第一幕 虚無の海辺の夢

第一幕 虚無の海辺の夢

 虚無のうたのように、さざ波の音が世界を満たしている。

 暗い海に沈みかけている夕日は、もうだいぶ前からその動きを止めている。今はまだ波が動いているが、それももうじき止まるだろう。少し前までアーラスと呼ばれていた、この世界の名を冠する大帝国のとある浜辺に、黒い三眼有角の巨馬に乗る黒衣の男と、大人の女のような体つきをした、黒い祭服さいふく姿の小柄な少女がいた。

「どうしてあの光の球が止まったの? あんなに綺麗だったのに」

 波の音を聞きながら、黒い巨馬の背で海の彼方を眺めていた少女は、自分が背中を預けている黒衣の男を振り返りつつ見上げた。男から海に向き直った少女の眼は、暗いあおに変色する瞳を持ち、その視線を動かすたびにぼんやりした鬼火おにびの残像が残る。

「世界は意志あるものの観測で成り立っている。部外者であるおれたちを除いて、彼らが全て居なくなったこの世界は、やがてその動きを止めて緩慢かんまんに消滅していくのだ」

 黒い簡素な服に、妙に上質な黒紫の裏地の黒いマントのその男は、少し前までの暴虐ぼうぎゃくに尽きる暴れぶりからは想像もつかない穏やかな声で答えた。

「みんな、死んだもんね……」

 少女は何かを憐れむようにつぶやいた。少女は非対称にねじれた二本の灰色の角、狼のような耳と人間の耳、長く墓所に安置されていた死者のように黒い細やかな髪と白い肌を持ち、初めて少女を見た者は、彼女を死者か冥界の住人と思った事だろう。実際に、彼女は生きながら冥界に暮らす忌み人だったのだが。

「久しぶりに随分と殺した。可哀想だと思うか?」

 今やこの世界に、人と呼べる存在はこの二人しかいない。

「ううん、思わない。巻き込まれて魂を吸われた人たちも、みんな何も考えないであの光の人たちを信じてた。それはきっと、本人たちが思っているよりもっとずっと、悪い事だと思うから」

「そうだな……」

「それで黒い人、あなたは誰で、これからどうするの?」

 少女は男の胸に後頭部を軽くぶつけながら、親し気にいた。

「おれに名前はない。遠い昔に名を消され、あの黒い炎渦巻く永劫回帰獄(ネザーメア)に閉じこめられていた。今まで出た者はいないとされるが、永劫の戦いによる気付きを得たのち、君の毎夜の叫びが耳に届いて来てみたらあの状態だったというわけだ」

 男の耳には冥界めいかいから永劫回帰獄ネザーメアまで届いていた、この少女の悲痛な叫び声がまだありありと焼き付いており、手綱を握る手に力が入っていた。少女はその手にそっと触れる。

「だから助けて、ここまでしたの? あの人たちを皆殺しにしてまで」

「乱暴だったか?」

 優し気な少女の眼の鬼火が、一瞬暗くあおい火のように燃えた。

「……ううん、とても嬉しかった。だからそれはいいの。でも、これからどうするの?」

「とりあえず世界を渡る旅をするしかないだろうな。かつてそれをしていたように。滅ぼさねばならぬものが多すぎる。しかし、わずかだが優しき者たちもいる。そのような世界に君は送り届けよう」

「そこなら、きれいな海や空をずっと見ていられる?」

「ああ、そんな世界も必ずあるはずだ」

 しかしここで、少女の狼の耳が悲し気に下がった。

「どうした?」

「一緒に……旅を続けるのは駄目なの?」

 男はこの問いに、心底驚いたような顔をした。

「なぜ? おれの戦い方を見たろう?」

「だって、私はあなたに助け出されて護られた。死にたくても死ねないし、きっとずっとこの姿のまま。だったら一緒がいい。だめ?」

 少女は懇願するように男の眼を見た。それこそ拒否すれば泣き出しかねないような眼だった。地獄の悪鬼も眼をそむけるような戦いをしたはずの男が、今は困惑している。少女は言葉を続けた。

「……知ってると思うけど、私はとても汚れていて、汚いけど……」

「そんな事はない。人はあのような事では汚れないものだ」

 男は静かに否定する。この世界のほぼ全ての人間が、この少女を『み人』として恐れ忌避し、言うのもはばかられる仕打ちと利用をしていた。しかし、それはこの大帝国の始祖だった神々の邪悪な思惑の結果であり、壮大な欺瞞ぎまんに過ぎなかった。そして、その欺瞞を引き継いだ者たちは男に全て惨たらしく殺された。

