最果ての星の海、エメレセとマリーシア
燦然と輝く星空の下、暗黒の水面に浮かび上がるように、淡い銀の光を放つ女が目を閉じて慎重に歩いていた。流れるような刺繍も見事な、ぴったりした真珠銀のビスチェとかなり短めのスカート。そして不釣り合いな男物の黒い炎のようなマント。かつて人間たちに数多くの聖なる武器を与える為に切った短い銀髪には、青空より深い青をした貴重な金属、ベレンサのティアラが輝いている。ウロンダリアにおいて、彼女の姿を何らかの試練の末に見た事のある者は、一目見たら驚愕と共に彼女の事を戦女神マリーシアと呼ぶ事だろう。
──無手の美しき武神、幻像神教の主神。ウロンダリア最強の戦女神マリーシア。
彼女のささやかな光は、かつて世界だったものを構成していた暗い滑らかな暗黒の水面の上にあって、同じく黒曜の質感を持つ、黒い彗星の飛竜の首と鱗をわずかに浮かび上がらせていたが、眼を閉じている彼女にその様子は見えることがない。
「マリー様、こんな時も修行ですか? 滑り落ちたらマリー様でも無事では済みませんよ?」
夜の穏やかな闇を思わせる声にマリーシアはそっと目を開けた。暗いほどに澄んだ空を思わせる青い両目が、親し気な笑みをあらわす。そこは、黒い鱗と同じ色の和毛の生えた彗星の飛竜の背中であり、その長い首の付け根たる滑らかな胴体には、やや異様な姿の威厳ある女が座していた。女は暗い藍色に広がる衣装に身を包んだ、星をまぶした夜空そのものの黒くも輝く長過ぎる髪をしており、その白く整った顔の口元がわずかな微笑みをたたえている。ただ、その女の目のあたりには、長い棘だらけの針金のような青黒い荊が幾重かに巻かれており、それなりの数の棘が、実際に彼女の眼を貫いているように見えていた。彼女こそは、星辰と星座の力を扱う、ウロンダリアの『眠り人』の一人、『星の眠り人』エメレセその人だった。
──『星』を司るとされる眠り人、エメレセ。
「エメレセ、首尾はどうですか?」
マリーシアの問いに対して、エメレセは何かを抱えるように両手を差し出した。と、流れ星が空からエメレセの手に落ち、そこには淡い光を放つ水晶製の髑髏が現れた。
「良い感じです。この失われた世界の星々の記憶はだいぶ回収できたようです。時の終わりの大戦において、また私たちの手数は増える事でしょう。……頃合いですね」
「では、そろそろ移動しましょうか?」
マリーシアの問いに対して、エメレセはすぐには答えず、見えないはずの眼で星空を見回して悲し気に話を続けた。
「かつては名もあり、多くの者たちが暮らしていたであろう世界も、もう名前さえ見つけられない状態にまで滅び朽ちてしまっていますが、せめて星々の記憶をもとに何かを掘り出せればと思います。私のかつて暮らしていた世界の星座も、記録はあれど未だ見つけることができませんし」
「界央の地におわすとされる『隠れし神々』は途中からまるで、正気あらずかのような振舞いをしていますよね……」
マリーシアも遠い昔の心を押しつぶすような記憶が蘇りかけた。しかし、それをさらに握りつぶすように言葉を続ける。
「でも、『あのお方』のように、抗い、背き、戦い続ける存在もいます。この、とうの昔に滅んだ世界の人々の記憶もいずれ訪れる大戦できっと力になり、何かを雪ぐ事は出来るはずです」
「そうですね。……帰りましょうか。ウロンダリアの日常が懐かしくなってしまいます。……はっ!」
エメレセはここで自分の失言に気付いた。ウロンダリアの神々の主席シグマスの言葉が思い出される。
──出来ればマリーシアはしばらくウロンダリアに戻さないでほしい。『眠り女』の誰かとあの男が関係を深める前だと、非常に厄介な事になりかねぬのだ。『賢き方々』もそれを懸念しておられる。
「どうしました?」
怪訝そうにしているマリーシアに対して、エメレセは胸元に手を入れ、小さな髑髏を連ねた首飾りを取り出した。これは非常に精巧かつ、その材質は様々な宝石、特にやや水晶の比率の多いものであり、その左手首にも髑髏を連ねた腕輪が揺れている。
「……いえ、せっかくここまで来ているのですから、他の失われた世界をもう少し見つけられないものかな……と、思いまして……」
あからさま過ぎる前言の撤回に、マリーシアは得心して、困ったように美しく微笑んだ。
