第三話 ギゼとシトラ

第三話 ギゼとシトラ

 夜もだいぶ更けた西のやぐらのルインの部屋には、まだ煌々と光を放つ水晶と魔導の灯火の明かりが灯っている。

「……よって、我が国セレウロは小国ではありますが……」

 腕輪の姉妹の妹レティスの心揺らす美声が古王国の小国からの挨拶状を読み上げている。ルインは壁にかけられた上位黒曜石オブスタイトに彫金された銀枠の『時計板』をちらりと見やった。浮かび上がる青白く優美な魔の国の文字は深夜を示す時間が表示されている。

「レティス、もうこんな時間だ。今日は終わりにしよう」

 ルインの言葉に美しい透かしの入った挨拶状を大きな机に置いたレティスは驚いたように目を大きくした。蛇のような縦に割れたきらめく銀瞳ぎんどうがやや親し気に開く。

「気遣いは不要よ? 私たちは眠りを必要としていないわ」

「レティス、それもあるでしょうけれど、御屋形様おやかたさまはとっくに眠っていなくてはならない時間よ?」

 寝椅子に座り、黒き国オーンの詩集を読んでいた姉のフリネが声をかける。。

「そうでした。御屋形様は生身ですものね。私たちはついつい自分たちがまだ血の通わない体だという事を忘れてしまいますから」

「……それは皮肉かな?」

 ルインは勝手知ったる微笑を浮かべて問う。

「違いますよ。横になっても気を抜かない御屋形様に生身で寄り添って、眠りの歌でも歌って差し上げたいという親切心からですよ」

 どういう意図かレティスは妙に得意げにしているが、ルインにその心は分からなかった。その様子にフリネが思わず吹き出す。

「ふふ。この子は自分の幸運の力ばかり求められ、歌で何かを変えるという経験が無かったのです。でもこの前、バルドスタの夜会でそれを成してからずっとこんな感じなのですよ? この子なりの感謝なのです」

 オーンの上質な黒革張りの詩集を閉じつつ、フリネが嬉しそうに語った。

「姉さま、それを今言いますか?」

「そういう事か。二人とも、バルドスタの夜会ではあらためてありがとう。アーシェラも言っていたが多くの血が流れずに済んだ。これは尊い行いだよ。少し引っかかる部分はあるがな」

 感謝の言葉の中にもルインの一抹の疑問が残っている。

「ああ、よく考えない人々の心を染め抜いた事ですね?」

「あれで正しいが、少し残念な事ではあるよな」

「ねえ御屋形様、多くの人々は人の話を聞く事も、自分で考える事さえも出来ていないものよ? 夢のように何も考えずに生きて死んでいく人は予想外に多いものです。きっとご存知でしょう?」

「ああ、分かってはいる。むしろ二人の歌声で人生の転機になったら、同じ夢うつつでもだいぶマシだろうさ。ただ、それで幸せなのかな、とな。よく思うのさ」

「それは逆ですよ? そのような人々は自分がどうしたら幸せになれるのか分かっていないものなのです。だから彷徨さまようのですよ。例えば……このような詩集が世の中にあっても、読まない人が大半であるように」

 フリネは言いつつ再び詩集を開き、目星をつけたページを開くと、誰かの詩を、その心を優しく揺らす美声で詠みあげる。

──だから私は目を閉じる、あの美しき人は歳を取らぬ。

──老いたるわが身のしわに、今や孤独が寒気のように染み入る。

──されどひとたび目を閉じれば、死の床になりかねぬこの眠りに、

──あの美しき人が花を摘んでいた、白磁の如き手がよみがえるのだ。

「……良い詩だな。先に亡くなった女の事を思い出している詩かな?」

「そのようですね」

 フリネは意味深な笑みを一瞬浮かべた。

「男にはそういうところがあるものだ。さ、そろそろ寝るぞ」

 しかし、ルインがその言葉を言い終えきらないうちに、誰かが慌ただしく階段を上がって来た。給仕服姿のルシアだった。

「大変ですルインさん! ラグさんのお店の前で、ギゼさんが誰かと揉めているって衛兵さんたちが」

「ギゼが?」

 一瞬で気持ちを切り替えたルインは、戦闘用のコートを引っ掛けて階段と昇降機を経由して外に出る。やぐらの正門、魔の都の大通りには巨人の衛兵たちが数名集まっていたが、その表情には困惑が見て取れた。

