第三十三話 隠された何か
『二つの世界樹の都』テア・ユグラ・リーア、最上層の聖堂都市。
ウロンダリアから呼ばれた戦士たちは、それぞれの転移先での戦いを終え、世界樹の分霊の導きにより、この聖堂都市の広場に設けられた休憩所に集合していた。
大プロマキス帝国の由緒あるギルド『深淵の探索者協会』の老顧問べスタスは、傍にいた赤紫のローブの秘書にして魔法剣士に様々な指示を出している。
「リリシア、この都の建物のスケッチと記録、さらに討伐した月の化け物烏賊ゴ・ズドゥガの検分や食材としての試用など必要な指示を終えたら、わしは眠り人ルインどのの所に行ってみようと思うのじゃ。ただ、あそこは見目好い女性ばかりで、わし一人で行くのは気が引けてのう」
苦笑する老べスタス。
「かしこまりました。私も上位魔族の女の端くれ。長く生きておりますから、ラヴナ姫たちの魅力や魔力に少しは気後れを取らずに済みます。お任せを」
言いながらフードをはぐリリシア。上げ髪にしてまとめられた明るい灰色の髪と、眼鏡の似合う怜悧な美貌。しかし、べスタスはこの戦闘もこなせる有能な秘書の正体に気づいていなかった。
ほどなくして、ウロンダリアの各集団の代表や眠り女たちは三種族の使いに導かれて、人間の意匠とは大きく異なる優美にして繊細、壮麗な伸びやかさを持つ大聖堂に集められていた。
大聖堂は網目のような筋の間に透明なガラス質の窓が連続した壁で、独特な間隔でねじれつつも天高くまでそびえており、淡い緑銀の金属質の植物のようだが、必要な個所には蔦とも木ともつかない柱も点在している。それはまるで、人の意思を具現化する枝の無い植物が未知の意匠で聖堂と化したような建物だった。内部には半透明の銀色の樹皮の無い木が枝を広げており、その周囲に水晶の大きな結晶がいくつも浮かんでいる。
それら水晶には、何らかの意味を持つであろう文字とも記号ともつかないものと、三種族の特定の人々の姿が交互に浮かび上がっており、様々な神をまつった祭壇のようにも見えていた。
「なんじゃと? ルイン殿とシェア殿、そしてもう一人は合流していないと⁉」
眠り女たちと合流した老べスタスは、影のフードを被ったラヴナから仔細を聞いて驚いた。異端審問官バゼルと眠り人ルイン、そして教導女シェアがこの都に来ていないという。一方で、『薔薇の眠り人』ロザリエ・リキアが千年前のウロンダリアからこの地に飛ばされている事にも驚いた。
「確かに、あなたは伝え聞いている通りの姿じゃ。今は『荊の森』に籠られているとされているが……」
べスタスは近くを歩くロザリエに言葉を失っている。
「ああ、私らしいわね。私はそういう事をするわ。……で、魔女協会会長の後任がファリス、と」
ロザリエは微笑みつつ、斜め後ろを歩いている狼の魔女、ファリスに声をかけた。現在の魔女協会の会長はファリスだが、その前任はロザリエだとされていた。
「千年前の友達と話すなんて変な気分よ。でも、そうするとあっちのロザリエは、私とここで会っていたのを一言も……あっ、そういえば変な事を言っていたわね。なるほどね」
「変な事って?」
ラヴナが興味深げに問う。
「たまに、私の孤独がいずれ解消されるようなことを、確信めいてほのめかしていたのよ。つまり今の私の状況の事かもしれないのよね。でも、そこまでではないかしらね?」
ファリスの孤独の話はウロンダリアでも有名な事柄で、童話にもなっているほどなのは皆の知るところだった。それはとても簡単には仄めかせられるような話ではなかった。
束の間考えるような様子を見せ、ロザリエが答える。
「ああ、それは今でもそんな言い方はするわね。少し前にもあなたが遊びに来ていたし。ただ、私は確証も無くそんな事は言わないわ」
「取り留めないわね……」
あまり核心には至れない話と判断したラヴナは、老ベスタスの連れている曲剣を帯びた魔法剣士姿の秘書リリシアを観察していた。チェルシーの推測によれば、この女は夢魔の女王リリスが姿を変えた存在の可能性があった。
夢魔の女王リリスはラヴナにとって、かつては何度か戦った事のある、油断のならない相手だった。
(どれどれ……)
ラヴナは相手に悟られないように受動的な感知能力を鋭敏にしたが、リリシアからは魔力も魔術も強く感じられるものは無く、夢の力を用いて高度に偽装した人格である可能性がうかがい知れた。魔力、体力、知力、それらすべてが適度に平均よりやや上回った程度のものに偽装されている。
