白い女と嵐の古竜
猛烈な嵐が黒灰色の奔流と化した空の中、地上から見ればその視界の限りの空を埋め尽くすほどの巨竜にして古き竜、嵐の古竜ダカルダースは、この空全てをも感知する力で、背後から迫りくる炎の勢子と狩人から逃げていた。
──しつこい。神の悪徒どもめ……!
炎の翼と赤熱する武器を持つ神の悪徒アルサオン、その中でも『最悪の龍狩り』と呼ばれるマスティマ・ゲオルギエルとその配下の勢子たちは、永遠に等しい時を生きてきたこの古き竜を既に満身創痍にしていた。
──見よ、古竜が蛾のように逃げているぞ!
数条の赤い火線が嵐の中を伸びきたりて、岩のように黒光りするこの古竜の翼幕を焼き貫いた。嵐の風がその裂け目をより大きくし、岩の粉のように砕けた鱗が吹き飛ぶと、ダカルダースは大きくぐらついた。
──ここまでか……。
ダカルダース……竜の言葉で『破壊する大嵐』を意味する名を持つこの古き竜は、おのれの終焉を覚悟しつつあった。
対して、嬉し気なアルサオンたちの声が聞こえてくる。
──投げ網の用意をせよ! 時と世界のはざまの大嵐で見失うなよ? こやつの鱗は良い武器と防具になるゆえな!
──わしがアルサオンどもに狩られて武具の素材とはな……。
嘆息する古き竜。
──追い撃て!
攻撃の気配を感じ取っていたダカルダースは、火線を予測して大きく右にそれようとしたが、傷ついた翼が思うようにそれをさせなかった。小さな山並みに等しい翼骨が高熱で溶け、砕かれ、強風に煽られたまま、巨竜は暗い空を下降していく。
──追いつけ、網急げ!
マスティマの勢子たちの声が遠ざかってゆく。
──ここまでか。せめて奴らの武具の素材にならず、世界と時のはざまを永遠に彷徨う事になろうとも、このまま……。
嵐の風に任せて流され、落ちていくダカルダースの心は、日が沈むようにゆっくりと暗転しつつあった。
──これが、我が死か……。
そんなダカルダースの心の中の独白に、何かが答えた。
──違うわ。古き竜、『巨神の裂け目』に誘導してあげる。そのまま導かれて来なさい。
ダカルダースはおのれの心を疑った。自分も知らなかった死への恐怖が存在し、それが幻聴を聞かせたのかと訝しんだが、声が続く。
──私の呼び声が聞こえているでしょう? 長く生きた古竜がらしくない事を考えるのね。神の悪徒アルサオンたちがあなたを見失う声が聞こえているでしょう? 彼らには『巨神の裂け目』は見えないわ。
──何と⁉
確かにアルサオンたちの声、心に直接届く声がだいぶ遠くなっていた。
──どういう事だ? 見失ったぞ!
──おかしい。何が起きた?
──……深追いはするな。何かおかしい。
最後に威厳あるマスティマ・ゲオルギエルの声が聞こえ、それからは静寂の気配が戻りつつあった。嵐の風は傷んだ翼を軋ませるものではなくなり、ダカルダースは何らかの優し気な流れに導かれている自分に気付く。
──誰が? 何が?
