第三十話 薔薇の眠り人と悔悟の天使
『二つの世界樹の都』テア・ユグラ・リーア、大高壁正門の上。
『薔薇の眠り人』ロザリエ・リキアとの再会で驚いていたラヴナは、あまり気後れを見せたくない相手に対してすぐに思考を巡らせた。かつての『混沌戦争』でロザリエは宿敵とも言える混沌の花の神ヴァラリスを相打ちに等しい果敢な戦い方でウロンダリアから追い払っており、その戦いで両足と左腕を食われて現在は義足・義手のはずだった。しかし、今のロザリエはどうにも義手や義足ではない。ラヴナはその意味を考えつつ慎重に質問する。
「ロザリエ、今のあなたはもしかして義足や義手ではない、わよね?」
ラヴナのこの質問にロザリエは一瞬驚いた眼をしたが、その後何かを理解したように微笑んだ。
「……理解したわ。未来の私は手足を失うようね。でも、かろうじてか余裕にか、生きてはいるようね。もしかしたら宿敵と戦った後かしら? 私がそれくらいする相手は奴しかいないと思うのだけど」
ロザリエが『奴』と呼ぶのは邪悪な混沌の花の神ヴァラリスしかいない事をラヴナは知っている。
「ん、まあ、しぶといあなたは相変わらず元気だわ。あたしがあまり会いたくないと思う程度にはね。ふふふ」
ラヴナは少し意地の悪い核心をぼやかした言い方をした。
「あら親切なのね。未来が変わってしまっては困るけれど、十分な匂わせだわ。……なるほどね、奴に一矢報いる日が来そうで楽しみだわ」
しかし、ロザリエの返事はラヴナの予想と異なっていた。
(この女と話すと相変わらず調子が狂うわ……)
ラヴナの内心の不満をよそに、ロザリエの静謐な青紫の瞳に一瞬だが獰猛な光がよぎる。
「二つほど確認したい事があるけど、まず私は『嘆きの海』の古い島の遺跡の調査をしていたらここに飛ばされたのよね。ラヴナ姫たちは私よりもだいぶ未来から来たようだけど、どこの遺跡からここに来たのかしら?」
「あたしたちは南方新王国と魔の領域の中間にある、『不帰の地』に隠されていた遺跡からよ」
「ああ、『ヴァンセンの古都の門』ね」
ロザリエは事も無げに答えた。
「知っていたの?」
「ええ。ただちょっと気になるわ。あの門の術式を発動させるには、あの複雑な文字を解読できる事のほかに、この都の三種族の血を引く者のうち、月の民ユイエラの血を引く者がいる事が条件なのよ? 古き民アールンや翼の民フェディルはともかく、月の民を連れてくるなんてさすがね?」
「えっ? 何それ初耳だわ。けれども、あの場には古き民の血を引く者しかいなかったはずだから、それは間違いでは無くて?」
「そうなの? 変ね。……まあいいわ、もう一つは、ラヴナ姫、どうやら結婚したのね?」
「はっ?」
ラヴナはこの指摘に息が止まるかと思った。
「あら違うの? 何だか可愛らしくなってるし、何より、魔力に男の人の気配が漂ってて、以前のラヴナ姫の混沌とした感じが無くなっているわ。何かが分かたれて秩序立ち、すっきりしている感じなのだけれど」
「そんな話は無粋よ! あたしにとっては『昨夜誰かと寝た?』って聞かれているようなものなんだけど!」
「ごめんなさい。分かっててからかっていたから気にしないで」
ロザリエは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「余計たちが悪いわ!」
「はいはい、以降気を付けるわ。恥ずかしがり屋のラヴナ姫さま」
「この都が危機で無かったら少し力で分からせてやりたいところだわ!」
「あら、先日やり合ったばかりなのにそんな事言うのね? ああ、私にとっては先日、という意味だけれど」
「えっ、じゃあ……!」
かつて、ラヴナはロザリエと派手にやり合った事がある。それは混沌戦争から二百年ほど前の話で、つまりこのロザリエはほぼ千年前の世界から来ている事を意味していた。
そして、その戦いでラヴナはほぼ敗北に等しい『引き分け』を経験してもいた。
「なるほどねぇ。まあ、今のあたしには真の大人の女の余裕があるから、そんな事しないわ」
なぜかロザリエに対しては妙に突っかかってしまうラヴナは、これ以上面倒なことにならないように余裕を見せて話の引き際を作ろうとしていた。
「わかったわ。でも本当に余裕のある女はわざわざそんな事を口には出さないものだと思うけれど、そこはきっと価値観の違いね」
