第三十話 決戦そして夜明け
燃える大樹の魔王ザンディールとの戦いは中断となり、張り詰めていたバルドスタ兵たちや眠り女、アーシェラたちに休息の時間と戦いの予定の組み直しをする時間をもたらした。
ダスラの王宮の大広間には、身分にかかわらず食事のできる席が設けられ、士気の高い王族派の兵士たちの驚きや感心の声が満ちている。
──王女様たちに変わらずに忠誠を誓っていて良かった!
──ハイデ殿の剣技は見事なものよ、さすが『バルドスタの五剣』だ!
──眠り人殿の武威を見たか? 大戦父様の妖刀と見た事もない魔剣を両手に戦っていたぞ!
──『眠り女』の方々も見事な使い手よ!
このような声が遠巻きに聞こえてくる中、アーシェラと『大戦父』アレイオンを上座にした食事の席では、未明頃からの再戦について練り直しが行われていた。
「たぎる。全くたぎるのう! 果たしてこの歳になってからこれほどの武運を目にするとは、ワシはバルドスタで最も恵まれた武人ではなかろうかと思うのう!」
甲冑を脱がず上機嫌のアレイオン。
「大戦父様、程々になさってくださいませ。ルイン様と茶会の約束もあるのですから」
「ふん、年寄りに熊狩りでもあるまい、心配は無用じゃ! アーシェラよ」
目を輝かせる老武人には何を言っても聞きそうになかったが、そんな老人を見るアーシェラも楽し気だった。バルドスタという国の気骨が蘇りつつあった。
「さて、ではどうやって魔王の四本角を斬るかだが、どちらかの二本なら斬れる。ただ、『覇州闇篝』の声を聴きたい。魔王の氷が解け始めたら少しの間でいい、一人で戦ってみたいのだが」
本来なら無謀かつ愚かに等しく受け止められる、このルインの申し出を反対する者はいなかった。それくらいは問題がないほどの武力の持ち主と誰もが認めていた。
「了解した。私は、おそらく角を一本なら斬れる。同時に、それが限界だとも思うのだが……」
ハイデは何度かの居合で感じた、巨木のような手ごたえのある魔王ザンディールの腕や根を斬った時の感覚を思い出していた。角は鋼鉄のように固そうだが、限界まで神力を解放した斬撃なら斬り落とせると考えていた。
「私は、おそらくとどめで手いっぱいだと思いますわ」
アーシェラも実際の所を言う。
「そうだろうな。皆良い感じだ。中途半端にできると言われない方が助かる」
ルインの言葉にアレイオンが無言で深く頷いていた。戦場や戦いにおいて、出来ない者の『できる』ほど危険なものは無い。
「すると……」
ルインは言いながら、食べ終えた鳥の骨を空いている皿に四本並べ、うち三本をフォークでよけた。
「角をあと一本確実に斬り落とす手段が必要だな」
「あたしのアグラーヤでもできなくはないけど、鋸っぽい斬り方だから、こう、すぱっという感じは難しいなぁ」
ラヴナは少し残念そうにしている。。
「限界まで魔力を使えば氷の巨人を呼べますが、角を折るのは難しいです……」
メルトも残念そうに言う。しかし、この言葉に老魔術師タイバスが反応した。
「巨人と申したか? 巨人の召喚はしばらく断絶していた呪文のはずじゃ。そなた大変な魔術の才があるのう!」
「いえ、古い巨人の言葉を少し使えますから、そのせいです。私の名前も古い意味と新しい意味と二つ重なっていて、古き名のもとに古き巨人たちと話すことができますから」
「……なるほどのう」
タイバスは何かを深く考えたうえで、ルインに向き直った。
「眠り人殿、この巨人の娘御はこの世の秘密を少し知った形になっておる。守ってやらねばいかんぞ。ヨルスタの巨人たちは、理由があって魔術を捨てたはずじゃからな」
「魔術を捨てた?」
ルインが訝しむ。
「あれは何だったか? 随分と若い頃にちらと読んだ禁書にあったはずじゃ。巨人の魔術は何らかの契約と結びついておってな。しかし確証は無い。じゃが、いずれにせよ貴重な力じゃ。守ってやるべきじゃろうて」
「わかった。気を付けよう」
少し沈黙が訪れた。魔王の角の四本目を斬るのは誰か?
