ミクタラの一日・後編
世界樹の洞の部屋は完全に日が落ち、部屋の各所に置かれた鈴のような花が青白い燐光を放ち始めている。幽かな草花の芳香を放つベッドに横になったフェルネーリは、頬杖をついて脇机のそれを興味深げに眺めていた。
「黒い人、この光る花、とても綺麗だよ?」
「そうだな、たまには一息つくのもいい」
──お食事をお持ちしても良いでしょうか?
部屋の天井に這った中空の蔦から、古き民の女性の声がした。
「申し訳ない。野営の手間が省けるのはありがたい」
間を置かずに、古き民と獣人の男女が木皿に乗せた様々な料理を持ってきた。野菜や果物のほかに、ふんわりとした茶色の塊や、卵のようなもの、加工された肉などもある。ささやかな緑の蔦柄も優美な白い衣装の古き民の女性が、品の良い微笑みを浮かべて説明をした。
「このイルシルヤ様の世界樹がもたらす恵みはとても大きく、遥か地下にまで延びた根は、熱い水を何箇所かの枝に湧き出させておりまして、私たちは火を使わずに料理ができるのです。だいぶ下の根の街まで行けば、地底の溶けた岩の熱を伝える根もあり、そこで金属を加工する事もできるのですよ」
「そんな事が出来るの?」
フェルネーリは好奇心を大いに刺激されたらしく、耳がそわそわと落ち着かなげだった。
「そうだな。良き世界樹とはそういうものだ。それだけで一つの小さな世界を形作れる」
「見たいなぁ。黒い人は忙しい?」
「それくらいの時間はある」
「はい、私たちもそのようなものをお見せするのは何の問題もありません。ぜひごゆるりとお過ごしください。また、身を清めるのにほど良い湯の湧いている場所もございますから入浴も楽しめますよ?」
「え? 温泉があるの?」
「はい、ございます」
「ねえ黒い人、お風呂だって!」
目を輝かせてダークスレイヤーを見るフェルネーリに対して、ダークスレイヤーも相好を崩した。
「あとで行こうか。風呂は良いものだ」
「楽しみ!」
「大事なお話もございます」
ここで、灰色の髪をした狼の獣人の女が口を開いた。
「お食事がお済みになりましたら聖なる洞にいらしてください。私たち獣の民の大長老が、近ごろ見た不思議な夢についてお伝えしたいとの事です」
「あとで行こう」
──健全に大きくなった世界樹がもたらす恩恵は非常に多く、つつましく生きるならここで生の全てを全うできる。私たちはそうして長く生きてきたが、人間たちにはこの考え方と生き方がなかなか理解できないものらしい。
──エレセルシス・ルフライラ著『世界樹』より。
味は濃くないが奥深い旨味のある様々な料理を楽しんだのち、ダークスレイヤーとフェルネーリは『聖なる洞』と呼ばれる聖堂のような場所に向かった。
「黒い人、見て! ここもとても綺麗!」
「ああ、とても美しい場所だな」
世界樹の中に精霊が意図的に作ったと思われる、縦長の大きな洞。この空間は天井にあたる場所がはるか上で荘厳に高く、壁はうっすらと月光と星の光を通して輝いている。また、宝石のように化石化した樹液の塊があちこちに点在しており、それ自体が自然の力を集めて淡い光を放っており、二人には幻想的な星空が降りてきたように見えていた。
「来られましたね、偉大なる黒き戦士様と、その随伴者のお方」
人ならざる声が響く。聖なる洞は多くの蔦の垂れ下がる大きな開口部があり、その開口部の前には、薄桃色で形も大きさも中型の細長い船のような花弁の重なり合って開いた小山のような花が咲いており、その花もまた淡い燐光を放っている。
「ねえ黒い人、すごく大きい花!」
「世界樹の花だ。世界樹の花はその精霊の心に最も近く、人々の意思を聞き、また世界樹の意思を伝えるとも言われている。なるほど、確かにここは聖堂だな」
世界樹の花の燐光に照らされて、布を纏った大きな獣のような姿がゆっくりと起き上がった。老齢の大きな白い狼の獣人だが、この場合はより獣と神獣に近い存在だろうとダークスレイヤーは目星をつけていた。
「良く来られましたね、黒き戦士様。私たちミクタラの獣の民と古き民は、かつては一度この世界を去り、再びまた戻ってここまでの営みを取り戻すに至りました。ひとえに、界央の勢力と戦い続けるあなた様のお陰です」
唸るような、しかしどこか優しい声で、大きな人とも獣ともつかない者は感謝を述べた。ダークスレイヤーは微かな笑みを見せる。
「今のところはごく個人的な復讐に過ぎない。生ある限りそれは続き、たまたまあなた方に良い結果をもたらしただけで、あまり感謝されても気恥ずかしいというものだ。あなたが大長老か?」
