白き竜は神聖乙女を乗せて

白き竜は神聖乙女イス・ファルタを乗せて

 工人アーキタの都市国家とバルドスタの騒乱が落ち着いた日の未明。

 聖王国エルナシーサの薄明の空中庭園の中央に一筋の光が落ち、重厚な聖扉せいひが現れると、神聖乙女イス・ファルタラルセニアと、肩に乗ったイタチのような有翼の幻獣フーリス、そしてラルセニアの衛士、聖国の騎士ユレミアが、その扉から現れた。

「見てユレミア! たまには夜更かしもいいでしょう? ほら、夜の不凋花(ふちょうか)が沢山咲いていますよ!」

 空中庭園の白い大樹の聖石で組まれた階段状の花壇には、ウロンダリア中から集められた珍しい花々が咲いている。これらのほとんどは妖精の宿る不凋花ふちょうかであり、それぞれの花のそばにはその花と似た色をした、淡く光る光球が蛍のように漂っている。契約をすればそれらの光球は可愛らしい妖精の姿を現してくれるだろうが、ここではそれはしない決まりだった。彼女たちの自由な振る舞いと普段は人の耳には聞こえない笑いやささやきが、霊廟にある巨大な石碑に眠る死者たちの心を和らげる大切な役割を担っていたからだ。

「ラル様、この後は湯浴ゆあみでもなさいますか? 最後の眠り人は気さくでしたが、膨大な量の死者たちの怨嗟えんさを背負っていましたね。本当にあの方が、初代の神聖乙女イス・ファルタリーシュ様の仰っていた方なのでしょうか?」

 聖刻(※ウロンダリアにおいて、正しき時の流れの事)の騎士であり聖騎士でもあるユレミアには、眠り人ルインの立ち姿の向こうに、空の彼方の星の渦のように流れる無数の死者の怨嗟の炎が見えていた。眠り人はまるで、その中心の暗黒の中に立つ闇の存在のようだった。それは聖なる力を持つ自分たちには決して相いれないものに見えてもいた。

「……むしろ敵のように見えますか?」

 ラルセニアは微笑みつつユレミアに向き直った。遠回しに表現した事を直接的な言い方で返され、ユレミアは反応に困る。

「いえ、そういうわけでは……」

「私も一瞬、同じことを考えていましたよ」

「ラル様?」

 理解を示すように微笑みかけるラルセニア。一緒に肩のイタチも頷いているように見えた。

「でも、思ったのです。八百年前、『混沌カオス』の神々に対して神聖な武器や祈願、法と秩序の属性を持つ武器は確かに有効ではありましたが限定的な物でした。決定打を与えたのは影人の力や魔族の武器、いわば混沌に近い力でした。混沌には混沌が、闇には闇が、悪には悪が、最も有効なのかもしれません。……だとすれば、人でありながらそのような力を背負うあの方は、いつか訪れる災いに重要な力をお持ちという事になりませんか?」

「なるほど……」

「そして、そのような力を自分で背負う事を選んだのだとしたら、それはとても気高い事のような気もするのです。間違いなく苦行でしょうから。そんな方のそばに、ここの花のような眠り女の方々が妙に集まっているのも、『上の方々』の意図なのかもしれませんね」

 ラルセニアは夜空を見上げた。はるか上空の星の海にはうっすらと巨大な直方体、モノリスが浮かんでいる。

「上の方々の意図は私にもわかりません。しかし偶然は一つもありませんから、何か理由があるのでしょうね」

 ユレミアも頭上の夜空のさらに上を見通すように眺めていた。ごく限られたものだけが知る、人々がウロンダリアと呼ぶこの世界の構造をこの二人は少しだけ知っている。意味深な空気が漂ったが、ラルセニアが笑顔で振り向いた。

「……少し考えたい事があるので、久しぶりに世界を一巡してきますね! 行きましょう! フーリス!」

「キュ!」

 肩の小動物は答えるように鳴き声をあげ、ラルセニアは軽やかに走り始める。有翼の白いイタチ、フーリスは肩から飛び降りると少女の前を走りはじめ、空中庭園の階段を駆け下りていった。

「あっ、ラル様⁉」

 この後起きることを知っているからこそ、ユレミアは甲冑を鳴らしつつも必死で追いかけた。大丈夫だとはわかっていても手放しにできる事ではない。鍛えられているユレミアは甲冑を着ていてもなかなかに足が速かったが、イタチに負けない俊足を披露し、真珠色の髪を横一文字になびかせて走るお転婆な神聖乙女にはとても追いつけそうになかった。

