第三幕 月を呼ぶ前に
かつて、『豊穣なる雨の地』と呼ばれていた世界、ウル・インテス。
マスティマ・ウンヴリエルとダークスレイヤーの激しい戦いは既に遠い昔となったこの世界の空。その冷たい霧風の中を、一角の白い馬に横座りした女が優雅に駆けていた。
住人のいなくなった世界の空は現在、極めて清浄なものとなり、その清らかで冷たい霧が女の肌や白い髪、下着の上にまとう透けた薄絹を濡らし、神秘的な艶めかしさが漂っている。
──『白い女』または『飛沫の十姉妹』の三女、『気の強いミルフィル』。
無限世界の無名にして至高の存在『慈悲』の涙が、生命の原質を湛えた白き『乳海』に落ちて生まれたとされる、無限の生命力を持つ存在の一柱または一滴。
「……ふう、冷た……」
ミルフィルは霧に濡れて重くなった髪をかき上げ、まんざらではなさそうにため息をつく。わずかに銀がかった白い髪の、特にこめかみの長い三つ編みはさらに重いが、自分の髪の重さにどこか満足感を得ていたミルフィルは、機嫌よく遥か下方の大地を見渡しながら高度を下げていった。
かつてマスティマ・ウンヴリエルがこの世界を焼いて破壊しつくすために降り注いだ隕石の跡は、現在はだいぶその荒々しさも滑らかになり、大地の各所には広い帯状に草木が生えている。
ミルフィルはこれらの植物の帯のうち、芽吹いて間もない新しいものを探してはなぞり続け、やがて淡い植物の芽が続く帯と、その先端を歩いている大きな白い鹿を見つけた。
「姉さん!」
白い大きな鹿に並んで歩いて声をかける。白い鹿はゆっくりとその黒く澄んだ目でミルフィルを見つめると、淡い黄色がかった霞が鹿を包み、霞が晴れると小柄な白い女の姿になった。
──『白い女』の二女『白きアマルシア』。
少女のように小柄なアマルシアは白いワンピース姿で、その眼は褪せた黄金のような黄色に澄み、長い髪は淡い黄色みを帯びた白だった。
「何かしら? 可愛くて面倒な妹」
アマルシアは明らかにミルフィルの来訪の理由を察知していたような空気を出した。
「姉さん、幾星霜ぶりか分からない妹との再会にそれはないでしょう?」
「その幾星霜ぶりか分からない再会をする姉にあなたが何を言うかと言えば……」
「ごめんなさい、『蒼い城』の続きはまだ?」
ミルフィルは姉が伝聞を元に書き続けている秘密の書物『蒼い城』の続きについて聞いた。アマルシアの目が大きくなったが、深くため息をつく。
「あなた、位の高さのわりに驚くほど明け透けで単刀直入ね。私たちの祖たる『慈悲』がそんな面も持っていたなんて信じがたいわ。何でこんなに俗っぽいのかしら……」
「姉さん、妹相手にその言葉の選び方ってどうなの? むしろ『慈悲』が姉さんみたいに唯我独尊な部分があった事の方が驚きよ」
「私を高飛車みたいに言うのね? まあいいわ。私たちはお互いを知って、根源たる『慈悲』がとても複雑な心を持つ女性だとやっと知り始めたところだものね。これもまた意味があるのでしょう」
自分たちの根源となる存在『慈悲』について考察しようと思ったアマルシアは、ミルフィルがそわそわしている事に気づいて、その話題をやめた。
「……次の原稿、出来ているわ。本では無くて原稿ね。あなた、原稿を読んでもいいからアーカシア様に届けてくれる?」
「もちろんよ、姉さん!」
好奇心旺盛なミルフィルの目がさらに輝く。
「……あなた、何を考えているの?」
空気が姉妹のそれではなく、少し張り詰めたものに変わった。
「……何をって、何の事かしら?」
ミルフィルの目もまた、読み切れない深みを抱えたものに変わった。
「ミルフィル、とても位の高い私たちは、一見豊かで美しく世界を満たす『生命』が、有限性の呪いにかかっている事を理解しているわ。あなたもそのはず。今の無限世界の『生命』は、必ず有限性に呪われ、死が訪れるようになっている。この壮大な欺瞞に気づいているのは私たちくらいのはずだし、あなたもそうでしょう?」
姉妹の間にしばし沈黙が漂った。間を置いて、ミルフィルが少し息を吸い、答える。
「……もちろんよ?」
