視界の中、ダークスレイヤーは魔剣ネザーメアを地平に突き立て、それに背を預けて座る。裸のままのサーリャを離す事はせず、強く引き寄せると、互いをマントで包み、どちらともなく目を閉じた。やがて、珍しい事にダークスレイヤーさえ眠りに落ち、サーリャもまた、暖かな鋼鉄のように強い男の胸に身を預け、初めて孤独ではない眠りに落ちて行った。

 それはまるで、過酷な長い生の旅路に束の間訪れた休息のようだった。

──我々の世界には魔力などの元となる元素の他に、観測の難しい謎の力が常に大量に満ち溢れている。これが闇の力なのか、はたまた夢幻時イノラの力なのかは誰も知らない。あるいは我々の心の力かもしれない。

──大賢者バルカンド著『観測』より。

 おそらく夢の中。

 星明りのさす藍色あいいろみを帯びた夜空の下、色の無い花が並び咲くバルコニーと、青白い岩に精巧な銀象嵌ぎんぞうがんのなされた滑らかな壁と床、そして広い寝台。

 ダークスレイヤーとサーリャは、それ以降は互いしか見ていなかった。

 そして……。

──『不機嫌なセア』の領域と噂される『嵐と花の宮殿パルナ・ガル・ゴータ』は、夢幻時イノラに存在する領域とされている。現在の世界は彼女の母親たるリリスが関わっているはずで、彼女の領域は次の時代にこそ意味があり、現時点では存在しているだけの領域という説が根強い。しかし本当にそうだろうか?

──大賢者インスミラ著『夢幻時』より。

 現世ではない『夢幻時イノラ』の領域、『嵐と花の宮殿パルナ・ガル・ゴータ』。その一室、『晶花しょうか』。

 水晶の中に様々な花の色を閉じ込めたテーブルから半透明のさかずきを取り、ためらいの無い仕草で口に運ぶ者がいた。黒いフードから赤黒い髪と艶やかな唇がのぞいている。

「そのまま飲む気? お行儀の悪い事ね」

 あざけりなのか親しみなのか分からない声色に、フードの人物は唇に笑みを浮かべてフードをはぎ、声の主の人影を見やる。薄く透けた純白のドレスと、大きく開いた輝くような背中、そして振り向くと同時に揺れる長い聴色ゆるしいろ(※桃色、ピンク色の一種)の髪。

──無限世界イスターナル二番目の美女、不機嫌なセア。

 苦笑しつつ顔を上げたのは、暗い赤髪と、この薄暗がりでも猫のように光る虎目石とらめいしのような目をした女だった。黒と赤、そしてわずかの銀を用いた衣装は、ドレスのようにも洗練された狩人の衣装にも見える。実際に、スカートとタイツからわずかに肌がのぞく両の腿には大小二丁の銃と、椅子には月色に輝く弓と矢筒が掛けられていた。

──狩猟を守護する古き女神、獣狩りのモーン。

「狩りをたしなむ者にとってはこれがお行儀よ? セア様」

 モーンはそれでもセアの話に従って飲み物に口を付けたが、そこに三柱めの存在が現れた。緋色ひいろの衣装に王冠をいただく金髪の月の女神、イシュクラダだった。

──月と陰謀を司る隠されし女神、イシュクラダ。

「モーン、お行儀よりも、……感動的な男女のちぎりをのぞき見するのはどうなのかしらね?」

 しっとりとした声でたしなめるイシュクラダに、モーンは片目をつぶって笑った。

「ごめんね。世界の行方に興味があって。お詫びにディレニスには毛長象けながぞうでも届けるわ」

「そういう事にしておくわ。……それにしても、相変わらずここは少し殺風景ね」

 イシュクラダは何かを撫でるように手を振り、テーブルの上には月の銀色に輝く花々をいけた花瓶が現れ、広間を月の光で満たす。それを満足げに見やりながらセアに話しかけた。

