月の悪女は解き放たれる
永劫回帰獄の中空に浮かぶ、頂上の見えない塔の中。
塔の螺旋階段を上り続けていた男は長い時間のすえにやっと行き止まりの部屋に至った。この領域には無いはずの月の光がうっすらと部屋を満たしており、中央には大きな銀の寝椅子が置かれ、そこには艶めかしく上体を起こしている神々しくも剣呑な緋の衣装の女がいた。
黒衣の男は気を引き締めたが、逆光になってよく見えない女の口元には微笑の気配が漂っていたため、男は甲冑を黒い炎と化させて消してその女に声をかけた。
「……不意に女の部屋に入ってしまった事は詫びよう。しかし、この永劫回帰獄には男性存在しかいないと聞いていたが、君はどう見ても女性だな。おれは……名前は消されて名乗る名前がない。ずいぶん昔にこの地に封印されたが、長い戦いの末に四人の王騎士に勝ちをおさめ、今は自由と共にこの地から出るすべを探す旅をしている身だ」
部屋がさらなる月明かりに満ちて、寝椅子に半ば身を横たえた女の姿があらわになった。淡く月のように輝くその女は豊満で背が高く、白い胸元や腕、足の一部が露出する緋のドレスに透けるような薄衣のケープを羽織っている。胸元には月そのもののように輝く大きめの宝珠を連ねた首飾りに、おそらく身長に等しく長い黄金の髪が豊かに流れていた。その輝く髪の頭には少し不釣り合いに大きな造りの王冠が戴っており、さながら女王のようだった
それは長い戦いで心を磨かれた男でさえ息をのむ美しさだった。
「驚いたな」
「……イシュクラダ。そして、ここは既に永劫回帰獄と言い切れない領域の狭間ですよ」
緋の衣装の女は月の銀色の瞳を男に向けて溜め息のようにつぶやいた。涼しく冴えたその声は、例えるなら細やかな銀の砂がこぼれる音のようだった。男はその声に含まれた魅力と艶には動じずに問い直す。
「君の名前か? イシュクラダと?」
女は何かを確信したかのように、凄みと優美の漂う笑みを浮かべた。
「お待ちください、どうやらあなたは私の想定と異なる落ち着いたお方の様子。ならばこのような殺風景な部屋でお話するのは非礼でしょう」
女王のような女は銀の宝珠を連ねた首飾りに触れた。首飾りは銀の光の霧のように拡散すると消えてしまい、女がゆっくりと立ち上がるが、満ちてきた銀の光が全てを覆い隠してしまった。
「これは?」
男はしかし、塔の中の一部屋だったこの場所が、いつの間にか聖堂か王城の広間のような青銀の光に満ちた荘厳な空間に変わっている事に気付いた。正面にはいずこかの青白い月が綺麗に収まる円形の窓があり、そこに輝くように先ほどの女が堂々とした立ち姿で現れた。
「私の名前です、黒い方。私はかつて無限世界において様々な月の運行の秘密と、女の陰謀を司り、いつか現れる真なる王の妻として王冠を戴くとされていました。……ただ、何かが無限世界の至高の方々にそぐわなかったのか、いつしか大変な悪女とされて捕まり、長い間『嵐の虚海』という恐ろしい領域の塔に封じられて今に至ります。永劫回帰獄の四王を倒した方にだけは、ひときわ長い私の塔の下部が見えると聞いてはおりましたが」
黒衣の男は月の光さす窓から外を見た。いつの間にか塔のはるか下は恐ろしいほどに暗く澄んだ水のようなものが満ちている。
「虚ろなる海『虚海』です。この領域は無限世界で有害とされた多くの女性存在がこのような塔に閉じ込められています。釣り人の浮きのように塔が無数に浮かび、しばしば終わる事のない激しい嵐が塔をひどく揺らすのです。そんな日々には不死の女たちの慟哭が嵐と共に響き続け、とても悲しく恐ろしい領域となります」
「抜け出す方法は?」
「ありません。絶望した女神などはしばしば塔から身を投げます。しかし、それで『虚海』に吞まれたが最後、存在はどこまでも拡散して消え去ってしまうとされています」
「イシュクラダ、君はどれくらいここに囚われている?」