「うっ……」
どこか少し敗北感が漂う気もする中、ラヴナはこれ以上おかしな空気にならないように自制に努めた。不思議な事に心の中に残るルインの気配に触れると、それは以前よりもかなり容易な事になっていた。
「まあ今はとにかく、この美しい都と世界樹を護りましょう?」
ロザリエは親しい友にでも語るような落ち着きを見せている。
「そうね、それは同意だわ。遊んでいる場合では無いものね。あなたとあたしがいるとはいえ」
はるか上空の血を滴らせる目に変容した赤い月は、現在はその落涙はやや落ち着いている。しかし困難な戦いはむしろこれからという予感があり、ラヴナは気を引き締め直していた。
そして眼下では、アーシェラ率いるバルドスタの騎士と戦士たちが、凱歌を歌いつつ長い橋を引き上げてくるところだった。
老べスタス率いる『深淵の探索者協会』の探索者たちは、緊張感のある戦いをしつつも一方で実地訓練や検分のように、ゴ・ズドゥガへの有効な攻略方法を編み出していた。既にこの巨大な装甲烏賊は両目を潰され、眼や触手の付け根となる部分には沢山の矢や槍がハリネズミのように突き刺されている。凶悪な触手も今は冬場の蛇のように緩慢な動きになりつつあった。
「べスタス顧問、そろそろとどめを?」
学者のローブを着た女魔術師が、帳面を片手に問う。
「うむ。ほぼ良かろう。あとはこやつが食材になるかじゃが……」
「えっ? それも調べるのですか?」
「当たり前じゃ! 未知の化け物はその価値を正確に測らねばならぬ!」
「仰る通りですが……」
「我々探索者の『討伐』とは、ただ倒しただけではなく、それを有効に利用してこそなのじゃ! 次の戦いまで間があるなら、ぜひやってみようぞ。標本を取るのも忘れずにな!」
「確かに! かしこまりました!」
べスタスの観察により、赤い月の巨大な装甲烏賊、ゴ・ズドゥガは、確かに装甲個所は多いものの、魔力を減衰させる鉛の矢じりを多く撃ち込むと、その感知範囲や動きは目に見えて衰える事が分かった。また、火炎はあまり効果がないものの、雷電や氷雪系の魔術効果は有効だった。
伝説的な魔物への対処はそれだけで千金を超える価値があり、新しい刺激がしばらく無かった『深淵の探索者協会』の探索者たちはこの成果に大いに興奮し、戦意も高く、結果としてほとんど怪我人も出なかった。
──しかし、今夜の最終波での侵攻が最も脅威です。皆さん気を抜かれずに。
世界樹の分霊の忠告に、探索者たちは新たな未知への期待と共に気を引き締めていた。
世界樹の洞の中、屋根のない家々の街で甲虫バルヂム・ギラと戦っていたジノ率いる猫の剣士たちは、素早い甲虫を相手に効果的な戦い方を編み出していた。この甲虫は屋根のない家々の壁を登ろうとするが、それを落としつつひっくり返すとすぐには起き上がれないため、もがいている間に体節に剣を突き刺すと紫色の血液をほとばしらせて動きが緩慢になる。
また、金属光沢をした螺旋状の口吻が極めて軽く有効な槍となる事が分かったため、猫の剣士たちはこの甲虫を倒しては口吻を引き抜き、それを新たな武器として配り、より良い成果を上げていた。
「驚いた。彼らの最大の脅威となる鋭い口の管が私たちにとっても有効な武器となるとは」
ジノは螺旋状の剣とも槍ともなる新たな得物を感慨深く眺める。俊敏な猫の剣士たちにとって、鋼の武器を複数持つのはその俊敏さを殺してしまいかねなかったが、この中空で軽くも丈夫な口吻はそうはならない。
「世界樹の分霊よ、この戦いで得た甲虫の素材を持ち帰っても?」
──構いません。手に持てる範囲のものなら持ち帰れます。
「ありがたい! 皆、この大群を討伐したら、夜の最終波とウロンダリアに持ち帰ることも考えて、この虫の素材を剥いでおこう! 甲羅は軽い防具に、口吻などは武器の素材になりうる。間に合えば夜の戦いも少しは有利に進められるかもしれない!」
「ニャアアア!」
猫の戦士たちは縦横無尽に壁や高所を駆けて甲虫を退治していたが、それでも士気高い返事が返ってきていた。
高所の世界樹の大枝の街の広場では、ヴァスモーの戦士ギュルスと有翼の月の魔物クヴァ・アタルが、互いを鎖でつないだままに熾烈な打ち合いを続けていた。
──屈強だな。痛みに鈍いせいか? 豚人間が!
