第一話 依頼の山

第一話 依頼の山

 魔の国キルシェイドの首都、『黒曜石の都』オブスグンド、その大城壁の西のやぐら、眠り人の仮の寝所。

 暑くも寒くもない、快適な春の朝だった。気分良く目覚めたルインは周囲を見回し、天井には既に朝の光が照り返しており、今日も良い一日なのだとわかる。思わず伸びをしようとしたルインはしかし、柔らかな肌の感触が自分に触れている事に気付いた。

 魔の都に多い炎のような複雑な刺繍が白く輝く薄手の毛布のその下には、小柄な女の身体の形が浮かび上がっており、かすかに上下する様子からまだ眠っているようだ。わずかに、嗅ぎ慣れ始めた花のような独特な芳香も漂っており、おそらくそれが魔族の姫の一人ラヴナであろうと見当をつける。

 昨夜は結局どうなったか? 確か大騒ぎだったとルインは記憶をたどる。古き銀の狼の女ミュールと、給仕のチェルシーの衝突、そして覇王の墓所から救い出した古代プロマキス人の少女ルシアと、厄介な腕輪の姉妹の事。

「……ん」

 毛布の下の人型が身じろぎし、毛布からルビーのような赤い髪がこぼれた。この中にいるのはラヴナに違いない。しかしラヴナが毛布に入った記憶はルインには全くなかった。確か黒猫を寝床に入れた事は思い出す。

 ルインは静かに部屋を見回した。大窓のそば寝椅子ねいすに、ミュールとチェルシーが座って寝息を立てている。相当遅い時間か、明け方にでも帰って来たのか、テーブルには何本かの酒瓶が転がっており、呑んで意気投合して酔いつぶれたかのように見えた。話の持って行き方が上手そうなチェルシーの事だから、なんだかんだで最後は意気投合したのかもしれないとルインは考え、そろそろ起きようと姿勢を変えた。

「あれ? あたし何でこの姿に⁉」

 ラヴナの驚きの声がして、毛布からラヴナが顔を出している。

「姿? ……あの黒猫か?」

 ラヴナのヘイゼルの瞳に、ルインは昨夜の黒猫を思い出した。ラヴナの表情がしまったと言わんばかりのものになり、その後困ったように眉根が寄る。

「ごめんなさい! きっと変身を解除したのはチェルシーよ! 素っ裸になっちゃってここから出られなくなるから、言い逃れできなくなっちゃう!」

「もう一度変身するのは?」

「あれは特殊な魔法……と言うより能力で、満月に近い月の輝いている夜にしか使えないものなの。ああ……たぶん盗み聞きとかしちゃったばちが当たったのね。……今更魔族が罰とか言うのもおかしな話だけど」

「ルシアとの話を聞いていたのか」

「秘密の話が出ると思わなかったの。ルイン様、何か力が出つつあるのね。あと、あの子やっぱり大王の娘よね。ただの町娘とはちょっと違うわ。……でも、ごめんなさい! 猫になって部屋に行こうと思ったんだけど、面白そうだから立ち会ったら、色々聞いちゃって」

 意外な事に、ラヴナは本当に申し訳なさそうにしている。

「問題ない。昨夜も力の一部を落ちかけたシェアに使ったしな」

「シェアさんに? 転落しかけたって?」

 ルインは建物の屋上を移動する鍛錬をして落ちかけたシェアを、おもわず顕現させた鎖で助けた話をした。

「聞いたことがないわ。鎖を出す魔術や魔法なんて。召喚に近いもののはずだけれど、そんな便利に鎖を使える事なんてない物ばかりよ。それなら……あれは取れる?」

 ラヴナの指差す先には、着替えや拭き布を入れておく大きな蔦籠つたかごがあり、身体を隠せそうな大きさのガウンが畳まれていた。

「やってみる。……来い!」

 ルインは左手を蔦籠に向けた。手のひらの先の何もない空間から黒光りする鎖が現れ伸び、ガウンに巻き付いたのち、手元に戻ってくる。

「すごい! 本当に?」

「まあこんな感じで。ルシアが言っていた秘密とはこれの事だ。彼女の魂を捉えていた敵を完全に動けなくするのに使ったんだ」

「こういうの聞いたことないなぁ。詠唱えいしょう無しだから魔術ではないし、魔法にしては魔力の波を感じないし、とても不思議な力。これがルイン様の眠り人の力なのかなぁ? ……あ、ちょっと服着るね?」

