第三話 春の宵の下

第三話 春のよいの下

 帰ってきた眠り女の顔合わせや、最近のピステでの事、ルインの状況の説明などを兼ねた宴会の席が、『西のやぐら』でささやかに開かれていた。酒も出始めたあたりで席を立ったルインは、魔の都の喧騒や下の階の宴席での声を遠くに聞きつつ、暖かな春のよいの空気をバルコニーで楽しんでいる。

「今夜はルンネの月と、確か……モノリスがうっすらと見えるな……」

 ウロンダリアの夜の天体の周期は複雑らしく、ルインはそのような理を説く書籍にはまだろくに目を通していない。今夜は大きな月レダは姿を現さず、小ぶりなルンネの月と、直方体の天体モノリスがうっすらと輝いている。

「いつも宴席から早めに退かれるのですね。宴席は好まないのですか?」

 振り返ると、簡素な灰色の長衣に茶色い編み紐のベルト、春物の短い外套がいとうにフードをかぶったシェアだった。ルインの多くない経験では、これは魔の都では少し育ちの良い村娘くらいの簡素な装いに該当がいとうする。

「酒も嫌いではないんだが、おれが持つ力はいささか酒色しゅしょくと相性が良くない面があってな。だからあまり気は進まないんだ」

 ルインの答えを聞いて、シェアは微かに嬉しそうな眼をした。

「そうでしたか。厨房ちゅうぼうで大麦のお茶を淹れてもらいましたので、良かったらどうですか? 夏場に良い飲み物なのです。血をにごらせない効果があるんですよ」

 シェアの持つ盆には、陶製のポットと取っ手のついた湯呑みが乗っていた。

「いただこうかな。……飲みやすい」

「それなら良かったです。あの、こうして話しかけて、迷惑ではありませんでしたか?」

「いや全く。なぜそんなことを?」

 シェアは最初、無言で微笑んだ。

「良かった。私、男の人とは上手に話せなかったですし、ほとんど話してきませんでした。とても苦手なのです。でも、このままではいけないので、話しやすいルイン様と話して、少しずつでも慣れておかなくてはと思っているのです」

 あまり聞くべきでは無さそうな理由がルインの脳裏によぎっていた。

「そうか。まあ、おれで良かったら、いつでも」

 シェアの眼は明らかに嬉しそうだった。

「ルイン様は……何だかとても話しやすいんです。チェルシーさんのお話だと、『夢繋ゆめつなぎ』で私がルイン様を理解出来ていて恐怖を感じないから、との事でした。それでもこうして男の人と話せる自分に、少しほっとしています」

「無理に話せるようにならなくても良い気がするけどな。気楽にいけばいいさ」

「そう言われると、少し気が楽になります」

「それよりせっかく時間も空いているし、少し木剣で手合わせでもしようか?」

 シェアの眼が嬉しそうに見開かれる。

「この前のお話、覚えていてくださったんですね! 嬉しいです! 持ってきます!」

 シェアは盆を持って軽快に屋内に戻ると、修練用の布や革の巻かれた木製の剣や短剣、ナイフを持ってきた。

魔導まどうの灯明を灯しますね」

 シェアがバルコニーの手すりに触れて決められた合言葉を口にすると、広いバルコニーの四つ角の太い柱の上に青白い光球が浮かび上がる。ルインは長めの木剣を手に取り、シェアは長短一本ずつと、ナイフを模したものをベルトに差した。

「ほう、欲張りだな?」

「非力なので手数と奇襲に重きを置いているのです」

 ルインの軽口に微笑むシェア。

「では、始めようか」

 二人は数歩の距離を取り、一礼して手合わせを開始した。ルインは手始めに上段からの分かりやすい振り下ろしを仕掛けようと思ったが、矢のように通り過ぎたシェアはルインの左わきの下と胸に、軽い斬撃を当てて通り過ぎた。開始して一瞬で二本取られた形になり、驚くルイン。

「驚いた、疾風のようだな?」

「そこまで優しくしなくて大丈夫です。これでも、異端審問官たちが小部隊を動かしても討伐できない程度には手練れに見られているのですよ?」

(空気が変わったな……)

 伏し目がちのシェアにいつの間にか、修羅場をくぐって来た者の冷たく乾いた空気が漂い始めている。

「失礼した。それなら……!」

 ルインは稲妻のような突進で突きを放った。シェアは見事に反応していたが、いきなり直進がずれたようにルインを見失い、わき腹と左の首筋に軽く何かが当たる。

(速い! そして……優しい!)

