第三話 火急の事案
──西の櫓、バルコニーをのぞむ部屋
クロウディアとの手合わせを終えたルインは腕の怪我をシェアに診てもらっていた。しかし、シェアはルインの傷跡を何度も注意深く見ては首をかしげて困惑している。
「ルイン様、こうして見ている間にも傷がふさがり続けて、もう斬られた部分も分からないくらいです。祈願と処置が必要かと思ったのですが、それにしても不思議で。眠り人は不死とされていますが、ルイン様もそうなのかもしれませんね」
「気合と呼吸で何とかしたつもりだったが、傷がふさがりつつあると?」
シェアはルインの腕をそっと置き、その灰色の目をルインに向けた。
「クロウディアさんも言ってましたが、確かにあれは南の大国ガシュタラに伝わる拳闘の技にも似ています。彼らの技の達人は鋼の剣さえ拳で折りますからね。でも、これはそういうものともまた違います。ルイン様には明らかに強い再生の力が働いていますよ」
シェアは微笑みつつ、近くに広げてあった古い大きな革の鞄に包帯や消毒薬、縫合用の糸や針などを綺麗に仕舞い始めた。青や緑、茶色など様々な色の薬瓶がルインの目を引く。
「これは私たち教導士が持ち歩く施療用品です。祈願の力は健康の前借りに等しいですから、緊急時でなければやはりこのような処置が望ましいのですよ」
「そんな事も出来るのか」
「シェアさんはとっても有能なんですよ! 水と慈悲の女神シェアリスに祈願が届きますし、魔術も武術もいけます。でも、悪い人たちにお尋ね者にされてしまっているので、それを何とかして守り通してあげないといけません」
複数のティーセットと様々な菓子の載ったテーブルほどの広さの盆を頭に乗せ、平然と運んできたチェルシーが話に入る。
「恐縮です、チェルシーさん」
「いえいえー。ちょっと話し合いもしたいのでお茶の準備をしてきました」
チェルシーは頭上の大きな盆などないかのように素早くテーブルの片づけを始めようとし、盆が落ちると思ったルインは思わず体が動いた。しかし大きな盆はそのままの位置で宙に浮いている。
「あ、これはこういう魔法のお盆です。テーブルの天板を丸ごと飾り変えるような感じで、魔の国では一般的なんですよ!」
「理解した。少し焦ったよ」
「ごめんなさい、説明してませんでしたね。例えば上位魔族の貴族だとこのお盆にとんでもなくお金かけて美意識や権力、財力を誇示する人たちもいますから、すごいのが出てきたら一言褒めてあげると良いですよ」
「そういう文化なんだな。覚えておくよ」
大きな鞄に錠をかけてシェアが立ちあがる。
「処置が何も必要なくなってしまいましたが、傷がふさがって何よりです。ルイン様、お時間のある時でよいので私とも手合わせ願えませんか? 何かとても学べそうな気がしますから」
「おれでよければ、いつでも」
ルインのあっさりした返事に、シェアは思いのほか嬉しそうな笑顔になった。
「本当ですか⁉ ありがとうございます! 何か私にできる事がありそうな時はいつでも声をかけてくださいね。あとチェルシーさん、この後の話し合い、私も関わる必要がありますか?」
「どちらでも良い感じです」
「わかりました。ではまた戻りますね」
シェアは誰が見ても嬉しそうな軽い足取りで立ち去り始めたが、部屋を出る直前にもう一度振り返るとルインに一礼して姿を消した。
「すごく嬉しそう……」
手を止めずてきぱきとお茶の席を準備するチェルシーの呟きは、この場にいた皆の感想そのものだった。
──上位魔族の貴族たちの歓待の趣味は微に入り細に入り手が加えられている。テーブルの天板と料理や茶などに世界観や意味を持たせたものが多く、歴史上名高い歓待の席では会談そのものより雄弁な事もある。
──コリン・プレンダル著『魔の国の宴席』より。
「食堂にすればよかったかなぁ。ちょっと失敗しちゃった」
お茶を配り終えたチェルシーは集まった人数の多さに少しばつが悪そうに笑った。バルコニーを臨む部屋には、覇王の霊廟から来た古代プロマキス帝国の娘ルシアと危険な宝物『腕輪の姉妹』を監視していた銀の狼ミュール、さらにこの場に来れる眠り女たちのほとんどが集まっていたため、バルコニーにまで人がはみ出している状態だった。