「何があった?」

「それが、我々では対応のしようのない事態でして……。眠り人殿から場をおさめていただくのが一番かと」

「わかった。急ごう」

 ルインは疾風のように夜の魔の都を駆け、途中からは石積みの塀を駆けあがって屋根の上を跳んで移動しつつ、あっさりとラグの店を視界に収めた。ラグの店の前の大通りには大きな人だかりができており、ギゼと、深紅の鎧の女戦士が対峙している。その様子は遠目にも殺気が伝わってきており、ルインは家々の小さな胸壁や屋根の棟、わずかな月明かりに浮かぶ微妙な凹凸から屋根の下地を見極めては足場にし、跳び続けて素早く移動した。

 最後に大きな乾物屋かんぶつやの屋上から跳躍すると、ギゼと女戦士の間に猫のようにふわりと着地する。その体術に驚嘆の声が多く上がった。

──眠り人じゃないのか?

 様々な種族の混じった群衆から息を吞む音や小声の呟きが漏れている。

「眠り人殿か」

 ギゼは深紅の鎧の女戦士から視線を外さずに言った。

「何があった?」

 ルインは対する深紅に白髪の女戦士を見た。青黒い肌に獅子のような金色に近い瞳をしており美しく、その眼は困惑と警戒が見て取れるが、隙は無い。

 ルインはあえてずかずかと二人の麗しい戦士の間に踏み入った。主にギゼの強い殺気を感じていたが、ルインは鷹揚おうように話を続ける。

「二人とも剣は抜くな。まだ笑い話で済むし、事情により決闘が必要なら、しかるべき届け出と手続きはあったはず。……赤い鎧の美しい戦士どの、おれは眠り人と呼ばれる者で、上魔王シェーングロードよりルインという名を贈られた身だ。状況を聞きたいし、ここは知人の店だ。戦うなとは言わないが、せめてこの戦いを一度預けてはくれないか?」

 深紅の甲冑の女戦士の眼に一瞬驚きが閃き、空気がやや弛緩しかんした。ルインはあえて女戦士に背を向け、ギゼに語り掛ける。

「ここはおれも世話になった店だし、迫害されがちな同胞の商売に傷をつけるのは良いやり方ではないと思うが? 何より……らしくないだろう?」

 ルインはギゼに笑いかけた。ギゼは背中の剣から手を放し、何かを諦めたように微笑む。

「……ふ。眠り人殿、貴公は良い男だ。女二人とはいえこれほど手練れの間合いの中に入って場を収めるとはな。しかし、あの女は我が母との約束を破ったのだ。これをそそぐのは娘である私の人生の約定に等しい」

 ルインの背後の空気が、再び張りつめたものになった。

「だからそれは私も悪かったと言っているだろう⁉ ザナがもう死んでしまっていたなどと信じられない。信じたくないが、ザナの望みをお前が引き継ぎ戦えと言うなら、しかるべき場で決闘も受けよう。だが……今の私の武はいささか湿っているのだ。ザナの武を引き継いでいる者と剣を合わせる資格さえないのだ!」

「だからその理由を言えと!」

「それは……」

 ルインは振り向いて深紅の甲冑の女戦士の表情を見ると、何か閃くものを感じ取った。

「ギゼ、こちらの戦士どのはおそらく……心に棘が刺さっているのだ。その状態で鈍った剣で名誉を懸けた戦いに応じることはできないと言っているのだ。つまりこれは礼儀の問題だ。少し話す必要がある。冷静になってはくれないか?」