「セア様、これで氷の女王には彼の武運が働き、かなり失われがたくなったわね?」

 席に着いたセアも答える。

「そうね。あの人が失われる可能性も、これでまた少し減ったと思いたいところだわ」

「私たちみたいな『悪女』には、あの人は絶対に欠かせない世界の一部だものねぇ」

 モーンは獰猛な笑みを浮かべる。

「ええ。感動的な男女の契りをのぞき見したり、人の宮殿を殺風景だと言うような悪女たちにはね。……ああ、自分の夫を自分の領域で他の女と契らせる私も含めてね」

「夫ですって⁉」

「……それは初めて聞く話ね」

 イシュクラダの声には剣呑な静寂が尾を引いている。

「冗談よ?」

 微妙な沈黙が漂った後、三柱の力ある悪女は何かを確認し、また密かな話し合いを続けた。

──無限世界イスターナルの始まり『原初の大征伐』において、多くの巨獣を狩った狩猟の女神の記録が散見されるが、彼女の名は失われて久しい。彼女は恐ろしい仮面をつけて山や森に潜み、狩人に加護を与えていると伝わる。

──大賢者アンサール著『喪神記』より。

 ダークスレイヤーとサーリャは、何らかの暑苦しさを感じてどちらともなく目を開けた。二人とも、肩下あたりまで湯につかっていたが、既にその温度は快適を過ぎて熱くなりつつあった。

「えっ? これはどういう事なの⁉」

 本来なら酷い火傷をしてもおかしくない温度なのに、そうはならない。サーリャは自分の白い腕を夜空に透かし見たが、そこで自分が湖のように広い温泉に浸かっていた事と、周囲の幾つかの山が黒い噴煙と灼赤しゃくせきの溶岩を噴き上げている事に気づいた。

「バナンシ山は?」

「サーリャ、ここはどこだ?」

 湯から立ち上がったダークスレイヤーはそもそも自分がどこにいるのかも知らないはずだった。

「我が故郷ディレニスの最も高い聖なる山、バナンシの地底湖だったはずなのです」

「火山に温泉か。君の故郷は意外と暖かいんだな」

「我が故郷ディレニスは遠い昔に大地の火さえ失い、どちらもありませんでした。それに、この温度だと私は酷い火傷を負うはずなのです。記憶が正しければ、ここはグラネクサルの宮殿よりはるか南の地域に地形が似ていますが……」

 しかしここで、大きな白鳥と黒鳥がまさにサーリャを見つけて降下してきた。白鳥は白い少年ブライに、黒鳥は黒いドレスの少女ニクルの姿に、それぞれ変わる。

「ブライ、ニクル!」

 その声は次第に大きくなる地響きに消された。赤茶色の長い毛を持つ毛長象けながぞうの大群が、やや離れた浅い温泉を渡って移動してゆく。

「あれは毛長象けながぞう⁉ はるか昔に絶滅したはずです。なぜあれが?」

 白い少年、ブライが無理もないといった空気で説明する。

「それが、しばらく前に他の世界から渡って来られた女神様が勢子せこを使ってこの世界に連れてきました。王ハインや他の巨人たちもとても喜んでいます」

 サーリャは時系列がおかしい事にも気づいた。

「しばらく前? 私たちはどれだけ眠っていたの?」

 ニクルが首をかしげて指を折りつつ計算した。

「その女神様が来たのは五年ほど前かな? サーリャたちが消えてからは百年くらいよ」

「そんなに⁉」

「百年? そんなはずは……」

 ダークスレイヤーもまた怪訝そうにしている。しかし、そんな二人の様子に構わず、ニクルは燃える炎のような花をあしらった見事な宝石の塊と、緋色ひいろの手紙を取り出した。

