第二十一話 約定の壁と、不名誉な火の炉
大魔城エデンガル、初代魔王スラングロードの王の間『嵐と雷竜の間』に立ちあがった『約定の壁』の前。
大魔城の一部でありながら天空のどこかにあるとされている、壁も天井も無いこの広間はとうに日が暮れており、現在は青白い光を放つ魔導のランプを手にした有翼の美しい人工精霊たちが優雅に浮遊して周囲を照らしている。
ルインはチェルシーや何人かの眠り女、さらにシルドネーとジルデガーテと共に『約定の壁』に刻まれた様々な団体や存在を残されている目録と共に確認し、さらにその現状を聞いて今後の対応を考えていた。
「スラングロード王は確かに偉大な王だな。人間社会でなら迫害されかねない様々な団体や存在の後ろ盾になっている。聖餐教会や魔女協会までか」
ルインは『約定の壁』に刻まれた人や存在、団体の数の多さにため息をついた。チェルシーから渡されていた目録は辞書のように分厚く、名を呟けばそれらの文字が、呟かなければ刻々と様々な名称が壁に浮かんでは消えてゆく。
「父は大変な女性好きとされていますが、我が母やアシュタリア様など、大抵の上位魔族の男性でも少し腰が引けるような女性に特に積極的に声をかけていましたからね。まあとても豪儀な父ですよ。好色もあそこまで行けば尊敬に値します」
シルドネーが奥ゆかしく笑う。
「アシュタリア叔母さんも表向きはともかく、実際はスラングロード叔父様大好きだったしね」
ため息交じりにラヴナも笑った。ここでルインはシルドネーとラヴナの関係に気付く。
「ん? よく考えたら二人は親戚じゃないか?」
「そうだけど? 魔后アシュタリアはあたしの叔母で……」
「そうですよ? 我が母は蜘蛛の都ナト・ナトの女王セレドネーですが、父は上魔王スラングロードです。ラヴナの義理の叔父になりますね」
「魔の国の歴史や血統はとても複雑だが、少しずつ覚えていこう……」
「そんな必要ないわ。『約定の壁』の責務を引き継ぐことの方が大事よ。あたしの血統なんてどうでもいい事だもの」
ラヴナは屈託なく笑いかけ、シルドネーが話を継ぐ。
「私たち上位魔族は『変えない事』を大事にします。父が亡くなり、二代目の上魔王、ダイングロード王が『混沌』との戦いで戦死された後は、現在のシェーングロード王が三代目ですが、魔の国は今も喪に服した空気で戦後も終わっていません。しかしこれで、古き良き時代が戻ってくるような気がします。どうかこの壁の人々を大事にしつつもお好きなように……って、あら?」
シルドネーが何かに気付くのと、ルインはじめほぼ全員が空気の変化に気付いた。空が白く輝いて視界が悪くなり、きらきらとした冷たいかけらが舞い始め、急速に気温が下がり始める。
「あっ……」
「これは……!」
チェルシーとラヴナがほぼ同時に声を上げる。空の上とはいえ夏の熱気が漂っていたのに、周囲は全て優し気に輝く吹雪に包まれた。その吹雪の向こうから若草に雪をまぶしたような柄の高貴なドレスに身を包んだ女性が姿を現す。
魔族の不敵な赤い瞳に、金とも銀ともつかない霜を帯びた上げ髪はヴェールで隠され、長手袋に隠れない肩と二の腕からうかがい知れるその肌は雪のように白い。
──強大な上位魔族ダイオーンの一柱、『氷の女王』サーリャ。
「サーリャ様か……珍しいな」
静謐にして美しい、巨大な氷の花のような品格と威厳にジルデガーテも絶句気味だった。
「バルドスタ以来でしょうか? 眠り人ルイン」
サーリャは冷たく心地よい声で笑う。
「氷の女王、サーリャ殿で良かったかな? あの時は助言と力添えをありがとう」
「あれはたまたま通りがかって髪を整えただけよ。お礼を言われるほどの事は何もしていないわ。とはいえ今日は『約定の壁』を引き継ぐ者が現れた事をお祝いに来たので、そう、通りがかりではないわね」
サーリャの両隣に吹雪が舞い、黒いドレスの少女と白い羽毛の服を着た少年が現れる。
──氷の女王サーリャの従者、黒鳥のニクルと白鳥のブライ。
サーリャは全員を見回すとチェルシーをみとめて声をかけた。
「随分可愛い姿を取っているのね。ラヴナも」
「あまり大人の女性ばかりでも変化がないかなと。たまにはこういうのもいいでしょ?」
チェルシーは魔の国の給仕服姿でくるりと回って見せた。露出している背中を隠す小さなマントが舞い、その背中がちらちらと見えている。