「うるせぇ!」
四本の腕を持つ月の魔物クヴァ・アタルは、長い腕に青白い魔力を纏わせて殴りつけてくる。それは時に家の壁を削り、打ち砕くほどの威力を持ち、しばしばギュルスの大斧さえ素手で止められていた。この拳打を凌いでいたギュルスの鉄の丸盾も各所が歪み始め、いつまでも攻撃を凌ぐことは難しくなりつつあった。
しかし、このクヴァ・アタルという存在はこの街に侵攻してきた魔物の指揮官のようなものらしく、ギュルスの配下の百人隊や工兵隊は月の魔物の押し返しに成功しており、少しずつ遠ざかる魔物たちの叫びの中、城門が修理されつつあった。
(悪くねぇ。悪くねぇぜ……!)
この厄介な魔物を自分が引き受けている事により、大局を優勢に運べている事に安堵しつつも、決定打を見いだせない自分にギュルスは苛立ち始めていた。
(仮にもルインの旦那とやり合ったってぇのに、こんな奴に負けちまったら、旦那の名を汚しちまわぁ)
ヴァスモーの戦士にとって戦いは名誉そのものだった。自分が認めない相手に敗れる事は、戦ってきた相手の名を下げる事であり、だからこそヴァスモーの戦士たちは勇猛に戦う。相手と自分の名誉を汚してはならないからだ。
(こんな時、ルインの旦那なら……!)
ギュルスはルインと酒場で揉めた時の事を少し懐かしく思い出した。あわせて、ルインに何度も投げ飛ばされた事も。
(……そうだ!)
折しも、クヴァ・アタルは苛立ちつつも長い拳で殴りつけてくる。
ギュルスは呼吸を整え、全身に魔力を行き渡らせて身体の剛性を上げた。一方で、わざと体力の限界を演出し、あえて視線と足の運びをブレさせる。
──そろそろ息も上がってきたようだな。観念するがいい!
クヴァ・アタルは素早く引き手を取ると、鉄輪がついたままの腕でギュルスを殴り殺そうとした。
(今だ!)
ギュルスの目がしっかりとその腕をとらえる。クヴァ・アタルの突き出した拳に対して、ギュルスは足の運びを回転させつつその腕を背負い、クヴァ・アタルの懐に背中から入ると、必殺の突きの勢いに自分の力を乗せて、自分より優れた体躯を背負うように投げて叩きつけた。
──ぐうっ!
あまりの衝撃に、広場の敷石に蜘蛛の巣のようにひびが入り、クヴァ・アタルは気絶した。ギュルスは大斧を構えてその首を落とそうとしたが、一瞬考えてそれをやめ、鉄輪に繋がっていた鎖を何重にも巻いてその身柄を拘束する。
やがて、クヴァ・アタルは息を吹き返した。
──なぜ私を殺さない?
「へっ、本来なら、負けてたのはオレだ。ある戦士からもたらされた敗北が、おれにこの名誉ある勝ちをもたらした。そして、てめぇはその勝利に至る苦難を得るにふさわしい戦士だった。だからおれはてめぇの名誉を尊重し、あの世には送らねえ。この都の連中に引き渡すぜ」
クヴァ・アタルの梟の目が大きく見開かれたが、それは一瞬のことだった。
──……好きにするがいい。異界の戦士よ。
異形の魔物は見下した口調を使わず、豚人間、という言葉も使わなかった。
「いい喧嘩だったぜ」
ギュルスは少しだけ笑うと、戦況の把握と指示に戻っていった。
時間は少し戻る。
おそらく混沌の領域に呑まれてゆくバゼリナに永劫回帰獄の黒い鎖を巻き付けたルインは、恐ろしい速さで遠ざかっていく彼女に負けぬ速さで鎖を手繰り続けていた。
ルインの意思によりすばやく領域に巻き取られていく鎖だが、それでも暗黒の彼方にバゼリナの姿は見えない。そして、何らかの狡猾な意思が働くことを考慮したルインは、二柱の存在を呼び出し、『二つの世界樹の都』に向かわせることにした。
(……出でよ!)