「でも、あなたの黒い人への接し方と興味は、あの人が死と破壊だけの存在ではないと見えているか、またはあの人にとっての女のようなものになりたがっているように見えるのよ。私はそれが心配なのよね」
今度はミルフィルがため息をついた。その様子にアマルシアが驚愕する。
「姉さん、気付いてないの?」
「何が?」
「それこそ私が姉さんの書く『蒼い城』の続きを読みたい理由なのだけれど、きっと何柱かの女神たちは、あの人に通説とは違う何かも見出しているような気がするのよ。私はそれを知りたいのよね」
「何ですって? 例えばそれは何だと思うの?」
「分からないけれど、シルウェスティナ姉さま、こっそり秘められた女神たちを陰から支援しているし、今はハルシャーと共に蒼い城にいるでしょう? あれもきっと何かあるのよ」
アマルシアは一瞬だけ何かを思う目をしたが、その口はすぐに動いた。
「……興味はあまり感じないわ。私は聞いた事をそのまま記録し、あとは自分のすべき事をするだけ」
「姉さんはそれでいいと思うけど、私は違うわ」
考え方の全く異なる姉妹はしばらく互いの目を見つめ合っていた。やがて、アマルシアが視線を霧の晴れはじめたウル・インテスの大地に向け、独り言のようにつぶやいた。
「ただ……これはあくまで私の考察なのだけれど、『蒼い城』の秘神は三十柱とは限らない気がするわ。そして、黒い人に彼女たちを渡した『道化』パロガ。あの存在にとっては物語的な死もまた諧謔の可能性があるのよ。演出された大きな何かが隠されている可能性があるわ」
「そんな事が⁉」
「だから私は、起きた事を詳細にまとめて書物にしているのよ。これは、『時の終わりの大戦』の後さえ示唆する可能性があるから」
「大賢者たちの言う『新しい無限世界秩序』の一部?」
ミルフィルは無限世界での多くの戦火を逃れてウロンダリアに隠れ住む、十人の大賢者たちの唱える『次の世界』について語った。
「興味はないけど、もしかしたらね」
「みんなそれぞれ独自の何かを知っているのね」
感心したように、半ば呆れたようにミルフィルがつぶやいた。対して、少し厳かにアマルシアが話を続ける。
「私たちは個にして同一の一人でもあるけれど、おそらく『慈悲』の葛藤が私たちをこのように分けているわ。私たちは良く分かり合えると同時に、決して分かり合えない部分もあるから個でいられる。この前提は忘れてはいけないわね。……そういえば」
質問される前にアマルシアの聞きたい事を察知したミルフィルは、手短に自分から答えた。
「私はうっすらと、『慈悲』が何かをとても嫌悪して姿をくらませた確信があるわ。この広い無限世界の中心、『界央の地』が大きく変わったのは、おぞましい何かが起きてからよ。ただ、それが何かは分からないし、なぜかしら……黒い人はそういう事をしないと断言できるの」
「……仮説としては私も同じ事を考えているわ」
この時、『白い女』の間でまた新たな感覚が共有される事となった。
「ああそれと、もう一つ大事なお知らせもあったのよ」
砕けた口調でミルフィルが続ける。
「別の世界からもうじきここに新しい月が届くわ」
どこか柔らかなアマルシアも流石に固まってしまった。
「それを先に言いなさい! ……いつ?」
「ウロンダリアの方々は今夜あたり、新しい月と共に到着するはずよ」
「ねえ怒るわよ? 本来それが本当の用事でしょう? あなたどこで時間をこんなに無駄にしたの? 『月呼び』に合わせてこの大地の命を新たな月になじませないと!」
「もちろん私も手伝うわ、姉さん」
「当り前よ!」
ばつが悪そうに髪を指で梳くミルフィルだが、全く悪びれてないその様子にアマルシアは怒りを通り越して呆れた。
「やっぱり原稿全て書き直そうかしら」
「ごめんなさい! しっかり手伝うから!」
「だから、それは当り前よ?」
こうして、『白い女』または『飛沫の十姉妹』の二人、白きアマルシアと気の強いミルフィルは、やや剣呑な話ののちに新たな理解を共有し、そして慌ただしい事に、月を失った世界に新たな月を呼ぶ儀式において、月と生命を同調させる特殊な手順に対応することとなった。
深夜。