 見た事のない剣技と、今までのいかなる手合わせよりも優しい木剣の当て方に、シェアはルインの技量と優しさを感じ取っていた。

「今の、どうやって?」

「とりあえず二本返したが、これは実は真っ直ぐな突きではないんだ。側面に抜けるような足の運びで、剣先に視線を向けさせて誤認させ、胴を横に斬り、引き手で背後からむき出しの首に斬り込む技だ。首への斬撃は見ないで行うのと、相手が首を護っていない時のみ有効な変化技だな」

「凄いです! 早速私も取り入れてみますね!」

 幾つかの技の応酬の後は、至近での木剣の打ち合いになった。シェアは時々、からめめ手でナイフを混ぜたりもしたが、それはルインが柄や、肘での払いで対処する。

「すごい! すごいです!」

 眼を輝かせて、次から次へと様々な軌道の攻撃を繰り出すシェアと、受けきるルイン。ルインの攻撃は時に首、わき腹、心臓、腿などに優しく当たり、シェアが取られる本数は増えて行く。時折、ルインはシェアが取りやすい隙を作っていたが、それもシェアにたしなめられたため、バルコニーでは次第に木剣の打ち合う音が高く連続で響くようになった。

(ああ、楽しい! ……優しい!)

 シェアの剣技を導くように、手加減とわからないように巧妙に隙を作って見せたり、悪い癖の部分にはそっと木剣を当ててくるルイン。それでいて技の応酬の速度は増していき、シェアはまるでルインと二人で踊っているような、不思議な心地よい高揚感で満たされ始めた。

(剣技の手合わせが、こんなに楽しいだなんて……!)

 かつての恩師、退魔教会たいまきょうかいの特級退魔教導士エドワードとの修練でも、このような楽しさは感じた事が無かった。

(私の人生の何かが、変わり始めているみたいです……)

 距離を取ったルインは、時に魔法の灯火の死角にあたる位置に立ち、うっすらと春のよいに溶け込んでいる事がある。しかし、シェアにはそれが、暗黒だった自分の夜が変質し、先の見えない恐ろしい夜をほの明るく照らし、導いてくれる者が現れたような、そんな心地よい予兆に感じられていた。

(そういえば……)

 初めて『夢繋ぎ』をして、目覚めた次の日の朝も、まるで嵐の後の空のように感じられたのを思い出した。いつも憂鬱ゆううつ陰鬱いんうつの漂っていた空から、そのようなものが消え去ったような。

「うっ⁉」

 ここで、シェアは自分の木剣が妙に遅くなったように感じた。ルインが距離を取り、木剣を止める。

「よし、ここまでかな。シェア、呼吸が追い付いてない。それに、とても汗をかいている。打ち合いはやめて呼吸を整えようか?」

「あっ、はい! ……あれっ? すごく熱いです!」

 シェアはフードから湯気が立ち上っているのに気づき、フードをはいだ。春の宵の大気が肌を冷やすが、髪から滴るほどの汗をかいていた事に気付き、驚く。

「呼吸も整えた方がいい。大した動きだが、もう息が回ってないぞ?」

 全身が重いことに気付き、深く息をすると、どっと汗が吹き出す感覚とともに、身体が空気の養分にひどく飢えている事に気付いて、シェアはさらに驚いた。しばらく息を整える。

「あの、私、こんなに夢中で打ち合いを?」

「とても楽しそうだったし、おれも楽しかったけど、そのままでは疲れ過ぎたり、倒れるかなと」

「そうなんですね? でも、ルイン様は……!」

 ルインの呼吸は全く乱れておらず、汗一つ浮いていなかった。シェアの驚愕の視線に気づき、ルインは説明する。

「ああ、これはおそらく呼吸の違いだと思う。乱戦時の呼吸法は何か習った事が?」

「いえ、ありません」

「なら、それも今度教えるよ。戦ってみてわかったんだが、君はすごく強いし、まだまだ強くなるな。現時点でさえ粗削りなのだから、仕上がったら相当なものだと思う」

「本当ですか⁉」

「ああ、まだまだ強くなる。これは教えるほうも楽しいな」

「嬉しいです! とても!」

 シェアは軽く握った手を胸の前に組み、その眼は心から喜んでいた。

「ルイン様、汗をかき過ぎてしまったのでこれで失礼しますけれど、本当にありがとうございました! また手合わせしていただけますか?」

「手が空いている時はいつでも歓迎するよ。風邪をひかないようにな?」

「はい!」

 シェアはお礼を何度か繰り返しつつバルコニーを立ち去った。とても喜ばれた事はルインも嬉しかったが、長い間多くの相手と戦ってきたルインには、シェアのこれまでの人生が、浮かびあげるように読めてもいた。

