第九話 狼の魔女ファリス
魔の都、眠り人の拠点『西の櫓』、大浴場。
ルインとの会話で少し元気の出たシェアは、さらに気分を変えようと大浴場に来ていた。つい最近、ルインが湯につかっている時に少し変わった出来事が起きたらしいが、詳しい話は聞かされていない。
「ああ、これはアラムカラヤ様の趣味ですね……」
ここしばらくの大浴場はウロンダリアの南の大国、ガシュタラ万藩王国の庭園風呂の趣向に変えられている。これは非公式に眠り女を務めたガシュタラの美姫アラムカラヤからの贈り物との事だった。以前、シェアは褐色の肌を持つこの親し気な姫と深夜に密書を交わすために話したことがある。
この時、シェアはガシュタラのハレムの庭園にある黒い蓮の花の妖精、タリエと友人になったが、妖精の宿る不凋花の移動はみだりに行うものではないため、エデンガル城への引っ越しと共にそれを行う段取りになっていた。
(タリエは今の私をどう思うでしょうか?)
勝ち気で大人びた黒蓮の妖精であるタリエなら、おそらく今のシェアの事を笑い、その鈴の転がるような声はきっと自分を元気づけたに違いないとシェアは思い、口元がわずかにほころぶ。
シェアはゆっくりと背伸びをして庭園風呂を堪能することにした。
薄桃色の三つ又の槍のような花の咲く蘭や、金粉をまぶしたような黒緑の葉の蘭、さらに、複雑な香りを放つ蒼い苔などが各所に植えられており、その間から蛇のように長い胴体を持つドラゴンの彫像が口から湯を吐きだしている。シェアが信仰し、ガシュタラでも多くの信仰を集めている女神シェアリスの従者、長き水龍ニーフラだった。
「これはニーフラ様? ガシュタラの人たちは本当にニーフラ様が好きですね……」
この水龍はシェアリスの従者で、古代から何度もガシュタラの干ばつを救って恵みの雨を降らせたとして絶大な人気があり、ニーフラの彫像から水を吐きだす仕様はとても一般的なものだった。
「ふう……」
布を巻いてその豊かな身体を隠したシェアはゆっくりと湯につかり、目を閉じる。ルインと話してだいぶ楽になった心にこの湯はさらに良い効果をもたらし、シェアの雰囲気は柔らかなものとなった。
しばらくして、誰かが大浴場に入ってきたことに気づいてシェアは目を開けた。湯気の向こうの人影の体つきはシェアに負けず劣らずに豊かかそれ以上で、シェアはそれが誰かすぐに察した。
「ファリスさん?」
「あっ、気付かれた?」
ばつが悪そうに微笑むのは、シェアよりも豊かな体に布を巻いた『狼の魔女』ファリスだった。教導女と魔女という、ある意味で相いれない部分があるはずの二人は、しばしばこの大浴場や食堂などで出くわす事が多かった。
「……もしかして、また私がいるのを見計らってここに来ましたか?」
「お友達になりたいとずっと言ってるのに、シェアさんが冷たいんだもの」
シェアにしては珍しいやれやれといった雰囲気に、ファリスも全く悪びれない。
「いつも言っていますが私、教導女ですよ? 魔女の方たちを否定する気はないですが、私は強く自由に生きるのは向いてない気がしています」
「どう見ても情念が強いのに?」
「またそれを言うんですね」
「情念が強いのはとってもいい事よ? つまりシェアさんは教導女をやりながら魔女にもなれる凄い人! 羨ましいわねぇ」
ファリスはあまり遠慮のない所作で湯船につかると、気持ちよさそうに両腕を縁に伸ばして溜め息をついた。裏表のない彼女のこのような雰囲気はシェアも嫌いではなかった。
「でも一番羨ましいのは」
一息ついたファリスが話を続ける。
「こんな清楚なのに強い情念を持つシェアさんに好かれているルインさんね。これは男の人はたまらないわ。しかも私に負けず劣らずの見事な女っぷりをしたその身体!」
言いたい放題のファリスに対して、珍しくシェアがじっとりとした目を向ける。
「シェアリス様に純潔の誓いを立てていますけれども」
しかし、ファリスも全く引き下がらない。
「その目よ! とても情念を感じるわ。元教導女の魔女なんて、魔女協会の会長としてはこの上なく話題になる逸材だわ。是非次の会長になって欲しい所ね」
シェアはこの言葉に短いため息をつき、その後こらえきれずに笑った。
