氷の碧、炎の黒
※『雪の白、血の紅』のエピソードの続きとなります。
無限世界の外周を囲む冷たい終焉の領域、氷獄。
再び長い年月が流れていた。かつてサリヤと呼ばれ、その後氷の女王と呼ばれていた女は、星の全くない空と、そこに浮かぶ冷たい氷の月を眺めてため息をつく。吐息は小さな雪の結晶となって足元にキラキラと落ち、彼女にしか聞こえないような、ごく小さな美しい音をたて、雪原の一部となった。
金とも銀ともつかない美しい髪が今は透けるように碧白く、この領域に咲く色の無い氷の花、くしくも自分の名前と似たサーリャの花を髪飾りとしている。神々の血が深紅の花のような柄と化した花嫁衣装も今はやめ、紺と白の紐無しのビスチェと長いスカート、白い長手袋といった戦装束に変わり、腰にはこの領域の鍵となる氷の剣、レクスレールが差されていた。
今や終焉と呼ばれる名前の無い存在になった彼女は、無限世界の外周を取り巻く氷獄の管理者ともなっていた。既に時の概念からも解放されていたが、彼女の中にわずかに流れる赤い血がしばしば時間の流れを認識させてしまい、その年月だけの孤独が心地よいはずの冷気を時に鋭い破片のように感じさせ、わずかに残った人としての心をじわじわと傷つけ、少しずつ削っていく感覚があり、その痛みを無いものとするかのように、彼女は自らの莫大な冷気を固めて浮かべた月を眺め、そしてため息をこぼした。
「全く、これほどの絶景に素晴らしき美女。しかし哀しいかな、無限世界の『格』はいささか君を娶ったり愛するには不適だったのかもしれないねぇ」
やや耳障りでおどけた声がし、終焉は振り向く。そこには色とりどりの生地がのぞく切れ込みのある衣装に、二股に分かれた帽子をかぶった道化師そのものといった見た目のずんぐりした男が立っており、大きな顔に比例した大きな口をあけて笑っている。
──『界央の地』の諧謔(※笑いの概念)にして道化、パロガ。
「パロガ様、なぜここに?」
「僕に様づけは不要だよ? 氷の女王様……いや今は終焉だったかな? 僕に力がどれほどあろうが、僕は聖魔王の道化でもあるからね。道化とは犬みたいなものだし、彼は諧謔を好まないからねぇ。僕から見たら彼ほど笑えるふざけた存在はいないのだが」
道化パロガは太った大きな体を揺らして笑った。終焉も思わず口元を隠して笑う。
「そうそう、何と気高く可愛らしい笑顔だろう。しかし哀しいかな、彼は自分が冗談みたいな存在だというのに、冷たく気高く賢い君が気に入らず、他の馬鹿な……しかし自分を賢いと思ってる悪い冗談みたいな女たちしか傍に置かなかった。『キャー聖魔王様大好き! もう好きにして!』と言ってくれる女しか好まなかったわけだな!」
パロガの眼には桃色をしたハート形が浮かび上がり、周囲にも同じような幻像が浮かぶ。冗談のようにキスをするような形をした唇が伸びた。
「ふふふ……いくら道化でも言い過ぎではありませんか? それとも、遠回しに私を笑いに訪れたのですか?」
「いいかね終焉君、私は諧謔にして道化。諧謔も道化も高い美意識がなければ成り立たず、ゆえに僕は真に美しい物には敬意を持ち、決して笑う事はないのだよ」
道化パロガは少しせわしない仕草で腕を組んで真顔になると、妙におかしみの漂う真面目な言い方をした。
「お上手ですこと。……では、いかなるご用件で? 外ではずいぶんと星辰の位置が変わるほどの時が流れたはずですが、何か起きましたか?」
「とても面白いことになっているよ。『慈悲』と『無知』が既に行方知れず。そして、『試練』は殺され、その力を奪われた。全く世界は諧謔に満ちているのに、我らが聖魔王と来たら!」
「何ですって⁉ ……何が起きたのです?」
「現れてしまったんだよ。おそらくダークスレイヤーと呼ばれる者が。存在しないとされていた『永劫回帰獄』は存在し、彼はそれの門を剣の形に焼き固めて反旗を翻している。聖魔王も隠れし神々も僕たちに何か隠し事をしていたという事だね。実に哀しい事じゃあないか!」
「氷獄よりも外側の世界が存在したという事ですね? この氷獄は世界の外周であり、果てとされていましたが、そうではなかったと……?」