「わかりました。嘘の付けないあなたのために私も修行を続けることにしましょうか」
「ご存知だったのですね⁉ その……私には隠し事は荷が勝ちすぎます。ごめんなさいマリー様」
エメレセは本当に申し訳なさそうに謝ったが、マリーシアは微笑んでいる。
「いいえ。シグマス様や大賢者様たちの考えは分かります。ただ、私はそんなに強引な性格をしていません。皆さん私を誤解し過ぎなのですよ」
おかしそうに笑うマリーシアだったが、エメレセは彼女のこの認識こそが最も問題だと確信していた。
「では、星鯨たちを呼び出して、この茫漠の星の海から、進むべき星辰の道を伺い立ててみますね」
エメレセは何かを呼び掛けるように両手を広げ、人には聞こえない『星の声』を心の中で紡ぎ、無限の星の海に呼び掛けた。しばらくして、空の星々が何かが横切るように明滅し、淡く暗い光を放つ、鳥のように長いひれを持つ巨大な星鯨たちが数頭、ゆっくりとエメレセたちの周囲の空を回り始めた。
「星鯨たち、落ち着きがありませんね?」
マリーシアの言葉を裏付けるように、星鯨たちの言葉がエメレセの心に語りかけてくる。
──星の道、指し示せない。
──星船、彷徨ってる。
──追いかけられてる。光る、強い、悪い奴。
──神の使い。悪い。
──あれがいると、怖い。
──そこまでの道、示す。
──気を付けろ。
星鯨たちはそこまで言うと淡い光と共に散ってしまい、エメレセの脳裏に彼らが幾つかの道しるべとなる星や星座を送ってきていた。
「マリー様、信じられません! 隠れし神々の『死の使徒』かもしれません。どこか滅ぼされた世界の人々が追われているようです」
──死の使徒。
それは、ある時から正気を失ったと疑われる『隠れし神々』に仕える、死と破壊をもたらす絶対者たちだった。神々でさえ普通は相対できない存在だった。
「『死の使徒』ですか? 本来なら私たちも逃げるべきですが、追われている誰かがいるなら戦わないわけには参りませんね。これは命がけです!」
言葉は悲壮だったが、マリーシアは嬉しくてたまらなさそうにしており、その喜びを隠しきれていなかった。
(そういうところですよ、マリー様)
しかし、エメレセは何も言わなかった。言っても無駄な事をよく理解していた。
「行きましょう!」
マリーシアは跳ねるように長い彗星の飛竜の首を渡り、胴体からだいぶ離れた位置にある滑らかな頭と、青白く光る目に向かって言葉をかけた。
「ギムルーファス、出発です。私とエメレセに心を重ねて。危険な旅と戦いになります。気を付けて」
──承知した。
彗星の飛竜、ギムルーファスは後方に伸びた長い四本角のある頭を上げた。マリーシアは嬉しそうに走ってエメレセの隣に座ると、水に似た静謐の闇から、青白く輝き始めた首の長い飛竜が飛び立つ。二人は星々の光が線のように引き延ばされる様子を見つつ、幾つかの滅んだ世界の星空を超えて、星鯨たちの示した場所に向かい始めた。
──かつて、女神マリーシアの信仰をめぐり、彼女の信徒たちが二つに分裂して大きな争いになりかけたが、どこからともなく現れた美しい女が丸一日の間この諍いに参加した者たちを説教しつつ無手で軽やかに投げ飛ばし続け、戦意を失わせて場を納めた。世に云う『カデシナの奇跡』である。
──ルンツ・ヨクト著『我らが無手の女神』より。
異界の虚無に近い暗黒の中を進む、巨大な紡錘形をした黒い特殊な木製の星船は、『世界の果て』を観測した直後に現れた異様な存在の攻撃により、船体や兵装を切り裂かれ、蝕まれ、次第にその速度が下がりつつあった。
──ウースの民の金剛樹の星船。
さまざまな植物の恩恵を受け、独自の知識と技術を発展させてきた、ウースと呼ばれる世界の人々は、ある時三つの太陽の全てを消し去られ、どこかに存在するという『間の投錨の地』を目指して、虚無の海へと旅立ち、既に数百年が経過していた。
「何なのだ、あれは! もうじき我々の旅は絶望と共に終わってしまうのか?」
星船の代表を務める、体格の良い進歩的な戦闘服に身を包んだ男は、戦闘用の艦橋に映る異形の存在が、消えては現れ、突如として激しい攻撃を仕掛けてくるのを、口を堅く結んで見守っていた。
