第三十四話 赤い月は哭く
『二つの世界樹の都』テア・ユグラ・リーア、深夜。
セレッサは世界樹のかなり上層の枝まで、他の古き民たちと共に蛇のように生ける蔦を使って登り、多くの射手たちの一人として配置についていた。『白銀の攻城弓』を構えるセレッサに、おそらくこの都の代表者の一人らしい聖堂で見かけた女性が声をかける。
「その見事な大弓を持つあなたは我ら古き民の上代の王統の方ですね? 時と世界を超えての助力、深甚の至りです。さながら遠い昔に降り注いだ雨が時を超えて大樹の梢に届くように、私たちはこの恩を忘れることはないでしょう」
他の古き民の射手たちは化石化した世界樹の組織から削り出した『黒珪木の弓』や、魔力によって顕現させた弓と矢を用いており、その中でセレッサの見事な大弓はかなり目立っていた。
セレッサは周囲を改めて確認しつつ答える。
「いえ、私は本当に通りすがりのようなもので。仲間の問題に皆で対応していたらここに来た次第です。全力は尽くしますが、気にしないでください。私のいた世界では、もう私たちは人間との戦争に負け、衰退の一途です。はるかに遠き『白亜の樹林』パルラク・シェヌでも見出せば別でしょうが……」
しかし、この言葉に、古き民の女性の眼は大きく見開かれた。
「えっ? 今なんと仰いました?」
「はい、『白亜の樹林』パルラク・シェヌ、と言いました。私たちの伝説的な故郷です」
古き民の女性は祭服の胸のあたりを掴み、何か感情に詰まったのか、その目が潤んだ。
「ああ、なんという……事!」
「えっ? どうしました? 大丈夫ですか?」
セレッサはこの女性を案じて近づいたが、そこで魔力の灯火が花火のように打ち上げられ、世界樹の分霊の声が響いた。
──始まります!
「ああ……いけませんね、詳しくはあとでお話します! 総員、戦いに備えよ! ……上代のアールンの王統の方、この戦いを生き延びたら大切な話があります。自分の命を最優先になさってください」
「……わかりました」
代表者らしき祭服の女性は慌ただしく立ち去ってしまった。
世界樹の精霊の力を強める、『月の民の歌』と『古き民の歌』が夜空に響き、暗い世界のただなかで、残された楽園のように二つの世界樹はひときわ強い薄緑の光に包まれ始めた。
さらに、この地域を全て収めるほどに大きな円状の輝く魔法陣が多層に展開する。『月の民』と『古き民』、さらに『翼の民』の術式によって展開された空中の足場であり、最上段から赤い月の魔物を迎え撃つ段取りだった。
その二つの世界樹の上空には、あり得ない大きさになった赤い月が浮かんでおり、赤い禍々しい靄に包まれたそれが、人の眼のように世界樹の都を睨んでいる。その眼に籠る恨みと憎しみの激しさは、心の弱い者なら見ただけで狂気に満たされかねないものだった。
今、その眼に血の涙があふれ、滴り落ちてこようとしている。
──最終の落涙が始まります!
世界樹の分霊が、この美しい都を護ろうとする全ての戦士に呼び掛けた。さらに、各種族の代表たちの声も続く。
──古き民の神箭手(※優れた射手の事)よ! 清浄なる魔力の矢で赤い月の魔物を射殺すのだ! 天の牡牛を射るモーンの如く!
──月の民の戦士たちよ! 我らはあの月を断じて認められない。冴えたる夜浄の月光をもって、霊鎧、霊刃と成し、堕落を追い払うのだ! 気高き月光の英雄、オーランドの如く!
──翼の民よ、風鳴らす竪琴の如く空と共に在り、神聖なる天の理を持って邪悪を打ち払うのだ! 悪竜を追い払うセティナの如く!
気高く清浄な士気が透明な炎のように舞い上がる。それぞれの位置に着いたウロンダリアの戦士たちもまた、古い世界樹の都の人々の士気を感じて心を燃え上がらせていた。
──落涙、来ます!
赤い月はむせび泣くような恐ろしい叫びをひときわ大きくし、その眼が瞬く。赤い血のような何かは狂気をはらんだ赤い瞳に集まって膨らみ、それは目を離れた。やがて、それがぐんぐんと大きくなって迫ってきた。蠢くそれは無数の魔物の塊だった。
最初に、双方の世界樹から青く輝く無数の魔力の矢が放たれた。多くの場合は『通常の弓矢の速度をあまり超えてはならない・過度な連射をしてはならない』という制限のある、これら魔術の矢が、今は制限をほぼ解除されている。世界の命運を左右する戦いに際して、世界樹の精霊がその制限を取り払ったのだ。
閃光のような青い光が無数に空へと飛び、それはある時点で必ず消える。この無数の光の矢の消滅が空から落ちてくるものの大きさを浮かび上がられていた。
山のような大きさの、うごめく無数の塊。青い光の矢はその表面の多くの魔物たちを射殺し、引き剥がし、活性の無くなったそれらはボロボロと零れ落ちていったが、あくまで表皮に過ぎない。
──第一層に『落涙』着地します!