「眠り人……」

 深紅の甲冑の女戦士は言いよどんだ。ギゼは険しい眼でその様子とルインの眼を見ていたが、やがてため息をつき、その殺気が霧散した。

「わかった。私もあなたの眠り女。従う事にしよう。しかし、棘の意味については全く分からない。後で教えてくれ」

「……努力はしてみる」

 深紅の甲冑の女戦士の表情から何らかの女の事情を感じ取ったルインだったが、それを男の自分が説明するのはどうかと考えていた。

「あっ、眠り人さん! ごめんよ、煩わせちまったかい?」

 眼帯をつけた古い闇の民の店主、ラグが出てきた。

「面倒をかけたのはこっちだ。すまない」

「そんな事ないさ。こっちはあれから商売繁盛だし、場を納めてくれて助かったよ!」

「どうもこの店には縁があるようだが、災いはもたらしたく無いものだな」

禍福かふくは四季の如し(※良い事と悪い事は繰り返しだという前向きな意味を持つウロンダリアの言葉)、だよ。いい所ばかりもらえないさ」

 ラグはルインには初めて聞く言い回しで人生観を語った。

「せっかくだし、少し飲んで帰るか……」

「是非そうしていきなよ! 知った顔もいるしさ!」

「知った顔?」

 怪訝な顔をしたルインに、背後から深紅の甲冑の女戦士が声をかけた。

「眠り人殿、場を収めていただいて申し訳ない。名乗りも遅れて重ね重ねの非礼だが、私の心は察された通りなかなか酷い状態でな。我が名はシトラ。シトラ・ウルバヌ。少し前までは魔軍の大将軍の一人だったが、まあ私も一人の女だったのだ。しばらくは胸に空いた穴が埋まるまで酒を流し込むつもりだ」

「つまり傷心か……」

 ルインは気遣って遠回しな表現をした。

「ふふ、笑ってくれ。小娘のように泣いたよ」

 自嘲気味だがどこか晴れやかなシトラに、ルインはある程度達観した武人の気配を感じ取った。。

「悩みは少し抜けかけているのだな?」

「良き相談相手がいるからな」

 シトラの視線の先にラグの店で手伝いをしている三人の女の魔族メティアたちの姿があり、ルインは色々と納得した。しかし微妙な表情をしていたギゼが口を開く。

「『白髪の黒豹』シトラがよりによって傷心だと? 相手は誰なのだ? 我が母ザナの評では、貴公は戦う事しか興味がないと聞いていたが」

「魔王様だよ。ギゼ、貴公の母は何度も命のやり取りをした良き友だった。約定の再戦がてら、子を成したあいつに私の話を聞いてほしかったのだが、あいつが亡くなっていたという話が少し堪えてな……。黙って斬られた方がましなくらいには、私の心は弱くなってしまったのだ」

 ギゼは下ろしていた手を強く握り、そしてほどいた。

「これでは私が無粋者ぶすいものか。気にせずに事情を話せばよかったものを……」

「ふふ、それを貴公の母を思い出したうえで言えるか?」

「……すまぬ。無理だな。我が母は色恋の話が大嫌いだった。私は父の事もそのなれそめも知らぬままだよ」

 懐かし気に話すギゼはようやく納得したらしい。

「良し、では少し飲んで気分を変えたらいい」

「さあ、じゃあ飲み直しだね!」

 ラグがいそいそと店に戻ると、すれ違うように二人の蠱惑の魔族メティアの女が出てきた。修道女姿の金髪のメティアと、見慣れない、ゆったりした青い矢羽根柄の異国の服を着たメティアで、二人とも大変に魅力的であろう微笑みを浮かべている。ルインはこの二人が、自分が人間であればとうに魅了されるほどの大変な魅力を放っている事に気付いた。

「姫様の思い人なら粗相そそうをするわけにはいかないわ! 初めまして眠り人ルイン様、私はザヴァ氏族のケイラといいます。転ばないように腕を取らせてもらいますね?」

 言いながら、修道女姿のケイラはルインの左腕を取る。

「あっ、それなら私は右腕ね! 石に躓いても大丈夫なように! そして私もザヴァ氏族のミッシュと申します! この服はフソウ国の『着物』という民族衣装なんですよ!」

「いや、自分で歩けるが……」

 ルインはバルドスタの夜会で、両手を取られ続けてしばらく料理にありつけなかったことを思い出していた。

(美女が多すぎやしないか……)

 ルインは二人の美しいメティアに腕を取られてラグの店に入ったが、入り口から遠くないテーブルについた三人に気付いた。

「あっ」

「うおっ!」

 以前やり合った緑肌の大型の亜人族、ヴァスモー族のギュルスと二人の部下だった。しかし、以前のような悪臭はしていない。

「ふ、その節は楽しかったな」

 ルインは親し気に話しかける。

「へっ、金も払ったし風呂にもまめに入るようになったぜ? 千人隊長から干したウサギみてぇに絞られたからよ。がっはっは!」

 豪快に笑うギュルスだったが、笑いが収まると真剣な面持ちになった。

「なあ眠り人よぉ、あんたの体術はすげえな。覚えたらオレでもでけぇ人食い鬼や巨人相手に戦えるようになるか?」

「ああ、その体格なら体幹は十分に強いはずだからな。相手の体の動きを良く見極めれば、何も難しいことはないさ」

「……なあ、礼はする。金が必要なら払う。オレにその体術を教えてくんねぇか?」

「そうだな……」

 ルインはミッシュとケイラが案内した、ギュルスたちのそばのテーブルについた。

「別に構わない」

「おいおいほんとかよ! おめぇ、気のいい野郎だな! 気に入ったぜ!」

 ギュルスは言いつつ、ルインの肩をバシバシと叩いたが、何かに気付いてその手を止めた。

「なんだ? 鉄みてえな強さを感じるな! やっぱりただもんじゃねぇや!」

 ルインはこの言葉に少し感心した。このギュルスという豪快な上位のヴァスモー兵は、やはり百人隊長を務めるだけの事はあり、骨格や筋肉から相手の武力を推しはかれるくらいには才能があるという事だ。

