第七話 ゴシュと骨付き肉・後編
姿の見えないゴシュを乗せた骨付き肉は、弾かれたように走り始めた。河原の石が飛び散り、その跳躍力に満ちた走りは、荒れ狂う疾風のようにジグザグだ。これは彼ら縞狼の特徴の一つであり、弓や投げ槍に対して有効な回避手段となる走り方だった。
追いかけるように矢の雨が降り、銃弾が石を弾く。
「逃がすな! 射殺せ!」
『拡声』でやや焦燥の感じられる声が響いた。
(くそっ、ごめんよ骨付き肉!)
大狼に必死にしがみつくゴシュは、その大狼の姿が敵に見えていて、自分の姿だけが隠れている事を申し訳なく思っていた。この親友に何かあったらと考えるのも恐ろしかった。そんな一人と一匹は見晴らしのいい河原を何とか走り抜け、大岩の上を跳躍し続けて小さな滝を超え、森深く暗い渓流の横を走り抜けていく。
(敵の気配がしない?)
敵からだいぶ遠ざかったと思った時だった。あと少しでより山深く気配のない谷に入りかけた時、それは発動した。ゴシュは爆発音と光に包まれ、浮遊感と共に意識を失った。
「まだ息があるのか、汚らわしい亜人の雌が!」
「起きろ!」
ゴシュは水をかけられて目覚めた。
「うっ?」
そこには、魔術『灯火』を浮遊させて周囲を照らした、五人の仮面の男たちがいた。微笑と言うよりは冷笑を象ったらしい銀仮面は、青白い光源により不気味な笑みを浮かべているように見える。
「何だよお前らっ!」
「黙れ!」
「あうっ!」
ゴシュはごつい裏拳で殴りつけられた。
「ヤイヴの雌のくせに我々の同胞を殺し、毒で汚染するとは。ゲイジ様は好きに処分しろと仰せだ。死に方くらいは選ばせてやる。銃か? 弓か? 刃物か?」
ゴシュは短剣の先を突きつけられた。
「待って、狼は?」
「そこにいるだろう?」
仮面の男がゴシュの背後を顎で示す。振り向いたゴシュが見たものは、河原の石の広い範囲を血で染めた、腹部が大きく損傷した骨付き肉の姿だった。石にはねた血は黒くぬらぬらと暗い月光を跳ね返しており、その範囲の広さはいつ死んでもおかしくない出血をした事が容易く理解できた。
「そんな! 骨付き肉、お前……っ!」
骨付き肉はゴシュの声に鼻を鳴らしながら弱々しく首を動かした。その様子と、その眼が妙にぎらぎらと見えた事で、ゴシュは親友の瞳孔が開きかけている、つまり死が近い事を理解した。
「主をかばった形になっているのは立派だが、もうもつまい。仲良くあの世に送ってやろう」
「なんで……何でこんな事するんだよ! あたいら魔の領域の民なんだぞ! 人間と魔の国は同盟関係だろう!」
「古い契約ではそうだが、我々人間は必ずしもそうは思っていない。様々な種族の中で、我々が万物の霊長であるべきなのだ! これはその大いなる清算の始まりに過ぎん!」
仮面の男の声の調子は自分の言っている事を全く疑って無いものだと伝わっていた。
「本気かよ! 魔の国の軍勢はすごい戦力なんだぞ!」
「お前ら下等な種族がそれを知る必要はないが、我々には確信があるのだ」
「無理に決まってる! こんなひどい事をして」
「今はな……」
ゴシュは話しながら自分の身体の状態を把握し直していた。右腕と右足に肉がそげたような怪我があり、そこそこに出血しており、まだ血は止まりきっていなかった。爆発で飛んだ石にでもえぐられたのだろう。しかし、動けない程ではない。
(まだだぞ!)
まだこの場を切り抜ける方法はあった。何より、このまま親友を死なせたくなかった。
「さあ、おしゃべりは終わりだ。我々は誇り高きクロムの民である人間だ。お前が亜人ヤイヴの雌だとしても、ならず者のような事はしない。死に方を選ぶがいい」
「……わかった。あたい、こいつと一緒に育ってきたんだ。もうこいつももたねぇ。こいつを抱きしめてるから、背中から一思いにやってくれよ」
「……いいだろう」
ゴシュは大げさに弱々しく骨付き肉に寄った。
──クーン……。
骨付き肉は見えなくなった目でも、親友であり飼い主のゴシュの温もりに触れて鼻を鳴らす。主を護る力を失いかけている事を申し訳なく思っているように感じられるその鳴き声に、ゴシュは溢れてくる涙を止める事が出来なくなった。
「ごめん、ごめんな。一緒に行こうぜ、どこまでもさ……」
ゴシュは骨付き肉に抱きつきながら、その口の中に血まみれの右腕を入れ、湿った舌にその血が触れるようにした。
(古き魔獣の妃ガスレ、我らヤイヴの神オゴス、我らの古き盟約により、暗き魂を交わす血の契約をここに。これなるは骨付き肉。正義を打ち砕く我らが黒き牙なり!)