「さあ? そんな昔の事は忘れてしまいました。ただいずれにしても、私の無意味に長い生はおそらく……もうじき終わろうとしていますが」
「どういう意味だ?」
「そのままです。……そんなどうでもいい私の過去などより、長い戦いを終えてここに来たのでしょう? 既に私も永く一人。あなたのこれまでの戦いに荒れた心を潤すのに私では満ち足りませんか?」
イシュクラダは言いつつ外套をはごうとしたが、男の空気が静かなものから少し厳しめなものに変わった事に気付いてその手を止めた。
「永劫回帰獄で戦い続けるには、目的や欲望までもが己を穢す事に気付かなくてはならないものだ。だから、久しぶりに綺麗な女を見たとしても美しさは理解できるがそこまでだ。おれは君を知らないし、君もまたおれを知らないはず。申し出は嬉しいが、それは自分の意志ではないだろう?」
「……」
何かを見透かされた気がしてイシュクラダは言葉が出なかった。対して、男はイシュクラダを見る目に赤い怒りの炎を宿して凝視する。
「……なるほどそういう事か。見下げ果てた真似を!」
「何をなさるのです⁉」
男は怒りを帯びて言い捨てると素早くイシュクラダに歩み寄ってその手を掴み、右手には黒い炎を纏わせ、そのままためらわずにイシュクラダの胸を貫いた。
「ああ……そんな……!」
ある謀を見抜かれ、手籠めにさえせずに自分を殺すのかと、イシュクラダはこの男の静けさからは想像もつかなかった躊躇いの無さにぞっとした。そしてこれが自分の最期かと覚悟した。息苦しさに男が自分の胸を貫いて心臓を握りつぶすか奪うかと思い至った時には、男はその腕をぐいと下げていた。獣のように腹を引き裂く気なのかと思って震えた。
「……ああ、あなたの暴威を見誤っていました。いつかここに現れる者を誘い殺さぬ限り自由は無いとされていましたが、敵と見れば私のような女でも手籠めにさえせずに殺すのですね。胸を貫き腹まで素手で引き裂いて……」
しかし、男はイシュクラダの言葉を聞いておらず、その腹と胸の中を探るように真剣に手を動かしていた。圧迫感はあるが痛みはない事にも気づく。
「少し静かにしていてくれ。呪いの隙を突いたのだ。……あった。これで最後か」
確信に満ちた声と共に男は腕を抜いた。その手に神血は一滴もついておらず、イシュクラダの身体と衣装にも傷も血も焦げた跡さえも無かった。イシュクラダは存在としての量の違いがこれを可能にする事に思い至ると同時に、男の手に握られたきらきらと光る品物に気付く。
「これはどういう? ……それは!」
男の手には金や銀、蒼や碧に輝く数個の腕輪や指輪があった。イシュクラダはそれがかつて自分に埋め込まれた神々の呪いの品だとすぐに気付いた。
「うまく行った。君はとても清浄な存在のようだから、永劫回帰獄の黒炎に焼かれないと踏み、その身体に埋め込まれた神々の呪いの品を全て取り除いた。子まで産めなくされていたようだな。そこまで危険な存在には見えないのに随分と酷い事をする……」
「私の体から神々の呪いを全て取り除いたのですか?」
「ああ。驚かせてすまなかったが、君の虚を突いて露になった呪いを見させてもらった。ところで、手籠めとはこれもまた随分とけだものの様に思われているんだな」
黒衣の男は苦笑した。しかし、その苦笑にイシュクラダは安堵を感じ取っていた。出会ったばかりの他人から呪いが取り除かれたことに対する安堵。その気の良さにイシュクラダは心温まるものを感じて、そんな自分に少し驚いていた。それを隠すようにイシュクラダは言葉を返す。
「失礼いたしました。……いえ、あまりに無為に殺されるのかと思って少し取り乱したのです。それに文字通り身体に『手を籠めた』のですから、あながち間違いでもないでしょう?」
「違いないが、大いに誤解を呼びそうだな」
男は良い顔で笑う。イシュクラダはこの男の笑顔をもう少し見たいと思った自分に気づいた。