「腕輪の二人は影響力が強すぎるのでこの場に呼んでません。あの二人はご主人さまの部屋の奥に座らせとくのが一番だと思いますよ」
「みだりに人目に触れさせては良くないだろうな。話とは?」
「ルシアちゃんの加入と、ミュールさんの所在について、それと特に火急の事案についてですね。順を追って話します」
「火急の事案?」
少し離れた場所に座っていた工人の女アゼリアが手を上げた。
「たぶん私の街の事だと思うけど、あまり状況が良くないみたいで」
アゼリアの表情は明るいが、それでもわずかな無理がルインの目には見え始めていた。チェルシーが話し始める。
「まあ私に任せてください。順を追って話しますけど、まずルシアちゃんは現在の文化の勉強と、魔法の翻訳なしで話せるようになってもらいつつ、この『西の櫓』で身柄を預かります。詳細はここのみんなと同じく内緒という事で。で、次なんですけど、ミュールさん?」
チェルシーの視線の先に、妙に小さくなっているミュールが緊張した面持ちで座っていた。
「そこにいたのか、ミュール」
「お、おう。まあな」
ミュールはびくりと大きく反応してルインに向いた。覇王の霊廟での尊大な空気は見る影もなく、怯えた子犬の様に委縮している。それが何を意味しているのか察したルインはすぐにチェルシーを向いた。勘の良いチェルシーは片目をつぶって首を可愛らしくかしげた。
「えへっ、やりすぎちゃいました。なんかこう、子犬と遊んでるような感覚と言いますか」
よりによって神獣である銀の狼を子犬とは、とルインがミュールに目を向けると、ミュールは頭を抱えてうつむいてしまった。
「もうなんか信じられねぇ。大王がいた遥か昔はこんなやばい連中居なかったぞ。何だよ上位魔族って。下層地獄の魔族の王たちより強い気配がゴロゴロしてるじゃねえか。そしてあたしの仲間たちの気配はほぼ感じられない。こんな事があるかよ……」
ルインの目は再びチェルシーに向いた。
「チェルシー、つまりあの後の経過はやりすぎだったと」
「えーと……」
ルインの指摘に、チェルシーは苦笑いをしつつも言葉を続けなかった。突如としてテーブルに何かを叩きつける音がし、ミュールが顔をルインに向ける。
「とりあえず、時代が大きく変わってしまったのは分かった。そして、あの危険な姉妹を監視する役目も終わった。というわけで眠り人ルイン、あたしはどこにも行くあてがない。ここで世話になれたら助かるし、仕事への協力は惜しまない。あと、そこのとんでもなく強い嬢ちゃんに笑われないように腕をもっと上げたい! どうだ?」
「おれは反対する理由はない。眠り続けているセルフィナの事も、腕輪の姉妹の事も知っている事があれば伝えてほしいし、腕が立つのは分かっている。宜しく頼む」
「話が早いな、宜しく頼むぜ!」
ミュールに不敵な表情が戻った。
「礼儀作法の勉強からですよ、まずは!」
「ちぇっ、わかってるよ。でも必ず腕も上げて昨夜みたいにはならないからな!」
「望むところです!」
昨夜何があったかおおよそ察したルインは敢えて聞かず、チェルシーに向き直った。察したチェルシーはにこりと微笑んで話を続ける。
「というわけで火急の事案の話になりますが、強大な八つの古王国の一つ、東の大国『バルドスタ戦教国』が、アゼリアさんの故郷である工人の都市国家ピステに介入する気配が濃厚です。工人の都市国家にはあらゆる他国が介入不可でしたが、内部からの要請があれば別です。それによって動乱が起きようとしています。これは魔王府からの最新の動向ですね」
「ああ、やっぱりその方向なのね」
ルインには明るい笑顔の印象しかないアゼリアの表情は、今はとても苦し気なものになっていた。
「内部からの要請と言ったか? つまり今の工人の都市は一枚岩ではない、と」
「そう。私たち工人の歴史では考えられなかったことが起きているのよ」
「考えられなかったこと?」
アゼリアはここで、周囲の多くの眠り女たちを見渡した。
「予想外で、そして難しい話よ」
アゼリアの様子にルインが何かを感じ取った刹那、チェルシーが話を続けた。