「気高きあなた様らしい事を仰いますね。いかにも、私がここミクタラの獣の民の長老、古き半獣ニーグと申す者です。私はもう長き年月が降り積もり、もはやこの足腰はその重さに耐えられません。死が近づいておりますが、我が魂は眠るたびに様々な世界を見るようになりました。その中で、イルシルヤ様があなた様の来訪を告げる前に見た、不思議な夢についてのお話を伝えたく思っておりました」
「……聞かせてもらおう」
「ある夜、私の魂はこの身体を離れました。これが死か、と思いながら、私は世界樹の幹に吸い込まれ、光り輝く樹液の道の中を流されて行ったのです。やがて、時が古く、古く、はるか過去へと向かっている事に気づきました。何かが私の魂を引き寄せているのを感じたのです」
大長老ニーグはここで少し咳き込んだ。
「大丈夫? 狼のお婆ちゃん」
「優しいですね、黒きお方の随伴者さん」
「私はフェルネーリ。あまり無理をしないでね? ゆっくりでいいんだから」
フェルネーリの言葉に、ニーグの眼と口元がほころぶ。
「話を続けましょうか。私は、どこか別の世界の世界樹の切り株と、その切り株から新たに育つ世界樹を見ていました。私よりも格の高い、古い狼の神獣が祝福を与えた世界樹だと、私にはすぐにわかったのです」
ダークスレイヤーの眼がわずかに細められたが、誰も気づきはしなかった。
「私は数万年の命の終わりを迎え、なお新たな芽を出した世界樹の若木に祝福を与えた方の姿を見ました。人間の女性に近く、気高く白い狼の神獣の姿をしていましたが、物憂げな眼をした美しい人でした。なぜか神獣なのに人間または人なる神々の遊女のような佇まいでした。まるで、神々の相手をする絶世の遊女のような」
「……遊女ってなに?」
唐突なフェルネーリの質問が話を途切る。ダークスレイヤーはこの少女の過去ゆえに説明の難しい言葉だと一瞬悩んだが、ニーグが話を続けた。
「『人なる神』及び人間の大人にしかできない遊び事があるのです。あまり歓迎される事ではないのかもしれませんが、それを求める者は多く、それ故に仕事や商売として成り立つものがあるのです。時が来れば自然に理解できるようになりますよ」
「そうなんだね?」
フェルネーリが納得している横で、ダークスレイヤーがわずかに安堵していたが、彼女はそれに気づかなかった。
「ええ。そして、そんな立場を思わせながらなお気高さを失わないその女性は、確かにこう言ったのです。『狼の祝福はまだ生きています。尽きぬ思いのように。だから黒き戦士は、狼のしるしを持つ者を安易に遠ざけるべきではありません』と。そこで、私の夢は終わってしまいました。何か役に立ちそうな示唆はございましたか? 黒きお方」
ダークスレイヤーは何かを懐かしむような遠い目をしたが、それはすぐに消えてしまった。
「……確かに考えさせられる部分はある。役立てさせてもらおう」
「それは何よりでございました。見れば、フェルネーリさんも狼の耳をお持ちです。あなたの戦いに満ちた旅に、いたいけな少女を伴わせるのは危険ですが、そこに何か大切な意味があるのかもしれませんね」
「そうかもしれないな。ありがとう、大長老」
「何かお役に立てれば嬉しいですよ。そして、この命尽きる前に私たちの大恩人に一目会えた導きを深甚に思っております」
「そこまで有難がられるようなものではないさ。だが、ありがとう」
「長生きしてね、狼のお婆ちゃん」
「ありがとう。フェルネーリさんもお元気で。私はまた眠る事に致します」
大長老ニーグは伏せる狼のように上体を下げ、ゆっくりと目を閉じる。
ダークスレイヤーとフェルネーリは静かに聖なる洞を後にした。
──神獣は土地に祝福を与えて大樹や森林、山などの自然の一部に姿を変える事がある。格の高い者なら世界樹になる事もありうる。そのような場所は世界が自然の力を失いつつあっても、最後まで残る事がある。
──ロザリエ・リキア著『神獣の系譜』より。
夜も更けた頃、ダークスレイヤーとフェルネーリは地底の温水が噴き出す大枝で湯につかり、久しぶりにゆっくりとくつろいでいた。
世界樹の幹を通って遥か高い大枝の一画に吹き出す地底の熱湯は、やや熱めの温泉のような湯溜まりを創り出しており、化石化した世界樹が無造作に崩れ、また積まれたその場所は高い山の温泉そのものだった。
湯につかる事が嫌いではないダークスレイヤーは、珍しく全ての服を脱いでこの温泉を楽しんでおり、肩を撫でていく夜風とかすかな光を放つ世界樹の大枝が頭上に延々と続いている様を眺めていた。
「美しいな。よくここまで」
