第一幕 人魚姫オルセラは今日も泣く

第一幕 人魚姫オルセラは今日も泣く

 ウロンダリアのとある海の中、人魚姫オルセラの領域『海冥宮かいめいきゅうイース』。

 珊瑚岩と様々な形の巨大な貝殻、いずこかの世界の神殿の残骸などを人魚たちがその感性で組み合わせた壮大な海の中の宮殿都市は、『澄んだ海の歌』を唄う人魚たちの力によって海上の光が透過し、まるで光の柱を立ち上らせる深蒼しんそうの神殿のようにたたずんでいる。

 その中の一室、彼方まで山と積まれた数々の財宝と、貝殻から削り出されたどこまでも並ぶ本棚の続く広間の中心で、何かを無心に書き込んでいた老人が顔を上げた。

「また歌が聞こえる。最近、オルセラ殿はよく泣き、歌われるな」

 禿頭とくとうに鋭い目に鷲鼻わしばな、眼鏡には鑑定用の小さな単眼鏡モノクルを付けた、この老人の名は鑑定士かんていしマスティガ・リース。ウロンダリアのほとんどの宝物に精通し、膨大な鑑定書を書き残し、最後は淡水海で消息を絶ったとされている伝説の人物だった。

 独り言に近い老人の言葉は、実は半ば誰かに向けて放たれたもののようで、立ち並ぶ青い本棚の並びから、深い藍色の髪の人魚が優雅に空中を泳いで机に寄る。

「マスティガさん、少し状況が変わったようですよ? あまり根を詰めても仕方ありませんし、姫様の歌でも聞きに行きませんか?」

 童顔の人魚は淡く光る白い羽衣を纏っており、腰から下は翡翠ひすいのように深い緑の鱗に覆われている。その上半身は紺の透けるような祭服であり、各所にひれのような優雅な飾りのあるもので、空中を泳ぐ姿は揺らめいて美しかった。

──マスティガの助手を務める好奇心旺盛な人魚、フィニル。

「さすがに一息入れるか。おぬしも飽きたろう?」

 しかし藍色の髪の人魚は笑うと、身に着けていた小さな貝殻を鳴らした。繊細な銀のかごをぶら下げたクラゲが漂うように部屋に現れる。

 クラゲのぶら下げていた篭には角貝つのがいの貝殻のコップと平たい貝殻の皿が置いてあり、人魚は老人に皿と角貝のコップを差し出した。皿の上には宝石のように輝く様々な色の丸い粒が盛られている。

「また今日も変わった趣向の茶だな」

「色とりどりのそれは甘い海藻の粒です。今日の飲み物は『シャナリスの甘き海』の蜜珊瑚みつさんごから作ったものだそうですよ」

「この作業に甘いものは欠かせん。ありがたい事だ」

 マスティガはずいぶん昔に『淡水海』で遭難したのち、人魚たちに見いだされ、それから長い間ずっと、この海冥宮イースの宝物を鑑定しては価値と由来を記録するという日々を送っていた。心躍る作業は鑑定者冥利に尽き、その情熱は絶えることなく続いていたが、それにも勝ってこのイースの宝物は多く、鑑定の日々に終わりは見えていなかった。

 その日々の中にあって最近、このイースの主、人魚姫オルセラの歌が頻繁に聞こえる事に気づいた。以前はたまにしかなかったことが最近はそうではなく、マスティガは気になっていた。

「オルセラ殿はいつもあまり気の持ちようが変わらない方だと思うが、最近は歌が良く聞こえる。何かあったのか?」

「姫様はそれを歌にして、時に感極まって泣いておられます。実は私たちには歌の意味が分かりますが、マスティガさんは定命の人ですから、人魚の歌の意味は分からないですものね。私たちの歌は海の様子……例えばその日の波や光の具合によって変わり、心で聞くものなのです。私たちはいわば海の一部なので、海を通して理解する感じ、と言えばよいでしょうか」

「なるほど……そういうものか。して、オルセラ殿は何をあそこまで?」

 この問いに、フィニルは少し困った顔をした。

「この気持ちをどう説明すればいいのでしょう? 姫様はある方を慕っていて、その方や世界の悲しみについて歌っておられます。その海そのもののような思いを、どう説明したらいいのかと思うのです」