(さすがね。『感知』系の力は全て及ばないようにされているわ……)
ここで半透明の銀の神木の前に、文字や記号を伴った魔術の術式の光が多層に展開し、二十名ほどの古き民、翼の民、月の民が現れた。多くは白を基調にしてわずかに青や緑、銀を用いた洗練された衣装を着ており、祭服から甲冑までその装いは様々だったが、全員が何らかの軽くはない責任を負った気配がその表情から読み取れ、この『二つの世界樹の都』テア・ユグラ・リーアの、おそらく為政者など代表格の者たちに見える。
見た目は若いものの、どこか物腰から相当に高齢だとわかる古き民アールンの女性が、まず進み出ては深々と頭を下げた。
「船の民の方々との約定とはいえ、『永遠の地』から来られた戦士たちの皆様、この都の背負ってしまった不条理なる戦いの一翼を担っていただき、言葉では尽くせぬ感謝を示したく思います。たとい我が母なる樹林の木々が石と化し、全て土に帰ったとしても、この感謝の念は消えることが無いでしょう」
続いて、背の高い輝きを放つ月のような金髪の戦装束の男と、銀瞳に長い夜のような黒髪の祭服の女が深々と頭を下げる。細身で背が高く優美なその様子は言い伝えにある月の民ユイエラとうかがい知れた。
銀瞳黒髪の女が緩く握った手を胸に当て、躊躇うように話す。
「『永遠の地』の戦士の方々、私たちの抱えきれない災いに加勢してくださり、尽きぬ感謝の気持ちと共に、私たちの深き業が他の世界の方々の手を借りなくてはならない事に、まことに慙愧の念に堪えません。せめて、このご恩は必ずやお返しいたします」
次に、少し小柄な翼の民フェディルの女性が進み出た。ウロンダリアではしばしば見かけられる翼の民は、普段は人間と変わりなく見え、あまり魔力や神力を持たない者にはその翼は見えない。その美しい翼は異層に存在しており、必要な時に物質界で顕現させるためだ。
「赤き月と私たちの因縁は、本来なら私たちが向き合うべき問題でした。しかし、いつしか赤き月は対話に応える事はなくなり、落涙は莫大な怨嗟と怨念の豪雨となりました。その激しさは次第に私たちの手には負えないものとなり、この夜を超えられない見通しとなっていたのです。これは本来なら許されない方法かもしれませんが、これしか方法が無かったのです」
三種族のおそらく代表たちに対して、ラヴナは率直な問いをぶつけた。
「聞きたい事は色々あるわ。なぜ、この世界の禍があたしたちのウロンダリアに存在しているのか、とか。でも一番聞きたい事をまず教えて。『赤い月』とは何なの?」
しばしの重い沈黙が漂った後、高齢の光の側の古き民の女性がさらに進み出て口を開いた。
「あまりに古い伝説ですが、かつて、このウル・インテスには、星の海より流れ着いた闇の母神ハドナと呼ばれる存在がおりました。多くの魔物の母なる存在です。今は既に絶滅した人間たちも、そして私たち三種族も、このハドナの生み出した魔物たちと長い長い年月を戦い続けてきました」
次に、翼の民の女性が話を継いだ。
「ある時、大洪水によって私たちも人間たちも甚大な被害を受けた事がありました。最も高い山脈の頂さえも波に洗われるほどの大洪水です。これによってハドナの溶岩のような体は遂に冷え、私たちの先祖たちは大攻勢をかけて魔物たちを追い払い、ハドナの全身を神聖なる生命の蔦で縛ることに成功したのです」
淡く光る金の髪をした月の民の男が、さらに話を続けた。
「この時、私たち月の民が崇め奉る神の一柱、『船と導きの女神ミゼステ』様が、英雄オーランドと共にハドナを永遠に月に封じ込めることにし、はるか遠い月へと旅立ったのです。しかし、いつしかあふれ出した魔物は月から地上に滴り、ミゼステ様やオーランド様との連絡も取れず、長い時が経ったのです。溢れる魔物は『落涙』の度にその規模を大きくし、今やこの都も滅亡の危機に瀕しているのです」
(何かしら? 嘘や欺瞞の匂いがするわ……)
しかし、ラヴナはこの話に何か隠された重大な秘密がある事を感じ取った。ウロンダリアの戦士たちと、二つの世界樹の都の人々の間には沈黙が漂っていたが、その沈黙をラヴナの厳しい声が破る。