「あたしはほらその、本当の姿は好きじゃない……というか……」
対して、ラヴナは歯切れが悪かった。サーリャは含むような笑みを見せたが特に何も言わず、また視線をチェルシーに向ける。
「本題の前に大事な確認をしておきたいわ。この大魔城のあらゆる力の源、『不名誉な火の炉』は休眠状態にあるはずよね?」
「そうですけどサーリャ様、もしかしてフラムスカたちが『不名誉な火の炉』を動かす承認をご主人様に?」
「それについての面白い話をしたいのだけれど」
サーリャは白銀の長手袋に覆われた右手を優美に開いた。冷たく白く輝く透明な氷の花が現れる。
「眠り人、この花をあなたに渡しておくわ。これは私の承認を受けている証になるので、必要な時にその効力を発揮してくれるものよ。例えば……本来なら大魔城の力の源たる『不名誉な火の炉』に住むフラムスカという炎の姉妹たちに火を起こさせるために用いるのですが、これは命令や約定に近いものです。しかし、あなたは過去にフラムスカたちと関りがあるはずで、彼女たちはあなたが赴けば好意的に力を貸してくれるでしょう」
サーリャの言葉に、魔の国にゆかりのある者たちの間には驚きの空気が漂った。
「サーリャ様、つまり眠り人は外つ世界か過去においてあの気まぐれなフラムスカたちと関りがあったと?」
ジルデガーテは慎重に聞く。
「そういえばフラムスカたちは由来が分かりませんものね。遠い昔、何度か父に聞いた事がありますがはぐらかされて教えてもらえませんでしたもの」
シルドネーは懐かしそうに語る。
「フラムスカたちは私たち上位魔族とも少し異なる雰囲気がありますし、かと言って『追われし魔族』フォールン達ほど奔放でもありません。確かに謎の多い存在だけど、ルイン様と関りがある、と……」
ティアーリアは少しじっとりとした視線をルインに向けた。
「いや待ってくれ、そもそもフラムスカとは? 『不名誉な火の炉』というのもよくわからないが」
「えーと……」
「あたしが説明するわ」
「あっ……」
話そうとしたチェルシーに先んじて、ラヴナが進み出る。
「ウロンダリアの魔力の素たる元素は、基本的にはダギたちや世界樹が巡らせているのよ。特に魔の国の濃厚なそれは、天空の大陸に眠る巨大な古龍、『六本指のキルシェダール』によるものね。ただ、この大魔城は独立した別の空間にも存在しているから、普通はそれらの恩恵を受けられなくなるはずなのよ。なので……」
ここで、ラヴナの前にチェルシーがひょいと進み出た。
「なので、独立した莫大な元素の供給源が必要とされていますが、それを可能にしているのが『不名誉な火の炉』と呼ばれる巨大な灼熱の空間です。エデンガル城の最下層に位置するこの領域は『フラムスカ』と呼ばれる六柱の女性存在が支配しており、様々な火で全てのものを燃やして、それが莫大な元素を生み出しているんですよ」
「あたしの説明を横取りしないでよ!」
「最初に横取りしたのはラヴナちゃんでしょ」
チェルシーとラヴナはじゃれるような言い合いを始めた。
「楽しそうな事ね」
氷の女王サーリャの冷たい笑いが場の空気を変えて皆が静まり返ると、サーリャは話を続けた。
「二人の説明の通りよ。気まぐれなフラムスカたちは『不名誉な火の炉』を約定によって燃やしており、スラングロード上魔王が亡くなった今は私の承認が必要。でも、あなたの場合はそれが無くてもフラムスカたちが積極的に炉の火を燃やし続けてくれるはずだわ。……ついでにウロンダリアの多くの者たちが解けなかった謎を解くといいかもしれないわね。『フラムスカたちの親は誰なのか?』という謎について」
冷たい氷の花がサーリャの手を離れ、ルインのそばにきらきらと光る冷気の粉を纏って漂う。
「その花は必要な時に私の冷気の力をあなたに貸し与えます。フラムスカたちの領域である『不名誉な火の炉』に立ち入ってもその炎に焼かれずに済みますよ」
「ありがとう」
「もっとも、あなたはこれが無くても焼かれないでしょうが」
サーリャの付け足した一言で魔族の姫たちが驚きの声をあげた。いち早くティアーリアが質問する。
「サーリャ様、フラムスカたちの火は伝説の『罪の火』の性質を持つと言いますが、ルイン様はそれにさえ焼かれないと?」