「あの、私なら斬れるわ。ただ……」
控えめに名乗りを上げたのはクロウディアだったが、頬を少し赤らめて、言いづらそうにしていた。
「その……ルインの影に潜れば、完璧な瞬間に角を斬り落とせると思うの。影の刃は特別な力で刃そのものを防いでなければ何でも斬れるから」
「ああ、決まりだな、それで行こう!」
ルインはあっさりその案を採用した。
「えっ? ……分かったわ。ルイン、私にあまり気を緩めないようにしていてね? 私も気を付けるから」
「ああ、まあ気を付けるよ」
(うーん……)
ルインの返事は全く軽いものだった。クロウディアは何か言いかけて、言うのをやめた。言う事は言ったのだし、念を押すのも変な気がしていた。
(ふふ……)
その様子をラヴナが微笑ましく見ている事に、クロウディアは気づいていなかった。
未明。凍った魔王ザンディールの全身から氷が割れる音が響き始めていた。そう明るくない月明かりの下でも眼が慣れればだいぶ見渡せる状況の中、白かった魔王の全身に氷が剥がれ落ちて黒くなった部分が多く表れ始めていた。
「そろそろだ」
『覇州闇篝』を一本だけ携えたルインがつぶやく。
「灯火を!」
アーシェラの叫びとともに、松明やかがり火、魔導の灯火、飛空艇からの魔導の探照灯の光が『屍の森』の巨大な魔王の姿を浮かび上がらせる。その光に反応したように、魔王の目は動いた。
「『終焉の氷』か、ぬかったわ!」
自らへの怒りを感じさせる声とともに、四本の巨腕が炎をまとい、うごめく無数の根と共にルインに襲い掛かる。
(答えてみろ、剣よ!)
ルインは『瞬身』で幾つかの根を斬りつつ影のように突進し、数段の鎖の魔法陣を経由して空中に飛びあがり、背後にさらに魔法陣を出現させて突進した。すれ違いざまに魔王の目を斬る。
「ガアッ!」
燃える炎の音そのものの叫び声が響く。しかし当然、致命傷にはならない。ルインは全身を駆け巡る闘志の炎を黒い刀に集中させた。
(……何かが見える!)
──最後まで戦うわ!
──無駄だ、お前たちは全てこの冥府の海に沈む!
──いや、戦いは終わらない。お前たちを皆殺しにするまで……!
ルインの心に、瞼の裏に、どこか遠い世界での戦いの記憶が流れ込んできた。巫女にして戦士でもある勇ましい娘たちと、その娘たちを率いる黒衣の、孤高の戦士。まるで……。
(……おれと似ている?)
ここで、何かが額のあたりに閃くように語りかけてきた。
──ああ、やっと見つけた! 彼はあなたの影のひとつ。遠い遠い世界のあなたの影。茫漠の海を越えて、やっと!
「誰だ⁉」
思わずルインは声を出した。返しを持つ鋭い穂先に変わった鎖を魔王の後頭部に打ち込み、身体を炎に照らされながら、魔王の背後から加速して正面に出ては着地する。と、意識の中に、異国の言葉で組まれた見えざる術式の仕掛けが感覚で理解できるように流れ込んできた。
──『闇雨・無影』
うっすら見えていた月が隠れ始めた。
(……何だ?)
魔王ザンディールは異質な魔力の気配を周囲から感じ始めた。
(あの刀が、雨を?)
──ダークスレイヤーは、あれは『地獄の季節』と呼ばれる能力により、いかなる武器も最後は自分のものにしてしまう。
遠い昔の言葉を思い出した魔王は、その一瞬にダークスレイヤーの姿を見失った事に気付いた。暗い雨は激しくなり、激しい闘志を燃やしているはずの黒い戦士の姿は見えない。もはや完全に気配が消えていた。
(あの刀の能力か!)
この巨大な姿にあってなお恐怖が魔王の心に沸き上がった。すかさず両目と両耳を手で覆った刹那!
「……いい勘だな!」
笑いを帯びた凄みのあるダークスレイヤーの声がし、左耳をかばった手に刀が突き立てられたが、その気配は一瞬で消えた。
(恐ろしい……しかし、余の生が意味を持つのはこれからぞ)
魔王ザンディールは空気が震える声で吠えた。
「もうじき薄明の時! 余は十分にこの生を倦んだ! 幕引きにするがいい!」
応じるようにルインが叫ぶ。
「皆、けりをつけるぞ!」
距離を取ったルインのもとに、ハイデとクロウディア、そしてアーシェラが駆けつける。『屍の森』に降る雨と、彼方の東の空の薄明が、まさに運命の岐路のようだった。
「ルイン、影に潜るわ!」
軽装のクロウディアがその姿を消し、ルインの心身に何か柔らかな温もりが触れた。
「私も行ける!」
「私もです!」
「……行くぞ!」
このやり取りを闇篝の力が魔王から完全に隠しており、魔王は見当をつけて炎の波動を放ち、焦炎まとう巨腕を振りかざす。
「はあっ!」
「応ッ!」
ルインとハイデは疾風のように走り、魔王の巨体の凹凸を足掛かりにして頭部へと向かった。二人の服や髪をでたらめに動く腕の炎が焦がし、身体を照らす赤い熱と光が通り過ぎていく。
(フェルネ、私は死なないッ!)