「この話に何か大きな欺瞞の匂いが漂っているわ。そして強い抑圧も。あなたたち、何かを隠さざるを得ない状況にされているわね? 血を流すことになる私たちはそれを見極めた方がいい。違うかしら?」
息を呑む様な気配が世界樹の都の民たちに漂う。ラヴナは片手を腰に当て、警戒感を隠さない声で話を続けた。
「表に出せない何らかの秘密を抱えた大きな戦いの行方を、いくら見返りを出すと言っても、その理由を全て語らずに異世界の人々にゆだねるのは、少し義理と話の筋が通らないのではなくて?」
ラヴナは威嚇するように、左の掌に黒紫の魔力の球を浮かべた。
「あたしはこういう取り澄ました不義理が嫌いなの。全て話せないのなら今すぐみんなを元の世界に帰してもらうわ。必要であれば力ずくでも……!」
しかし、その話をロザリエが制した。
「ラヴナ姫、気持ちはわかるけどそれは私が説明するわ。威圧的な話の持って行き方はやめて? 少し落ち着いたかと思ったら全然そんな……あら?」
「……なに?」
深刻な表情をしていたロザリエは、ラヴナの何かを見抜いたのか、悪戯っぽい笑みに変わった。
「驚いたわ。あなたが他の皆の安全を気遣ってそんな言動をするなんて。魔の国一番の暴れ竜に等しい美女を誰が手なずけたのかしら?」
ラヴナの開いた口と眼が一瞬の狼狽を感じさせたが、その眼はすぐに険しいものとなった。
「気遣ってなんかないし暴れ竜は余計よ! あたしのどこがダギだと……!」
感情的になっていたラヴナは、しかしこれがロザリエの誘導だと気付いた。
「竜人ではないでしょうけれど、立派な角と翼があるのだもの。ああ、立派なのは角と翼だけではないわね……」
一瞬の驚きを浮かべたラヴナ。
「あーあーあー! わかったわ! それ以上の話は無し! この話はここまで。本当に嫌な女ね!」
ラヴナはロザリエの言葉を打ち消すように声を上げ、話を続けた。
「でもロザリエ、あなたが信用できる女だって事も知っているわ。あなたは何かを知っており、この都の人々はそれを言うのははばかられるけれど、異界のあたしたちの力を借りるだけの正当性はあるのね?」
「それは私が保証するわ。全て終われば確認できるはずよ。……ねえ? テア・ユグラ・リーアの方々」
ロザリエが返答を促すと、二つの世界樹の都の代表らしい人々は祈るような眼で頷き、月の民の女が話を続けた。
「はい。確かにこの出来事は本来なら私たちが全て対応すべきものです。しかし、この世界の……いえ、複数世界に跨る管理者の意思が働き、それが絶大な強制力を持つもとでは、私たちには語る事も、出来ることも限られております。あなたたちがいずれ知る真実が、私たちにとっても答えの出せなかった事であるとご理解いただけたらと思います」
慎重に言葉を選ぶ月の民の女の様子に、ラヴナを筆頭にしたウロンダリアの戦士たちは、何か重大な秘密の気配を感じ取っていた。
「なるほどね。色々と大きな意味があり、ただの不条理の尻ぬぐいに血を流させられるわけではないというのなら、それでいいわ」
ラヴナの納得に、ロザリエがウロンダリアの戦士たちに向き直って話を継ぐ。
「転移術式の発動時に気づいた人もいるかも知れないけど、この出来事には『船の民』が関わっているわ。ウロンダリアの影の管理者と言われる『船の民』の関わる事は、全てとても大事な意味があるのよ。私がここにいるのも彼らの思惑かもしれないわ」
「名前だけは誰もが知っているが、実際にその痕跡は全く残っていない船の民と、まさか晩年になって関わる事になろうとはのう……」
老ベスタスが感慨深げにつぶやいた。ウロンダリアではしばしば異なる世界に行く、異なる世界から来る、という出来事は観測されているが、それに秘密裏に関わっているのが『船の民』だとされている。
今回の出来事は少なくともその噂を裏付けた形になり、似たような古い伝説を船の民の関与の方向から調べ直す必要があるとベスタスは感じていた。
「いずれにせよ、本来の流れでは私たちの歴史は今夜を超える事は敵わなかったのです。私たちも安否の分からなかったミゼステ様とオーランド様の事も何かわかるかもしれません。『永遠の地』の戦士の方々、どうか十分な準備を! 必要なものは用意いたしますし、事がなった暁には全てお伝えし、然るべき報酬もお渡しいたしますので」
深夜に起きるという『月の落涙』の最終波に向けて、テア・ユグラ・リーアの都とウロンダリアの戦士たちは、出来る限りの迎撃の準備を整え始めた。
