ミクタラの一日・前編

ミクタラの一日・前編

 無限世界イスターナルのとある世界、ミクタラ。

 三眼有角の見事な黒馬に乗った男が、ひときわ高い岩山から眼下の雄大な景色を見下ろしていた。彼方まで広がる大密林と、間を走るきらきらとした大河。その景色の中に、わずかに違和感を伴う巨大な切り株のような形をした岩山が点在している。それは枯れて伐採された世界樹ユグラの残骸である山々であり、さらに現在も生きている、おそらく星の海まで届く世界樹の幹と、そこにぶつかっては分断される柔らかな雲の流れ。

「以前より緑が色濃くなったか? 相変わらず美しい。かつての大破壊の痕跡はもう見られないか……」

 無限世界イスターナルの中心、界央セトラの地を駆けるとされる見事な黒馬、アクリシオス。この馬を乗騎とする男は、無限世界最悪の存在とうたわれる黒衣の戦士、ダークスレイヤーだった。

「着いたぞ、フェルネーリ」

 ダークスレイヤーは背後にたたずむ、揺らめく闇で輪郭の分からない、狼のような獣に語り掛けた。その眼は尾を引く青白い、または碧暗あおぐらい変色する鬼火のようだったが、立ち上がるように闇の形が変わると、大人のような体つきをした少女の姿を取った。

 暗い灰色と白の祭服さいふくを着た少女は、かつて強大な光の帝国、アーラスの地下の墓所から救い出された闇の存在であり、冥界めいかいの住人のような白い肌と、細くこまやかな艶のある黒髪、左右でわずかに色合いの違う、ぼんやりと光る碧暗い目をしている。

 その頭には非対称のねじれた白い角と狼の耳があり、彼女が複雑な存在であることを示唆していた。

 フェルネーリはダークスレイヤーに何か言いかけたが、彼の向こうの緑輝く雄大な自然に目を奪われ、その眼の鬼火が強く光った。

「何これ? すごくきれい……!」

「ここはミクタラと呼ばれる世界だ。『深緑しんりょく木陰こかげ』を意味する。かつては多くの世界樹があり、雲より高い位置に無数の街があったが、天使と呼ばれる存在、プラエトどもの光の矢で相当に破壊された。今はだいぶ再生が進み、この通り雄大な自然を取り戻しつつある。この世界は『船の民』と『白い女』の一人が管理しており、主な住人は神獣と獣人、そして古き民たちだ」

「いい人たちなの?」

「ああ。だが、自然も豊かだし、勝手を知っているから、あまり彼らの世話になる気はない。と言っても、彼らの方から接触してくるだろうが」

「そうなんだね? 楽しみ。……でも黒い人、私を置いていこうと考えていたりはしないよね? 大丈夫だよね?」

 ぴんと立っていた狼の耳が哀し気に下がり、合わせてその眉も下がる。ダークスレイヤーは根負けしたように笑った。

「もうその考えはないよ。諦めた。だから心配しなくていい」

「捨てられたら死にたいけど、死ぬこともできないから本当に捨てるのはやめてね?」

「おれは君を……」

「君じゃなくてお前って言って! 余所余所しいの嫌い!」

「わかったよ。おれはお前を捨てようとしたことなど一度もないぞ?」

「一人にするのは捨てるのと一緒! 他の優しい人たちが沢山いたって、私に必要なのは黒い人のそばにいる事なんだから!」

 フェルネーリは本当に不機嫌そうに頬を膨らませ、そっぽを向いた。しかし、それをすぐにやめる事はダークスレイヤーが良く知っていた。

「わかっているよ」

 伝わるように慎重な言い方でダークスレイヤーがそう言うと、フェルネーリは悲し気な目をした。

「ごめんなさい。こんな私、面倒だよね? 嫌いだよね? でも、不安でどうしようもないの。本当に怖いの!」

 かつて邪悪な光の大帝国アーラスにおいて、言うのもはばかられる仕打ちを長い間受け続けていたこのみ人の少女は、誰もが恐れるダークスレイヤーの事だけを怖がらなかった。彼のそばに居たがり、眠るたびに悪夢にうなされても、彼が手を取れば夢から覚めて落ち着いた。

 いつかその心が落ち着いたら、信頼できる人々のいる世界に彼女を落ち着かせようと考えていたダークスレイヤーだったが、その日はなかなか来ず、ともに終わりのない旅を続けて長い月日が経過しつつあった。

「わかっている。大丈夫だ」

 微笑んでみせる黒衣の男。

「……ごめんね?」

「いいさ。慣れたよ」

「本当にごめんなさい。……一緒に乗ってもいい?」

「……構わんよ」

 フェルネーリは大人になりかけている少女だった。ダークスレイヤーは彼女になるべく触れないように気を使っていたが、断ると露骨に寂しそうにするため、彼女が何かを求めた時はあまり断らないようにしていた。