「よう、ラグ姐さんよ!眠り人殿に何かおごってくれや! ……何がいい? えーと……」

「ルインだ」

「ルインさんよ」

「そうだな、ガシュタラの果実酒を適当に冷たく割ってくれ」

「あいよ! そんなに高いのはないけどね」

「あまり高ぇとおれの財布が泣くぜ! がっはっは!」

「ふ……」

 ルインもギュルスにつられて笑ったが、ここで自分の両腕が取られたままだと気付いた。

「もう座っているが……」

 金髪のメティア、ケイラは聞こえないふりをしている。

「えーと……」

 続いてルインは黒髪のミッシュのほうを見た。

「大丈夫! 両腕がふさがっていてもお酒は運んであげるから飲めるわ。グラスを手で運んであげるもの。でも、もしも私を気に入ってくれたら、グラスを胸に乗せたりとか……」

「ミッシュ、悪乗りし過ぎよ?」

 暗い赤のドレスに、長いウェーヴのかかった赤い髪のメティアがたしなめた。

「はじめまして、姫様の想い人たる眠り人ルイン様。私もザヴァ氏族の者でネーレと申します。」

「ああ、よろしく! おれはルイン。ラヴナにはいつも世話になりっぱなしで」

「世話? それはどんなお世話ですか? ルインさん、まさか夜の……あたっ!」

 意味深な軽口を言っていたミッシュのわき腹をケイラが指で突いた。

「ちょっとケイラ! せっかくお話しているのに茶々を入れ……どうしたの?」

 ミッシュはケイラが自分の背後を見て固まっているのに気づき、次に正面のネーレが息を呑んだ様子を見た。二人がそんな表情になる理由はたった一つしかない事に思い至る。

「ええと、まさか……」

 ミッシュはおそるおそる背後に振り向いた。

「姫様!」

 そこには、オーンの黒絹くろぎぬのナイトガウンの上にコートを羽織ったラヴナが、両手を腰に当てて意味深な微笑みを浮かべていた。ミッシュは慌ててルインに絡めていた腕を外す。

「違うの姫様、これは誤解なの! 姫様の想い人に粗相があったらいけないと思って!」

 しかしラヴナは微笑みつつ、ミッシュの頭に手刀を軽く振り下ろした。

「何を浮気女の常套句みたいな事言って慌ててるの? この泥棒猫ったら」

「あいたっ!」

「嘘おっしゃい、痛くないでしょ?」

「まあ痛くないですけど。姫様の邪魔をする意図は一切ありませんよ?」

「分かってるわ。冗談よ。全く油断も隙も無い。……いい? ルイン様は危険な男よ? 迂闊うかつに触れては駄目。火傷するわよ?」

「待て、おれは何も危険ではないぞ?」

 このルインの言葉に、ギュルスが大声で笑う。

「がっはっは! 面白れぇなあ。今じゃあ古王国どこの国でも講談師がおめぇの名前を広げまくってんだぜ? 鐘の悪鬼にジルデガーテに、バルドスタ軍にウラヴ王だ! 危険じゃねえってのは無理があらぁな!」

「ほんとだよ!」

 調理場からラグが顔を出して同意する。

「参ったな。まあ初対面の人いるし、流石に少し飲んで帰るとするか」

 こうして深夜の騒動はおさまり、ルインは大魔将シトラやギュルス、三人のザヴァ氏族のメティアたちとの予想外の酒宴になったが、この日の親睦は後々とても大きな意味を持つことになる事をまだ誰も知らなかった。

──我らが求めるは、財貨にあらず、版図にあらず、地位にあらず。また美醜にもあらず。求むるは強き武人の心に宿る、ただ一本の心の槍。それのみが天地の下の泥を堅き地にするのだ。

──女の魔族メティアたちの古い言葉。

first draft:2020.09.10

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