──虚空断ち・二天一刃!
魔王の巨大な左の角の一本目、ハイデはこれを斬り上げから斬り下ろしの二閃で断ち、脱力を感じ始めた身体を騙すように離脱する。
「断て、ヴァルドラ!」
ルインは魔剣を呼びつつ、『闇篝』に永劫回帰獄の黒い炎をまとわせ、居合の剣閃で一本目の角を断った。素早くその剣を左手に持ち換えると、魔剣ヴァルドラの黒い刃翼が具現化し、二本目の角を挟み込むように斬り落とす。
「今だ、クロウディア!」
「やりおるが、まだだ!」
魔王の恐ろしい威嚇の声が響く。
「させないわ! 舐めないで!」
魔王ザンディールは最後の角を腕で守ろうとしたが、ルインの影から現れたクロウディアは、左手の曲剣ウームブラを振って影の刃を飛ばすと、それらの腕を影で縫って動きを止め、さらに片側が炎状刃の剣ブラインドラを複雑に振り回し、その影を凶悪な丸鋸のようにして最後の角を斬り落とした。
「おお! なんという……!」
驚きの声の後に、魔王のこもった叫びがはっきりと空気を震わせるのが分かった。落とし穴の中の杭だらけといった、長い牙だらけの口が大きく開き、その奥に一つの眼球と脳が見える。
「今だ!」
射し始めた薄い朝の光の中、ヘルセスの姿をしたアーシェラが空中を駆けあがると、その神々しい半透明の大鷲の翼を広げ、聖剣フレス・アレサを掲げて、槍投げのように姿勢を絞る。
(ヘルセス様、加護を!)
──今よ! けりを付けなさい、アーシェラ!
「はあっ!」
放たれた聖剣は青白い稲妻のように魔王の禍々しい口の中を貫通し、頭を通り抜け、遙か後ろの城壁に突き刺さった。
「おお……見事……我が生はこれでやっと、……意味を……!」
魔王の暗黒相は急激に炎を失い、その輪郭がぼやけ始めた。
「契約による預かった魂を返し、余は勇猛なる者どもに炎の王笏として報いん!」
ザンディールの暗黒相は四本の腕を高く掲げて叫ぶと、その姿は最初に現れた時の人間に近い王の姿となり、その後一本の火柱と化すと、大きな赤い宝石が飾られた、黒檀の王笏と化した。着地したアーシェラにルインが声をかける。
「あれは多分君のだ。手に取ったらいい」
「私の?」
──大丈夫よ。
女神ヘルセスの声もし、アーシェラはその見事な王笏を手に取った。意志が流れ込んでくる。
──我は炎の魔術を極めし者。所有者は王にして炎の大魔術師なり!
