第三話 ヴァラリスの呼び声

第三話・ヴァラリスの呼び声


 魔の都、西のやぐら

「ルイン、おかえりなさい!」

 シルニィから受け取った手紙を読むべく階段を上るルインに、階上から覗き込むようにしてクロウディアが声をかけた。いつもの勝色かちいろのドレスに肩にショールを掛けた装いだった。

「腕輪の姉妹さんたちと話していたのよ。それとルイン、隣にうっすら見えるのはこの前の戦いのときの女神様よね?」

 不思議そうに目を凝らすクロウディアの仕草は、どこかに無垢なままの可愛らしさが漂っている。しかし、バゼリナの驚きの気配がより強かった。

(これは……私が見えている⁉ ……何より、生身の肉体も持つ影人かげびとの女性ですか⁉)

「彼女はクロウディア。ウロンダリアの影の帝国インス・オムヴラの皇女だよ。影人かげびとの肉体も持っているとはよく聞くな」

 バゼリナは幻影から実体に姿を現しつつ階段を上りきり、丁寧にお辞儀をした。

「初めまして、稀有けうな血を持つ影人かげびとのお方。私は『綾織りのバゼリナ』とよく呼ばれています。古くは運命の神秘を司り、現在は糸紡ぎと機織り、裁断を司っています」

「ああ、よかった。一瞬、目がおかしくなったのかと思ったのよ。世界樹せかいじゅの都での戦いでルインが助け出してきた女神様ね? 私は眠り人マヌとダーサの娘、クロウディア・クロウです。影人かげびとたる真の名は伏せていますが、略称で失礼いたしますね」

 クロウディアは丁寧な一礼をし、勝色かちいろの艶のある黒髪がさらさらと流れた。その様子を見ていたバゼリナが何かに気づいてまた驚く。

「今日は何度驚かされるのでしょう。クロウディアさん、あなたのお母さんは同じ色の髪をした踊り子ではありませんでしたか?」

「なぜそれを? 母は確かにかなりの舞踏ぶとうの技量は持っていました。……その、とても艶めかしい舞踏も得意と言っていましたけど、私は恥ずかしいので習わなかったです」

「あなたのお母様の出自に少し心当たりが出てきました。では、『影に舞う蒼い蝶のドレス』をお持ちではないですか?」

「はい。私が引き継いでいます。お母さまは『眠り人』になる前の記憶は全くないと言っていたので、その話はとても興味を惹かれます」

「何という事……このような……」

 バゼリナはまたもや絶句している。

「どうしました?」

「お母様の話はまたいずれ。ただ大切な事を伝えておきますと、そのドレスを作ったのは私であり、あなたが所有者なら私は所有者が必要な時にそれをいつでも着られる加護を与える約定があるのです。即ち……」

「えっ? 待って、ええ⁉」

 バゼリナは言いつつ、濃い青の透けたケープのような布を取り出し、それを混乱気味のクロウディアにかぶせた。ふわりと乗った布はすぐに消える。

「今のは何を?」

「クロウディアさん、『影に舞う蒼い蝶のドレス』を着ようと念じてみてください」

 驚きの続いていたクロウディアは、それでもバゼリナの声に込められた神意が伝わったのかすべき事を優先していた。普段着がわりの勝色のドレスが一瞬で『影に舞う蒼い蝶のドレス』に切り替わる。

「えっ? これ! こんな事が⁉」

「そのドレスに舞う蒼い蝶は、あるものの比喩なのです。あなたは必要な時や、またはその穢れなき身体が露わになりかけた時に、そのドレスがいつでもその身を包みます。……良かった。こんな運命だったのですね」

 バゼリナはそこまで言うと姿を消してしまった。

「色々あり過ぎて何が何だか分からないわ……」

 バゼリナの話を理解しようとしているクロウディアとは別に、ルインはバゼリナの急な消え方に何らかの意図を感じた。

(後でお話します……)

 心の中に響く声とともに、バゼリナは気配まで消えてしまった。

(なんだ?)