「かつて少なくない神々から私の美と魅力は謳われたものですが、そんな私を躊躇いなく殺すのかと思って震えました。こうして呪いを解かれた今、誤解ではなく事実にしてくださっても良いですよ? 呪いは解いていただきましたが、この部屋から出られない私の運命はいずれ悲惨な結末を辿るでしょうから」
イシュクラダは言いながら寝椅子に座り直し、肩にかかっていた外套をはらりと落とした。男の目には白い腕や胸元が大変な魅力をもって見えるはずだが、しかし男の目は何かを観察するように静かなもので女を見る目ではなかった。その眼が熾火のように一瞬赤く燃え光る。
「なるほど、両手足に神々の黄金の枷が繋がれており、髪の中には強い呪いの力を持つ短剣か。先ほどの呪いを解いただけでは不完全だったな。……いいだろう」
男はイシュクラダに隠された呪いと枷を見破った。
「まさか私を繋ぐ黄金の枷と、髪に隠された暗殺用の神器たる短剣まで取り除くつもりですか?」
「ああ。動かないでいてくれ」
男は再び手に黒炎を纏わせてイシュクラダの髪に触れた。影のように何かが飛び出して男の親指を飛ばし、男の心臓のあたりに突き刺さる。
「それはいかなる者にも死を与える短剣『死の概念の欠片』という神器です。いくらあなたでも……」
黒衣の男は立ち上がって後ずさるとその上半身を黒い炎が燃やし、体のあちこちに禍々しい黄金に輝く神々の呪いの文字が浮かび上がった。胸に刺さった黒い短剣はその仕事をすべく唸りを上げたが、男の胸にひときわ強く輝く呪いの文字が浮かび上がる。
──この者に永遠の生の苦しみを!
「ふん、死など生ぬるい!」
男は短剣を抜いて黒い炎に包みそれを床に投げ捨てた。さらに左手に黒い炎を燃やすとそこから鎖を出現させて床に輪を描き、大きな黒炎を燃え上がらせ呼びかける。
「鍛冶神ギリム、神々の黄金の枷を破壊できる何かはあるか?」
「短剣の死の呪いより強い生の呪いに……永劫回帰獄の鍛冶神ですか?」
呆気にとられたイシュクラダの問いに関わらず状況は動いていく。
黒い炎から幻影のように透けた逞しい老人の後ろ姿が浮かび上がると、裸の上半身から玉のような汗を散らしつつ振りむいた。頭頂部の禿げたざんばらの白い髪と長い髭に、白く濁った右目と黒い闇そのものの左目。異様に発達した右腕は冗談のように頭よりも太い。
「今日は炉の火の調子が悪いと思ったら、名を消されし者、お前が話しかけてくる流れだったか。相変わらず邪魔しおって」
「……いきなり失礼だな」
「炉の火こそは鍛冶の神意そのものだ。手を止めるに足る話が来ることを火は知っていたのだ。そんな話を持ってくるのはいつもお前だが」
「そこは否定できないな」
鍛冶神はぎろりとイシュクラダとその枷を見やる。
「で、位の高い女神を拘束する神々の黄金の枷か。それを二つで手を打ってやろう」
鍛冶神と呼ばれた老人は何かを放る動作をし、鋭い金属音と共に床に何かが落ちた。男は黒く長い金属片を拾い上げて観察する。
「これは鑢か?」
「先の欠けた長い鋸鑢だ。永劫回帰獄の侵炭の鋼で出来ているそれは神々の黄金さえ削れるだろう。流石に少し時間はかかろうが」
黒い炎を呼び出して親指と黒衣を再生させた男は鋸鑢を刃物のように検分し、再び鍛冶神に声をかけた。
「なあギリム、物は相談なんだが……」
「その鋸鑢を小剣にしたいなら黄金の枷四つだ」
「言うと思った。……三つだな。流石に一つは何かに使いたい」
「負からんぞ。これは譲れん」
「あの……」
黒衣の男と鍛冶神は、イシュクラダなどそこにいないかのように何らかの交渉を始めた。
「またおれの足元を見るのか」
「お前の武器へのこだわりを生かさずにおられようか。これぞ商いよ!」
「職人のくせに相変わらず業突張りだな」
「すいません御二方……」
しかし、控えめなイシュクラダの言葉は二人に届いていなかった。
「その鋸鑢は神々の黄金さえ削る。即ち、そこの女神が手にしていた死の短剣の呪いの文言も変えられる。それを黄金の枷で四つ、悪くない取引だと思うがな」