「火急の事案はそれだけではないので、予定がつき次第魔王様のお城に来ていただけたら、という連絡が来ていますよ。色々と複雑な事情もありますし」
「それだけではない? ……わかった。行こう」
こうして、ルインとチェルシー、アゼリアを含む何人かの眠り女たちは早々に黒曜石の大魔城オブスガルへと向かう事になった。
──黒曜石の都の大魔城オブスガルは上魔王シェーングロードの居城として有名である。しかし、上位魔族たちによればこの城はあくまでも混沌との戦いに備えた戦時の要塞であり、美意識的な意味ではあくまでも仮の城なのだという。
──コリン・プレンダル著『魔の国の歴訪』より。
──夕方、黒曜石の大魔城オブスガル。
ささやかな宴席を設けるとの事で夕方の時間を指定されたルインたちは、隅が見えない程に広い大広間の宴席についていた。
「ちょっと、チェルシー」
ラヴナは隣のルインの向こう、チェルシーに小声で話しかけた。
「何です?」
「魔王様の隣にまたオリガ姫が来てるわ。珍しくない?」
「あー、確かに。何か気になります?」
「つぼみの季節(※女性の思春期のウロンダリアでの呼び方)を何か変な形に拗らせて興味がルイン様に向いたら嫌だなって」
「そんな事……いえ。ちょっと気にした方がいいかもですね」
「でしょ? 面倒なことにならないように気を付けないと」
ルインは背中で行きかう二人の話にはあまり関心を傾けず、二つの大きな玉座の間のやや小さい玉座に足を組んで座るオリガ姫に目を向けた。灰色の短い髪に赤く細い一対の角と、上位魔族の女性が好んで着るというすらりとして脚の見える黒紫のドレス。典型的な魔族の赤い目をしているが、しかしその表情はどこか自信なさげだった。
ルインの視線に気づいたオリガ姫は遠慮がちに微笑む。
「ほら、今ルイン様に笑顔を見せたわ!」
ラヴナの警戒心に満ちた声が少し大きい気がして、ルインは何か言うべきかと考えたが、大きな玉座に上魔王シェーングロードが姿を現した。
「宴席に呼びながら待たせて済まぬ。しかしながら工人の都市ピステの動乱、刻一刻と報告が入っておってな。聖国からも連絡が入りつつあり、予断を許さぬ状態だ。本来なら工人の都市国家は独立が保証されているが、今回は内部からの要請に応じるという形を戦教国が取っているためだ」
「あいつらね……」
珍しい事にアゼリアの口調が荒い。
「あいつら?」
ルインの問いに、しかしアゼリアは答えなかった。上魔王シェーングロードが話を続ける。
「内紛状態になりつつあるのだ。しかも厄介な形でな。そこにいるのはピステ古代工人組合の議長の娘、アゼリア・ライカ殿だと思うが、概要はこのまま余が説明しても良いか?」
「恐縮です。上魔王様の計らいに異はございません」
普段の気さくで砕けたアゼリアが、おそらく格式に則った返答をするのを見てルインは感心した。
「ここでのお作法はみんな一通り習っているんですよ」
チェルシーが小声でささやく。
「ふむ。まず歴史から話そう。彼ら工人は現在のような姿をしておらず、数も少なくなりその技術ごと種族が消滅してしまう危険があった。混沌戦争の少し後の話だ。忖度なく言うならば、彼らは賢くも異形の種族であり、己の興味ある技術に没頭する平和的な求道者だが、婚姻に疎く、また他種族とも婚姻を結び難い種族だったのだ」
大広間の空中に様々な記録の映像が鮮やかに浮かび上がる。
「古王国連合や聖王国はこの行く末に頭を悩めた。何人かはこの国からも工人と婚姻を結ぶものが出たが、何しろ工人は滅多に子をなさぬ。そこで、眠り人の一人であるレオニード・ファシル卿の力によって種族の見た目を変えたのだ。工人の能力はそのままに、魅力的にな。結果として主に人間との婚姻が進み、その数を急速に回復したのだ。さて……」
上魔王シェーングロードは紫水晶から磨き出された精巧な彫刻の瓶を開け、その中身を器に注いで飲んだ。
「彼らにはしかし精神面での問題が次第に表面化するようになった。例えばそれはどのような問題だと考える? ルイン殿」
ルインの目が細められ、その細くはない腕を組む。そっと横目で見たチェルシーには、ルインの鳶色の瞳に一瞬だけ赤い揺らぎが横切ったように見えた。