まさに王家にふさわしい魔術の至宝がもたらされた瞬間だった。しかし次は周囲に多くの霊体が現れ、その先頭に立つイェルナ女王の姿をよく見た一同は驚愕した。
「……シェア?」
その姿に思わず声を出すルイン。
「シェアさん?」
アーシェラも同じように見えていた。
「えっ? 私?」
やや離れた位置のシェアもまた、イェルナ女王の姿が確かに自分によく似ていると思った。
──ああ、そういう事だったのね。だからイェルナは……。
女神ヘルセスは何かを理解したらしい。
──いずれ分かるわ。この世の秘密の一つよ。
霊体でもなお眼に涙の光るイェルナ女王は、心に直接響く悲し気な声で囁いた。
「ああ、気高き我が子孫、そしてダークスレイヤー、本当にありがとうございます。ただ、私たちの魂は汚され、傷めつけられ過ぎ、地上に強く縛られてしまっています。どうか、ヘルセス様の救済と、ダークスレイヤーの救済を!」
ルインは少し厳しい表情になったが、短く答えを返した。
「理解した。協力しよう」
──彼女たちを救い、幕引きにしましょう。
ヘルセスの声が聞こえてくる。
「クロウディア、ハイデ、これは心の負担が大きすぎる。みんなもこの場から離れてくれ!」
「ルイン様、あの男はどうするの?」
ラヴナの問いは鞭で縛られたウラヴ王の事だった。
「あのままでいい。どうせ助からない。アーシェラ、何か刑罰や拷問でもするかね?」
「いえ、一刻も早くこの世から遠ざかるなら、もうそれで。記憶にもとどめたくありません」
「いい判断だ」
こうして、拘束は解かれたものの意識を失ったままのウラヴ王と、古代のバルドスタの人々の霊体の他にはルインとアーシェラを除いてその場から立ち去った。
「ヘルセス様、長すぎる囚われ人たちに永遠の安寧を!」
明るくなり始めた『屍の森』に、半透明の青白い大鷲の翼が包み込むように現れ、半球状の空間の頂点には、より深い藍色なのに輝きをたたえた別の空が見えた。
(あれが、魂の帰る地なのね……)
幾つかの魂が上昇し、天空に空いた穴に消えていく。しかし、イェルナ女王たちは次第に赤黒いもやに包まれ始め、苦悶の声を上げ始めた。
「ダークスレイヤー、あなたの剣の地獄に、彼らの苦悩と情念と、そして罪人を!」
アーシェラの口から出た言葉はヘルセスのものだった。
「魔剣ネザーメアよ、救われぬ情念と怨嗟、そして罪人を全て吸い上げ、その炎で燃やせ!」
地面を透過する黒紫の鎖を引き上げたルインは、暗く半透明に濁り、様々な色に変色しては文字や印章を浮かべる恐ろしい剣を引き出した。その剣は空中に浮かぶと、イェルナや重臣たちの霊体にまとわりついた赤黒いもやを、まるでそこに穴でも開いているかのように渦をまいて吸い上げ始める。これにより赤黒いもやの消えた霊体は涙を流しつつ、礼を言いながら昇天していった。
──アーシェラ、手を取ってもらいなさい!
「ルイン様、私の手を取って下さい!」
「ああ、大丈夫だ!」
ルインはアーシェラの手首を掴んだ。次の瞬間、人々の霊体が無数に地面から噴出し始め、アーシェラの視界は全て白くなり、何も見えなくなった。
(ああ!)
アーシェラの心の中に、無数の人々の記憶が流れ込み、そして消えていった。怒り、喜び、愛、戦い、死、性行為、拷問、絶望……。中にはウリス人のものだろうか、原始的な行き場のない怒りや衝動も多かった。
(ああ……消える! 私が!)
奔流のような人々の記憶がアーシェラをどこかに押しやり、消し去られてしまいそうだった。しかし、何か揺るがないものを感じてその感覚を手繰る。それはルインが掴んでいる左腕の感覚だった。
──大丈夫だ。
ルインの心の中の自分が見えた。
──君はバルドスタの気高い王女、アーシェラだ。自分を見失うことなどない。大丈夫だ。
(……ルイン様!)
永遠に続くかと思われた自我が押しやられる感覚は去り、視界が戻り、ルインの剣には、『屍の森』に眠っていたであろう無数の死者の情念が吸い込まれ、浄化されて天へと旅立っていく。
──ありがとう、我が勇敢なる子孫。ありがとう、ダークスレイヤー。私が失い、そして殺めてしまったあの子たちと、そして、あの人のもとへ……。
イェルナ女王の涙が落ち、彼女もまた光と化して天へと旅立った。
──我々も、ようやく眠れる。愛する者のもとへ……。
無数の死者たちがその身体から情念をはがして天へと還っていく。
「ああ、やめろ! やめてくれ! こんな事が!」
アーシェラはウラヴ王の声に気付き見やると、無数の死者がウラヴ王の肉体に噛みつき、ウラヴ王は生きながらに皮を剥がれ、肉をかじられ、骨の見える恐ろしい姿となり、やがて多くの死者たちに引きずられ、聞いた事の無いような悲鳴を上げながらルインの剣の中へと吸い込まれていった。
「大丈夫か?」
振り向いたルインが笑って聞く。アーシェラは涙をぬぐいながら答えた。
「はい。あなたがいれば大丈夫です」
やがて最後の魂が天へと上ると、気配の変わった『屍の森』に清らかな静寂が訪れ、朝日が差し込んできた。立ち会ったすべての者たちは無言の涙を流していた。
ただ一人、ルインを除いて。
バルドスタの長い苦悶の歴史はこの日、終わりを迎えた。
first draft:2020.08.11
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