夜。テア・ユグラ・リーア上層、『高き渡り枝の街』ル・ラーナ・シ・リーアの古い駐屯地。
人で例えるなら、二人の人物が互いの腕の付け根を掴んで密着させたように、二つの世界樹の丘のように太い枝が行き違い、密着し、その上に町が出来ている。
二つの世界樹を行き来できる渡り廊下のような街では、これが最高層との説明がなされ、古代から何度も『赤き月の落涙』を凌いできた街には、下層の街にはあまり見られない無骨な雰囲気が漂っていた。
ウロンダリアの戦士たちはここで深夜の決戦に備え、思い思いに食事や休息、武器の手入れ、ある者は観光に近い散歩を楽しんでいる。
「うーん、駄目だなぁ。何やっても美味しくねぇ。繊維が固すぎるし、えぐみが消えねーや」
老ベスタスたち『深淵の探索者協会』の探索者たちが持ってきた赤い月の巨大烏賊ゴ・ズドゥガを、ゴシュは様々な方法で調理してみたが、この烏賊は食材としては今ひとつだった。
「ふむ、食材としてはこんなものか。何か未知の効果でもあればのう……」
心躍る体験の連続にやや冷や水が入った老べスタスは、それでも何か感じるものがあるのか、調理された化け物烏賊を見やり口惜し気につぶやく。
「いっそ塩水に漬けてからすっかり乾かして、口寂しい時の噛み物にするくらいしか無さそうだなぁ。あたいたちヤイヴ族の旅のお供としてはありだけど、わざわざ作って食うもんではないよなー」
落胆気味の老人を気遣うゴシュ。
そんな人もまばらになったテーブルの隅に、心ここにあらずといった感じで、繊細で美しい銀のコップを持ったままのクロウディアがため息をついている。
「影人の皇女さん、ため息なんかついてどうしたんだ?」
はっとしたように水色の瞳をゴシュに向け、クロウディアはそれでも落ち着いた笑みを浮かべた。
「クロウディア、でいいわ。シェアさんとルインの事を考えていたのよ。ルインはたぶん大丈夫な気もするのだけれど、シェアさんが心配で。シェアさん、大変な苦労をして眠り女になったのよ? もしもあそこに一人で取り残された時に何かあったら、大変なことになるわ。手練れだし用心深い人だから、すぐに安全な場所に戻っているとは思いたいのだけれど、何だか胸騒ぎがするのよ……」
「そっかぁ。あたいも他人事じゃないからわかるよ……」
それでも、ゴシュは影人の皇女の気持ちをより慮ろうとした。ヤイヴたちは知能は人間に劣らないが、その性分は良くも悪くもとても前向きで、悪いことをあまり考えないようにできている。しかし、目の前のクロウディアに必要なのはたぶんそんな前向きさではなく、共感なのだろうとゴシュは考えていた。
こんな時どうやったら元気づけられるのか? ゴシュはふと、腰袋の小さなガラス瓶を取り出した。
「影人の皇女さん、これ一つあげるよ!」
「私に?」
ゴシュが渡したのは、美食家ザゲロから貰った、星糖(※金平糖に該当するもの)』と呼ばれる星のような形をした砂糖の塊だった。色とりどりのそれが小瓶に入ったものを、ゴシュはクロウディアに手渡す。
「これさー、エンデールの菓子職人が研究してるもので、ザゲロのおっさんに分けてもらったんだ。あたいはおっさんの手伝いをすればまた貰えるから、これを眺めたり、飲み物に入れたり、疲れたら食べたりで、元気出すといいよ! すげぇ甘くて元気が出るんだ!」
「こんなかわいいお菓子があるのね! ありがとう、それなら……」
クロウディアは白い掌の上に影を集中させ、舞い落ちるように一枚の黒い羽根が現れた。
「お返しにこれをあげるわ。これは『身代わりの影の羽根』といって、命の危機が迫った時に一瞬だけ自分と影を入れ替えて危機を避けるの。お守り代わりに持っておくといいわ。あなたに影の加護があるように」
「えっ? なんかすげぇ貴重なもんじゃないのか?」
「あなたの命の方がよほど貴重よ。……ありがとう。少し気持ちの整理がついたわ。私も武人の端くれ、迷いは戦いの後に置いて、まずは今夜を乗り切るわ! 本当にありがとう、ゴシュ」
折しも、頭上の月から低い唸り声のような遠い慟哭が聞こえ始めていた。『月の落涙』の最終波は迫ってきていた。
first draft:2021.10.29
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