「二人がいなくなった地底湖にこれが置いてあったの」

──この手紙があなたたちに届くころに、ディレニスからそう遠くない地で、かのハーシュダインが他の文明を滅ぼそうとしているはずです。ディレニスの空にある、古き春告げ星の方向へ飛ぶと良いでしょう。また、何がとは申しませんが主に快癒かいゆを祝って火の山の眠りを起こす宝石をお渡しします。毛長象の暮らす地にでも用いると良いでしょう。

 手紙の最後には、丸い三日月の中で燃える炎を象った印章があり、サーリャとルインにはそれがイシュクラダのものであると分かった。

 しかし、その下にさらに一文が浮かび上がる。

──追伸、虐げられる民の危機の救済は一刻を争います。毛長象けながぞうを連れて来た古き狩猟の女神への挨拶は後回しになさると良いでしょう。

「……これはつまり、時間が無いという事かしら?」

 怪訝そうなサーリャに対してダークスレイヤーは既に見事な黒馬を炎の中から呼び出していた。

「行こう。サーリャ、道案内を頼む」

「え? ……はい、わかりました!」

 明らかに嬉しそうなサーリャの様子を見て、ニクルは何か思う所があったが、何も言わずに微笑んだ。

「『春告げ星』は、南西の空の地平ぎりぎりに見えるはずです。行きましょう! 私も共に戦います」

 ダークスレイヤーは見事な黒馬アクリシオスに飛び乗り、サーリャもその後ろに横座りする。馬と二人は黒炎の巨鳥となって飛び立った。

「サタ、うまくいったみたいよ」

 ニクルは雪の降る空に語りかけて微笑んだ。しかし、そんな良い雰囲気の場所にあわただしく無数の黒い猟犬の群れが現れ、続いて黒づくめのフードを被った女も現れ、苛立たし気にフードをはぐ。

「やられた! イシュクラダね! いつもいつもこんな悪戯をするんだから! せっかくの挨拶がまたお預けじゃない!」

 古き狩猟の女神『獣狩りのモーン』は忌々し気に、しかしどこか清々しく笑う。

──ダークスレイヤーに引き渡された『蒼い城』の秘神のうち、マリーシアとモーンはある揉め事で本気で戦った事があるらしい。かつて名だたる男神でさえ勝てなかったと伝わるこの二柱の女神どうしの戦いは全く決着がつかず、遂に二人は互いを一目置くようになったと伝わる。

──白きアマルシア著『蒼い城』より。

 黒馬に乗って空を駆けるダークスレイヤーとサーリャは、百年という信じがたい眠りの間に、不可解な記憶がある事に気づいていた。おそらく夢のはずだが、お互いに相手にそれを聞く事が出来なかった。

(おかしい。サーリャの感触が以前より身近に感じられる……)

(変ね。夢のせい? あなたがとても身近に感じられるわ……)

 どこか知らない場所で、結ばれて長く愛し合った夢を見た気がする。しかし、それはあるべきではない事で、また尋ねる事でもないと思った二人はそれを胸の奥底にしまう事にした。

「サーリャ」

「何ですか?」

「考えづらい事だが、それでももし危機が迫る事があったら、おれを呼んでくれ。または常に生き延びることを大事に。返しきれない恩があるし、君が失われたらおれの追憶はきっと増えるからな」

「返しきれない恩は、むしろ私のほうよ」

 しかし、世界の不条理を背負ったダークスレイヤーが、いつまで正気でいられるかは既に危ういものだった。サーリャは過ぎ行く背後の景色に、白い線のように流れ去っていく雪を見た。

 ゆっくりと降る事の多いディレニスの雪が、今は無数の流れ星のようだ。この男の時間の速さを暗示しているようだが、今はその時間を共にできる事の方が、サーリャにはとても嬉しかった。

──古き狩猟の女神モーンは、戦いにおいて禁じ手とされる奥義に精通しており、これが多くの戦神や武神から忌避された理由だとされている。狩猟の奥義であるこの概念は、美化された戦いを否定すると伝わるが、そもそも戦いは美化されるべきものではないはずだ。

──大賢者アンサール著『喪神記』より。

初稿2022.10.20

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