──そう、そのまま、もう少し。
黒灰色の空が突如として澄んだ青空とまばらな雲のそれに変わった。同時に、ダカルダースはその巨躯を支える力を失い、ゆっくりと落下しかける。しかし、雲のように柔らかく巨大な手がその落下を止め、驚くべきことにもう一本の手がダカルダースの身体を透過して通り過ぎて行った。
一瞬で痛みが消え、力がみなぎる。全身の怪我が全て消えてしまっていた。
──おお、何が⁉
──怪我は治したわ。重いから、あとは自分で飛びなさい。あなたの前に姿を現すから、私についてくるように。
ダカルダースは力みなぎる翼を広げ、空を駆ける古き竜の言葉を吠えた。
「ム・スル!」
翼は分厚い空気をとらえ、ゆっくりと空に滑り出す。その視界に小さな霧のつむじが現れると、白い人馬の姿を取った。薄絹を纏った白い女と、一本の長い角を持つ白馬だった。

「そなたは?」
角のある白馬に乗っていた女の眉が不機嫌そうに歪んだ。
「『そなたは?』ですって? 『あなたは?』でしょう? 恩人に対しての口のきき方は気を付けた方がいいわ。あなたほど長い時を生きても、謙虚さは必要よ?」
古竜はその物言いに苛立ちを感じなかった。女の声は澄んで優しいが、未知の巨大な力に溢れていた。
「すまぬ、あなたは?」
「私は『白き飛沫の姉妹』の三女。『気の強いミルフィル』と呼ばれているわ」
「『白き飛沫の姉妹』と⁉ 実在していたのか」
白き飛沫の姉妹は無限世界でしばしば聞こえてくる伝説の存在だった。隠れし神々の一柱、『慈悲』が、生命の原質の海である『乳海』に落した涙から生まれた存在とされている。無限の生命力を持つ、この世界の法則に反した存在であるとも伝わっていた。
「まあ、そうみたいね。あなたの頭がおかしいのでなければ」
「まさに強気な物言いをするものだ……」
強大な力を持つ自分に対して、全く気後れの無い強気な物言いに、確かにダカルダースは自分の頭を少しだけ疑った。神の悪徒アルサオンに追われて死を覚悟してからの幻想ではないかと。
「真面目なのね。これは現実よ?」
『白き飛沫の姉妹』、『気の強いミルフィル』と名乗った女は、うっすら銀がかった目と髪以外は透けるように白い。頭には草花の冠をつけ、下履きや胸当てが透けるような白い薄絹で、何とも無防備な美しい姿だった。流れる長く編まれた髪が白馬の動きに合わせて奔放に舞っている。
「白き飛沫の姉妹のお方が、なぜわしを助けた?」
「助けない方が良かったの?」
「そうではないが……」
「無限世界全域で、あなたたち竜を追い、狩る動きが加速しているのよ。私はそれが気に入らないのよね。多くの世界の魔法の力を弱めて逆らわせないつもりだわ。まあ細かい事情はともかく、あなたは生き永らえなくてはならないわ。だから助けたのよ」
「何か役割があると? わしはどうすればよいのだ?」
「いい事を聞いてくれたわね。そう、何かしてもらったら何かを返さなくてはならないものよ。手短に言うわ、あそこに世界樹が見えるかしら?」
遥か彼方に、天地を繋ぐような一本の大樹がうっすらと見えている。
「見事な世界樹だ。根は融けた赤熱の岩の層まで、梢は星の海まで届いているか……!」
「でしょう? この世界と世界樹は、私たち姉妹が復元したものなのよ。でも、末妹は力があまりないのに頑張り過ぎて、しばらく眠り続ける事になってしまったわ。世界樹の大枝の一つで深く眠っているけど、たまに目覚めるから、あの子の見張りをして、たまに話し相手をしてほしいの」
「それはお安い御用だが……」
「それに、あなたの傷は治ったとはいえ、私たちの生命力に満ち溢れているから、他の世界にはしばらく渡らない方がいいし、この世界の魔力の元、元素の循環が足りないのも、あなたがいる事で次第に補えるようになるはずだから」
「なるほどな。原初の自然の蘇ったこの世界でしばらく安らうのもいい」
「でしょう? すでに一度滅んだこの世界は、私たちやダークスレイヤーにしかわたって来れないから、とても安全よ? そして、すぐ下の妹にもっとたくさんの竜たちを呼んでもらい、より元素溢れる世界にして行きたいと考えているわ」
「ダークスレイヤーだと⁉」
ダカルダースは驚き、束の間その巨体が少しだけ揺らいだ。自分をなすすべもなく死に追いやりかけたアルサオンたちでさえ、その存在を恐れていると伝え聞いている。
「ええ。まあ、私たちが存在しているように、あの人もまた実在しているわ。そもそも私たちを隠れし神々から守り、隠してしまったのがあの方だし」
「何という事だ。アルサオンどもがわしを殺して武具の素材にせんとしていたのは、もしやダークスレイヤーに対抗するためか?」
「確証はないけど、そうかもしれないわね。天使たちではあの人に対抗できないと伝え聞いているし」
「世界は広いのだな……」
「無限世界だもの。無限に等しいわ。ただ、幾つかの伝説は事実で、大事なかけらよ」
「……」
巨竜と白い女はしばらく無言で暖かな空を飛び、駆けた。やがて、彼方の世界樹は視界を埋めるほどの大きさになり、ミルフィルの白馬は多くの山脈を見下ろすほどの高さにある大枝に向かう。