「私が次の魔女協会の会長って、いくらなんでもそれはないですよ。……でもありがとうファリスさん。笑って元気が出ました。もしも万が一教導女でいられなくなったら、そんな生き方もあると考えるだけで、少し気が楽になりますね」
シェアのどこかゆかしい対応にファリスは目を細めた。少ししつこい絡み方をしても前向きにとらえ、善意のある解釈をして受け止める。簡単なようでいて、出来る人は意外にかなり少ない対応であることをファリスはよく理解していた。
「ああもう、そういう所がシェアさんのいい所よ!」
ファリスは大きな湯の波を起こしてシェアに近づく。
「近すぎます! そろそろ上がりますよ?」
シェアはそんなファリスをかわすように離れると、そのまま上がった。
「そろそろのぼせてしまうので、お先に上がりますね? ありがとう、ファリスさん」
「あーあ、シェアさんにまた振られちゃった」
「振られるだなんて」
シェアは苦笑しつつも一礼をして立ち去った。残ったファリスも目を閉じて長く息をつき、浴場の天井を見上げる。
「まあ私、自分の事は全然駄目なんだけどね……」
どこか諦観のある寂しげな笑顔を浮かべたファリスは、誰かの気配を感じて琥珀色の目を向ける。身体を洗う湯の飛び散る音に漂う大雑把さと、ファリスが持つ独特な感覚に響く狼の気配。声をかけるまでもなく『銀の戦狼』ミュールが現れた。
「やっぱりあなただったのねぇ」
「まあな。邪魔するぞ?」
ファリスに対して警戒感を隠そうとしないミュールは、ざんぶといった感じで無造作に湯につかり、浮かんでいた花弁が幾つか湯船の外に流れていった。
ミュールもまた両腕を風呂の縁に預けたが、ファリスよりもさらに大雑把でどこか男らしささえある。何度か深く息をして寛いだのち、敵意に近いものが光る眼でファリスに向き直った。
「あんたさ、黒い狼だろ?」
ファリスはこの直接的な物言いに驚いた眼をしたが、すぐに謎めいた余裕が漂った。
「同族に嘘を言っても仕方ないわね。……そうよ」
「はっ、『同族』だって? お前らみたいな黒くて悪賢い奴らと一緒にすんなよ。あたしが『外つ世界』にいた頃はお前ら黒い狼なんて『狡い奴ら』って言えば通じたんだぜ?」
挑発的なミュールの物言いだったが、ファリスはその表情を変えずに応じた。
「でもあなたは我が眷族のルロやガロムを知ってた。なら、彼らがある程度は尊敬に値する狼たちなのも知っているはずよね?」
「……まあな」
冷静なファリスは推測を楽しみ始めていたが、ミュールは自分の考えが読まれることが気に入らない。しかし、神なる狼ゆえの感性は、それが気に入らなくても避けられない無駄なことであると示唆している。黒い狼たちは狡猾さ由来の独特な賢さに優れていたためだ。
しかし、ファリスの返事は意外なものだった。
「この流れで私があなたの考えを推し量って口にするのは良くないわね。あなたの考えを教えて? それが忠告なら聞くわ」
「は? らしくない事を言うんだな? 相手の出方を読んで先回りするのが大好きだろう? お前らって」
「それが本当に賢い事ならいいんだけど、あなたなら知っているでしょう? 私たち黒い狼の末路を。少し狡いやり方で自分たちの版図と勢力をあちこちに拡大した結果、獣に近いとされて人に近い神々の狩りの対象にされ、他の神獣たちからは疎まれ、長い旅路を逃げ続けることになったわ」
「へーえ、よく分かってんじゃねえか」
「『賢い』って、反省が出来る事だと思うのよ。だから私たちは反省し続けているわ。かつての『混沌戦争』でも、私たちはとても大きな犠牲を払って戦い続け、他の種族たちとの調和を重んじたし。私たち黒い狼が得意としていた『先回り』も結局は目先だけ。多くの敵を増やしただけよ。賢くなんて無かったのよ」
何かを思い出しているのか自嘲気味のファリスは暗く笑ったが、ミュールはその言葉にかぶせるように自分の懸念を口にする。
「何を求めてここにいる? 『戦士の系統』のあたしは酒と戦いがあればいい。いずれ同族に出会えればって単純な理由でほぼ勝手に居ついてるけどさ、たぶんあんたって、『母の系統』だろ?」