最上層の魔法陣の広い足場に魔物の山が落ちる。それは零れた地獄の塊のようにうなりを上げて一気にあふれ出した。
──翼の民よ、『竜狩りの雷槍』を!
古き民の射手たちが無数の魔力の矢を撃ち込み続ける中、淡く光る翼の民たちが、その白く輝く大きな翼を展開させて、魔法陣の周囲を取り囲むように浮上した。若い女の翼の民たちは、懇願するように勇ましい歌を歌っている。
──『セティナの竜追いの歌』
雷神の血を引く勇壮な翼の民の戦女神セティナの歌は、空を飛ぶ力と闘志、そして翼の民の扱う祈願に大きな力を与えるとされる。
大盾に細く優美な投げ槍を多く装着した翼の民の戦士たちは、何も持たない利き手を掲げ、そこに眩しい雷の槍が顕現した。
──竜狩りの雷槍。
号令と共に多くの雷の槍が放たれ、魔物の塊の濁った暗黒の中に閃光をこぼれさせながら打ち込まれていく。この攻撃はかなりの効果があったようで、多くの魔物の叫びが続いた。世界樹の分霊の指示が伝播する。
──魔法陣の足場を開放し、より下層の戦士たちと分担を! 次の落涙が来ます!
古き民アールンの魔力の矢と、翼の民フェディルの雷槍を打ち込まれて混乱している魔物の塊は、突如として足場が消えて落下していった。長年の『月の落涙』により、魔物たちは最初の着地までは落下の衝撃から保護されているものの、その後は落下により損傷することが判明しており、『二つの世界樹の都』は魔術により多層の足場を形成しては落涙を受け、その後これを消す事で落下させ、生き延びた魔物を迎え撃つという効率的な対処方法を確立していた。
つまり、展開した足場となる魔法陣の各層で遠距離攻撃により漸減させ、さらに落下により漸減させたのち、いよいよとなれば直接攻撃まで含めての殲滅戦となる。しかしそれでもなお、『落涙』の規模は大きかった。
落ちていく魔物たちとむせび哭く頭上の月を見ながら、セレッサは大弓の弦を引き、そしてつぶやく。
「皆さん、生きて帰りましょう……!」
拡散した青い魔力の矢が無数の魔物を打ち抜く。しかし、赤い月の眼にはまた次の涙が溢れんとしていた。
しばし後、テア・ユグラ・リーア上層『高き渡り枝の街』ル・ラーナ・シ・リーア。
遂に多層展開された魔術の足場全てでも抑えられなくなった月の魔物たちは少しずつこの地域に落下を始めており、さらに多くの魔物の死骸が緩衝材となって、特に強力で大型の魔物が多くなってきていた。
棘だらけの巨人のようなもの、人間と蟷螂を悪夢のようにかけ合わせたようなもの、梟と熊をかけあわせたようなもの……その種類は多岐にわたっている。
ウロンダリアの戦士たちはここに集中しており、『月の落涙』を迎撃するために建造されたという古代の駐屯地を拠点として、次第に激しくなる戦闘のただなかにいた。
「上層の人らは大丈夫なのか? とんでもねぇ魔物の数だぜ!」
大斧で蟷螂人間のような魔物を両断しつつ叫ぶギュルス。
「とんでもない数! こんなものを毎回対処していたら、この世界を発展させるのなんてとても無理だよ!」
『工人の格納庫』という特殊な空間から様々な銃を取り出しては撃ちまくるアゼリアが応じる。
「お父様やみんなからたくさんの武器を持たされてるけど、使い切る前にこっちが疲れそう!」
言いながら、アゼリアはマントの中から棘だらけの金属球を取り出し、多くの魔物の落下地点に放り投げる。爆発と共に棘が散乱し、多くの魔物が穴だらけになって倒れた。
「やべぇ! 工人の武器やべえだろ!」
興奮して叫ぶギュルスに対して、アゼリアもまた得意げに応じる。
「ウロンダリアだとあまり大っぴらに使えない武器が沢山あるけど、ここではそんな事言ってられないしね!」
「へっ、違ぇねえや! ……大・炎!」
ギュルスもまた、竜言語で炎の吐息を吐く。
状況は混戦のように見えて、各方面の熟練者たちが効率よく戦いでの役割を分散させ始めていた。ジノ率いる猫の戦士たちは大柄で隙の大きい魔物たちの眼や腱を攻撃してさらなる隙を作り、そこにヴァスモー兵たちの重い一撃が叩きこまれていく。
──見えない魔物が上層から降りてきます! 気を付けて!