ルインのそばに黒炎に燃える鎖の輪が二つ現れ、その輪の暗黒の彼方に火の粉の舞う世界から現れたのは、一人は青い法衣に王冠を被った骸骨、死者の王マルコヴァス。そしてもう一柱は、切れ込みの多い黒衣に黒髪、しかし二対四枚の翼が切り取られ、口枷と目隠しをされて鎖で縛り上げられた、美しい女の姿をした存在だった。
「修復者セシエル、その戒めを解く!」
ルインの声とともに、黒い女性存在の口枷や目隠し、鎖が全て消え失せた。
──追放された『悔悟の天使』の一柱、『修復者』天使長セシエル。
セシエルは幾つかの黄金の星々が瞬くよう、瞳孔の無い瞳をルインに向け、少し皮肉めいた笑みを浮かべた。
「我らが闇の真王さま、あなたにとって忌々しさに過ぎるこの私の戒めを解くとは、いかなるご用件ですか? 私たちの悔悟が足りず、やはり惨たらしく処刑をされるのでしょうか? はたまた拷問を? それとも、女の代わりでもさせるおつもりですか?」
セシエルは真鍮の聖杖を呼び出し、尊い仕草と声で笑った。
「残念ながらどれも違う。仲間たちが赤き月の禍にさらされた異なる時間と世界に呼び出された。彼らの援護を頼みたい。誰も失われる事の無いように」
この言葉に、セシエルの両目からきらめく涙があふれだした。
「ああ! 長い時を経て、やっとこの時が! 私たちの悔悟の涙は遠き約定の通りに、今や大海を一つ満たしました。それでもなお責務を科されることはなく涙に濡れておりましたが、遂にこの日が来たのですね! お任せを、我らが闇の真王さま!」
セシエルの切り落とされた翼が、それでも嬉し気に羽搏いている。
「その名で呼ぶな。それと、いちいち皮肉を交えるのはやめろ。そういうところだぞ?」
「はい。よく理解していますとも。それでもなお理解していただきたく。そして責務は完璧にこなしてご覧に入れましょう。しかし足枷までは決して解かぬようにお願いいたしますね。信用されたくありませんので」
「ふ、当然だ!」
ルインは少しばかり笑った。この様子を見ていた死者の王マルコヴァスが、骸骨の口を開く。
「驚いたな、貴公がこれほどまでに他者を気にするとは。余の知らぬ間に、貴公は少し変わったのかもしれぬな。……しかし悪い予感はせぬ。何やら珍しい物事と戦いの場に、今や肉の無きこの胸でも躍るというものよ。留守は任せるがいい」
「すまない、王」
「なに、退屈も紛らわせるというものよ」
「ところで、かの地には何をもって目印として至れば良いですか?」
ルインはこの質問に、半呼吸程ためらいを見せてから答えた。
「上位の魔族……いや、おそらくは古い神族のラヴナ・ザヴァ、今のおれの魂は彼女と少しだけ触れ合っている。それを辿り、彼女の元へ」
暗黒の空間の中、セシエルは虚空を見通すように眺めた。
「私たちの魅力には毛ほども揺らがないあなた様が、その魂に触れることを許すとは……いえ、不可抗力に見せかけた何者かの運命の操作ですね。良いでしょう。その方の元へ参り、責務を果たします」
「今なんと?」
「いえ、では! 賢き王マルコヴァス様も同道願います」
ルインの質問をはぐらかすように、セシエルとマルコヴァスは消えてしまった。
「全く。起きてみれば賑やかな事だ……」
ルインはやれやれと言った風にため息をついた。同時に、彼方にうっすらといずこかの領域が見え始めている。
「どれ……!」
ルインの目に獰猛な光が躍り、激しい戦いはすぐそこまで迫っていた。
first draft:2021.10.08
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