「ええ、推測ですけどね。……ではそろそろ失礼するけれどもう一つだけ。眠り人、ヴォーダンからも聞いたでしょうが、既に北の大国オーンからかなり強い混沌の匂いが漂い、獰猛な狩猟の女神モーンがいち早く自らの眷属たちである『荒野の狩り手』たちを差し向けました。モーンは混沌の神々をひどく嫌っていますが、同時に黒い狼の神獣もかなり嫌っており、全て狩り尽くすと誓約を立てています。力だけでは全てを正しい形に戻せないので、よく考えると良いでしょう。では!」
サーリャは優雅に舞う様に回転すると輝く吹雪がつむじを巻いて、やがて従者ともども姿を消してしまった。
「黒い狼の神獣とは何のことだ? あとあと大事な話になりそうだが。何より、つまり今最優先すべきは『不名誉な火の炉』に向かう事か?」
チェルシーは持っていたはたきを無造作に腰に差して少し考えこんだ。
「えーと……うん、それで合ってますね。大魔城を貸与されている大きな目的は『影人の工房』を構える事ですが、『不名誉な火の炉』が良い状態で稼働していたら色々と便利ですから。となると……ルシアちゃんを呼んできます!」
チェルシーは以前ルインが『覇王の墓所』で救出した古代の大王の妾腹の娘、ルシアの名前を出した。
「何でルシアが?」
「後で説明します! ご主人様は自分やみんなの部屋の割り当てや引っ越しを進めといてください!」
チェルシーは言いながら、足早に『嵐と雷竜の間』から立ち去ってしまった。
しばし後、大魔城の大玄関ホール。
ルインはチェルシーと、『西の櫓』から連れてこられたルシアと合流した。夜も既にだいぶ更けていたため、ルシアはプロマキス帝国の女性が普段着に用いる、二枚の布を何箇所かで結んで羽織るドレスを着ている。
若い女性のそれは結び目にビーズを用いる仕様で、誰が見立てたのか淡い黄蘗色に濃い青のビーズが良く似合っている。
「こんな夜更けにすまない。ところで、やっぱりプロマキスの衣装は良く似合うようだな」
ルシアはこの言葉にぱっと表情が明るくなった。
「そうですか? ありがとうございます! 今日はなんだか特別な存在とお友達になる必要があるそうで、心を込めて話してみますね」
「そうなのかチェルシー?」
「『火と語る乙女』という仕事があるんです。『不名誉な火の炉』は六柱の女性存在であるフラムスカたちの領域ですが、その入り口の穏やかな火の領域は『緩き火のトロナ』という子が管理しています。彼女は末っ子で穏やかで、清らかな乙女の話し相手が居れば適切に炉を管理してくれるんですよ」
「また興味深いな。それにルシアを? 危険はないって事か」
「ええ。たぶん大丈夫ですし、ルシアちゃんは血筋が特殊だからトロナも興味を持ってくれるかなって。まあ、行ってみましょうか!」
チェルシーは軽やかに転移門に向かった。エデンガル城玄関の転移門は、好色で知られた初代魔王スラングロードの趣味なのか、様々な種族の女性の日常の仕草を複雑に組み合わせた彫刻が為されているが、それらの仕草は高名な彫刻家の手によるものか妙に艶めかしく美しい。本をめくる手、葡萄を持つ手、髪を整える手、それら全てに美と性的な美しさが込められているようだった。
「おやぁ? さすがのご主人様もスラングロード様の趣味が入った彫刻は気になりますか? これは女性の手の仕草の美しさをとことん表現したものですよ」
「艶めかしいが、何というか女に対しての敬意が感じられる気がしてな」
「ああ、それは良い解釈の仕方だと思いますよ」
チェルシーはにっこりと微笑むと、優美な四阿のような転移門の中に入り、再び要石を呼び出した。
「ご主人様、指輪をはめた手を要石に。行先は『不名誉な火の炉』と」
「『不名誉な火の炉』へ!」
ルインの声とともに視界が闇に染まる。わずかな下降の気配の後に三人が立っていたのは、芳香を帯びつつもどこか焦げたような匂いの漂う広大な闇の空間だった。遥か彼方まで闇の中にうっすらと緩やかな丘のような起伏が見えており、小さな残り火のような赤い点がどこまでも散らばっている。それが辛うじてこの場所に地面と空中が存在すると認識させていた。
「これが、『不名誉な火の炉?』」
この静かな空間に敵意は感じられず、ルインはむしろ何か懐かしいものを感じ取っていた。