「ラル様、お転婆は程々にしてください!」

「ごめんなさい、行ってきますね! 朝ごはんまでには戻りますから!」

「あっ!」

 空中庭園を抜けた広いテラスの向こうは夜空が広がっている。白いイタチ、フーリスはその向こうに跳びおりて姿を消し、さらに神聖乙女も飛び降りて姿を消した。本来なら遙か下方の湖に落ちて命を失うはずだが、淡く白い光がせりあがってくる。

「そのやり方はいつも心臓に悪いですよ!」

 ユレミアは何回も繰り返してきた言葉をまた放った。フーリスとラルセニアの落ちた庭園の切れ目から白い、有毛のふかふかとした巨大なドラゴンが浮かび上がり、その背中には少しだけばつの悪そうな笑みを浮かべたラルセニアが乗っていた。

「こうしてフーリスの背中に飛び乗ると、ふかふかもふもふで気持ちがいいのです!」

「気持ちはわかりますし、とても羨ましいですけれどね……」

 黒一色の眼をした白い竜フーリスは、とても優し気な眼をしている。

「行きましょうフーリス、まずは南の果てへ! そしていつものように!」

 フーリスは背中の神聖乙女を確認するように振り向くと、滑るように飛び始めた。

「大丈夫だとは思いますけど、お気をつけて!」

「行ってきます!」

 白い竜は白い光の翼となり、やがて光の矢と化して、一瞬で消えてしまった。

 独自の時間と空間を飛ぶフーリスは、ラルセニアの意識と同調し、その見たいものが見られるように飛ぶ。月明かりに照らされた古王国の街並みを眼下に超えてゆき、工人の都市ピステから、線路の上空をなぞるように飛ぶ。過酷な荒野を超えて、国が現われては消える豊かな南方新王国の大地へと至った。

 遥か彼方に飛び交う、夜空を切り裂く火矢と砲弾を見つけそちらへと飛ぶと、夜戦真っただ中の城塞都市の上を二人は飛んだ。悲鳴と怒号、時に勝鬨の声。そして飛び交う魔術の光。哀しくも旺盛な人々の営みを見つつ、ラルセニアは進路を東の海の彼方に取る。

 再び時と空間を超えて見えるのは、海のただなかに建つ、『深紅の門』。太い二本の柱と、渡された二本の横木により作られたこの門は、『上方の方々』によると『鳥居』と呼ばれるものなのだという。その向こうにある大樹の立つ東方の外つ世界フソウには、ごくたまにしかたどり着けないのだ。

「淡水海から、嵐の樹林へ」

 再び進路を変えて、淡水海の上空を飛ぶ。はるか彼方に見えるのは海面から上空までを覆う嵐の壁だ。時折、嵐のダギたちの影が見えてはその吠え声と稲妻が光る。言い伝えが正しければ、あの嵐の壁の向こうには天を衝くほどの世界樹が並ぶ、上代の古き民アールンの故郷『白亜の樹林パルラク・セヌ・リーア』が眠っているだろう。

「あの光の側の古き民アールンの王女は、ここまで来れるでしょうか?」

 白い龍は光の中をくぐり、今度は八百年前の戦いで異界と化した、『混沌海』の上を進む。山ほどもある赤銅色の翼を持つ怪魚が空に飛びだしたり、海域の下しばらくがうごめく巨大な鱗で埋め尽くされていたりと恐ろし気な海だ。しかし、そこから地上方面に向かうと、霧に包まれた有刺の蔓状の大樹がひしめく大森林に出る。雨や霧さえも樹木が作るこの森林は、かつて『混沌カオス』との激戦地だった『嘆きの海』を、眠り人の一人『薔薇ばらの眠り人』魔女ロザリエが修復している地域だった。

「魔の領域へ」

 多くの種族が隠れ住む『サバルタの黒き森』を超えて、うごめく砂の海、カフィンの大砂漠を超える。

「イシリアの動く城が見えるわ!」

 人馬には渡れない、水のような砂のカフィンの大砂海の上を滑るように移動する、八角形の白い石の都市。もし入れれば、紫の瞳に褐色の肌の美しいイシリア人たちの国に行けるというが、果たしてそれは真実だろうか?

 有翼の人々の住むフェルディアの砂漠を超え、『恋人の許される街』エンスリールの落ち着いた街並みを見つつ、超えた者がほぼいない火口連なる大ゲルギア火山帯を通る。                                        

「火山雷と石に気を付けて! フーリス」

 巨大な土の柱のように見える噴煙の中を縫うように飛ぶ。赤い火山雷の光が時々、夕日のように白い竜と人を赤く染めた。そして、異界に繋がる魔の領域の大森林を超えて行く。時折、巨人やドラゴンがその森林をかき分けて移動している様子が見えた。

「キルシェダールの大陸を超えましょう!」

 斜めに上昇すると、無数の空の島の一つ『キルシェダールの聖地』に着く。花の咲き乱れる平地と、巨龍の姿をした滑らかな山脈。古代に地上を揺るがした邪龍は、再び目覚めることがあるのだろうか?