 ルインは反対側を見て目をつぶった。それでも伝わる素早い動きで服を着ているのが分かる。

「ルイン様ありがと! 着替えてまた来るわね」

 足取りも軽くラヴナが階段に差し掛かろうとした時、火花が爆ぜるような音が聞こえ、続いてラヴナの悶絶もんぜつが響いた。

「嘘でしょ? なっ、にゃあああ!」

 変身の名残か猫めいた悲鳴はしかし、ルインには危機感として伝わった。

「どうした?」

 しかしルインよりも早くチェルシーがラヴナに飛びつく。

「この泥棒猫ー! こっそり逃げようとしましたね? 残念! シェアさんから借りた魔族用の強力なお札を貼っといたんです! 水の女神シェアリスの場切りの結解ですね」

「ああもう信じられない! 普通こういう事する? 上位魔族ニルティスが教会と手を組むとか!」

「それは私の台詞です! 猫に化けてご主人様のベッドに忍び込むとかどれだけあざといんですか? 次やったら猫の姿で寝てる時に『魔法の制限』をかけて変身が解けない状態で雄猫の檻にぶち込みますよ?」

「あっごめんなさい! それは本当にやめて! 雄猫に汚されるとか死ぬまで同族から笑われちゃう!」

「私はラヴナちゃんが笑われても全然構いませんよー?」

「そんなぁ! ……だいたい、チェルシーはもうそんな姿に戻れるくらいルイン様と仲いいでしょ? 魔王様もいつも言ってるじゃない『富と恩恵は分け与える物』って。あたしだって死ぬほど寂しかったんだからね? 添い寝くらいいいじゃない! ねっ、ルイン様?」

 屈託なく話を振るラヴナに対してルインは返事に困った。チェルシーがすかさず助け舟を出す。

「ラヴナちゃん、そういうご主人様が困っちゃうような質問は良くないよ? で……ご主人様、一応ですけど、護衛目的で古式ゆかしい『お添い寝番』……要は一緒に寝つつも身辺警護する役割って事でなら、ギリギリですが私やラヴナちゃん他何名かにはそういう権限と言うか役割と言うか、まあそんな事をさせることはできます。でも、それをするなら私とラヴナちゃんを交互に呼ぶとかで公平性が必要になって来ますけどね」

「却下だ」

「なるほどー、まあ実際のところは近くで寝るだけですね。……え、断るの早い! 話を聞いてましたか?」

「却下だよ。そんな事を希望する気はない。それは何か違うだろうと思う」

「つまりチェルシーは不要であたしだけって意味ね?」

 ラヴナは火花を散らしながらも妙に冷静に、得意げに話した。ルインは結界の苦痛について訝しんだが口には出さない。

「ラヴナもだ。そんな事をしてもらう気は無い。今のおれは自分が何者かもわからないのだしな」

 意外な事に、ラヴナは悪い顔一つせずに微笑んだ。

「うん、今はそれでいいと思う。今はね。では着替えて来……にゃあああ⁉」

 ラヴナが言いつつ自然な所作で階段を降りようとした刹那、より激しい火花が散り、再び猫のような悲鳴が上がった。

「これ解除してぇ! チェルシー!」

「何を自然に立ち去ろうとしているんですか? 駄目ですよ?」

「ひどい! だったらあなたを掴んだまま結界に触れてやるわ!」

「えっ⁉ ちょっと待って何言ってるかわかんな……」

 ラヴナは笑顔でチェルシーの両手をがっちりと掴み、じりじりと引っ張り出した。

「あっ、すいませんちょっとやめて? 笑顔が怖いですラヴナちゃん!」

「チェルシー、あたしたちは仲のいい友達でしょう? 苦楽は共にしないと……ねっ!」

 ラヴナは慈愛に満ちた、しかしどこかうつろな笑顔を浮かべ、チェルシーを思いきり引っ張った。

「ちょっ! やめ……ああああ⁉」

「ふふ……ふああああ!」

 二人はシェアが張ったという結界に触れ、青白い激しい火花を出しつつ震えている。

「……何をしているんだ」

 にぎやかな一日になりそうだと思いつつも、自分が触れてよいものか悩むルインに、あわただしく階段を駆け上がって来る気配が伝わる。

「なんて事でしょう? お札を解除します! ……大丈夫ですか⁉」

 聖餐教会せいさんきょうかい教導女きょうどうじょ、シェアが二人に駆け寄り何らかの聖句せいくを素早く唱えると、火花が消えて二人が崩れ落ちた。

「シェアさん、チェルシーの為に『強き聖壁せいへき』使うのはもう無しにして! 二人してしびれまくりなんだけど」

「何と言いますか……その結界でしびれるくらいで済んでいるのが本当に驚きです。やっぱり上位魔族ニルティスの方々は違いますね。下層地獄界かそうじごくかいの魔族ならちょっとした大物でも粉々に吹き飛ぶくらいなのに」