「オルセラ殿が慕っている方がいると⁉」

 老人は今まで自分が鑑定して来た宝物の鑑定書と、この広間の果てまで山と積まれた未鑑定の財宝に目をやった。様々な神がオルセラを妻にせんと贈って来た大変な宝物は数多く、それでいてなおオルセラは誰とも婚姻こんいんを結んでこなかったとされている。そんなオルセラに思い人がいたという事実が老人をたいそう驚かせた。

 人魚は補足するように話を続ける。

「姫様の歌の力は大変なものです。今まで海の泡のような数の方々が姫様に求婚しましたが、姫様が思いのたけを込めた歌を受け止められるような方は一人もおらず、姫様は長く悲しみに暮れておりました。しかしある時、そんなお方と出会ったそうで、それからの姫様はどこかとても明るくなったのです」

「なんとな! そんな人物がおるとは。……して、要するにオルセラ殿は恋歌に近い部分もある歌を唄っており、その意味を語るのは気が引ける、という意味かな?」

「はい、なのでとても説明しづらいんですよ。少し無粋になってしまいますし、言葉では正しい意味が伝わらないのです。きっと姫様しか言葉にできないでしょう」

 人にはわからない歌で意思を疎通する人魚たちは、歌に込められた思いを人より遥かに深く豊かに理解する力を持つため、それを言葉では到底伝えきれないと言っている。

 一方で、歌っている本人なら、少しはわかりやすく言葉にできるかもしれないとも言っていた。

「どうにも気になって仕方ない。オルセラ殿に直接聞いても無粋にはならないか?」

「こうして歌にしているくらいですから、聞いても差し支えないと思いますよ」

 老鑑定家は角貝のコップの甘い茶をすすり、しばし考えた。

「聞いてみるか」

「それなら私も同行いたします。興味はとてもありましたが、どうにも聞きづらくて」

 童顔の人魚は少しだけばつが悪そうに笑った。

「おお? わしは体よくおぬしの疑問の解消の渡りに船だったな?」

 老人と人魚は鑑定室を出て、薄明るい光のさす青い螺旋柱らせんばしらの並ぶ回廊を進んでゆく。

「昔、姫様はシャナリスの甘き海の珊瑚酒さんごしゅをとても気に入られて、大変にお酔いになられたことがあるのです。姫様は泣き上戸ですが、お酔いになった時の歌と涙は特に私たちの心を清めてとても心地よく、私たちはついついお酒を沢山勧めてしまいました」

「ふむ……」

「そうしたら姫様、過去に伝説の戦士、ダークスレイヤーと関りがあり、どうもあの方をお慕いしているらしいことが分かったのです」

「なんだと! いや、あれは誰かの作り話ではないのか?」

 イースの書庫にある何冊かの貴重な『不壊ふかいの書』の中に、『ダークスレイヤー』という見事な装丁そうていの書物があり、マスティガはそれを読んだことがある。多くの世界の終末に現れ、その世界を不要と断じた界央の地の絶対者を滅ぼす存在。

 しかし、その力と戦いは荒唐無稽に等しく、マスティガは内容そのものを事実だと思った事は無かった。しばしば記述の中にはウロンダリアで伝説の存在である『船の民』が登場し、何かを遠回しに示唆する物語だろうと解釈していた。

「作り話ではございませんよ? 『不壊の書』は姫様と仲の良い記録と書物の神、アーカシア様の権能で作られていますが、『ダークスレイヤー』の著者は大賢者フェルネーリ様です。フェルネーリ様は長くダークスレイヤーと旅をしていた方だと聞いています」

「あれが全て事実だと……」

「姫様のお話では、恐ろしい戦いぶりに対して存外に甘い所のある優しい方だとか。私たちも機会があったらお会いしてみたいと思っています」

 泡の揺らぎのような柔らかな笑いで人魚の言葉は締めくくられた。長く緩やかな上りとなっているこの回廊は、水中とも空気中ともつかないゆらゆらとした光に満ちている。

 人魚たちの話では、この『海冥宮かいめいきゅうイース』は空中と海中を併せ持つ領域であり、だからこそ人魚たちは泳ぐように空中を移動できるのだと言われており、マスティガは改めて今の自分の現実感の無さにため息をついた。