それは、布を被った海鷂魚(エイ)のような白く輝く巨大な存在だった。星のように巨大で、恐ろしい三本のかぎ爪の生えた二本の腕を持ち、白い体に時々暗黒の穴が無数に開くと、青白い光弾を放ってくる。また、針のように尖った鋸のような三又の長い尾を持ち、それが星船を護っていた力場や砲台を穿ち、削り、時にそぎ落としていた。
「あと何度か攻撃を受けたら、この船は持ちません!」
星船の全容を映した映像を見ていた男が、悲痛な声で叫んだ。
「分かっている! ……武装した植物巨人は?」
別の男に問うが、問われた男はゆっくりと首を横に振った。
「……そうか」
ここで、また別の画面を見ていた者が叫んだ。
「また現れました! かぎ爪と……尾をこちらに向けています! 次にあの攻撃を受けたら、我々は……!」
「ここまで来て……」
しかし、絶望や次の思考に至る前に、心に強烈な異物感が流れ込んできた。強引で、乱暴で、無理解で冷たいそれは、この星船にいる全ての者の心を押しつぶさんばかりだった。
──我は死を告げ与える者なり。お前たちは世界と命運を共にし、滅ぶべきである。逃走する者は摂理に反し、故に死の罪を負う。死すべし。
海鷂魚(エイ)のような白い存在は、布のようなものに包まれていた顔を表した。それは目を細めた髑髏といった恐ろしい笑顔を浮かべていた。細く嫌らしい笑みを浮かべる眼は、底知れぬ暗黒に等しい。
「ああ……」
ウースの人々は恐怖で身動きが取れなくなった。
──背教者死すべし。塵芥となるがいい。
誰もが神の罰に等しい絶望を感じて目を閉じた。しかし、心の中に流れ込んでいた白い存在のものらしい心は途切れた。浮かんでいる外部の映像を見ると、幻影のように燃える薄く白い光に包まれた蠍が、この巨大な存在を両腕の鋏でつかみ、尾の毒針を突き刺したところだった。蠍はその後消えてしまい、海鷂魚(エイ)のような存在は周囲を注意深く伺っている。
「何だあれは? 幻影の蠍か?」
──奇妙な力で神の理に歯向かうか!
ウースの人々の混乱をよそに、死を告げる者の広大な背に無数の穴が開いた。人々は今度こそ終わりかと目を閉じかけたが、そこに淡い光に輝く巨大な戦士が現れると、棍棒で死を告げる者を叩きつけた。いつの間にか星船の周囲を流れ星のような光が輪を描くように飛びまわっていたが、それは次第に減速と減光をし、首のとても長い飛竜の姿になると、ウースの人々はその背に乗っている淡い輝きを放つ二人の女に気付いた。
「全域で通信を送れ! 味方かもしれん!」
しかし、その言葉の直後、投影装置の大画面に、短い銀髪をした神々しく輝く美しい女の顔が映し出された。
「ええ、味方ですとも。外つ世界の避難民の方々、『間の投錨の地』をお探しですか? 独特な植物に関わる技術でここまで来られたようですが、あなた方の現状の技術による『認識』では、恐るべき神々の生み出した『死の使徒』に対抗するすべを持たないでしょう。ですので私たちが対応いたします。ゆっくりと状況の回復に努めていてください。これを狩った後に道案内をいたしますから。あと少しですよ!」
「なんと!」
代表の男は驚きを禁じ得なかった。神話や伝説的な存在の様でありながら、間違いなく自分たちの技術や文明に対して高度な理解を伴う発言だった。
「さあ、エメレセ、私も始めますね」
マリーシアは一瞬で姿を消し、星船と死の使徒の間、混乱していた死の使徒を見下ろす位置に現れた。

「こんにちは。料理すれば何とか食べられそうな姿をしていますが、あなたたち『死の使徒』は私の武器の材料になりますので、この幸運に感謝して有難く狩らせていただきますね」
──お前たちは界央の地に抗うとされる地の者か!
顔を上げてマリーシアに向き直った死の使徒は、その白い背中に無数の暗黒の穴を展開し、そこに光球を出現させて無数の光弾を放った。
──全てを虚無へと化す光を喰らうがいい!
「……水鏡」
死の使徒の声を制するようにマリーシアは目を閉じた。次の瞬間、放ったはずの光弾が全て死の使徒の全身に降りそそぐ。
「生、苛烈にして、心、水鏡の如く、佇まい、枯れぬ花の如く……」
死の使徒の驚きと苦痛の叫びが聞こえないかのように、マリーシアはおのれの心に課す理想をつぶやいていたが、眼を開けた。
「まだ攻撃していませんが、頭上に唾でも吐かれました?」
マリーシアは美しく微笑む。その右目は、中心に赤い光を宿す闇の瞳に変わっていた。
(この気配、噂は本当なの?)