「アクリシオス、ちょっと重くなるけど、ごめんね?」

 狼の耳を持つ少女は銀がかった灰色のたてがみをなでる。黒馬は黒紫の眼を嬉し気に少しだけ細めた。

(不思議だな。アクリシオスが嫌がっていない)

 非常に気高い戦士か、あるいはその戦士の心を曇らせない気高い女のみに背を許すとされる気難しい黒馬が、なぜかこの少女の事は嫌がらない。ダークスレイヤーにとっては気になる謎の一つでもあった。

「行こう。既におれたちは見つかっているとは思うが、彼らの手をあまり煩わせたくはないのだ」

 自分を感知している神獣たちの気配を感じつつ、ダークスレイヤーは目的地を思った。アクリシオスは手綱を操らずともそれを感知して歩き始める。

「とても綺麗。戦いが無いのもたまにはいいね。……たまには、だよ?」

 本来なら戦いばかりの旅をしているはずの男に、フェルネーリは気を使った言い方をした。

「わかっているよ。たまにはな」

「私に気を使わなくていいのに。でも、この景色はとても嬉しい。ありがとう、黒い人」

「いいさ」

 人間なら、とうの昔に心が破壊されていたであろう凄惨な記憶を持つ少女を、戦いに次ぐ戦いの日々に伴わせ続けるわけにもいかず、ダークスレイヤーはしばしば、このような落ち着いた世界で休息を取りつつ旅をしていた。

 高い岩山を降りていくと、次第に植物の相が変わり、大密林と大河の規模が想像以上のものだとわかり、フェルネーリはあちこちに視線を移す。その楽し気な様子に、ダークスレイヤーも自然と微笑みを浮かべていた。

 しかし、フェルネーリの獣の耳が立ち、その様子が変わる。

「……黒い人!」

 気取られぬように静かに注意を促す声で、フェルネーリは呼び掛ける。

「ああ。大人数だ。敵意はないようだな。これはひっそりと、とは……」

 この時、眼前の密林と草原の境界に、多数の獣人たちと、白い肌に尖った耳の人々が姿を現した。古き光の民アールン、または『船の民』たちがしばしばエルフなどとも呼ぶ人々だった。その集団から、特に、狼の耳を持つ銀髪の男と、蜂蜜色の髪をした、白い衣装の尖った耳の女が進み出る。

 最初に、白い衣装の女が柔らかな口調で語りはじめた。

「かつて、この美しき地ミクタラを滅亡から救ったお方、ダークスレイヤー様ですね。数日前に世界樹の精霊イルシルヤ様が降りてこられ、あなた様の来訪を予告しておられました。我らミクタラの民は、ささやかな歓迎であなたの休息の一助をしたいと思っております」

 次に、銀髪の狼の獣人の男が続けた。

「我らの大長老、古き白狼が何か神託を得たため、それもお伝えしたいとの事。あなたが伴うお方に関して、何かわかった事があるとの事です」

「フェルネーリについて? わかった。立ち寄らせてもらおう」

「私たちもそのほうが心苦しくないというものです。いつも気にするなと仰られますが、大恩人に何もしないのは心苦しく」

 白い衣装の女が柔和に微笑んだ。

 こうして、野営する予定だったダークスレイヤーとフェルネーリは、ミクタラの民のもてなしを受ける事になった。

──世界樹が育つには正しい自然の循環が不可欠であり、それが世界に力を満ち溢れさせている事が必須だ。世界樹の巨大な枝葉は、自然の中に宿る魔力や精霊力の原質を巡らせ、それがこの巨大樹の重量を無いものに等しくしているのだ。

──エレセルシス・ルフライラ著『世界樹』より。

 ミクタラの民に導かれたダークスレイヤーとフェルネーリは、復活した古い世界樹ユグラの根元の街にたどり着いた。本来なら木陰であるはずの場所は、樹皮が柔らかに日の光を放っており、太陽が見えなくても柔らかな明るさに満ちている。