「そうなるねぇ。そしてここからが重要だ。……はい、終焉君、この氷獄で最も厳重に管理され、封印されているものは何かな?」
パロガは師匠が弟子を指名した時のようにおどけて問う。
「滅んだ暗黒世界の人々が建造したとされる巨神の主武器『炎と氷の剣』でしょうか?」
「実に良い答えだ。満点をあげよう!」
「ありがとうございます。でも、それが何か? 巨神そのものは存在していないのでしょう?」
「実は永劫回帰獄に封印されており、ダークスレイヤーがその封印を解いた、と言ったら?」
終焉はこの言葉に衝撃を受けた。界央の地で聞いた話に欺瞞が含まれていた事を意味し、それはあってはならない事だった。至高の存在たちが何か大きな不都合を隠していた事になる。
「そんなまさか……では、来るのですか? ここに」
「僕の読みではね」
「しかし私を討ち破る事はできないでしょう。むしろ私が討ち滅ぼします。聖魔王さえ嫌う終焉の冷気をもって」
この答えにパロガは満足げな笑みを浮かべた。獣の顔にも似た凄みが漂うその表情には、何か不吉な予感が漂っていた。
「何か?」
「そう、全力を尽くした方がいい。界央の地で囁かれている噂が本当なら、彼は復讐のために神々を殺しまくり、殺した神々の血肉を食らって力を付け続けているとされている。まして、実在しないとされた永劫回帰獄の力を手にしているんだ。ああでも、とても美しい君は殺されないかもしれないな!」
確実に起きるであろう殺し合いで殺されないという答えは、信じがたい可能性を示唆していた。
「ダークスレイヤーにとって、私が女であるという可能性が? つまり、彼は私を……」
「もしも本当に永劫回帰獄が存在し、彼がその力を持つなら、多くの世界では『色の無い女』とさえ呼ばれる君の姿が見え、その手を掴む事も出来るだろうねぇ。あくまでこれは推測だが、僕より遥かに嘘と冗談に塗れていた界央の地を信じずに答えを導くなら、彼は君の美しくて冷たい下腹に新たな命を宿させる事さえ可能なはずでね。彼にも少しだけ赤い血が流れているという噂だし」
終焉はこの話に、恐怖や不安の他に、かすかだが妙な期待感のようなものが浮かび上がってきた自分に驚いていた。自分と戦えるほどに強く、そして、自分を女と見られる存在。そのようなものはかつて存在していなかった。聖魔王以外には。
「もし敗れて穢される事があれば、その時は自害いたします。私の心はもう、この領域を護り続けるにふさわしいものとは言えなくなってきていたようですし」
「それはみんな困ると思うよ? みんな立派な事を言ってるけど、ここ、氷獄の守護者なんてやりたくない者ばかりだからねぇ。あっ、本当の事言うと殺されちゃうかな」
完全なはずの世界は、かつてサリヤと呼ばれ、今は終焉と呼ばれる彼女に一度も完全をもたらさないままに、不吉な滅びの兆候が見え始めていた。しかし、長い時と高い知性は、彼女を悩ませはしなかった。
「パロガ様、何か大きな欺瞞が満ちているのですか? この無限世界は」
「君が感じている違和感に答えがあるんじゃないかな? 君は苛烈だが、それでも気高い淑女だ。だから静かに孤独に沈んでいる。でも、ダークスレイヤー、彼のように激しい怒りを抱え、獣のように吠えて戦い続ける者も現れた。はて? これはおかしいぞ? 聖魔王や隠れし神々は、この世界を完全で美しいと言っていたような気がするけどねぇ。果たして完全で美しいとは?」
「パロガ様、流石にその言動は道化の範疇を超えてしまうのではありませんか?」
「僕は責務に対する意識はとても高いんだよ。知らなかったのかね?」
今度は必要以上に真面目な顔をするパロガに、終焉はまた口元を隠して笑った。
「そうそう、美意識の話をすると、聖魔王が君の唇をなじり、遠ざけていたのは本当かな? 雲雀のように口さがない噂がうるさくてねぇ」
長く重い沈黙が続いたが、終焉は口を開いた。