豊満でかなり女らしい体つきをしたファリスとは対照的に、ミュールは細身に見えるほど筋肉質で無駄のない体形をしている。これは、『神なる獣』とされる神獣たちが宿命づけられた役割によって外見や能力にも違いが出る為だった。『戦士の系統』は一族の為の戦神のような宿命を持ち、『母の系統』は母神の宿命、つまり血脈をより豊かに増やす役割と、それに最適化された魅力を持っている。
ミュールの質問は遠回しに、ファリスが婚姻の相手を求めてここにいるのか聞いているに等しかった。その狡猾さにより、かつて多くの神獣たちから嫌われ、他の毛色の狼たちからも忌避され、神々にはしばしば狩りの獲物とされた黒い狼たちにとって、婚姻の相手を見つける事はとても難しくなっていたためだ。
ファリスは奥ゆかしい遠い目をしたのち、ミュールに答を返す。
「あなたの推測は道理だけれど、私ね……『母なる大狼』ルロの娘よ。長女なの」
「……は? ファリスって、『ルロの娘ファリス』か⁉ おいおい待てよ、嘘だろう? とんでもなく長い間独り身って事か? しかも、どうやってその……」
ミュールは言いよどんだ。ファリスの艶のある白い肌と青黒い髪に、女らしさなど意識した事のないミュールでさえ息を呑む艶めかしさと若々しさ、魅力的で豊かなのに緩みない胸や腰回りなどは、とてもそんな長い年月を過ごして来たとは思えなかった。
「あなたの疑問ももっともね。私は気の遠くなるような年月を孤独に生きているわ。そしてそれは、我が一族の秘宝であるこれのおかげよ」
ファリスは含んだ笑みを浮かべると、首にかけている銀鎖の首飾りを引っ張った。とても豊かな胸の谷間から、淡く白い輝きを放つ牙のような飾りが現れる。
「ん? とても位の高い白い狼の牙だな。何だそれは?」
「詳しい事は分からないけど『ニスの牙』と呼ばれているわ。母が身重だった頃、逃避行の旅路で絶望に至りかけた事があって、その時にある女神様からもたらされた神宝だそうよ。いつか私たち黒い狼の忌避される歴史を終わらせてくれるらしいけど、それには誰か一人、黒い狼の女が長い孤独と共に反省をしなくてはならなかったの。そしてそれは……事実だったみたいね」
理解が追いつかなくなってきたのか、あるいはファリスの話をすべて聞くべきだと考えたのか、ミュールは黙って話を聞いている。ファリスは話を続けた。
「母ルロはやがて一族と共にこの『永遠の地』にたどり着き、自分の生の旅路の終わりを悟ると大地に祝福を与え、私の兄妹たちや子孫は人と多く契り、それは一つの大きな国になったわ。この古ウロンダリアの北の大国『黒き国』オーンの始まりね。私は今でもそれに感謝して『反省』を続けているのよ。ここまでに至った黒い狼の一族なんてまずいないはずだもの」
しばらく沈黙が漂った。ミュールはいつの間にか腕を組み、普段の砕けた雰囲気とは違う細めた目をして何か考えている様子だったが、やがてファリスの目を真っ直ぐに見た。
「あの恐ろしく強い夢魔の嬢ちゃん、チェルシーはさ、『眠り女』を選別してたって言ってたよな? 心に穢れが無いことが条件だって。あんたもそれに通ったんだったよな、そういえば」
「そうよ? 私の心も長い孤独でだいぶ冷えていたんだけど、今は少し楽なの。『夢繋ぎ』でルインさんの心に触れられたからね。だからシェアさんの気持ちも少しわかるつもりよ」
「なんかごめんな。黒い狼だとどうしてもひとくくりで見ちまうんだ。『外つ世界』ならそれで間違いが無かったんだけど、これは少し雑な見方だったな。気を悪くしたんなら謝るよ」
ミュールはぺこりと頭を下げ、その様子にファリスは微笑んだ。
「いいのよ。あなたの考え方は私たち黒い狼を見るうえでは正しいわ。そしてもしも嫌いでなかったら、今後お友達になってくれたら嬉しいわ。ただ……」
ファリスは言いながら頭に巻いていた布を取った。人の耳とはまた別に、そこにはミュールのものより立派で大きい狼の耳がぴんと立っている。
「すげぇ立派な耳だな! ああそっか、あんたの魔女の帽子がレースなのは、その立派な耳で色々感じ取りやすいようにか」
「そうなるわね。この耳の大きさで分かるでしょうけど、長い年月を生きた私は、神なる獣の姿をとったらもう山脈のように大きな体になってしまう。でも、もうそんな黒い狼はどこにもいないはずよ。だから私がいつか誰かと結ばれるとしたら、その相手はきっと人の姿をしているはずね」