(暗闇の中を、救われるためにもがくように戦ってきたんだな……)

「シェアさんやっぱり強いですねぇ。そしてご主人様の教え方の優しい事と言ったら! 流石ですねぇ」

「いつの間に?」

 背後から声が聞こえて、ルインは驚きの声を上げた。

「何です? 夜に可愛い女の子にでも出会ったような声を出して」

 いつの間にかチェルシーがバルコニーの手すりの上に座り、足をぶらぶらとさせていた。その背中には赤い翼を展開している。

「驚いたな。見ていたのか」

「面白そうだったので上から眺めてました。シェアさんが嬉しそうだと私も嬉しいです。幸せになって欲しい眠り女第一位ですからね。……私含めてみんな一位ですけれど」

「いい事を言う」

「ご主人様、シェアさんって深い傷を抱えてますし、妙に敵も多いですから、守ってあげてくださいね?」

「もちろんだ。しかしそこまで言うなんて珍しいな。何か気になる事が?」

「うーん、うまく言葉にできないんですけれどね、シェアさんって心に暗いもやがかかっているんですが、その向こうの闇が不釣り合いに大きいんですよ。眠り女には数奇な運命の人が多いので、シェアさんは良く見守った方が良い気がするんです」

「気に留めておこう」

「ですね。ところで、お茶とお菓子持ってきたので、月でも見ながらお茶しません?」

「ああ、それはいいな」

 シェアとの手合わせを終えたルインは、チェルシーとのんびり春の月見を楽しむことにした。

──退魔教会は禁忌とされている赤い月、シンの魔物の研究に力を入れている。ウロンダリアの地上の魔物とは全く系統の異なる月の魔物からは、貴重な素材や資源、魔術を得られるためだ。

──法王ゼラキウス三十二世著『退魔教会の意義』より。

 同じ頃、魔の領域からそう遠くない隠された山間の古城の中。灰色の石材で組まれた城と同じ材質の広い浴場から、暗い赤の長い髪をした女が乱暴に上がった。女は身体を一切こうともせずに歩く。

「ガディス様、身体をお拭きいたします」

 人形のように生気のない、赤い眼をした給仕たちがその女の後を追い、身体を拭く。

 女は完璧に近い肉体を精巧な彫刻の銀枠の大鏡に映していたが、やがてその赤い眼に怒りをたぎらせて、拳で鏡を殴りつけた。

「くそっ! どういう事なんだよ! なぜこの呪いが消えてねぇ!」

「むしろなぜ消えると思ったのかしら?」

 赤い髪の女は、いつの間にか鏡に映っていた、冷気を纏うドレス姿の女に気付いた。背後に立つその女に振り向く。

「お前はサーリャ! いつの間に⁉」

「私は『解呪かいじゅ』も可能ですが、そんな気はありませんし、今のその『お前』で、私が気まぐれを起こす確率はさらに下がりました。……まあ、今は『眠り人』が地上に現れ、数奇な美しい花々は彼のそばに集っています。なので、あなたを解呪する気はさらさらないのですけれどね」

「何だと⁉」

 赤い髪の女は振り向いたが、そこにサーリャの姿は無く、また背後から声が聞こえる。

「そもそも私も、スラングロード様を悲しませ、あの方が討伐される原因を作ったあなたを許す気はありません。異界の戦士如きに後れを取る方などでは決してありませんでしたのに。スルーセが失われた理由も同様に、ね」

 冷たく澄んだ声に、罪を問う怒りが感じられた。

「……そんな事は分かっている! 自分の罪には向かい続けるぞ」

「それは殊勝しゅしょうな事ね。いにしえ討伐令とうばつれいは今も有効であり、既に何名かの実力ある上位魔族ニルティスの戦士たちがここをめがけて進んでいるのはご存知かしら? 彼らはあなたの『中身』などどうでも良くて、その素晴らしい肉体と懸賞金しか眼に入っていないわ。上層地獄へはもう戻れなくされているでしょうし、遅かれ早かれ、あなたは……」