「……事実ですよ。あの方は一向に共に寝ない私を好みませんでした。ただ、それはきっと私の至らない部分なのでしょう。賢く美しいが心冷たく、色の無い薄い唇が合わないと遠ざけられましたから。思えば私の生は最初から穢れていました。もしかすると最期はその恐ろしいダークスレイヤーに敗れ、手籠めにされて殺されるのかもしれませんね。敗れたとして自害もかなわずそれで世を去るなら、それもまた運命と受け入れましょう。行き場のない生を長く生き過ぎたのかもしれません」
「大声で笑ってもいいかな?」
「もしかしたら斬りつけるかもしれませんが、それでも良いのなら」
「ではやめておくよ」
「ふふふ。その方が良いでしょうね。パロガ様、実際のところは私に何を伝えに?」
「一つ面白い話をしたくてね。ダークスレイヤー、彼は絶対に女を殺さないと思うよ。そして、君が心配しているようなひどいこともしない。いや、少しの期待かな? まあ長い孤独をぶつけ、問うように戦ってみるといい。いやぁ、楽しみだなぁ! ヒィーヒヒヒヒ!」
道化パロガは少し気味の悪い高笑いをしつつ消え、再び静寂が残った。
「どういう事なの?」
終焉はむしろ、ダークスレイヤーという存在が氷獄に現れるのが少し楽しみな自分に気づき、困惑していた。
「ダークスレイヤー……」
星の無い空につぶやく。しかし、それは今までと何かが違っていた。まるで遠い昔から知っていた言葉のような気がしていた。
それからほどなくして氷獄にダークスレイヤーが現れた。かつて氷の女王であり、今は終焉と呼ばれる女は力と技量の限りに戦った。終焉の冷気は最初こそかなり優勢だったが、凍らせても凍らせても男は黒炎で氷を砕き、溶かし、再び剣を揮った。気の遠くなるような年月を戦ったと思われたが、ある時、二人は戦うのを突如としてやめた。
無限世界最悪の存在と言われていた黒衣の男は、終焉を一切傷つけず、殺せる隙ではそうせず、彼女がたまに力尽きれば武器を収めた。戦いはいつしか、終焉がサリヤだった頃の情念の一切を乗せた吐露の剣を男が受け続ける会話となり、やがて理解となり、次第にそれは男女の舞踏となり、それを超える前に、互いがほぼ同時に戦いをやめた。
「なぜ、剣を退いたの?」
「……今さら説明が必要か?」
男の笑みは、静かな優しさに満ちていた。
「これ以上は危険よね。わかるわ。もう私も、あなたを傷つけたり、殺したくないもの。かと言ってこれ以上戦ったら……ふふふ」
道化パロガはこれを知っていたのだ、と終焉は気づいた。こんなに厄介な女はおらず、そんな女に付き合うこの男も相当なものだ。なんという可笑しさだろうと、終焉はしばらく、美しい笑い声をあげた。生きてきてこんなに長く笑ったのは初めての事だった。
そして、もう思い残す事はほとんどない、とも思えていた。
「さあ、私の話は終わったわ。もう十分に戦い、互いの力はほぼ拮抗し、私の手札ももうない。そして互いの事も理解してしまった。……かと言って、この氷獄の守護者の務めを放棄する気もないし、私は遠ざけられたとはいえ今でもまだ聖魔王の妻の一人でもあるの。どうぞ、好きなように殺せばいいわ。あなたにとって私は敵のはず」
終焉は氷獄の鍵の剣、レクスレールを放り投げた。美しい氷の碧を帯びた剣は色の無い氷の花の咲く野原に突き立つ。
「私の墓標はそれでいいわ」
黒衣の男、ダークスレイヤーは静かに歩み寄ると、手に黒炎を纏わせてその剣を抜き、終焉に返す。
「安易にそんな事を言うものではない。多くの世界を見、戦ってきたが、君は稀有で美しく、とても孤独な過去を持っている。せめて幸せになってから死ぬんだな。長い間面倒をかけた。おれはそろそろ立ち去るよ」
信じがたい言葉が出てきて、終焉は耳を疑った。
「巨神の主武器、『炎と氷の剣』はどうするの?」
「君が心配する事か? 現時点で、巨神は『八罰』と呼ばれる八つの強力な武具がある。やがて訪れるとされる戦いは、それでも乗り切れるとおれは見ている。そもそも、巨神が無かろうがおれは戦う。……じゃあな」
男は三眼有角の黒馬を呼び出すと、その背にまたがった。
「隠れし神々に関わる全てが滅ぶべきものではないと知ってはいたが、君もそのような存在のようだ。それを知れてよかった。……いい月だな、では」
ダークスレイヤーは満足げに氷獄に浮かぶ冷たい月を眺めてそう言うと、再び視線を終焉に向けて微笑んだ。その眼にはどこまでも深く遠い悲しみと、もはや殺戮者にまで至った者の獰猛な煌めき、そしてなお優しさが漂っており、終焉は息をのんだ。