「もしかして、ルインにそういうの期待してたりするか?」
ミュールの率直な問いにファリスは苦笑した。
「長すぎる孤独で心がすっかり冷えてて、そんな事まで考えが及ばないわ。でも、ルインさんはとてもしっかりした強い心をしていて、それにはとても救われているの。朝が訪れるたびに冷たく差し込んできていた孤独の痛みを感じないで済むのだもの」
「……あたしで良ければ友達になってもいいけどな」
ファリスの悟ったような孤独な笑みは、ミュールの心をぐっと掴むように強い何かがあった。それが、自分でも予期しない言葉となって出てしまった。思わぬ言葉を聞いたファリスの眼は丸く見開かれ、ミュールに飛びつく。
「えっ⁉ ありがとう! すごく嬉しいわ。魔女以外のお友達、しかも銀の狼なんてとても嬉しい!」
同族ゆえの親しみやすさか、あるいは獣の距離感の無さゆえか、ファリスはミュールに軽く抱き着いたが、同じ狼の神獣で同性でも、魅力あふれるファリスの身体が触れてミュールは慌てた。
「おい近い! 近いってば!」
「あっ、ごめんなさい。つい嬉しくて……」
ファリスは驚いて離れた。
「いやいいけどよ、ちょっとびっくりしただけだし。……あー、そういえばなんか言いかけてなかったか?」
「え?」
ファリスは長い指を顎に当てて首をかしげた。
「ああ、そうだったわ! 私の正体についてはルインさんにいずれ自分から話すから、それまでは黙っていてほしい、という話をしようと思ったのよ。ただで、とは言わないわ。口止め料みたいになっちゃうけど、お近づきのしるしにオーンの高いお酒を荷馬車で一台頼んであるの。あなたは同じ狼だから早めに私に気づくと思ったし、思った事、感じた事をただ『言わないで』と言うのは筋が通らないもの」
「オーンの高い酒だって⁉ それを荷馬車で一台分?」
既に現在のウロンダリアの様々な酒にだいぶ詳しくなっていたミュールは、それがひと財産必要な金額であるとすぐに理解できた。
「そんなに驚かないで。私にはそれだけ繊細な話だし、オーンの物資ならこれくらいは融通が利くのよ。黒い狼である私の話をこうして聞いてくれるだけでも嬉しいわ」
ファリスの笑顔には寂しげな清々しさがあり、それはミュールの知る限り、黒い狼たちには今まで見出したことが無いような曇りのないものだった。
「まあ、あんたが黒い狼らしい狡い事をしないんなら、あたしは同じ狼の友として付き合うぞ。今回の贈り物も何かでちゃんと返すしな」
「それは受け取ってくれるという事ね? 嬉しいわ」
「オーンの高い酒を断るなんてあたしには無理だしさぁ」
ミュールは頭を掻いて笑った。
「ありがとう。もうあなたは私のお友達よ。何かあったら声をかけて。魔女の術以外にも色々なことができるから。……そろそろ上がるわね」
ファリスは立派な狼の耳を布で隠すと、慎み深い動作で湯から上がり、ミュールに微笑みかけた。
「今後は仲良くしましょう? お酒が届いたら知らせるわ」
「こちらこそだ」
気の良いミュールの返事を背に、笑顔で脱衣室に戻ったファリスを待っていたのはチェルシーだった。
「ごめんなさい、お風呂の時間に」
チェルシーの声は珍らしく真面目なものだったが、ファリスの『耳』はそれ以上に多くの情報、洒落にならない何らかの知らせが語られることを感じ取っていた。
「何かあったの? チェルシーさん」
「『黒き国』オーンが国境を全て封鎖して音信不通らしいです。何か異常が起きているみたいですよ」
「えっ?」
ファリスは狼の神獣の感覚を最大限研ぎ澄まして遠くの同族の気配を探知した。いつの間にか、あり得ない程にその気配が弱くなっている。死に近い不吉な何かの気配も感じられたが、ファリスの言葉は全くそれと異なるものだった。
「大変! 高いお酒が届かないわ!」
「私が言いたいのはそこじゃないです! 分かってて困った時ほど笑いに持っていくの、そろそろやめた方がいいですよ?」
「ごめんなさい、詳しく聞かせてもらえるかしら?」
『黒き国』オーンの異変は、遂に『西の櫓』にも届き始めていた。
first draft:2022.12.22
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