 ルインはこの時、この様子を長椅子に座った腕輪の姉妹、フリネとレティスが注視していた事に気づかなかった。

──神々や礼節ある古き魔族などはしばしば自分たちをさして『分かたれたるもの』と表現することがある。これは『最初から人間とは異なる存在として現れた』事を意味しており、我々人間が言う『聖なる』をおのれに遠慮気味に用いる表現であると理解すればよい。

──神学者ミアルム・ハイタクス著『神々のかんばせ』より。

 ルインの私室、夜。

 シルニィから渡された女神シルニスからの手紙はあおい光の玉に包まれたまま、ルインの机の上に浮かんでおり、全く開封が出来ないままだった。『棋盤きばんの上に休む猫』の可愛らしい印章いんしょう封蝋ふうろうされた手紙は、球体の蒼い光でその本来の色もわからない。

 一方でルインの心の中には、あの怒っていた女神シルニスとの遠い昔の思い出が次第に鮮明に蘇ってきていた。『永遠の蒼い城』リュデラーンで最も親し気で協力的だったと思われる、享楽きょうらく遊興ゆうきょうを司る女神シルニス。

──なぜ? どうして私まで置いていくの⁉

 多くの女神たちを然るべき世界に送り届ける旅にも積極的に協力してくれた彼女には、自分まで置いて行かれることは到底納得できなかったに違いない。

(怒っていたなぁ……)

 ルインは心の中でつぶやきつつ、溜め息と共に手紙の包まれた蒼い光の球体をつついた。

「その様子は女性の事ですね? 御屋形様おやかたさま

 繊細な楽器の音色が心をいきなり明るい領域に引き上げるような美声に、ルインは壁際の長椅子に座した二人、『腕輪の姉妹』フリネとレティスに目を向けた。

御屋形様おやかたさまも女の事で悩むとため息をつくのね。少し新鮮だわ」

 フリネの縦に割れた金瞳きんどうは少し心配そうに、レティスの銀瞳ぎんどうはどこか楽しげに、ルインを見つめている。

「御屋形様がそんな顔をするなんて、少し負い目があるのですね? でも、おそらく相手もそれを分かっていて御屋形様にそんな顔をさせたかったのですよ。きっと今はどこかで御屋形様のそんな顔を見て溜飲りゅういんを下げている頃だわ」

 さとすように説明するフリネ。

「まあだいたい、そんな事する女って後でごめんなさいって言ってきますから、御屋形様はものすごく深い後悔の様子をしばらく漂わせとけば、かえって面白いことになると思いますよ? 悩んで食事も喉も通らないくらいの憔悴しょうすいぶりを見せてあげたらどうですか? ふふふ……」

 抑えていても楽しくてたまらないらしく、レティスは声を出して笑った。

「レティス、あまりこの状況を楽しんでは駄目よ? 対応を間違えて女神様をねさせたら厄介なことになるわ。……もっとも、位の高い女神様はそんな小娘のような事はしないものよ?」

 しかし、この言葉に少なくない皮肉が込められている事をルインは感じ取った。

「姉さまこそ地味にひどいわ」

 ルインの感覚は正しかったようで、レティスはますます笑っている。しかし、フリネが姿勢を正してルインに向き直った。

「御屋形様、昼間の機織はたおりの女神様は、私たちの得体の知れなさと、長年の人々の欲望のけがれの空気、そして同質にして系統の異なる運を操る力に距離を取られたのです。単純に言えば、私たちが『よくわからない、怪しい者』と思われたのですよ。そのお手紙は私たちから距離を取れば開封できるかと思います。あの機織りの女神様も姿を現すでしょう」

「ありがとう。そういう事か」

 バゼリナが来ただけで、『西のやぐら』の空気がいつもとだいぶ違うものになっている事に、ルインは興味深さよりも面倒さを感じていた。そこに、聞き覚えのあるチェルシーの軽快な足音が響いてくる。

「チェルシー、お疲れ様」

 聴色ゆるしいろの二つに束ねた髪を揺らしつつ現れたチェルシーはいつもと変わりなく元気に微笑んでいる。

「はいはいっと。まあ私はいつもと変わりないですが、ご主人様は色々とめんどくさそうですね。さっさとエデンガル城に移りたくなってきたころだと思うので、これを持ってきました。適当なお城をまとめた図録ずろくと、それを投影させる魔導の投影機とうえいきです。これを敷いて……」

 チェルシーは言いながら、小さな黒板のような板をルインの机の上に置く。

「で、この板の上でこの図録を開きますとね……」

 さらに、持ってきた分厚い図録をその板の上で開くと、本の図面の上に立体的な城の外観が浮かび上がった。

「これは……面白いな!」

「でしょう? ぼろぼろのお城から、お姫様に似合う白亜の宮殿、古い魔族好みの魔城まで何でもありです。外観だけですからお好きなようにって感じですねー。いい気晴らしにもなると思いますよ」