おそらく永遠に終わる事のない怒りに満ちた戦い。その日々の中に在ってしばしばこのような日もあり、自分の戦いに多少は意味があるのかという思いが、この男を少しだけ休ませている。しかし、そんな孤高の時間は簡単に破られた。
「ねえ……黒い人、そっちに行っていい?」
不安そうなフェルネーリの声だった。
「風呂だぞ、裸だろう? それは駄目だ」
「何が駄目なの? 裸だったら何か問題があるの? 黒い人は何もしないの知ってるよ?」
「自分の身体は他人の眼からも大事にするんだ。心から信頼できる人にのみ見せるべきであってだな……」
「他人と思ってないし心から信頼してるよ? なら問題ないよね?」
「人の話を聞け」
「いつも良く聞いて、しっかり考えて行動してるよ?」
湯船から立ち上がる音がし、ダークスレイヤーとフェルネーリを隔てている積み石を登る音が聞こえてきた。
「フェルネーリ、そういうのは駄目だ」
積み石と湯気の向こうから現れたフェルネーリは、透けない生地の布を纏っていた。
「裸って一言も言ってないのに、黒い人が慌ててる。裸だと思ってたの?」
あまり表情の変わらないフェルネーリが楽し気な目をしている事に気づいて、ダークスレイヤーは自分がからかわれたと気付いた。
「フェルネーリ、大人をからかうような事をするなら……そうか、そんなにこの地が気に入ったのか」
「あっ、待ってごめんなさい! 置いていかれるのは嫌。ごめんなさい」
「全く……」
「同じ景色を見たかったの。一人で見る景色はなんか勿体なくて」
「その服は?」
「黒い人の所に行けるように服を頼んだら、持ってきてくれたの」
「しょうがないな……」
「これ以上は近づかないから、ここにいてもいい?」
「今更だめと言っても仕方ないだろう。せっかく落ち着いた時間なんだ。温泉を楽しむか」
「うん……」
しかし、フェルネーリの耳はわずかに下がっている。
「どうした?」
「……本当はね、遊女の意味、分かってる。私もそう呼ばれていたから」
「……そうか」
「気を使ってくれてるのが嬉しくて、知らない振りしちゃった。でも、嬉しかったよ?」
「昔は昔だ、気にするな」
「……うん」
沈黙が訪れたが、ここで二人の浸かっている温泉に何かが落ちてきて激しいしぶきが上がった。ダークスレイヤーは一瞬でフェルネーリをかばう位置に立つ。
「何だ?」
敵意の全くない何者かが急に現れた。温泉の中に立つ者は、わずかに銀がかった髪と眉毛以外は透けるように白く、三つ編みにされた長い髪は霧のようだった。
「ミルフィル!」
ダークスレイヤーの声には珍しく驚きが含まれていた。
「いい雰囲気だったら少し登場を見合わせるつもりだったけど、そうでないから来たわ。久しぶりね、黒い方」
無限世界全域において神秘的な存在とされる『白い女』または『白き飛沫の姉妹』。その一滴にして三女『気の強いミルフィル』が突如として現れた。しかしダークスレイヤーには、ミルフィルがいつもの姿より少し髪をほどき加減にしており、衣装も佇まいも『白い女』にはあまり見られない女の気配がいつもより強く感じられていた。
「ダークスレイヤー、あなたとその子の傷を消してあげるわ」
「いきなり何なんだ……」
透き通っていた温泉はミルクのように白く濁り、生まれたての赤子の匂いのような生命の芳香が漂う。
「領域に黒炎と共に解き放った無数の傷を戻す事ね。あなたは滅多に傷を負わないでしょうけれど、それでも消しておくのは大切な事よ?」
続いて、ミルフィルはフェルネーリを向いた。
「あなたもよ? 闇の母なる神の血を引く女の子。ひどい目に遭った時に無意識に消し去っていた傷は、概念と化してどこかにあるあなたの領域を漂っているわ。傷を手繰り寄せなさい。私の生命の力の宿る湯でいくらでも消してあげる」
「黒い人、この人は誰?」
フェルネーリの眉が困惑というよりは迷惑を感じられる下がり方をしていた。
「ミルフィル、領域と言ったか? フェルネーリは領域持ちなのか?」
いつの間にかダークスレイヤーの背後に隠れているフェルネーリと、そんなフェルネーリの密着具合に気づかない男に、ミルフィルは吹き出しそうだった。
「あら、あなたたち結構お似合いね。まず初めまして、闇の母なる神の血を引く女の子。私はミルフィル。あなたと同じくらい珍しい存在よ? そしてダークスレイヤー、その子は闇の母神よ? あなたの黒炎はこの子にはとても心地よいはずだし、軸となる世界をとうの昔に失っているから、その子はあなたや私たちと同じくらい単独の存在だわ。その子はあなたと同じやり方で、かつて負わされた傷を隠しているの。それらを全て癒してあげると、この子の闇は本来の清浄さを取り戻すのよ」