「尽きぬ不思議ばかりだ。全く、命の短さを嘆いておったこともあったが、果たしてわしは見たいものを全て見ることができるのかどうか……」

「このイースにとどまる限り、風のような時の流れは海中のように意味を持たないものです。ごゆるりと」

 マスティガにとってどこか孫娘に似たフィニルが微笑み、二人は無言で回廊を進んでいく。

(わが孫娘は天寿を全うし、幸せに生きたか? そうなっている事を願う)

 忘れた頃に定期的に湧きあがる思いがよぎり、そして消えた頃、二人はイースの『海読うみよみの場』と呼ばれる広い海中広場に出た。色とりどりの珊瑚が花のように輝いている。

ここでは空気と海の境界はあいまいで、人間であるマスティガはいつも自分の呼吸について不安になる場所であり、今もそうだった。

「ここは海の中なのか、それとも空気の中なのか、慣れぬなぁ」

「それは正常な反応ですよ」

 青い海の中、遥か上からさす光の柱に巨大な影が通り過ぎる。風よりはしっかりとし、水よりははかなげな美しい歌がマスティガの胸と頭蓋の中を通り過ぎていき、その澄んだ優しい哀しみが涙を誘う。

「姫様、歌をお傍で聞きたく参りました」

 再び光の中を巨大な人魚の影が通り過ぎて身をひるがえし、広場に差し込む光の中、その影は大きな美しい人魚となって現れ、青い泡のような光に包まれたのち、縮んで人の姿を取った。

 南国の白砂のような肌に、伸びやかに長い足。その髪と眼、切れ込みのあるドレスは全てが海のように変容する寒色でありながら、決して同一ではなく、涙に潤む目でも微笑みをたたえたその顔は、可愛らしくも深い包容力と優しさが漂っている。

 何度対面しても、マスティガにはいまだこの美しき大海のような女性を言葉にして上手く表現できなかった。

──『涙の歌姫』人魚姫オルセラ。

「マスティガさんにフィニル、私の歌が作業を邪魔してしまいましたか? 涙誘う私の歌、なるべく遠くに焦点を合わせて歌っていましたが、こう近くては気が散らないわけがありませんものね」

 オルセラはゆったりした口調でそう言い、柔らかに微笑む。

「いえ、歌を聴きたいだけですから、姫様は気にしないでください。あと、マスティガさんが姫様のお歌の内容にご興味がおありとかで」

「無粋かとも思ったが、歌の理由を聞いてしまうと気になって仕方なくてな」

「私が敬愛してやまない黒い方、ダークスレイヤーのお話ですね?」

 オルセラは嬉しそうに微笑んで歩き出そうとしたが、フィニルが気遣う。

「姫様、慎重にですよ? あっ!」

「いたっ!」

 オルセラは一歩目から派手に転んだ。

 人魚たちの神でもあるオルセラは、ある時から人魚本来の魚の下半身のほかに、人の足も持ち、自在に切り替える事が出来るようになったとされていた。しかし『足』という概念そのものが無いらしい彼女はどうしても上手に歩けず、こうして転ぶことが多かった。

「また転びました。世界は哀しみに満ちています……」

 言いながら立ち上がるオルセラ。

「そうですけど、今のは違いますよね?」

 冷静に返すフィニル。しかし、オルセラは聞こえなかったように繰り返した。

「世界は哀しみに満ちているものなのです」

 オルセラはゆっくりと歩きながら、その変容する寒色かんしょくの眼をマスティガに向けた。

「そうでした、ダークスレイヤーのお話ですが、あの方は今、ウロンダリアにいるのです。かつて激しい戦いの末にその魂が壊れかけたあの方は、私たちの祈りと共に長い眠りについていました」