 地上の空に降り、広大な荒野で演習する、魔王シェーングロードの大軍を眺めつつ、白い竜は黒曜石の都オブスグンドに差し掛かる。

「あれが、西のやぐらですね」

 広いバルコニーで、可愛らしい給仕服姿の魔族が背伸びをしていたが、自分たちに気付いたようで、欠伸を途中で止めて驚いた顔をしていた。速度を緩めて手を振り、さらに北へと飛ぶ。古代樹の森から化石の森を超え、天の絶壁と呼ばれる山脈に至る。

「再び、あれが使われる事のないように」

 山脈の中に、人工のものと思われる巨大な台形の山のような構造物がそびえ、その周囲には広く滅んだ廃都がたたずむ。今はもう倒れた優美な石像に、かつての栄華をわずかに偲ばせるのみだ。覇王の『忘れられた都』そして、天から降って来る魔物の大軍を迎え撃った『月の戦壇』と呼ばれる古代の遺跡だった。天の人とも呼ばれる彼らの足跡や、この遺跡の事を知る者は今やほとんどいない。

 白い龍と人は、空に浮かぶ幾つかの島や大陸を超え、氷の女王が支配するとされる、美しい極冷の山脈を見つつ東に飛ぶ。あの山脈の上には氷の巨人の国、ハインランドがあるとされるが、ラルセニアもその真偽を知らなかった。しかし、ほとんどの者が知らないもう一つの真実を知ってもいる。

「きっと気付かれるでしょうね。次はシンラダを超えましょう!」

 冷たい雲の中に入り、氷雪の結界の中をものともせずに進む。雲の壁を抜けた先にある広大な空の大陸は、神獣と獣人たちの隠れ暮らす大地にして国、空の大陸シンラダだった。ここは深紅の門とはまた違った形で、東方の外つ世界フソウと繋がってもいる。勘の良い神獣たちに気付かれる前に再び氷雪の雲を抜けて、今度は古い龍人の住む森の上を通る。

「樹の人や龍人を驚かせないようにしましょう!」

 歩く巨木のような樹の人に手を振りつつ、古き龍人の隠れ里、ルマース・ルンの水晶の街並みを超えて、旋回して古王国に戻った。雲の間を外つ世界から渡って来たであろうダギの大群が移動している。今や日が昇ろうとし始め、聖王国エルナシーサの白い城壁が輝きつつあった。

 「投錨とうびょうの塔が見えているわ! 行きましょう! フーリス!」

 聖王国エルナシーサの真北には、『バーギュの虚無』と呼ばれる大穴が空いている。しかし、この円形の広大な大穴は、何がしかの手順を踏むと、外壁の透けた幻影のような塔が建っているように見えることがあった。この塔には何箇所か大きな開口部があり、そこから内部に入ると、上層世界へと飛ぶことができる。

 ラルセニアはこれを『投錨とうびょうの塔』と呼んでいる。古代からの文献に名前が出るものの、どこにも存在していない塔の名前だったが、この半透明の奇妙な塔こそがまさにそれではないか? とラルセニアは推測していた。

 中規模の都市国家ほどの広さがある、がらんどうの塔の中を垂直に上昇する。灰色の石材はやがて緑銀の物に変わり、ここが上層地獄界では『アガスの魔塔』と呼ばれる魔族の大灯台の中に切り替わったのだとわかる。ここで地上すれすれの開口部から飛び出し、溶岩の湖の上を赤く照らされながら飛んだ。

「澄んだ闇の裂け目から上に行きましょう!」

 上層地獄界の魔の都、無数の尖塔そびえるシェーンガルの都を彼方に見やりながら、ひたすら上を目指す。時に蛇龍のようにうねる巨大な炎のアーチをくぐり、さらに上空へと飛ぶ。やがてうねる炎も全てが下方に変わると、赤い照り返しの消えた冷めたほの青い闇の亀裂がうっすらと空に見え始めた。ラルセニアとフーリスはその闇の亀裂をくぐり広がる景色に歓声を上げる。

「ああ、何度来ても、ここは……!」

 美しさが胸に迫り涙を誘う。藍色に澄んだ空に、尾の長い白い天使鳥てんしちょうが螺旋を描くように飛び、碧色の樹木や草原には人々の魂が光の粒のように遊び漂っている。湖の点在する広大な大地には、浮遊する陸地からの水がしばしば滝のように流れ落ちて虹を作り出していた。大地にも浮遊する陸地にも、さまざまな様式の神殿と、瀟洒な石造の街並みが点在している。