「おれも貴重な素材として一つくらいは持っておきたい気持ちもあるのだが」
「ふん、これ以上は負けぬ」
「お二人ともお待ちください。つまり不壊の黄金の枷を破壊して私を自由にしてくださるのですか?」
黒衣の男と鍛冶神は、そこにイシュクラダがいた事を思い出した。
「何だ? 神々の黄金の枷ごとき、腕が良すぎて封印された鍛冶神たる儂が破壊できぬと思うてか?」
「こんな小賢しい呪いや黄金程度、永劫回帰獄の黒炎で断ち切るなど造作もない。ただ、女の腕を傷つけない為に繊細なやり方が好ましいだけだ」
イシュクラダは自分の問いが少しおかしな受け止め方をされたと気付いた。あろうことか二人とも不壊の枷を容易く破壊できる前提で話している。
「あの、私を自由にしてくださるなら、私の月隠れのケープや宝珠、あるいは髪の毛を少しなら差し出せます。鍛冶神様も黒い方もそれでいかがでしょうか?」
しかし、黒衣の男は良い顔をしなかった。
「囚われの女に何か差し出させるなんて恥も良い所だ。……いいだろう鍛冶神、おれはあんたのように業突張りではない。黄金の枷四つで手を打とう。良い商売だったな!」
「貴様、巧妙に儂に恥をかかす気か? 黄金の枷など三つで良いわ! その代わり何か良い話を持ってこいよ!」
黒い炎と鍛冶神は消えた。黒衣の男はイシュクラダを見て微笑む。
「良い助言だった。おかげで取引が成立して気分がいい。あとは君の黄金の枷を外すだけだな」
「いえ……」
この男は位が高く美しい女神の魅力や信頼よりも武器や材料が好きなのかとイシュクラダは訝しんだが、少し失礼な気がしてその考えは捨てた。
「さて、少し不自由をかけるがそれぞれの枷を削って外そうか」
男は寝椅子のわきに胡坐をかく。
「お願いいたします」
イシュクラダは銀の靴を脱いで男の腿に乗せた。男は現れた黄金の枷の留め金を鋸鑢で慎重に削っていく。この長い時間に男とイシュクラダはそれぞれの過去や現在の無限世界について話し合った。
「……私はただ単に合わない方が多くて袖にしたのと、無限世界の有り様はまるで女たちを遊棋(※将棋や囲碁のような遊戯の事)の駒のようにしがちなので、せめて女たちのささやかな謀に加護を与えていたのです。それがいつしか屈指の悪女と呼ばれるようになり、このように枷に繋がれてしまった次第です。そんな私が男性にこのように助けられるとは思いもしませんでしたが」
黄金の枷を外す作業は残すところイシュクラダの左腕のみとなっていた。
「まあ、何があるかわからないものだ。あの爺さんはなかなかに業突張りで、武器を一つ作ってもらうのも骨が折れる。だからこの出会いはおれにとって実に有益だったと言えるだろう。君も自由になるしな」
「……この出会いでの、あなたの有益な要素はそれだけですか?」
「それだけとは?」
鋸鑢を往復させる男の手が一瞬止まったが、イシュクラダは構わずに話を続けた。
「私はとても位が高く、こうしてひとたび自由になれば次はもう捕まる事はないでしょう。しかしこのような事は予想外で、あなたには返しきれない恩が出来てしまいました。もし私を我が物となさりたいなら応じますし、私もそれで良い気がするのですが」
「申し出は光栄だが……おれは人の部分もあり、かつて生きながら永劫回帰獄に封じられた身だ。対して君は位が相当高い女神だろう? 確か位の高い神々は互いに心を開いて目を合わせれば満ち足りるくらいではなかったか?」
「確かに私の位はあなたの推測の通りですが……」
「……よし、最後の枷も外れたぞ」
澄んだ音を立てて最後の枷が外れた。男は黄金の枷を拾って立ち上がる。
「欲望と快楽の強い『人の契り』は君を零落(※次第に落ちぶれていく事)させ、有限の存在にしてしまうだろう。それは本意ではないし、おれ自身の扱う力も今や強大な理性を必要とするものだ。例えば安易な欲望を持つと……」
男は立ち上がってやや離れてはイシュクラダを眺めた。イシュクラダが男の眼にわずかに欲を感じたその時、男の全身を黒い炎が包んだ。