「……理想郷はそう簡単には見つからないものだ。いずれにせよしばらく旅を続けることになるだろうな。しかし或いは……互いにひどい死に方をするかもしれないぞ?」

「いい。それでも」

「わかった」

「……嬉しい」

 少女は男の手を取ると、嬉しそうに自分の頭にそっと乗せた。男は軽いため息とともに少しだけ、慎重にその頭をなでる。少女にとって、恐怖なくそれが受け入れられるのはこの男だけだった。

──アーラスは偉大なる光の神々を始祖とした皇統である。我々は偉大なる光の力を受け継いでいるが、地上の些事にこの力を使う事はまずない。我々の始祖が征服した闇の神々の力を使役すれば事足りるのだ。

──アーラスの皇帝、ダルセドルク二百十三世の言葉。

 時と場所は変わり、現在のウロンダリアのとある場所。

「……ネーリ、フェルネーリ!」

「あっ! チェト、どうしたの?」

 銀タイルの浴槽に深い藍色あいいろのアルソラナの花を幾つか浮かべ、香り漂う湯の中で転寝うたたねをしていた女は、使い魔の銀ネズミ、チェトの声で目覚めた。

「賢者たちから手紙が来てるよ! ……それにしてもフェルネーリは最近良く眠るなぁ」

 身振り手振りの可愛らしいネズミのチェトの様子に、浴槽で目を覚ました女、大賢者フェルネーリはふと微笑んだ。

「この世界にあの人がいるからかな? 最近本当によく夢を見るわ。そしてとても眠いのよ」

「ボクは嬉しいよ。いつも気を張ってほとんど寝なかったのに、最近良く寝てるから。本当はもっと寝た方がいいんでしょ?」

「そうみたいね。起きている時間は意識がはっきりしているし、あの人の剣が世界のけがれを吸い取り始めているのね。おかげで永遠に等しい眠りにつかなくて済みそう」

「それなら良かった。ボクも一安心だよ!」

「それより、手紙ですって?」

 フェルネーリは身体を拭きつつ頭にチェトを乗せ、暗い紫の湯上ゆあがを引っ掛けると、様々な計測器具が各所に置かれ、見上げるような天井まで本棚になった、さながら大聖堂のような穹窿天井きゅうりょうてんじょう(※ドーム状の天井のこと)の自室に移動した。通路には開いたままのクローゼットがあり、無造作に上質な女物の服がかけられている。特に目立つのは最近脱いだばかりの黒い夜会用ドレスに、レースのマスクのついた黒いとんがり帽子の一式の装束だった。バルドスタ戦教国せんきょうこくの夜会で着ていたものだった。

「またセノット(※第二章で登場したウロンダリアのカードゲームの事)で勝負したいところね」

 フェルネーリはバルドスタの夜会での夢魔の姫との勝負を思い出して微笑む。その後、大きな姿見の前に立ちそっと触れると、鏡は大部屋を映さず、壁に埋め込まれた透明な水晶のひつぎのようなものを映し出した。

「きっと……」

 強い意志をこめてつぶやく。水晶の棺の中に立った姿勢のままで目を閉じているのは、大人の身体をした黒い祭服さいふくの少女で、黒い細かな長い髪と狼のような耳が特徴的だった。ただ、かつてとても白かったでその肌のほとんどは、けがれたような黒いあざに侵食されていた。

「ボクも大丈夫だと思うよ」

 チェトが明るい声で励まし、フェルネーリは微笑んで手を放した。水晶の棺は再び部屋の景色を映す大鏡に戻った。

「黒い人。あれからどれほどの時が流れても、私はあなたに再会できると思っていたよ。そして決して、あなたを失わせはしない。決して……!」

 フェルネーリのその様子は、むしばまれた自分の身など一遍いっぺんも省みていない、誰かへの強い思いが全てだった。

──ウロンダリアには『賢者』と呼ばれる者のほかに、神の英知さえ凌ぐとされる『大賢者』と呼ばれる存在もいるとされている。しかし、誰が大賢者に該当するかは誰も明確に示せていない。しかし、彼らは時代の変わり目には活発に活動していた痕跡がある。

──ウラグス・ロッド著『賢者に関する考察』より。

初稿2020.09.09

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