頭上を見上げるウロンダリアの戦士たち。世界樹の分霊の警告の後、上層の魔法陣が消え、何か大きな塊の気配が落ちてくるのがわかった。しかし、ここで老べスタスと何人かの冒険者たち、さらにゴシュが異常に気付く。
「ピスリ・カ・グが見える!」
「わしにも見えるぞ!」
「あたいにも見えるぜ!」
鋭い黒曜石の刃を噴射する魔術で魔物たちを薙ぎ払っていたラヴナは、このやり取りで自分には月の魔物が見えていない事に気づいた。
「えっ? あたしには見えないけど、みんなは?」
近くのファリスも首を振る。
「私にも見えないわ。どういう事?」
「何じゃと……?」
経験の豊富な老べスタスは、ここであることに思い至った。見えない月の魔物ピスリ・カ・グが見えているのは、ゴシュと共に調理した化け物烏賊、ゴ・ズドゥガの肉を口にした者たちだけのようだと。
「あの化け物烏賊の肉だ! あれを食うと異層の存在が見えるようじゃぞ!」
「何ですって? いえ、あり得ない話ではないわね」
大きな黒い狼の幻影に月の魔物を食いちぎらせつつ、ファリスが推測を述べる。
「うん、魔術の理念に照らしても正しいわ。おそらく当たりよ」
爆発する火球を放ちつつ、ラヴナも応じる。
「何という事じゃ……無駄ではなかったのう!」
新たな、貴重な発見がもたらされた瞬間だった。
「まだ残ってる! あたい、持ってくるよ!」
ゴシュは赤い月のむせび泣く中、骨付き肉と共に駐屯地に駆け出した。厄介な見えない魔物への対処は、意外な実験から活路が見いだせそうだった。
化石化した世界樹から切り出された石材で組まれた、淡く光る石組みの通路をゴシュは急いでいた。トンネルのように頑丈なアーチ天井の構造を持つ通路は、世界樹の精霊とその力を強める歌により、わずかに緑がかった燐光を放っている。
急ぐゴシュと骨付き肉の前方に、壁から蛍のような光が溢れて集まり、世界樹の精霊の姿となって表れた。双子の世界樹の精霊のうち、女の姿をしたレムニスヤだった。
──ヤイヴのお姫様、これを……。
「えっ?」
レムニスヤはゴシュのこめかみに触れる。一瞬で様々な映像がゴシュの頭の中に流れ込んできた。それは自分たちの部族の宿敵、『血塗れの錬金術師』と呼ばれる男、ダクサスがこの都に転移して来ており、密かにゴシュと骨付き肉の命を狙っているという重大な情報だった。
「世界樹の精霊さん、これ……!」
──はい。決して気を抜かれずに。あなたの命はもう一度危険にさらされますが、そこに復讐の機会もあるのです。お気をつけて! あなたに幸運の加護を!
宝石のように輝く木の葉のような幻影が温かにゴシュと骨付き肉の周囲を舞う。それが消えると、世界樹の精霊レムニスヤも微笑みつつ消えて行った。
「そっか……そっか!」
ゴシュは父、ギャレドから託された小剣を抜いた。
「みんなの手柄を証明したら、復讐も果たさないとだよな! 父ちゃん、ネズ、みんな、あたいと骨付き肉は絶対に負けねーかんな!」
──おれも負けない!