骨付き肉は力強くゴシュの血を舐め始めた。
──ガ……グルル!
黒い邪悪なもやが骨付き肉から噴出し始める。
「おい何してる!」
「いかん! これは『血の盟約』だ! 魔狼と化すぞ! 距離を取り銀の弾丸か矢じりを使え!」
仮面の男たちは距離を取ろうとし始めたが、ゴシュは自分に短剣を突き付けていた仮面の男の後姿に目ざとく体当たりを仕掛けて転ばせると、怒りで強くなった筋力のままに、人の頭ほどの大きさの石を持ち上げて男の頭を叩き潰した。
「ネズやみんなの仇だ! ぶっ殺してやる!」
頭を潰された男の手から転がった短剣を手にすると、ゴシュは二人目の男の腿を裏側から突き刺し、その筋肉を断った。
「ううっ、くそっ!」
転げた男の首を狙って襲い掛かったが、男は必死にゴシュの両手を阻んでいた。
「殺してやる! 殺してやるっ!」
獣のように血走った目でゴシュは短剣を力任せに男の身体に沈み込ませようとしていたが、そのゴシュを大柄な男が盾で殴りつけた。
「あうっ!」
「往生際の悪い雌が! 死なせてと泣き叫ぶまでいたぶってから殺し……」
黒い疾風が大柄な男の胸から上を斜めに通り過ぎた。男はその部分から上が無くなり、胸のあたりから噴水のように鮮血が黒く吹き出し、痙攣しつつゆっくりと倒れた。
──わが主を脅かすもの、全て噛み殺す!
今や牛よりも大きい魔狼と化した骨付き肉は、赤い二つの眼を持つ狼の姿をした闇そのものだった。
「骨付き肉、お前!」
──わが命、長くない。わが主、守る。
「嫌だ! 必ず二人して生きて帰るんだ!」
──……。
「ちくしょう!」
骨付き肉の沈黙をかき消すように、ゴシュはもう一人の背中を向けて走る男に体当たりを食らわせた。男は情けない悲鳴を上げて転ぶ。
「ひっ、ひいぃぃ!」
男の顔から仮面が転げ落ち、ゴシュはそれを拾いつつ短剣を投げつけたが、尻にそれが刺さっても男は必死で走り続けた。
この間に骨付き肉はもう一人の腰から下を食いちぎり、絶望の叫びをあげていた男の頭を踏みつぶす。しかし、ここで何者かの笛が鳴り始めた。もう一人いたはずの男は『隠密』や『姿隠し』で視界から消えたらしい。
「くそっ、逃がすかよ!」
ゴシュの追う男に骨付き肉が向かおうとした時だった。何かが一人と一匹のそばに投げ込まれ、ゴシュと骨付き肉の身体に白紫の魔法陣が浮かび上がった。続いて、銃声が遠くから聞えてくる。と、何かがゴシュのこめかみにぶつかり、ゴシュは気を失った。
──わが主!
遠のく意識の中、ゴシュには悲痛な骨付き肉の叫びが聞こえてきていた。投げ込まれた何かは、『矢弾の標的』という特殊な投射物の誘導魔法で、しかしゴシュも骨付き肉もそれを知らない。まだ距離が遠くて肉を貫通するほどではなかったが、当たり所が悪く、鉛玉がゴシュを気絶させてしまった。
「しぶとい亜人と魔獣め! 銀製の弾丸に切り替えろ!」
風に乗って『拡声』で大きくされた声が届く。状況を察した骨付き肉は、敵の気配が近づく前に気を失ったゴシュを優しくくわえると、黒い疾風のように走り始めた。弾丸は何発か当たり、そのうち銀の弾丸も数発、その巨躯の肉を切り裂いたが、骨付き肉はものともせず、ひたすら遠くへ、尽きかけている自分の死にさえ追いつかれないように走り続けた。
どれほど時間がたったのか、ゴシュは頬に当たる強い日差しで目覚めた。全身がひどく痛み、特に右のこめかみはずきずきと痛んでいたが、周囲を覆う背の高い草は爽やかな夏の風にそよぎ、ゆっくりと流れていく雲は、いつもの穏やかなウロンダリアの夏空だった。
「骨付き肉?」
がさがさと音がして、背の高い草の暗がりから、赤い二つの眼が覗く。
──おれ、もう光、浴びれない。命、もたない。
「嘘だろ?」
──近くに、いい人いる。頼れる。そしたら、おれ、安心。
「待てよ! 死んじゃうのかよ! そんなの嫌だよ!」
──明日までは、生きてる。主、心配。
骨付き肉は自分のことなど全く心配していなかった。またゴシュの眼から大粒の涙が落ちたが、悲しんでいる場合では無かった。
「……待ってろ! あたいが絶対何とかする!」