(妙だな? 何か知っている感じがする……)
「えーと、赤い火の点のようなもの以外は真っ暗ですね……」
ルシアが周囲を見回しているのか、感心したようにつぶやく。
「あー、これは寝てますね。トーローナー! お客人ですよ! そろそろ惰眠をむさぼり続ける日々は終わりですよ!」
チェルシーが闇に大声で呼びかけると、散らばっていた無数の赤い点が何かの群れのように一斉に動き始め、やがて赤い火の粉の川のようにまとまってルインたちに向かってきた。
「えっ? これ大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫。この子たちは火の精霊の一種『火鼠』です。トロナはたくさんの火鼠を従えていますからね。私たちを見定めに来たんですよ」
火の粉の川は集まったその光で白くつやつやとした毛皮を持つ火鼠の大群の姿を浮かび上がらせた。それぞれが尾の先に小さな火がともっており、よく見ると先頭に一匹だけ、尾の先に青い火の燃える一回り大きな火鼠がいる。
その火鼠はルインたちの前に来るとちょこんと座り、キイキイとした声で話し始めた。
「すごい! 夢魔の姫は新しい火の炉の主と『火と語る乙女』を連れてきたの?」
──『緩き火のトロナ』に仕える火鼠の王子、『青火のジュリー』。
「わぁ喋ってる! かわいい!」
ルシアの驚きの声に気づいたように周囲から無数の火柱が立ち上り、火の炉は明るく照らし出された。焼け焦げた緩やかな地平はがれきに満ち、無数の壊れかかった建物が点在しており、それらが勢いよく火柱を上げている。
やがてルインたちの前に小さな炎の渦巻きが立ち上がると、それは座った女の姿を取り、ルシアと年の頃が変わり無さそうな見た目の魔族の少女が現れた。少女は火鼠の毛皮のような白いふわふわの布を申し訳程度に巻いており、黒い髪と後ろに向かって垂れた赤熱する角と、背中にはドラゴンのような赤黒い翼があり、やや横に尖った耳と炎が燃える目が印象的だった。
──『不名誉な火の炉』の管理者フラムスカ姉妹の末妹、『緩き火のトロナ』。
「何か騒がしい気がすると思ったら、まさかエデンガル城に新しい主が現れるなんて。しかも『火と語る乙女』まで連れて来る準備の良さ。でも、私たちの承認を容易くは……あれ?」
ルインの左肩の辺りに『氷の女王』サーリャが渡した氷の花が浮かび上がった。
「サーリャ様の承認もすでに得ている、と。それなら何も言う事は……え? あなたはもしかして……」
『緩き火のトロナ』はルインの顔をまじまじと見つめ、その目は途中からとても大きくなった。
「信じられない! こんな事って……あなたは!」
「おれに何か?」
ルインの疑問に答えず、炎渦巻くトロナの瞳が嬉しそうに潤んだ。
「たぶんあなたは私のお父さんです。嬉しい! いつか会えるとは聞いていたけれど」
「……は? 何だって?」
ルインは自分が何かを聞き間違えたのかと思った。
「あなたは私のお父さんですってば!」
「ええ? ルインさんがフラムスカのお父さん?」
「いや待て、記憶にないぞ。 記憶は失われているが失われて無くてもそんな事はなかったはずだ。……そのはず」
珍しい事にルインが断言を控えた。チェルシーが意味深な視線をルインに向ける。
「そういえばサーリャ様、『フラムスカの親は誰なのか?』みたいな事言ってましたよね。なるほどー、こういう事だったんですね。……で、ご主人様、フラムスカは六人姉妹ですが、母親は誰なんですか? 六人姉妹が生まれるほど励んだって、さぞかし大変な魅力のある人ですね?」
「本当に覚えがないんだ。茶化さないでくれ。そもそもおれは……」
ルインは自分がそうなるような女性はいないはず、と思い巡らせようとして、妙に氷の女王サーリャの姿と美しい肩や二の腕の白い肌が思い出されることに気付いた。
(なんだ? おれは彼女を知っている? おかしい。おれはそんな男ではないはずだが……)
とても珍しいルインの困惑を見て、チェルシーとトロナは好奇心に満ちた笑みを浮かべていたが、ルインはそれどころではなく記憶を手繰っていた。
first draft:2023.5.16
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