骨付き肉も吠える。ゴシュと骨付き肉は再び走り出し、化け物烏賊の肉を皆に届ける役割に戻った。
さらに時間は過ぎ、未明。
歌によって輝きを増していた世界樹の燐光は、莫大な精霊力の消耗により少しずつ陰り始めていた。『落涙』は三十幾つを超えたあたりから誰も数える余裕はなくなり、集中力の限界から、次第に重傷を負う者も増えて来つつあった。
「流石に食い疲れて来やがったぜ! いつまで続くんだこれは!」
ギュルスが海綿のような極彩色のいびつな頭部を持つ人型の化け物を真っ二つにしながら悪態をつく。
「しばらく烏賊は見たくもないのう……!」
小鬼のような化け物の首を刎ねつつ同意するべスタス。
「こんなものの対応を定期的に続けていたら、とても発展などできそうにありませんね!」
四肢から鋭い刃の生えた狼のような魔物を刺し貫き、軽快に身をひるがえすジノ。
「それにしても、ルイン殿の武も大変な物とは聞くが、眠り女の方々も大変な使い手ばかりじゃな……」
べスタスの視線の先には、精神的な疲弊が見えてきたウロンダリアの戦士たちとは対照的に、一騎当千の活躍をしている眠り女たちの戦う姿があった。
「はっはー! いくらでも来い! まとめて掃除してやるぞ!」
銀の大剣と明星槌を振り回し、敵の数が多くなれば大狼と化して一気に薙ぎ払う銀狼ミュール。
「打ち砕け! 『鉄腕』っ!」
屈強な巨人の拳を召喚し、落ちてくる大型の魔物たちを次から次へと打ち倒す巨人の術師、メルト。
「みんな、あまり無理はしないで! 夜は影の力がとても強くなるの。命を大事にして!」
影から現れる槍や刃が次々と月の魔物たちを葬っていく。長い髪がこぼれる甲冑姿もりりしく戦っているのは、影人の皇女クロウディア。
「皆の者、これよりは休息を挟みつつ戦い、士気を整えなさい。使徒たる私はまだまだ限界が見えませんから、気にせずに!」
しばしば青い炎纏う突進で魔物の群れを一掃しつつ、戦士たちの心を鼓舞し、その怪我を回復させる、戦女神ヘルセスの使徒アーシェラ。
「燃える槍持つハイダルよ、断ち切る風のハリコンよ、精霊のよりどころたる世界樹を護れ!」
増幅された精霊力で、『風と炎の万刃』と呼ばれる、禁忌に等しい力で月の魔物を焼き、断ち切るのは妖精族フォリーのクーム。
「未知の魔獣に何とも心躍るが、今はそんな事を言っていられないな!」
黒竜カラダムニルの炎を吐く大曲剣を素晴らしい体術と共に繰り出す、闇の古き民の戦士、ギゼ。
「みんな、好きなだけ食いちぎりなさい! 幽界での飢えを満たすまたとない機よ!」
幻影の黒い狼の群れが次から次へと魔物に群がっては食い殺していく。本人も狼という噂が根強い、狼の魔女ファリス。
「いやはや、しかし……」
感心して眺めているべスタスの視線の先には、この状況を全く無視しているかのようなさらに別格の使い手が二人いた。
黒曜石と銀の頑丈な装飾装丁のされた分厚い魔術書を浮かべ、黒いワンピースとサンダル姿で散歩でもしているような雰囲気を漂わせつつも、次から次へと様々な魔術を無言で発動しては魔物を処理していくラヴナ。襲い来る魔物に視線さえ向けず、まるで魔術の復習を兼ねた散歩のように様々な魔術が発動している。
(あれは戦ってもおらんのではないか?)
そんなラヴナは何かに気づいて視線を上げ、その視線の先にあるものに気づいた老べスタスは、今度こそ絶句した。
太い荊が大きな座椅子のように伸び、その上には小さな机。その机の上にはランプとティーカップが置いてあり、『薔薇の眠り人』魔女ロザリエが優雅に座して本を読んでいる。
しばしばロザリエの荊の周囲には紫色に淡く光る人型の霞が現れるが、月の魔物たちはこれに誘引されて叫びつつ突進し、その矢先に地面から現れた荊に刺し貫かれ、絞め殺され、そして生き物のような荊に放り投げられていた。既に魔物の死体が山のように重なっている。
その様子を一瞥もせずに、時にティーカップに手を伸ばすロザリエ。
「ちょっとロザリエ、真面目に戦いなさいよ!」
腰に両手を当てて怒るラヴナに対して、ロザリエは面倒そうに答えた。
「戦ってるわ。効率を突き詰めただけよ。それに、あなたに言われたくはないわね」
「あたしは強いからそう見えるだけよ!」
「奇遇ね? 私も強いのよ? 知っていると思ったのだけれど」
ロザリエは奥深く悪戯っぽい笑みを浮かべた。ロザリエに敗北に等しい引き分けを経験しているラヴナは何も言い返せない。
「くっ……嫌な女ね!」
(なんと、ラヴナ姫が押され気味じゃ! なんとまあ……)
老べスタスは改めて周囲を見回した。しかし、この期に及んでもこの余裕のある雰囲気なのはとても心強い事だった。ウロンダリアの戦士たちの士気は全く下がっていなかった。
しかし、ここで赤い月がひときわ強い声でむせび哭き始めた。
──月の魔女たちと、とても邪悪な何かが……降りてきます!
世界樹の分霊の警告と共に、戦いは大きな節目を迎えつつあった。
first draft:2021.11.11
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