プロローグ2・少年はその本を読む『ダークスレイヤーの帰還』


 無限世界むげんせかいにおいてしばしば『永遠の地』と呼ばれるウロンダリア。その中心地域の上空には空に浮かぶ大陸や少なくない国々も存在していた。

 このウロンダリアには特に古く由緒ある『八つの古王国こおうこく』と呼ばれる大国が存在している。ここはその中でも空に存在して、しばしば『翼の国』とよばれるレーンフォリアのとある港町。ただ、港町と言ってもそれは空を駆ける飛空艇ひくうていの港を意味していた。

 少年は今日も、この空の大陸の辺境へんきょうの断崖から、遥か眼下に広がる地上ウロンダリアの景色を眺めていた。澄んだ初夏の日差しの彼方、聖王国せいおうこくと呼ばれるエルナシーサの浮かぶ城塞都市の壁がきらきらと光り、白い石英せきえいを削ったおとぎの国の城のようなそれは少年の心をいつもワクワクとさせる。

 『地上に繋ぎ止められた』とよく言い伝えられる聖王国せいおうこくエルナシーサの白い城塞都市は、初夏の日差しを時おりまぶしく跳ね返す湖の上に浮いており、城の周囲からは巨人が作ったとされる黒い大鎖おおぐさりが何本か湖の岸に繋がっていた。少年の立つここからは黒い線にしか見えないが、それでもこの距離からその鎖がいかに巨大な物かは目星が付くほどだった。

 少年はその眼を聖王国の少し北のかぐろい闇に向ける。そこには聖王国と同じくらいの大きさの暗い大穴が大地に開いており、人々はその大穴を『バーギュのうつろ』と呼んでいるそうだ。

「あーあ……僕も旅に出たいなぁ……」

 少年は草原に大の字に寝転んだ。

「あっ! ……ダギ? ドラゴン?」

 はるか上空に、ウロンダリアの人々がダギまたはドラゴンと呼ぶ大きな生き物が三頭ほど飛んでいるのを見かける。この地ではしばしば見かけられる存在だ。

「おーい! おーい!」

 少年は跳び起きて、南に向かうらしい彼らに呼び掛けた。そのうち一頭が少年に気付いたのか首を動かすと、何やら楽し気な声で吠えてやがて雲の中に隠れていく。

「ほとんどのドラゴンは、人間と仲良しだって言ってたっけ……あっ!」

 ここで少年は、そんな話を教えてくれた老人の手伝いがあった事を思い出した。特別な本を扱うグロム老人の書店の店番だ。

 少年は空の港町ルスツまで走る。地上の国々とこのレーンフォリアを結ぶ飛空艇の港がある町は、大きくないが活気があり、グロム老人の店はそんな街の大通りにあるのだ。

「すげぇ! エスタの大型船だ!」

 真鍮色しんちゅういろをした紡錘形ぼうすいけいの風船に帆船の甲板かんぱんを取り付けたような奇妙な船が上がってくる。マストの帆はわずかな紫を帯びた青色で、これは魔法の大国エスタの色だ。その大きさと美しさに少年は感動の声を上げた。

 少年は息を切らしつつも必死で走り、グロム老人の書店に向かう。

「はぁ……間に合った!」

 少年は木造の小さな書店のドアに手を当てた。若草色の小さな魔方陣が展開し、開錠されるはずだったが、それは発動しない。そっとドアを押すと、なじみのあるドアは滑らかに開いた。

「やっべ!」

 少年は、グロム老人の元気な怒りの声が飛んでくると思っていたが、目の慣れない書店の暗がりからかかってきた声は、優し気な女性の声だった。

「あら、グロムの言っていた店番の男の子って、あなたかしら?」

「そうだけど、えーと……魔女……さん?」

 目が慣れてくると、この店で一番大きな本棚の並びの前に、ウロンダリアの人々が多くの人々が魔女と呼ぶであろう装いの女性が立っていた。黒紫のゆったりしたドレスに尖ったつば広の帽子をかぶった、妖しくも艶やかな雰囲気の女性。書店の中にはこの女性の香水だろうか? うっすらと花の香りが漂っている。

「そうね。私の事を魔女と呼ぶ人は多いわ。多くの伝聞とは少し違う姿になっているけれどね」

 魔女と名乗った女性はとんがり帽子を脱ぎ、わずかに小窓から差し込む光に、栗色の艶のある黒髪が流れる。彼女はくるりと向き直ると真剣に本棚の本を眺めはじめた。

「……ああ、あったわ。全てが終わったのね、これで!」

「何の事?」

「グロムの書店は時の流れが曖昧なこのウロンダリアで、確実に流通する本を確認できるの。それは歴史の固定とその確認ができることを意味しているわ」

「うーん……?」

「ちょっと難しい話だったわね。……そうね。例えばあなたにとってとても楽しい事が昨日起きたとするわ。しかし、もしかしたらそれは夢や幻術だったかもしれない。でも、それを誰かが書き留めて記録していたら、それは本当に起きた事だと言えるでしょう? これはそういう事なのよ」

「そんな事が本当にあるの? それに、どの本の事? おれ、ここの本の事はよく知っているんだけど」

「そう……では、これらの本には見覚えがあるかしら?」

 魔女と名乗った女性が指差していた本のタイトルは、表題は読めないものの、副題は読めた。

『ダークスレイヤーの帰還』

 とある。

「あれ? こんな本無かったと思うんだけどな」

「でしょうね。定まったばかりの歴史よ。やっと全て終わったのね」

 魔女はさらに謎めいたことを口にした。少年は理解を負いつけようと首をかしげる。ここで書店のドアが開き、前掛けと白いひげが特徴的な眼鏡の老人が入ってきた。この書店の店主、グロム老人だった。

 グロム老人はすぐに魔女に気付き、眼鏡の奥の目が少し大きくなる。

「なんじゃお前さん、もう着いておったのか! うちの店番はしっかり仕事をしとったかの?」

「えーと……」

「……ええグロム、良い店番がいるのね」

 少年はここで叱られる流れになると覚悟したが、魔女と名乗った女性は少年にこっそり目配せをし、意外な助け舟を出した。

(えっ?)

「ほー! そいつは珍しい! ……で、お前さんの探している本は出とったか?」

「ええ。今確認したところよ。これでやっと全てが落ち着くのね」

 少年にとっては珍しい事に、ここでグロム老人の目がさらに多きく見開かれ、わずかに潤んだように見えた。

「そうか……そうか! 全て終わって、あの男もここで少し安らう事が出来るようになったんじゃな。あの男にもウロンダリアにもいい事じゃ」

 何かとても大事な話をしている、と少年は思った。しかし、それが何かはわからない。しかしその何かはこの書店の多くの物語の本を読んできた少年にとって、興味を惹かれないはずが無かった。

「『ダークスレイヤーの帰還』って言ったっけ? その本、結局どういうことなの?」

 魔女は本を取り出しながら説明した。

「その意味はどちらの意味ともとれるの。『闇を討伐する者』または『闇の討伐者』。見ようによってはどちらも正しく、しかしそれも正確ではないわ。とりあえず、確認の意味も含めて少し読んであげましょう。まだすべての人が読める状態ではないようだから、ね」

「ふむ、わしも眼を通しておくか。これはな、壮大な恩返しの物語でもあるんじゃ。わしらウロンダリアの者にとっての、な」 

 こうして、『ダークスレイヤーの帰還』は語られる事となる。

初版2020.12.21 改稿版2023.10.26