 おそらくここはウロンダリアの天界。しかし、建物や町並みには見えない障壁があって近づけず、遠くから見る人影も、まるで時が止まったように動いてなかった。そして……。

「あの、さらに上空に見えるものは、なんでしょうか?」

 さらにはるか上空、空の彼方に、巨大な船とも建物ともつかないものがうっすらと見えている。しかし、途中に見えない壁があり、これも近づくことは出来なかった。

「最後の眠り人なら、この世界の謎を解くことができるのでしょうか?」

 ラルセニアはつぶやくと、幾つかの湖のうち、ひし形をした湖に向かう。この湖だけは、なぜかはるか下の地上ウロンダリアの景色を映しており、ここの水面に潜れば地上の空に帰れるのだ。 

「ユレミアに心配をかける前に、帰りましょうか」

 ラルセニアはフーリスに声をかけて微笑むと、湖に飛び込んで姿を消した。

──ウロンダリアは全く果てがない。私の生涯と書物はこの世界の一端に触れただけに過ぎないだろう。それでも人として生を終える事に何の後悔もないが、願わくば死の彼方が永遠に冒険の続くものであってほしいと願う。

──冒険者王ルスタンの最期の言葉。

 そのラルセニアとフーリスを、神の極大の視点で見降ろすように眺めている者たちがいた。ウロンダリアのどこかの場所で、立体的にこの世界を視覚化したものを眺めている、黒地に金と銀の刺繍ししゅうの入ったマントと、フードをかぶった者たち。彼らのマントの背には、天と地に切っ先を向けた二本の剣の優美な紋章が刺繍されている。

 薄水色の幻影のような多層の八角柱状の光の中で、白い二つの光点が下方に移動していく様子を、多段の席から眺めていた十名のその者たちは、まるでラルセニアの独り言を聞いていたようにつぶやいた。

「そう、いずれ君も全てを知ることになるだろうよ」

 重々しい壮年の男の声。

「最後の眠り人が……あの人が現れる時はいつも、時の終わりが迫っている時よ。『界影機かいえいき』の投影を縮小して!」

 若い女の艶のある声。ここで八角柱が三分の一ほどに小さくなり、投影されるぎりぎりの場所に光の塊が現れた。それらは無数の光の粒の高密度の集合体だった。

「軍勢は今日も動きませんね。当たり前のことではありますか。神々の時間は巧妙に止めてありますから」

 また異なる冷静な女の声。

「ふん、やつらの理などこの程度。闇の討伐者(ダークスレイヤー)も訪れた今となっては、守り抜くのは難しくない。こちらには『レイジス・スルト』もあるのだからな」 

 先ほどの壮年の男の声。

「でも、肝心なのはそこではないのです」

 小柄なフードの人物が少年のような声で話す。

「そう。誰か一人でもいいから、眠り女があの方の心を動かさなくてはなりません。しかしこれはとても矛盾した事。そして、あまり褒められた方法でさえないのかもしれません」

 同じ人物から今度は少女の声が聞こえた。

「私は可能だと思う。これだけ粒ぞろいの美しき『宿命』を一点に集めたのだ。一人くらいは心を動かせるだろう」

 やや軽めの男の声。

「どうだろうな? 私は疑問を持っている。少なくとも楽観視は出来ない。あの男の力は強大な理性によって揮える類のものだ。大切なものが現れたとて、余計に理性を鍛えるのではないか?」

 威厳のある女の声。

「ふふふ、しかし既に、失われるはずだった工人の娘が生き延び、世界は未知の時の流れに入った。これは、他の眠り女の非運をさらに抑止させる流れに入ったぞ? この調子であれば、これにより発生した因果を眠り人が受け止める事にもなり、二重の意味で引き金となろう」

 また壮年の男の声だ。

「はて、ワシも楽観視できぬ方と見ているぞ。影人の娘、生まれただけでも僥倖ぎょうこうであったが、この娘だけは何度、何万と経過をたどっても運命が消滅してしまう。それが悲しみと拒絶を増やす結果になるとワシは見ているがな」

 さらに高齢そうな老人の声。

「死ではなく消滅なのが気になるが、いずれにせよ全てはこの男にかかっている。神々より賢い我らなれど、所詮最後は祈る事しかできぬものよ」

 フードの頭の部分から黄金の角がのぞく者が女の声でそう言い、再び沈黙が訪れた。

 広大なウロンダリアのどこか、眠り人と眠り女たちの知らないところで、何かが進行していた。そして、世界の時はまた次へと進んでいく。

──ウロンダリアには多くの神々もいる。しかしこの世界の神々は全て、外つ世界より漂着した神々だとされている。この世界がどのようにしてできたのかは、今も議論され続けている。

──冒険者王ルスタン著『果て無き地ウロンダリア』より

first draft:2020.04.20

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