ゴシュは静かに草むらの中を移動し、ここが大きな沼のそばであり、近くに古い船着き場と、魚の加工所のような古い石組の建物があり、さらにその煙突からは薄い煙が立ちのぼっている事に気付いた。
骨付き肉の言葉を信じて、ゴシュはおそるおそる、頑丈そうなドアをノックする。
「誰だ?」
妙に野太い声は人間の声ではなかった。出てきたのは緑肌に獅子顔のいかついヴァスモー族(※緑肌で大柄かつ屈強な亜人種族)の壮年男性だったが、何か作業をしていたのか腰布一枚に革の前掛け姿だった。
「何だ? お前まさかヤイヴの姫か?」
「え⁉ 何でそれを?」
獅子顔のヴァスモー族の男はここで周囲を素早く見まわし、小声で言った。
「いいから早く入れ!」
「うわっ⁉」
ゴシュは強引に手を引かれて室内に転がるように入った。
「おい何すんだよ?」
しかしヴァスモー族の男は答えず、今度は窓のボロ布のカーテンを慎重にずらして外の様子をしばらくうかがっていた。
「よし!」
男はゴシュに向き直ると、歯をむき出してにかっとした笑みを浮かべた。これはヴァスモー族が他種族に対して敵意がないことを示す時にする行動だが、それがかえって怖いとさえ言われる習慣だった。
「飯、風呂、薬、水、寝床、何でもある。欲しいものを言え。まさか本当に魔の国のヤイヴの娘っ子が来るとはな」
「待って、何言ってるかあたい、わかんねえ」
「そうとも、おれも分からんぞ! がっはっは!」
ゴシュの質問がよほど面白かったのか、ヴァスモー族の男は豪快に笑った。
「待ってろ、色々出してやる。その間に疑問に答えてやるぞ!」
ヴァスモー族の男は頑丈そうな棚から色とりどりのガラスの小瓶や包帯、ガーゼなどを取り出してテーブルの上に並べ始めた。
「鮭のシチューと黒狼麦に木の実入りのパン、あとは水だ。全て出してやる。薬は好きに使って手当てしながら聞け。ある魔女がお前がここに来る可能性を予言していたのだ。正確には狼か。忠誠心ある狼が主を連れてここに来ると。その狼と主は大きな災いを鎮める鍵の一つらしい。あとは……わけの分からん事も言っていたな。そう、まったくわけの分からん事をな!」
男は深い皿に暖炉で煮えていたシチューをたっぷりとよそいつつ豪快に笑った。ヴァスモー族の笑いのつぼは独特であり、時に理解できないとされていたが、ゴシュは邪心の感じられないその笑いにわずかの安堵を感じた。
「わしの名はザゲロ。『美食家ザゲロ』と言えば聞いたことがあるだろう? 今はここで独特な干物の研究をしているところだが、何日か前に『狼の魔女ファリス』が訪ねて来てな。狼とその主を助けてやれとさ。何でもそれが、ずっと独身のあの魔女の未来に大きく影響するとか何とか。全くわけが分からんな!」
「ほんとだ。わけわかんねえ! でもあたい、あんたは知ってる! すげえ料理に詳しい人だよな?」
「そうだな。古王国ではあちこち呼ばれていたが、少し嫌気がさしてな」
美食家と呼ばれるザゲロは、少し遠く複雑な思いを感じさせる目をした。
「それよりもしっかり食って傷の手当てをしろ。狼のもな!」
「うん、ありがと! それより、ファリスって有名な魔女だよなぁ。何であたいの事なんか知ってたんだ?」
「何でも母なる狼の予言らしい。間に合えばその狼も助けてやれると言っていた。明日にはまた来るはずだ」
ゴシュは鮭入りシチューの美味さに感動しながらも、食べながら何が起きたかを話し続けた。ザゲロは手や動きを止めずに話を聞いていたが、ゴシュの話が一通り終わると、本棚から一枚の絵を取り出した。その絵はゴシュたちを襲った銀仮面そっくりだった。
「これは? あたいらを襲った奴らの仮面そっくりだ」
ザゲロは険しい眼をして口を開く。
「これは古王国と新王国の新しい宗教、『統一神教』の法と復讐の神、カイナザルの仮面だ。この仮面をかぶるのは異端審問会の奴らだ。……そうかクロムの民の奴らめ、遂に動き始めたか」
「クロムの民? 何が起きてるんだよ……」
「いずれ分かる。まずは飯と手当てをやれ。狼もな。それとウーブロの村は今、奴らの拠点になりつつある。行かん方がいい。今後についてはファリスが戻ったらあいつと相談するんだ。人目も気をつけろよ? ここいらも昨日からたまに怪しい奴らがうろうろしているからな」