 山脈のように巨大な根と根の間の谷のような場所に広がる町は、世界樹の幹に刻まれた階段や開口部から、おそらく木の内部にも続いていると思われた。

「黒い人、たまにここに来てるの? 世界樹がすごく大きくて、眼がおかしくなりそう!」

 物珍しそうに様々なものを見ては目を輝かせていたフェルネーリは、少し前から驚き疲れて無口になっていたが、それでもこの景色にまたも驚きの声をあげていた。

「世界は驚異に満ちているからな。ここは何度か訪れている。以前はここまで自然豊かではなかったけどな」

「ここも、黒い人が戦って守ったの?」

「そういう事になるのか? これはごく個人的な復讐で怒りの発露に過ぎない。感謝される謂れはなく、少し心苦しいが」

「駄目だよ。ちゃんと受け取ったほうがいいよ? 誰かに感謝できるって、きっととても大事なことだから。あの人たちにとっても大事なことだと思うの。感謝を忘れないって」

 ダークスレイヤーは今は自分に背中を預けて馬に揺られているフェルネーリの言葉に感心した。

「……良い事を言うんだな」

「感謝を忘れた人たちは醜いもん。ここの木や自然は、お互いをとても大事にしてて、それが綺麗なの」

「そうだな。確かにそうだ」

 長い闘いの日々の中、進み過ぎた文明や退廃たいはいした文明も多く見てきたダークスレイヤーにとって、フェルネーリの言う事はとても共感できるものだった。耐え難い苦しみを受け続けてもなお、汚れない何かを持っているこの少女は、ダークスレイヤーと共に旅の出来る何かを持っていた。

 世界樹の根元の街の家々は、壁は所々苔むした、白い半透明の石材で組まれており、これは古くなった世界樹の化石化したものを切り出した建材のようだった。屋根は木とも金属ともつかない滑らかな材料でかれていたが、これは世界樹の樹皮らしかった。

 獣人や古き光の民アールン、また様々な妖精アルンなどに属する種族の子供たちが、ダークスレイヤーとフェルネーリを珍しそうに見るが、あまり物珍しそうに見るなとされているのか、控えめな視線だった。

 やがて、一行は城門のような世界樹の幹の開口部をくぐり、淡く光る長いトンネルを抜けると、またもフェルネーリが驚きの声をあげる。

「すごい! 木の中に町があるよ! ずっと上まで! どうなっているの? 太陽の光が無いのに明るい!」

「世界樹は日の光を通して、大きな影を作らない性質がある。枝葉に照った陽光は、このようにして幹の内部を伝っているのだ。だから明るい」

「すごいね!」

 濃密な精霊力せいれいりょくは、本来なら不可視の風や光の精霊の残像を時おり浮かび上がらせ、幻想的な光の舞う広大な空間がはるか上まで続いている。これは、世界樹のしんの化石化した部分を建材などにして、空隙くうげきを街にした結果だった。

──ああ、ダークスレイヤー、再びここを訪れていただき、嬉しく思います。

 世界樹の内部全域に、心にも耳にも届く、柔らかな声が届いた。

「君は確か……」

──はい。この世界樹の精霊イルシルヤです。既に、白い女の末妹セルフィナ様と嵐の巨竜ダカルダース様はどこかに旅立たれましたが、ミルフィル様はたまにいらっしゃいます。此度こたびもあの方が、あなたとお連れの方が訪れるとお教えくださいました。

「そうだったか」

「何という事、滅多に言葉をお示しにならないイルシルヤ様が、お言葉を!」

 ダークスレイヤーを案内していた一行はこの奇跡に驚きを隠せなかった。

「長命な我々といえども、伝説の確認できるこのような奇跡は、自らの心の在り方を見失わずに済み、有難いものなのです。感謝の心を忘れたくありませんから」

 白い衣装を着た古き光の民アールンの女がそう言って微笑んだ。

「ね?」

 振り向いて笑うフェルネーリに、ダークスレイヤーは苦笑した。

──世界樹の失われた世界の自然は次第に脆弱なものとなり、やがて大きな木の育たない世界になっていく。これを防ぐには、人でありながら精霊と心を通わせる古き光の民アールン、船の民の呼び名で言うエルフと呼ばれる人々が欠かせない。彼らは自然の声を聞けるからである。

──エレセルシス・ルフライラ著『エルフと呼ばれる古き民』より。

 ダークスレイヤーとフェルネーリは、この世界樹の精霊、イルシルヤに祈りをささげる聖なるうろの近くに部屋をあてがわれた。

 大密林の木々のこずえを見下ろす高さにあるこの部屋は、世界樹がかつて枯らした大枝の名残が空洞となったものであり、近くには大聖堂のような聖なる大洞おおうろがある。密林の梢は薄暗くなり、昼間の深緑の輝きは、今は緑がかった闇へと移り変わりつつあった。

 しかし、世界樹の高みはまだまだ日が差しているようで、部屋の壁が柔らかな夕方の光を放ち、太陽のぬくもりが伝わってきている。部屋の各所には枯れ木や世界樹の素材で作られたはちが置いてあり、淡く光る青白い鈴のような花が燐光りんこうを放ち始めていた。