「ウロンダリアに⁉」

「はい。現れなかったはずの最後の『眠り人』として現れ、やがて少しずつその名は響き渡るようになるでしょう」

「オルセラ殿には楽しみな再会となる、という理解でよろしいのか?」

「その哀しみについて歌っていたのです」

 オルセラは目を閉じ、溢れた涙が真珠となって漂い、その声が力を帯び始めた。

「あの人が目覚めたのは喜ばしく哀しい事なのです。いずれ訪れる再会もまた嬉しく、そして哀しい事。でも何より哀しいのは、誰よりも哀しいあの方なのに、壮絶な過去を持つご自身より、世界のほうがよほど哀しいものだとあの方が思っている事でしょう。だから私は歌い、泣くのです。……でもそれは、私にはとても嬉しい事なのです」

「うーむ……」

 マスティガは思わず腕を組んで悩んだ。オルセラの言葉は非常に含蓄がんちくがあり、同時にとても難解で分かりづらい。

「ごめんなさい。分かりづらかったですよね? 淡い波の如く(※易しい・分かりやすい、という意味)に言いますと、もうじき無限世界イスターナルは滅んでしまうのです。だから全てが哀しいのですが、それでもあの方にお会いできる事と、こうして歌で無限世界の海に哀しみを問えることが、私にはとても嬉しいのです」

「何と……?」

 聞き間違いかと絶句するマスティガに対し、オルセラは微笑みつつ補足した。

「時の始まりと終わり、意味があるのはそのどちらか、あるいは両方に立ち会えることです。中間はあまり意味がありません。」

 オルセラの眼は海のようにいでいて、マスティガにはその心は全く理解も想像もできなかった。

「……オルセラ姫、申し訳ないがわしでは理解が追い付かぬよ」

「およそ全ての事柄において、理解は不可能です。ただ、感じて下さればよいと思いますよ。私にとってこの全ては、哀しく、美しく、そして喜ばしい事なのです。……また歌を唄いたいので失礼しますね」

 オルセラは光の柱の中に消え、大きな人魚の影がいずこかへと泳ぎ去った。

「……行ってしまわれた」

  多くの経験と老獪ろうかいささえ持つマスティガでも、人魚の姫が何を言わんとしているのか分からなかった。

「姫様があんなに嬉しそうにするなんて」

「何と⁉ あれが嬉しそうと?」

 フィニルの感想は老人をとても驚かせた。

「わしには全く分からん。人魚の方々は美しいが、その心は実に難しいものだな。オルセラ姫の思い人には彼女の話が理解できたのだろうか?」

 老人の思わずこぼれた本音に対し、フィニルも難しい顔をして答えた。

「姫様のお話では、言葉を選ばずに話す姫様とお話が出来たり、姫様の歌をよく理解しておられたのだそうです。『世界がただひたすらに、哀しい事を知っている人』と言っておられました」

「ひたすらに哀しいと? ふむ。わからん……」

 マスティガと人魚フィニルは再び鑑定の作業に戻るべく珊瑚の咲き乱れる広場を後にしたが、その二人の気持ちは領域を漂いその主たるオルセラに届いてもいた。

 巨大な姿のオルセラはイースを遠ざかって暗い海を海面に向かって泳ぎ、遥か上の海面に現れると、登り始めた朝日に目を細める。遥か彼方で、多くの運命が騒がしく動き始めていた。

「ああ、この感じ。『二つの世界樹の都』がウロンダリアに現れましたね。いずれ、あの方と枯れぬ花たちの乗る空飛ぶ船がここに来るでしょう。その日を楽しみにしていますよ、黒い方」

──果てしなく遠い道を歩く人へ。

──この日が昇る如く、あなたたちの前に祝福を……。

 微笑むオルセラは限りなく続く海原を抱きとめるような慈愛で、世界に美しい歌声を響かせた。

 運命の時は少しずつ近づいていた。

──かつて、ある密約の為にダークスレイヤーに強引に引き渡された蒼い城の女神たち。彼女たちは絶大な力を持ち、美しい女性であるにもかかわらず、無限世界イスターナル全域でもその恋人や伴侶が全く見つからなかった。これは無限世界の大きな謎の一つとされている。

──白きアマルシア著『蒼い城』より。

first draft:2022.02.19

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