 姿勢を直してエプロンをはたくチェルシーが得意げな顔を上げた。

「ふふん、まあ私たちは魔王様のお妃が務まるくらいの血統ですからね。そりゃこれくらいでは通じませんよ。ちょっと痺れる玩具おもちゃのようなものです。……お札の研究に役立ちそうですか?」

「はい、とても勉強になります」

「研究?」

 ルインの言葉に、シェアが向き直った。

「おはようございますルイン様! 祈願や魔術、武技をいつも研究しているんですよ。私たち『聖餐教会せいさんきょうかい』は敵が多いんです」

「そんな事を言っていたな。色々と複雑な事情がありそうだものな」

 ルインは昨夜のシェアの黒づくめと、建物の屋上を伝う移動術について思い出した。

「……はい。いずれ全てお話します。……気になりますか?」

「いや。何か困っている事があり、おれが役に立ちそうなら話してほしい、そんな所だ」

「……ありがとうございます」

 その様子をラヴナとチェルシーは見逃がしていなかった。

「ご主人様、シェアさんは色々複雑ですけど信用できますからね?」

「そうそう。教会の教導女きょうどうじょなのにあたしたちの魔の国にいるというのは、本来ならとても大変な事よ?」

「ああ、分かっている。……それより、今日は何を進めるか、何かすべき事があるのか。チェルシー、眠り人としておれは何をどれだけ期待されているんだ?」

「えーとそれは、全容を知りたいですか?」

「全容? まあそうなるか」

「ですよねぇ? では体力が必要になるお話なので、お腹いっぱいにしてからにしましょう!」

──ウロンダリアで最も豊かな食文化を持つのは魔の国だろう。上位魔族たちの知識と多くの種族によってその種類は多種多様であり、料理辞典たる『黒曜石のテーブル』は、千年以上前から編纂が続いているとされている。

──火の魔女アドナ著『かまど、鍋、包丁』より。

 食事を終えてしばらく後、チェルシーに案内されて、かつては食料の貯蔵庫の一つだったという広い部屋に立ち入ったルインは驚愕していた。広い貯蔵庫と聞かされていた部屋は、古めかしく頑丈な木の棚が延々と並び、石や木、紙の書類がぎっしりと詰め込まれ、収まりきらずに溢れている。

「……とまあ、これが全部、ウロンダリアの個人、国、団体が古王国や新王国を問わずにここに送って来た挨拶や頼みごとの書状です。人ではない種族からも少なくないです。何人かの眠り女や、魔王府の方々が仕分けをして目録を作っていますが、まあとんでもない量です。当然、無理なものや荒唐無稽な物、いたずらとしか思えないものなどもあり、そういう物は全部よけていますけどね」

「部屋の奥が見えないな……」

「ですよねー。これらは基本的に手紙や要望は受け入れても、返事は無しです。期待しないでもらうのが大前提ですからね。期待は上手くいかなければたまに恨みに変わると思うからです」

「確かに」

「で、ここからが本題ですが、意味があると思われる依頼や要望の手紙や、国家などの挨拶状などは全部まとめてあります。有能でしょ?」

「それは助かるな。それはどこに?」

「ご主人様の寝室には、隠れた本棚で四つ分まとめてあります。手順を踏むと出現させられますよ。つまり、ご主人様は魔王様の依頼をこなしつつ、自分で何かしたい、または稼ぎたいと思ったら、良さげな依頼や要望に応えていけばよいって事なんですよ。ただ……面倒事も多いので気を付けて下さいね? 不仲な国家の面倒事だとかは、どちらか一方に肩入れするのは危険で、均衡を取るのが重要になってきますから。まあ、そんなの無視して好きにやるのが眠り人のいいとこなんですけどね」

「ああ。好きにやるよ」

「それと……」

 チェルシーは保管庫のドアに静かに歩き、何かつぶやくとドアの輪郭がぼんやりと光った。

「何を?」

「『人払ひとばらいの隠密おんみつ』を発動させました。これで誰もドアを開けられませんし、聞き耳をたてても音が漏れることは無いです。今後もたまに内緒話をしなくてはならないので、こんな事もあるかと思います」