「人の拙速さ、あるいは虚栄。そのようなものが彼ら工人の本来のありようと相いれなくなってきたのではないかと」
魔王はゆっくりと器を置いた。
「その通りだ」
魔王は何もない玉座わきに目を向ける。と、あまりに豊満で背の高い、それぞれ色やねじれ方の違う角を持った上位魔族の女の給仕たちが現れ、魔王が飲んでいたのと同じような紫水晶の彫刻瓶を持って各席を回り始めた。
「南の大国、ガシュタラ万藩王国の香り高き薔薇のシロップだ。楽しまれよ。苦い話も和らごうというものよ」
小さな黄金の杯に注がれた濃い紫色の液体を一同は少しずつ口に含み、杯を置く。その様子を見て上魔王が話を続けた。
「果たして精神は血にも宿るものなのか。工人たちは本来の求道者然としてある者たちと、次第に人間らしく目先の承認や名声、財貨を至上とする者たちとの二派に別れ始めたのだ。これらの衝突は近年激しくなっており、特に過激な一派が国外に自分たちの道を見出さんとして大国に歩み寄り、愚かにも自分たちの歴史を守った不文律を崩そうとしているのが現状だ。聖王国が何らかの声明を出す可能性が高く、つまり軍事的な介入が目前であるという事だ。しかし、もう少し穏便に話を付ける事は出来るかもしれぬ。自由なる存在である眠り人の介入という形を取ってな」
現地の緊張度合いを理解して沈黙が漂い始めたが、それはすぐに破られた
「理解した。必要ならすぐに発とう」
「えっ? 早いよお兄さん!」
「何が早い? 何か役に立つかもしれないのだろう? しかも時間がないとなればすぐに向かうだけだ」
ルインの言葉にかかるように魔王が大声で笑う。しかしそれは嘲笑ではなかった。
「肚が決まり過ぎている男だ。余は決して呆れてもあざけってもおらぬぞ。貴公は心が落ち着き過ぎておる。まるで鉄でできた船が最初から沈んでおるようにな!」
魔王の笑いが再び続き、その様子にラヴナが目を丸くした。
「嘘でしょ? 魔王様が笑ってる! ルイン様は状況を理解した上で笑っちゃうくらい落ち着いてるって事ね?」
「あのーご主人様、滅茶苦茶な力で黙らせるとかそんな感じですか?」
「わからないが、眠り人というのは交渉なども出来る立場なのだろう? なら双方の言い分を聞いてまとめる努力くらいはできるはずだ。決定的な衝突の空気を避けられるかもしれない」
人間に近い眠り女たちには地道に努力を尽くすように聞こえる言葉が、上位魔族であるチェルシーやラヴナ、上魔王シェーングロードには違った聞こえ方をしていた。強大な力を持つものが無意識に相手を交渉の席につかせられるような、力による圧倒的な自由を持つ強者の気配が漂っている。
「記憶を失ってても怖い人ですねぇ」
「平和的な解決に尽力するつもりなんだがな」
ルインは少し不本意そうに笑った。しかし、その穏やかな表情の彼方に、チェルシーはそんなに穏やかではないものを感じ取った。何かまた大きな出来事の予感が近づいている。
「では、この件はまずルイン殿が急ぎ対応してみるという事でよかろう。それ以外の経過はどう転んでも先が見えすぎ、必ず血と美しからぬ結末がつきもののように感じられるからな」
魔王は何もない近くの空間に目をやり、また先ほどのきわめて豊満な給仕たちが現れて、黒曜石の皿に盛られた様々な色彩の料理を配り始めた。
「これで一つめの火急の事案は先が見えた。あと二つの火急の事案と気になる点について語り合おうではないか」
「え、そんなに? なんか色々と増えてない? 魔王様」
驚くラヴナ。一方、チェルシーはそれとなくルインの様子を見ていた。
「あと二つ? ……なかなかに忙しそうだな」
この期に及んでも、ルインの心は全く揺らいでいなかった。
──レオニード・ファシルには賛否両論ある。かつて戦争に勝ち、多くの古き民を捕えた人間たちは、レオニードの技術によって彼ら・彼女らを、脆弱で煽情的な肢体をした、愛玩用の『真珠の古き民』にしてしまった。
──魔術の眠り人ベル・フィアルス著『眠り人列伝』より。
改稿版初稿2025.03.26
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