大枝と言っても、もはや高原の小さな草原に等しい広さと見た目のその場所は、背の低い草花に色とりどりの蝶が舞う暖かな場所だった。ダカルダースは大きく草花を揺らしつつ着地する。
「ほら、あそこよ」
大枝の付け根、岩のような樹皮の裂け目からは太陽の光がこぼれている。そんな温かな壁のような幹の一画に、蔦が小さな祠のように生えており、その中に別の『白い女』がもたれかかって静かな寝息を立てていた。小柄なミルフィルより背が高くすらりとしていて、より女らしい体つきをしているが、気高い清浄さが漂っている。
しかし、一つだけ違和感があり、この白い女は簡素な白いドレスの上に、男物の見事な黒いマントを羽織っていた。
「何という日だ。『白い女』に二人も出会うとは……!」
「訪れるはずだった死を回避した事で、新たな、大きな運命の流れにあなたも取り込まれたという事よ」
「どうにもそうらしい。こちらの白いお方の名は?」
「この子は……名前は無かったのだけれど、セルフィナという名前を貰ったらしいのよ。だから私たちもそう呼んでいるし、あなたもそう呼んであげたらいいわ。私たちと違って、この子は魂さえ再生させる力を持つの。その力でこの世界樹の精霊、イルシルヤの魂を回復させてあげたのだけれど、そのぶん、『黄泉の眠り』と呼ばれる長い眠りを必要とするのよ」
「大変な力だ。あってはならぬほどの……!」
「そうよ。とても危険な力。厄介な事に、この子だけは私たちよりも生命の力がだいぶ弱くて、無数の命溢れる世界に長く存在できる運命を持つの。だから一切の穢れを焼く、永劫回帰獄の黒い炎のマントをダークスレイヤーから貰って、この子に着せているのよ」
「おお、この黒いマントはダークスレイヤーのものか!」
「そう。永劫回帰獄に封じられた無名神の一柱『技巧』が作ったものよ。同じものは無限世界に二枚存在しているわ。ダークスレイヤーのものと、セルフィナが彼から貰ったこれね」
「何と!」
「この子の運命は私たちと違い、とても数奇なものだから、護り手も護る力も色々と必要になってくるの。あなたもその一つね」
「理解した。救われた命だ。喜んで役に立とう」
「ええ。よろしく頼むわ。この子は世間知らずだから、たまに起きた時は色々な話を聞かせてあげて。そして、世界の本質を理解しているから、あなたも『竜の言葉』をより練り上げたらいいわ。次はアルサオンたちに後れを取らないようにもね」
「なるほど。確かに」
「それに、この子もあなたもいずれ『永遠の地』に向かう事になるわ。そこで新たな運命が動くはずよ。無限世界を追われた無数の竜たちも、みんなあの地を目指して世界と時のはざまを超えているわ」
「何が起きようとしているのだ?」
「竜と魔法は密接な関係にあるわ。無限世界の主、『隠れし神々』は、竜たちを駆逐し、魔法の力を全て消し去ろうとしているように見えるのよ。でも、そんな事をさせてはいけないわ」
「確かに!」
「だから私と、すぐ下の妹は竜たちを『永遠の地』や、他の安全な世界に誘導し続けているの」
「そうだったのか。待ってくれ、『永遠の地』だと?」
「そろそろびっくりするのはやめなさいね? 存在しているわ」
「……」
ダカルダースは無言になった。永遠に等しい過去の中で、これほどいろいろな事が起きた日は無かった。しかし、本来なら死していたはずの運命を超えた事で、今までとは違った巨大な運命に編み込まれたとも理解出来ていた。
「この子は、セルフィナは、しばらくダークスレイヤーと共に旅をして、天使や神の悪徒アルサオン、邪悪な神々との戦いを間近で見てきたの。その戦いの記憶は、あなたがより強くなるのにとても有益なはずだわ。より深く、より強く、『竜の言葉』を練り上げるのにもね」
「確かにそうだ。この屈辱は自身が許せぬ」
「次はアルサオンたちを木の葉のように吹き飛ばしてやればいいわ」
「それは痛快だ!」
ダカルダースは大きな体を揺らして笑った。
「では、宜しく頼むわね」
「うむ。心得た!」
こうして、命拾いをした古竜ダカルダースはしばらく『白い女』の末妹セルフィナを守護する役目を果たす事となった。
しかし、実はミルフィルには全てが見えていた。
遥か後の未来、『嵐の王』と呼ばれるようになった彼、ダカルダースは、やがて『永遠の地』にて、古き民の世界樹の樹林の守護者となり、数奇な運命のもと、ダークスレイヤーと戦う事になると。
だが、それはまた別の話である。
──魔法の力と我々竜には、何か見えざる強固な関係があるようだ。魔法のある世界には必ず竜が存在し、その逆もまた然り。しかし、どちらか一方しか存在しない世界は観測されておらず、竜が多い世界ほど魔法の力も強い。この謎は解けていない。
──賢者アルヴェリオーネ著『竜と魔法、魔法と竜』より。
初稿2021.05.18
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