霧の深かったウル・インテスの空は良く晴れ、無数の星々が落ちて来そうなほどに瞬いている。そんな星空の下、淡く光る草花の芽吹く長い帯の末端で、ずっと話しつつ歩いていた『白い女』の二柱、アマルシアとミルフィルは足を止めた。
「気のせいではないわよね?」
隣のミルフィルを見やるアマルシア。ミルフィルは既に空を見上げて返事をした。
「姉さん、来たわ。始まるわね」
世界は静寂に満ちていたが、二人は特殊な波動を感じていた。ミルフィルと同じようにアマルシアも星空を眺める。と、星々よりやや大きな青い光が中天付近に無数に表れ始め、さらにそれら光の中心に、鈍色に輝く巨大な直方体が現れた。
ウロンダリアの空にしばしば月と共に輝くこの物体を、ウロンダリアの人々は『モノリス』と呼んでいたが、白い女の二柱はこれの本当の名前と正体を知っている。
「あら? 『不滅の堅座』ヴァジル・アマラまで?」
「……という事は、あの方も」
アマルシアはそこまで言って、言いかけた話を止めた。既にその存在が自分たちの背後にいる事に気づいて、振り向く。
「セア様!」
そこに立っていたのは、長い聴色(※淡い桃色)の髪と薄赤い目をした、女性美の極致のように完成された何かを漂わせた存在だった。可憐だがどこか不機嫌そうな顔は白い女たちでさえ考えが読めず、だからこそありもしない不機嫌について思いめぐらされ、しかしそれが心地よい不思議な感覚が二人に湧き上がる。
白銀のドレスは薄く透けかけており、胸元や腰の脇などは輝くような肌が露出している。立派に過ぎる身体と相まってややもすれば淫靡なはずなのに、そう言わせない何かが漂っている。
──無限世界二番目の美女と呼ばれる謎の女、『不機嫌なセア』。
砂時計ともランプともつかない不思議な器具を持つセアは、その器具の澄んだ光で二人を照らし、言葉を返した。
「会うのは久しぶりね、白い二人」
やや不機嫌さの漂う可憐な声で、セアは表情を変えずに挨拶した。不機嫌そうだというのに『白い女』の二人でさえ何か不思議な義務感のようなものを感じる、とても強い力が声に宿っている。
「セア様もお変わりなく」
「『不機嫌の美』の力がとても強いですね、セア様」
「違うわ。今も普通に不機嫌よ」
『不機嫌なセア』は、表情を変えずに吐息交じりに返した。白い二人が反応しかねているにもかかわらず、話を続ける。
「知っているでしょうけれど、『時の終わり』が近づくにつれ、あの人の周りに複数の要因で『枯れぬ花』と思しき女たちが集まるとは伝えられていたけど、ちょっと想像以上で引いているわ。位の高い女の数だけでも、もう界央の地とかほっといて別の無限世界を創れる規模よ? 冗談みたいな話ね」
事の経緯を良く知っているアマルシアとミルフィルは、これが笑い話でもあると思って肩を震わせた。
「……これは真面目な話なんだけど、あなたたちは面白い、と」
「あっ……」
「ごめんなさい」
思わず謝る二人。
「……笑って欲しい所だからいいけれど」
セアは一瞬だけ笑みを浮かべる。それは二人を雲間から一瞬の光が差すような気にさせるものだが、対応が正しかったのかわからない惑いが心に残り、それがまた心地よかった。
次はどう対応したらこの笑顔を見られるのか? という気持ちにさせられてしまうためだ。
(……難しい)
(ええ……)
白い二人は沈黙した。セアに対しては何が最適解なのか全くわからず、それがこの存在の難解な魅力とされていたためだ。無限世界でも数少ない『真の美女』とされ、言動の結果が全て是であり美となる存在ゆえに。
「ところで、セア様はなぜこちらに?」
「遅刻気味のミルフィルに、大賢者たちの最新の考察を教えてあげようかと思って。過去の時間に縛られない存在だからと、各所で様々な時間のあの人の世界に現れてるうちに、ちょっと引き返せないところまで来てしまったでしょう?」
「あっ……」
ミルフィルが普段の気の強さもどこへやらの狼狽を見せた。
「セア様、それはどういうお話ですか? 確かにこの子は黒い方としばしばお話していますが……」
「姉なのにこういう事には鈍いわね」
セアは深くため息をついた。
(呆れられた?)