「なぜ、おれには見えなかったんだ?」
「あら、簡単な事よ? あなたは男で、その子は女の子。男というものは『戒(※世界の決まりごとのようなもの)』により、女の心は見通せないものよ? まして、その子はあなたを男として見ているもの。なおさらね」
「……見てないよ?」
「……フェルネーリは男が苦手なはずだ」
ミルフィルは二人の返事に、あからさまに呆れたような表情でため息をついた。
「はいはい。それでいいわ。とにかく二人の傷をさっさと消してあげるから、見返りに何か面白い旅の話でもしなさいね? ……あと黒い方、驚いたのも、その子を庇いたいのもわかるけど、無限世界で最も清らかな存在である私に、股間の一振りが丸見えなのはどうなのかしらね? ……もちろん、あなたが良いならしばらく眺めて感想を語ってもいいけど、振り向いてその子に見せちゃ駄目よ?」
「失礼した!」
慌てて湯に身体を沈めるダークスレイヤーに、ミルフィルが吹き出す。
「姉さんたちも言っていたけど、本当に面白いわね、あなたって」
「そうかね。君らの『面白い』はどこか脱力できるよ」
無限世界全域で恐れられるダークスレイヤーだったが、おそらくそれよりも高位の存在である白い女たちには、彼の運命や言動に何か高度な諧謔(※笑いの事)が見出せるらしく、しばしばこのような事が起きていた。不思議な事にその笑いがダークスレイヤーの張り詰めた心に、どこか脱力めいた達観をもたらしてもいる。
「私たちの見出している笑いで気を悪くしないところが、あなたの良いところよ」
「常にそうありたいものだな」
ミルフィルはこの言葉に無言で微笑む。
「さ、じゃあ二人とも、じっくりと湯につかって、領域に追いやった傷を呼び戻して? 全て治してあげるから」
「どうやるの?」
「治っていないと思しき傷を思い出すのよ。それとダークスレイヤー、この子の場合は心にも多くの穢れを……あら? 黒炎で焼いてあげたのね? それなら話が早いわ。フェルネーリと言ったわね? 昔の傷を思い出しなさい? 痛みは一瞬で消えるから。あなたは傷が多いから、私の霧で包んであげるわ」
フェルネーリはミルフィルの生命の霧に包まれ、しばしの時間呻いた。やがて霧の消えたフェルネーリの顔は、どこか険しさや陰鬱さが減っている。
「なんだろう? また心が軽くなったみたい。すごい……!」
「傷だらけだったこの子の領域はほぼ修復したわね。これで、心ももっと安定していくはずよ?」
「ありがとう、ミルフィル」
「どういたしまして。私はこの優しくない無限世界が大嫌い。あなたの戦いには期待しているわ。これはささやかなお礼よ、黒い方。……今日はとても興味深いものも見られたしね」
聞こえる程度に小声で、ミルフィルは最後にわざとらしい言い方をした。
「それはまさか……」
「見えざる清水は必ず湧く(※人の口に戸は立てられないという意味)と言うけど、私は口の堅さには定評がある気がしているの。ただ、誰かの旅の面白い話をたくさん聞きたいわね。二人がかりでもいいわ」
「私、沢山話せるよ!」
フェルネーリは新たに気を許せる人物が増えて嬉しそうに答えた。
「……喜んで協力させてもらおう」
一方で、ダークスレイヤーはミルフィルの聞きたがりな性格に、既に覚悟を決めていた。しかしそれでもなお、激しい闘いの日々の中に在って、このミクタラでの一日はただの休息より遥かに有益なものをもたらす事となった。珍しく楽しげな声で話すフェルネーリの耳が、その心を表すようにピンと立っている。
(ああ、そうか……)
ダークスレイヤーはフェルネーリの狼の耳から、遠い昔の気高く白い狼の女を思い出した。
──あなたの果ての無い戦いの日々に、わずかにでも安らぎがもたらされるように、せめて狼に好かれる祝福を。
(そうか、君の祝福のもたらした縁か、ニス……)
ミクタラの一日は、フェルネーリには喜びを、黒衣の戦士には英気を養う以上の何かをもたらしていた。
──人の姿と領域を持つ存在は、この二つが不可分である。人の姿で傷を負ったとしても、それを領域の損傷とすることで、人の姿の能力はしばらく落ちないままに活動できる。しかし、これを激しく損傷させられた場合は、次第に能力が落ちてくる事となる。
──賢者バルカンド著『存在と領域』より。
初稿2021.07.01
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