「こうしておれ自身を激痛と共に焼く。この黒炎は一切の濁りを許さないからな」
火傷だらけになった男は柄頭に鎖の繋がれた剣を呼び出し、勢いよく床に突き立てると深い呼吸をしてすぐに黒い炎も収まった。炎の性質が変わったのか男は急速に再生する。その様子を驚きの目で見ていたイシュクラダは、やがて何かを悟った厳かな目になった。
「あなたと深く関わった末に有限の存在になっても構わない、と私は言っているのです。でも、あなたが苦痛を受けるのは本意ではありませんし、私の永遠性を大事になさってくれるのもよくわかりました。かつて多くの男神を袖にした私ですが、どうやらこの出会いの為だったようですね」
イシュクラダは歩み寄り、男の両手を取った。
「おれの話を聞いていたか?」
「聞きましたが、私はしたいようにしますよ? そしてもし私がお嫌なら、あなたが立ち去った後にここから身を投げる事に致します。お嫌でなかったら私の目を見てください。出来るだけ瞳の奥を、そこにいる私を……」
「……参ったな」
「参ったと仰いましたか。私はあなたの心に適わず迷惑なだけと?」
「……失礼な事を言ってしまったな。そんな事はない。ただ、少し君の風評が理解出来る気はしてきたが。いずれにせよ助けてそのままというわけにもいかない状況だな」
男は少し軽口を混ぜてはいるが、そこにイシュクラダは自分の覚悟が伝わった空気を感じ取って微笑んだ。
「永劫回帰獄に永く封じられるような方には、私のような女は何人いても良いと思いますよ?」
「おれはそういう男ではないけどな」
男はイシュクラダの銀の目を、その瞳孔のかぐろい闇を見た。ただの女神ではない何らかの闇を見出した時、周囲の景色が一変した。
「……これは」
空には異様に大きな満月と、その反対側には同じ大きさの暗月が浮かび、冴えた温かい月の光が満ちている。男は小高い丘の頂上の石の台座に座っており、月明かりは遥か彼方まで大地や山脈を照らしていた。
男が見回すと丘の周囲には百合のような花が咲き乱れており、それらは全て月のような金色あるいは銀色で、緩やかな風にそれらの放つ粒子が輝きつつ舞い飛んでいる。
「彼女の領域に呼ばれたのか……」
台座に座る男の膝の上に月の光が差し込み、それは白いドレスに王冠を戴かないイシュクラダの姿となった。イシュクラダは男の膝の上に座り、首にしなやかな腕を回して囁く。
「ここは私の領域、『イシュカの月の園』と呼ばれる地です。あなたが存外に甘い人であった事を嬉しく思います。私のような女は結局のところ心の強い方が抱きとめて下さらなかったら破滅しかないのでしょうし」
イシュクラダはおかしそうに笑って顔を伏せ、心地よい揺れが男に伝わってきた。しかし、笑いを帯びたその揺れはいつしか静かな嗚咽のものとなった。
「……今度は泣いているのか?」
顔を上げたイシュクラダの目は涙に濡れており、この男でも息を呑むような美しさと慈愛に満ちていた。
「あなたの心と過去が見えてしまいましたから。私は黄金の枷より厄介なものに捕まってしまったのかもしれません。でも、悪女と呼ばれるような女の涙でなければ洗い流せないものもあると信じています」
「そうかもしれないな。……ありがとう」
「好きにふるまう私の行いに礼などいりません。ただ、今後は時々顔を見せてください。私もあなたの前に現れる事がありますし。……それと、秘められた祝福をあなたに」
こうして、長く封印されていた月と陰謀の女神イシュクラダは自由の身となり、名を消された男と永く関わっていくことになった。
しかし、イシュクラダから憎からず思われることは無限世界の厄介で美しい女性存在たちと出会い、慕われがちになる隠された祝福が働く事を意味し、それを男が知ったのはずいぶん後になってからだった。
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