「助かる。こういうのは良いな」

「そんな気はしてました。それとご主人様、今日は早めに浴場が空いてますし、ガシュタラ万藩王国ばんはんおうこくのお姫様が南国のお花をたくさん贈ってくれたので、たまには花の多いお風呂をゆっくり楽しむのもいいかもしれませんよ? ……口をきかないお花は癒しですからね!」

 何かに対する皮肉めいた空気を感じてルインは笑った。

「ここのところ忙しかったし、たまにはいいかもしれないな」

 しかし、ルインは自分が湯につかると様々な事が起きる因縁がある事を忘れていた。

──ガシュタラを訪れたら必ず飲んでほしいのが、青扶桑花セルヴィスカスの炭酸水である。ガシュタラのわずかに塩分を含む炭酸水に青扶桑花の汁、さらに蜂蜜や柑橘の果汁を加えた目の覚めるような青色の炭酸飲料は、ウロンダリアの多くの人々が思い浮かべるガシュタラの名物である。

──美食家ザゲロ著『名物の旅人』より。

 西のやぐら、大浴場。

 大規模な戦争に備えて作られた広大な水場を改装した浴場は、今夜はガシュタラ万藩王国ばんはんおうこくの見事な庭園風呂に趣を変えていた。

「見事なものだ……」

 肩まで湯につかっていたルインは思わず独り言ちる。

 植物園のように演出されながらも遠近と暗がりまで計算された、様々な色と大きさの南国の花々。まるで、密林の中に偶然開けた温泉のようでありながら、神の見えざる手が花々を必然の位置に置いたような絶妙な配置だった。

 水と慈悲の女神シェアリスの従者である、長き水龍ニーフラの彫像の口からは、時おり花びらの混じった湯が流れ落ちている。ささやかだが意識して嗅げば濃厚な花々の香りも緻密ちみつで、全身がほぐれていくような感覚にルインは目をつぶった。

しばらくして、目を開けたルインは周囲の様相が異なっている事に気づいた。

(……なんだ?)

 天井は見えない薄明りとなり、赤や紫の濃い色の花びらが舞い降り続け、ルインの肩や湯の水面全てを埋め尽くし始めている。濃厚な花の香りは強すぎて、血や、時に欲望に上気した女の匂いに近いものになりつつあった。

(…………!)

 ただならぬ気配にルインは浴場の上空を見やる。薄明りの中に一点の影が見え、それは急速に落ちてくると、かなり大きく尖った深紅の花のつぼみだと分かった。炎のように螺旋らせんを描く大きな花のつぼみは音もなく浴場に落ちると、花弁が逆回転して花開き、胸と秘所を手で隠した白い髪の女が光と共に現れた。

 ルインの目が武人のそれに変わる。

 しかし、女は吹き上がる無数の花びらの中、精巧せいこうな花柄の黒い肌着がその胸と秘所を覆い隠し、大きな花は滑るようにルインの前に流れ来ると、四つん這いとなってルインに目線を合わせた。

無粋ぶすいであろう? 下着姿の女にそう警戒するでない、ダークスレイヤーよ」

 黒の精巧な下着姿に四つん這いの姿勢の女は、その白い髪の質感が刻々と変容し、目がおかしくなるような美しさだった。白い髪の中に数条の赤い髪が混じっているが、それらは赤熱した金属のように燃える光が走り、それも美しく目を引き付ける。しかし何よりオレンジ色に燃える瞳が強烈な魅力を放っていた。

「お前は……いや、君は……!」

「久しぶりだな。我こそは混沌カオスの花の神、『咲き乱れる妖花の女王』ヴァラリスなり」

──邪悪な混沌カオスの花の神、ヴァラリス。

 ヴァラリスは混沌の象徴たる燃えるようなオレンジ色の瞳でルインの目を覗き込んだ。短く縦に割れた瞳孔の周り、大きめの瞳はまぶたにかかる部分は夜の始まりのように薄青く、そうでない部分は滅ぶ世界の夕日そのもののように美しく広大で、いつまでも見ていられるような性質のものだった。

「我が燃ゆる混沌カオスの瞳は美しかろう? この後の返答によっては、そなたに身を任せてこの瞳をより激しい情欲に燃えけぶらせる事もやぶさかではないぞ? そなたの周りには実に面白き女どもがいるようだが、私のように花と薫香くんこう混沌こんとんを併せ持つ者はおるまい?」