「黒い人、これは?」

古き民アールンと呼ばれ、船の民からはエルフと呼ばれる彼らは、基本的にほとんど火を使わない。おそらく、これらの植物は夜間の灯り取りだろう」

「そうなのね? とても綺麗……!」

 フェルネーリはベッドに横になろうとしたが、ここで思いとどまり、腕や体の匂いを嗅いだ。

「……ねえ、黒い人」

「なんだ?」

「私、臭かったりしてない? そういえば、しばらくお風呂に入ってない……」

「いや、全くそんな事はない。そもそも、おれも君……お前も、食べても食べなくてもあまり問題のない存在だから、そう匂うような事はないはずだ」

「黒い人は黒炎こくえんで身を清められるもんね。でも私、女の子なのにそういうのを気にかけてなかったから、駄目だなあって。駄目だよね?」

「気になれば言うが、言われてみれば気になった事はないな。むしろ、何だろう? 嗅いだことのない良い香りがする」

「本当⁉」

 これは実際にその通りだった。フェルネーリは食事を楽しむ事も出来たが、ほとんど飲まず食わずでも問題なく、長期間水浴びをしなくてもどこか清浄で、ダークスレイヤーも嗅いだことのない、何か花のような良い香りがかすかに漂っている。

「おれの知らないところで何かを付けていたりするか?」

「ううん、何も。どんな香りがするの?」

「花のようだが、嗅いだことがない。どんな花かを思い浮かべようとするが、それがしっくりこない。いつだったか、花の咲き乱れる闇の草原を駆けた事があるが、あの夜の香りを思い出すんだ」

「……それは、良い香りと思っていいの?」

「そうだな。良い香りだと思う」

「良かったぁ……」

 フェルネーリは再びベッドに横になろうとしたが、また思いとどまった。

「ねえ黒い人、私に、黒い人がたまにやってる、黒い炎で身を清めるの、して欲しいって言われたら困る?」

「いや、あの炎は一切のけがれを焼く炎で、この世の全てのものが焼かれてしまう。闇に近い者しか耐性を持たないはずだが……いや待てよ?」

 ここでダークスレイヤーは、フェルネーリが闇に何かゆかりのある存在だと思い出した。

「私、闇の存在って言われてたよ?」

「そうだったな。それならフェルネーリ、小さな黒炎こくえんを呼び出す。少しだけ触れてみてくれ。違和感があったらすぐに手を離すんだ」

「うん」

 ダークスレイヤーは手のひらに小さな黒い炎を浮かべた。フェルネーリは恐れもせずに、躊躇ちゅうちょせずに手を突っ込む。

「おい、いきなり過ぎだ!」

「黒い人、これ本当にあの恐ろしい炎なの? 全然熱くないよ? なんだか、温かい。あ……これ、黒い人の心と近いね。怖いようで優しいし、暗いようで澄んでる。好きかも」

「何だって?」

「何か大丈夫そうだよ? あの、清めるやつやってみて? たぶん大丈夫だから」

 止める理由は無くなってしまったため、ダークスレイヤーは立っているフェルネーリを黒炎の輪で清めた。

それは一瞬の事だったが、炎は全くフェルネーリを焼かない。驚いた顔をしていたフェルネーリの眼から、涙がこぼれた。

「何だろう、すごく気持ちいい。光の人たちにされたことで背負った汚れが、ほとんど消えてしまったみたい。とても心が晴れやかなの……」

 フェルネーリの頭から、ねじれた二本の角が落ち、光の砂と化して消えてしまった。

「あれっ? 角が消えた! でも何だろう? 頭も重くないの。いい感じ」

「そうか、その角は光の者どもの邪悪が具現化したものか。それが消えてしまったのだな。つまり君は……」

「お前って呼んで! 君呼びは嫌!」

「悪い呼び方ではないと思うのだがな。つまりフェルネーリ、お前は闇の高位の存在なんだな。まだ少女だからなのだろうが、心にけがれがないのも作用しているんだろう。これは驚いたな」

 何らかの偶然で巡り合ったと思っていた少女だったが、何か見えざる運命の働きを感じたダークスレイヤーは、この少女との旅が思っていた以上に長くなりそうだと感じ始めていた。

「ここの神獣の長老が、何か神託を得たと言っていたな、そういえば」

「うん」

 世界樹の美しい異世界ミクタラの一日は、予想外の転機をもたらし始めていた。

──かつて暗黒世界の滅亡に際し、終末の戦いで闇の民たちの絶望と怒りが呼応し、ごく短時間だけ、怒りの巨神レイジス・スルトが目覚めたとされている。その時に両腕から放たれた暗黒の剣閃は無限世界に無数の次元の裂け目を作り、以降多くの者たちがここを通って安全な地へと移動したとされる。

──賢者フェルネーリ著『怒りの巨神』より。

初稿2021.06.29

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