ゴシュは食べた事もないような美味なシチューとパンを好きなだけ食べ、身体を洗うと、豊富な薬と包帯で傷の手当てをした。さらに、葦で編まれた小さな鳥家(※鳥の猟に使う小さな隠れ家)の部材を借り、骨付き肉の待つ草むらに戻った。
「戻ったぜ、骨付き肉! ……えっ?」
鳥屋の部材がゴシュの手から滑り落ちた。骨付き肉は元の狼の姿に戻っていたが、全身が傷だらけで特に腹部の損傷はひどく、既に生きているのが不思議な状態だった。身を横たえてか細い息をし、その瞳孔が開いている。
「嘘だろ⁉ なんでだよ? なんでっ!」
目が見えなくなっていたのか、骨付き肉は弱々しく頭を上げた。
──クーン……。
ゴシュの気配を感じてか、骨付き肉の口は一緒に出掛ける時のような微笑みを思わせる形に変わる。しかし……。
──カハッ……。
わずかな血を吐くと、骨付き肉の頭は草の上に落ち、その眼は見開いたまま呼吸が止まってしまった。ゴシュの親友は身を賭して主を護り、力尽きるまで走り、最後に残された自分の命の時間に嘘までついてゴシュの状態を優先したのだと、ゴシュはこの時気付いた。
「嘘だ! こんなの! お前、どこまで……!」
ゴシュは泣き叫んだ。抱き着いても、もういつもの様には舐めてこない。ふわふわの毛についた日向の匂いももうしない。血と臓物の匂いが、いつまでも、何度も、ゴシュの心に哀しみを呼び起こした。ゴシュは泣き続けた。一緒に泣き死にたかった。
「……やだよ。あたい、独りぼっちじゃんかあ……。おいてかないでくれよ……骨付き肉」
いつしかだいぶ日も傾いていた。敵意の無い誰かの足音が近づいてきていたが、ゴシュは悲しみに押しつぶされてそれどころでは無かった。
「はいはい、そんなにいつまでも泣かなくていいわ。こんな立派な忠狼、死なせてしまうにはあまりにも惜しいもの」
「えっ?」
草をかき分けて現れたのは、黒い天鵞絨のゆったりしたドレスに、精巧な黒レースのとんがり帽子の黒髪の女だった。端部に狼の頭骨を模した黒曜石の見事な杖を手にするその姿は、どこからどう見ても魔女だった。
「初めましてヤイヴのお姫さま。私はファリス。狼の魔女ファリスと言えば、聞いた事くらいはあるでしょう?」
不思議な良い香りと、妖艶にして優しい笑み。琥珀色の瞳は日の光を浴びて金色にさえ見えたが、それでもどこかにかぐろい闇の気配が漂っている。
「狼の魔女? あんたが?」
「まあとにかく、まずはあなたの涙を止めてあげるわ。立派な狼、あなたもまだまだこの子を護りたいのでしょう? ……ほら」
「えっ?」
骨付き肉の遺体に重なるように、青白い炎のようなものが現れると、それは座した骨付き肉の姿を取った。
「骨付き肉! おまえ!」
ファリスは微笑んで話す。
「あなたはこの子といたい。そして、この子はあなたを守り続けたいし、一緒に居たいと言っているわ。それなら、我が母なる黒き大狼ルロの力を借りて、この子を使い魔にすることができるの。肉体と魂の曖昧に混じった使い魔は、死から解放され、この深手も少しずつだけど治していくことができる。どうする?」
「そんなの、決まってるよ!」
ファリスは微笑むと、独特な狼の魔法陣を描き、ゴシュの血を触媒として儀式を発動させた。骨付き肉の痛々しい亡骸は光に包まれ、同じ色にぼんやりと光る骨付き肉の魂が重なる。と、身体に入ったままだったであろう矢じりや弾丸が幾つか落ち、骨付き肉の身体から傷が消えて立ち上がった。
──あるじ、おれ、どこも痛くない。変な感じ。
「骨付き肉ぅー!」
ゴシュはふかふかの相棒に抱き着いた。
「よがっだ! もう、二度と会えないとおもっでだ!」
涙でぐしゃぐしゃのゴシュ。
──おれも。次はもっと強くなってちゃんと守る! あるじ、あたたかい……。
嬉しそうにゴシュの頬に顔を擦る骨付き肉。
「良かったわね」
少し涙ぐんでいるファリス。
こうして、親友と使い魔の契約をして再会を果たしたゴシュは、怪我の治療をしつつもファリスやザゲロと共に黒曜石の都を目指す事になった。
first draft:2020.10.20
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