「……」

 ルインは戦う意思をひとまず置いて様子を見る。

 ヴァラリスは『何も言うな』とでも言うように、長い人差し指を唇に当てる仕草をした。

「私は知っておるぞ。『永劫回帰獄ネザーメア』にある『焼かれし諸王の地』の事を」

 ルインの目が細められた。

「そなたがあの領域から引き出せるのは何も武力や武技、知恵だけではないのだ。力とぜいの限りを尽くしたのち、あの領域に封じられた無数の王たちの中には、数千人の側室を……多くの種族や女神たちまでも妻にした王たちも数多い。男の中の男たるそのような者たちの、女をよろこばせて絡めとる技もお前は知っておるはずだ。……まあ、使った事はないようだし、使わぬようだがな」

 ヴァラリスはここで、ルインの返事を待つように沈黙した。

「……何の話か全く分からないな。そんな事より、なぜおれはいつも落ち着いて風呂に入れないのか、そればかり考えているよ。……今もな」

「ならばそれに答えてやろう」

「ほう?」

 はぐらかす意図の話に、神たるヴァラリスが真面目に答えを返す様子を見せたが、神や魔のこのような興味の引き方にはしばしば危険が伴う事があり、ルインは気を引き締めた。

「下着姿で男をだまくらかす存在と見られているのはいささか心外だが、まあ良い。そなたの強い男性性だんせいせいのせいだ。それを魔術や運命の深遠をもって解釈するならば、そなたが無防備に、かつ裸になる時は、ある種の類似性で女が寄ってきやすくなるのだ。例えるなら……雨が降ればかえるが鳴こう? ならば日照りになったら蛙を鳴かせれば雨が降るかもしれぬ、という雨乞いの理屈と似ておる。そなたとの何かを強く望む女どもが既に少なくないのは知っておろう?」

「なるほど……」

 ルインはうっかりこの話に感心してしまった。案の定、してやったりと言った顔でヴァラリスが微笑む。

「さて、私はこれで、おのれを差し出すほかにそなたの疑問にも答えたわけだが」

「ついでに唇も貰っているな」

「律儀なものよな。……さて、私の頼みごとの話をしよう」

 しかしここで、薄桃色を帯びた銀色の弧が空間を斬り、カーテンでもめくるようにチェルシーが現れた。

「はい、密室でのお話はここまでです! 健全な契約は第三者がいてのみ有効ですね。というわけで立会人にやって来ましたよ!」

「我が領域に切れ目を⁉ ……いや、夢幻時イノラの力か! 貴様はウロンダリアに隠れ住むとされるリリムの真祖か!」

 冷静さを欠くヴァラリスに対して、チェルシーは腰に差していた上下二連の小さな拳銃を撃った。遅れて反応するヴァラリスは驚愕の表情を浮かべてうろたえる。

「いかん! 何をした? 私に夢幻時イノラの力のある銃弾を撃ったな⁉」

「ええ、まあ。私のこの銃は『リリスの小言こごと』といいます。これの銀の弾丸で撃たれた女性存在は、私の小言を一つ、聞かなくてはなりません。たとえ混沌の神であろうが逆らえませんよ? ちょっとこう、ご主人様とのおしゃべりを楽しみ過ぎましたね? でも……」

 チェルシーは持っていた剣をはたきに変えて肩に乗せ、少し呆れたように話を続けた。

「花というのは口をきかないから美しいんですよ。例えば……もしも花畑がしゃべったら燃やしたくなるかもしれませんね。……で、今日はちょっとうるさい花が多いから機嫌が悪いんですよ、私」

 ヴァラリスの混沌カオスの瞳に怒りの色が揺らめく。しかし、チェルシーは余裕のある笑みを浮かべて全く動じていなかった。

「あれあれー? いいんですか? 夢幻時イノラの力の怖さはあなたも知ってますよね? せっかくそんなみだらな姿勢でいる事だし、例えば『ご主人様に犬のように仕えて、ぼろ雑巾のように捨てられろ』みたいな小言を言ってもいいんですよ? ……あ、逃げるのも駄目ですからね? この周りの空間は断絶済みですから」

「なぜだ、なぜこんな事に……!」

 絶句して何か考えを巡らしているであろうヴァラリスだったが、その狼狽ろうばいぶりのどこかにルインは真摯しんしな悲痛さを感じ取った。チェルシーがその様子を見てわずかに口元に笑みを浮かべたことにもルインは気づいていなかった。

──永劫回帰獄ネザーメアは非常に広大で、一説によれば知的存在の歴史の始まりから存在しているとも伝わる。分布する領域の中には力を持ちすぎた伝説の王たちが閉じ込められた『焼かれし諸王の地』なる場所もあるらしい。

──賢者フェルネーリ著『ダークスレイヤー』より。

first draft:2022.11.04

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