星の眠り人エメレセは、ごく一部の者の間でささやかれる噂を思い出したが、戦いに集中する事にした。荊の巻かれた見えない目で空を見上げると、首に巻かれていた髑髏の長い首飾りを取り出し、詠唱しつつそれらの髑髏を一つ一つ、優しく触れつつ回していく。
「闇、光、失われても変わらぬ希望と記憶たる星辰の光よ! 思いに星の炎を重ねてその動きを止める。魚は水底にいるもの、神の使いよ、待命して死をもたらすものよ、そして傲慢なる者よ、星々の光は時の牢となろう!」
エメレセの詠唱が終わると、無数の星空が重なるように現れて空を星の光が満たした。その後、あまたの星が消えて幾つかの星が残る。
──これは何とした事だ⁉ 動く事がかなわん!
死の使徒の叫びが響く。死の使徒は動くという意志さえもままならない自分の状態に気付いた。
──何が? 何をした?
「星辰とは時と共に起きる物事の座標です。夢幻時の力により、あなたに関わる物事の全てが止まる星辰を描きました。あなたは……想定より単純な存在のようですね」
──何だと! なんという僭越な行いを!
死の使徒の困惑にマリーシアが微笑んだ。
「あなたを倒せば大手を振って懐かしい地に帰れますので、そろそろ終わりに致しますね」
──我は死を告げ与える者だ! この世の理にして『隠れし神々』の御使いなのだ! それを!
「きっとあなた方が滅ぼした世界のたくさんの人々は、その様な気持ちを抱いたはずです。少しは他者の、弱き者の気持ちが分かりましたか?」
──そのようなものは知らぬ! 偉大なる存在に従うべきなのだ!
「そうですか。どちらでもよいです。どうせ狩りますし、あなたの心に恐怖や絶望が生まれれば、それで」
──馬鹿な、我々を殺せるのはあの男くらいのはず! この神のものだけではない暗い力は……!
マリーシアは構わずに真なる言葉を口ずさむ。
「我が武と剣は天地と一つ。故に無形の真の剣を揮う……」
動けない死の使徒の上に、星の光で燃える大きな剣が幻影のように十一本現れた。それらは半透明のようでいて、中心に一本の闇の線がある。
「のちの大戦に、あなたもまた素材として私たちに大いなる恵みをもたらす事でしょう」
一切の共感の無い美しい笑みに、死の使徒は最初で最後の激しい恐怖を感じていた。
──何という不敬だ! こんな事は許されない! あり得ないのだ! ……やめろ!
「大暗黒幻像、星辰剣」
十一本の剣は、水面に落ちるように死の使徒の身体を貫通し、その後は荒れ狂う流れ星のようにその巨大な身体を貫き、切り裂き、断末魔の叫びをしばらく上げていた死の使徒は動かなくなった。マリーシアは振り向いて微笑む。
「エメレセ、星の鎖をお願いします。片付いたので持ち帰りましょう」
エメレセはこの言葉に、遠い世界の鎖の星座を呼び出し、漁師の星座を呼び出して死の使徒を縛ると、それを彗星の飛竜に繋いだ。さらに、しばらくぶりに目を隠していた荊の目隠しがかき消える。
「さ、大手を振って帰りましょうか。やや長い旅になりますが、帰ったころには素敵な再会が待っていそうですしね!」
「何もかもお見通しのようなマリー様の言葉には、私は絶句するばかりですよ」
ウロンダリアの神々でも別格の強さと賢さを見せるマリーシアには、剣呑な噂があった。闇の討伐者と言われる男とただならぬ関係になったのではと囁かれていた。エメレセはしばしばこの噂が裏付けられるようなものを見てきたが、しかし確証はない。
「時に、男女の間の秘め事に思いを巡らしたくなる気持ちはわかりますが、あまり感心しないですね」
何の嫌味も無い笑顔で、察したようにマリーシアはこのような事を言い、否定も肯定もしなかった。
「申し訳ありません」
「気にしないで結構ですよ」
この日、驚愕と感謝をするウースの民の星船を導きつつ、巨大な死の使徒の屍と、沢山の星座と星辰の記憶を得たマリーシアとエメレセは、長い年月を経て『間の投錨の地』ことウロンダリアへと帰ることにした。しかし、損傷の激しいウースの民の星船の速度や修理に合わせる必要があったため、その旅は時間のかかるものとなりそうだった。
──かつて、『隠れし神々』がダークスレイヤーに絶美の女神三十柱を与えた事があったが、この戦士はなびかず、全ての女神を元の領域に帰し、女神を集めた無名の神は殺された。しかし、最後まで離れるのを嫌がった女神も一柱だけいたと伝わっている。
──賢者フェルネーリ著『ダークスレイヤー』より。
初稿2020.08.20
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