「やめろ!」

 広い脱衣室の中で爆炎がはじけた。しかし、サーリャも、人形のような赤い眼をした給仕たちも球形の魔力の力場に守られ、その炎の影響を受けていない。

「くそっ、今でも皆、おれが呪いによって誰かに組み敷かれ、本物の女にされる時を待ち、あざ笑おうとしているのかよ!」

 この言葉にサーリャは何か得心したように微笑んだが、ガディスには見えていない。

「みんなもうそこまであなたに関心は無いわ。ごく少数の物好きたちだけよ。ただ、ジルやあなた、私のことに絡んで、魔王様はいずれ処刑者しょけいしゃ大剣たいけんを発現させるでしょう。それを任されるのはおそらく最後の眠り人。あなたと違って孤高の存在である眠り人は、ラヴナが添い寝をしていても指一本振れないような男よ」

「何だと? どういう事だ? あのラヴナがともに寝ていて、だと?」

「扱う力の根源がそのような生き方を強いるものなのよ。しかしそれで、私の言いたい事は分かったでしょう」

 ガディスの眼から怒りが消え、何かを読む様な眼に変わった。

「……おれのこの肉体と姿でさえ、興味をひかないほどか?」

「あなたが事情を話さなくても、あなたが本物の女に変えられてしまう事はまずないでしょうね」

「……おれに何をさせる気だ? いや、おれは何をすればいいんだよ?」

「いよいよとなったら、魔の都の西のやぐらを訪ねて眠り人を頼り、彼の力になると良いわ。あの男のそばでなら、あなたはずっとあなたのままでいられるでしょうね。あそこは異界から来た聖猫せいびょうが特殊な結界を張っていて、眠り人以外の男と邪な者は入れないから」

「……あんたの言う事を全ては信用できないけどな」

「遅かれ早かれそうなるわ。そうでなければあなたはいずれ、ギドニーたちに掴まり、そのか弱い手を掴まれて、本物の女に……」

「やめろ‼ くそ、ギドニーだと、あいつ……!」

 今度はガディスから電光がほとばしる。

「ふふ……まあ、あなたの贖罪しょくざいですから、あなたが嬌声きょうせいを上げさせられるのも全然構わないのですけれどね。かつてスルーセにあなたがそうしたように」

 サーリャの声は静かだが、その底には明確な怒りが感じられた。

「もう許してくれよ……。この美しい体とは折り合いがついてきたが、やっぱり心までは女にされたくねぇ。男に色々されるなんて嫌だ! 本当に悪かったと思ってるんだ!」

「なら、その身体が好きなギドニーに捕まり、全てをあの乱暴者に捧げて、心から贖罪しょくざいの意志を示してはどう? 可愛がってはくれるはずよ?」

 冷たく笑うサーリャの物言いには、寛容さも理解も全くなかった。

「やめろ、それ以上言ったら殺すぞ! 心までは女にされたくねぇと言ってるんだ!」

「都合のいい『贖罪』ですこと。呪いも解けないはずだわ。まあいいでしょう。哀れなあなたの人生も既に眠り人次第。あなたが最後に切れる札だけ渡して、私は立ち去りましょう。ごきげんよう!」

 冷気の粉が舞い、サーリャの姿はふと消えてしまった。その空中から、白金の一枚のカードが落ちる。拾い上げると、転移魔法の術式と魔方陣まほうじんが刻まれたものだった。

「くそったれ!」

 ガディスはカードを握り締め、床を思いきり殴った。灰色の大理石は蜘蛛の巣のようにひびが入り、割れた拳がめり込む。しかし男相手には魔力も筋力も人間の女以下にしか出せない呪いがかけられていた。

 長い間上層地獄界に封印されていた魔族の姫もとい王子の一人ガディスは、こうしてまた歴史の表舞台に出てくる事となる。

──かつて眉目秀麗な魔族の王子、ガディスが居たが、彼はある時、大魔王スラングロードの娘スルーセに強引に手を出したことにより、美しい魔族の女の姿に変えられ、男相手には逆らえない呪いをかけられたと言われている。

──コリン・プレンダル著『魔界淑女序列』より。

first draft:2020.04.26

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