黒馬と男が黒い炎に包まれ、いずこかへと立ち去る気配を見せた時、終焉の胸が信じられないほどに締め付けられる思いに満ちて、それが言葉になっていた。
「待って! 私にはそんな資格はないのよ。やむを得なかったとはいえ、私は義理の弟を、夫にすべしと言われた相手の首を刎ねているの。血に塗れた花嫁衣装を長く着ていたような女よ? あなたがいかなる存在であろうと、こんなに優しくされる理由などどこにもないのよ!」
感じた事のない胸の苦しみが、最も痛かった思いを吐き出させていた。
「それに、隠れし神々と共にある聖魔王の妻に選ばれたのに、心冷たく、この薄い唇が気に入らないと遠ざけられてここにいるのよ? あなたの優しさは私には惨めなだけだわ!」
長く、どこか重い沈黙が流れた。奇妙な事だが、終焉は男が立ち去らない事にすがるような安堵を感じている自分に驚いていた。黒い炎は収まり、男は見事な黒馬から降りる。
「それは、かつてのおれと同じだよ。いや、おれの方がひどいことをしているな。それに、君の薄めな唇は美しいさ。ちょうどここに咲く色の無い花のようにな。……しかし少し腹が立つ。所詮、無限世界をこのようにしておく聖魔王などそんなものか。奴とは趣味が合いそうにないな」
ダークスレイヤーの言葉は何ら飾り気がなく、遠い悲しみと憤りだけが感じられた。しかし、全く自然な肯定が終焉の胸の何かを融かし、砕き、小さな火が揺らめいた。
「……あなたの名前を教えて?」
「おれに名前は無いんだ。奴らに消された。そして、神々の呪いにより皆おれの事は覚えておけない。君ほど高位の存在なら別かもしれないが」
「そんな……」
「それより、君の名前は?」
「私も名前を捨てた存在よ。氷の女王とも、終焉とも。ただ、遠い昔の名前は、この色の無い花と似たものだったわ。だから髪に飾っているのよ」
「その花の名前は何と?」
「氷獄の色の無い花、サーリャよ」
「いい名前だな……それなら、サーリャと呼んでも?」
「私をサーリャと? ……素敵な事を思いつくのね。嬉しいわ……」
二人は無言で互いの眼を見た。サーリャの眼はもう冷たい目ではなくなっていたが、男の眼は何も変わっていない。
「私はこの氷獄の管理者であり、厳密にはもう単独の存在。あなたが正しい存在なら、つまり無限世界にとってあなたの行いが正しいものであるなら、私にあなたを止める理由はないわ。心を開いて、あなたの眼を見せて。それで判断するわ」
「おれの心? あまり見ない方がいいと思うが……」
男の眼が少しだけ陰るが、それが自分への気遣いだとサーリャは気づいて微笑む。
「これが私の務めよ? 気にしないで」
ダークスレイヤーは静かにサーリャの眼を見た。やがて、サーリャは息をのみ、その眼から大粒の涙がこぼれた。こみ上げる吐き気もたまらず、口元を押さえて膝をつき嗚咽する。
「……すまない。見せたくはなかったのだが」
「なんという……事なの! ……あのような所業が!」
男の過去は残酷にして無間地獄のような苦しみと悲しみに満ちていた。全てを破壊し、憎む権利があった。サーリャの心も壊れそうだったが、長い間の戦いで男から伝わっていた優しさと、心の底から湧き上がる何か強い思いがその心を繋ぎ止めていた。
「あなたは無限世界の隠された不都合そのものだったのね。そして世界はもう、それを隠し通せない。いずれ全て、永劫回帰獄の黒い炎に焼かれる。でも、優しいあなたはそれもまた本意ではない、だからそんな戦いを……」
「言葉にしないでくれ。そんな上等なもんじゃない。胸の内にしまっていてくれ」
「ごめんなさい。そうね、あなたはそういう人だわ」
広大な無限世界の理から外れているとされた、しかし絶大な力を持つ二人は、こうして心を通わせるようになった。しかし、それが希望となるのか、絶望となるのかは、もはや誰にも予測が出来なかった。
初稿2021.05.31
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