「まあ、あなたはそれでいいし、ある意味仕方がないのでしょうけれど、ミルフィルはね、あの人と話すのがとても楽しいのよ。そして、『白い女』であることに少し疑問を感じ始めているのよ」
「セア様あまり直接的に言わないで!」
ミルフィルが恥ずかし気な反応をしている事に、アマルシアは足元に見えない大穴が開いたような驚愕をしていた。
「いつの間にそんな? いえ、私たちはそもそもそのような感情さえ持たないはずでは?」
「今までの定説では、ね」
「なんということ……」
セアはアマルシアに向き直る。
セアは砂時計ともランプともつかない器具を持ち上げ、眩しくないのに視界を明瞭にする不思議な光がアマルシアを照らした。
「アマルシア、あなたたちは確かに『慈悲』の意志を受け継ぎ、とても位が高く、人や神々にさえある『九穴』の徴さえない」
「はい、私たちは女の姿はしていますが『九穴』の徴を持たず、目と耳、鼻と口まででのいわば七穴とでも言うべきもの。首から下は彫像に等しいものです。領域の中でさえ誰かと結ばれることはなく、ゆえに生命の呪いを背負わず、永遠性を持っているはずですが……」
これは性にまつわる穢れ、排泄にまつわる穢れと無縁であることを意味している。
「それは『慈悲』があなたたちの可能性を一部隠したから、という可能性が出て来たわ」
アマルシアはその言葉の意味に気づいて驚いた。これは無限の生命の世界が存在する可能性を示唆している。何か言おうとしたアマルシアに対して、セアは夜空を見上げて話を続けた。
「既に『界央の地』には多くの欺瞞が確認されているわ。辛抱強く慈母のようだった『慈悲』が何かを悲しんであなたたちを生み出して姿を消し、存在しないはずの『永劫回帰獄』は存在して、あの人の戦いはここまで状況を大きく変えてしまった。でも、そもそもあの人は何者なのか?」
「『慈悲』の読んだ本の記憶では、あの人が『闇の真王』の可能性さえあるとされ、実際に今、あの人の下にいる天使たちにはあの人をそう呼ぶ者たちもいるとか」
しかしセアは、アマルシアの考察には反応せずにミルフィルに問いかけた。
「ミルフィル、ここしばらくあなたがあの人と関わりたがっている時にしている夢想を教えてくれる?」
「は……話さなくては駄目ですか? あれはとても口にできるようなものでは……」
気の強い妹がこぶしで口元を隠して顔を赤らめ、どこか小さくなっている事に、アマルシアは絶句した。
(どんな夢想をしていると?)
「私も聞きたいとは思わないけど、考察に大事みたいよ?」
しばらく長い沈黙があり、やがてミルフィルが小声で話し始めた。
「あの人と、自分の領域を交えたら、何が起きるのかな……と。現れる世界が気になって仕方ないのです……」
アマルシアはこの言葉に目を丸くして絶句したが、セアは何か予測していたのか、やれやれといった空気でため息をついた。
「驚きはしないわ。きっとそれも理由があるのよ」
「セア様は何かご存知で?」
「蒼い城の位の高い秘神たちでさえ、おそらく巧妙にその気持ちを隠しているし、あなたたちの姉、シルウェスティナも本心はあやしいと私は見ているわ」
「姉さんまで⁉」
ミルフィルが驚く。いつも穏やかに落ち着いている自分たちの長姉までもがそうと言われて反応に困っていた。
『不機嫌なセア』は話を続ける。
「普通に考えるなら、『偉大なる父』のような宿命を持っていると考えるべきだけれど、きっとそんな単純な話ではないわね。『偉大なる父』にさえ惹かれないはずのあなたたちまでそうなっている時点で」
『偉大なる父』とは、多くの女性的な存在と契っては世界や種族を創り出す宿命の神格を意味する。しかし、これは欲望や生命などの有限性の呪いもまた背負うため、ある程度以上位の高い存在からは好まれがたい格でもあった。
「そもそも……」
セアは蒼い光の増え始めた夜空に目をやり、聴色の髪を指で梳いた。
「私が唯一夫に選んだ時点で、現状のこの世界では答えを出せない存在かもしれないのよ」
「ええっ?」
「今なんと?」
夫、という言葉にアマルシアもミルフィルもひどく驚いた。しかし、セアは二人に向き直るとこらえ切れずに笑う。
「冗談よ?」
「……」
「そうですか」
「たぶんね」
虚実の入り乱れるセアの話に、位の高い二人も流石に沈黙した。誰にも御せないとされる『真の美女』たるセアの心は、この二人でさえとても測りきれないものだった。
「まあこの話はおいおい。それより、この後は新しい月がこの地にもたらされるわ。まずはそれにまつわる一切を終えてしまいましょう?」
「そうですね、同感です」
「はい」
こうして、『白い女』の二女アマルシアと三女ミルフィルは、真の美女の一人と言われる『不機嫌なセア』と再会しては驚愕の情報交換をし、ウル・インテスに新たな月を呼ぶ作業に移る事となった。
first draft:2022.04.24
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