 チェルシーはくるりとルインに向き直った。ふざけつつもどこか真面目な雰囲気をルインは感じ取る。

「ご主人様、色んな依頼もありますけど、妙に女の人が集まってると思いません?」

「そこは気になっていた。何かあるのか?」

「『眠り人』は何かを求めてこの世界に来ると言われています。でも、ご主人様は特に何か求めている感じではなさそうだし、心の中は魔王様も言う通り、とてもすっきりしているの。そうすると、『眠り人』に関して昔からささやかれているもう一つの仮説があってですね、何か大きなことを成し遂げた報酬でこの世界に呼ばれ、必要なもてなしを受けつつこの世界も恩恵を受ける、という説があるんです。この広い世界を管理している名もない女神がそうしているって。だとしたら、ご主人様は、何かよほど大きなことを成し遂げてきたとか」

「あまりそういう感覚は思い当たらないけどな。そんなに立派な生き方をした人間ともとても思えない。何となくだが、記憶の彼方は殺伐としている気がする。しかし、人払いの魔術まで使って話したかったことはそれか?」

「いいえ。本題なんですが、……ご主人様、魔王様の側室になる予定だった、私やラヴナちゃんほかの上位魔族ニルティスの姫たちとの事、気が進まなかったら無理に話を進めなくてもいいんですからね? 考え方も種族も違って相容れない人もいます。基本的に由緒もあって強くて厄介な人ばかりなんです。既にほとんどの人はこの件への希望や関心を忘れているので急がなくてもいいんですから」

「心配してくれているのか……。しかし、既にずいぶん世話になっているから、無理のない範囲では対応したいところだ。例えば会う、話すくらいなら。チェルシーやラヴナを見てると、みんな辛かったんだろうと思ってしまってな」

 意外な事に、ルインの言葉を聞いてチェルシーはにっこりと笑った。

「ほんと、ご主人様って人がいいのね。それとももしかして、厄介で異なる種族の女の人が割と好みだったりしますか? まあ、何にしても、私もずっとついていきますし出来る限りお手伝いしますけど、本当に厄介な子ばかりだから気を付けて下さいね?」

「気を付けるよ。それにしてもここまでの事になるとは、魔王殿下の亡くなった奥方はやはりとても素晴らしい女性だったのか?」

 この時、一瞬だがチェルシーの眼からいつもの彼女のいたずらっぽい光が消え、懐かしむような、寂しさのようなものが一瞬現れたのをルインは見逃さなかった。

「気になりますよね? まあ、とても素敵な人でしたし、この『魔の領域』に新しい文化をたくさんもたらした人でもあります。セレニアさんは魔王様に、側室や、本来正室になるはずだった魔族の姫とも婚姻を結ぶべきだと言いましたが、魔王様は頑として聞かなかったんですよね。たぶん、魔王様の好みは人間だったんだと思います。魔王様はとてもまじめな所のある方だし……」

「……今もわだかまりが?」

「うーん、私はもう無いですけど、残ってる子はいるでしょうね。魔王様、すごく強くて格好良かったと言う人は多いですね」

 少し距離のある言い方とルインは感じたが、何も言わなかった。

「何となくは分かる。しかし、この流れで本当に良いのかとも思う。長く付き合っていれば、皆魅力があるから自制がどうこうという関係ではなくなっていきそうだしな。おれがこういう立場にいていいものかどうか……」

 チェルシーはいきなりルインに走り寄ってその手を取り、ルインを見上げた。

「いいに決まってます! 私のこの姿を取り戻してくれたり、ラヴナちゃんの心を静めたりできてる時点で普通じゃないんですよ? 実感がわかなくても、私たちの事が嫌でなかったら、距離を取らなければよいだけです! 私たちの孤独はそれくらい厄介なものなんですよ。闇の中の小さなろうそくの火を消すようなことはしないでほしいです」

「そういうものか? わかった」

「いずれ事情はお話しますけど、……距離取られたら本当に困りますからね? 泣くかもです!」

「事情? それは困るな。……わかったよ」

「たぶん、ご主人様は何か大きなことに関わりますよ? だから受け取れるものは受け取っとけばいいんです。ね?」

 チェルシーはそう言って微笑み、ルインも無言で頷いた。

──リリムや女の魔族メティアは基本的に夢魔であり夜魔、つまり夜に活動する存在だが、本来は睡眠を必要としていない存在でもある。しかし、人間と近づいて心が感応すると、人に近い生き方をするようになり、娯楽として睡眠を楽しむ事がある。

──インガルド・ワイトガル『ウロンダリアの種族』より。

初稿2020.1.15

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