第二十七話 見えざる病と混沌と
『黒き国』オーン、『蔦の王宮』の大議場。
ファリスの厳しい声が議場に響く。
「ガルマ王、かつて私と考えを異にした責を感じて隠していたのね? つまりこれは……」
ファリスは目もうつろに痩せこけた『中毒者』たちを見やった。『狼の王』ガルマは威厳あるまま苦し気に告白した。
「正確な原因は分からない。だがファリス殿がかつて警告した通りではある。この出来事の責は我々が取るべきだと考えた上での結果だ」
「違うわ、これは私に対しての隠蔽よ。何年前からこのような人たちが現れ始めたの?」
王は苦悩を濃くして押し黙る。しかしその沈黙をヴィルカがあっさりと破った。
「二十年を超えない程度に昔からですよ。ファリス様が王宮に顔をお見せにならなくなって十年ほどは舞い込む財貨に喜んでいたんですけどね。私たち狼人の幸せは財貨とは限らないというのに」
ファリスの表情が険しいものになり、大臣たるダディバ・アステフェリオンに向き直る。
「薬物という表現をあなたは使ったわね。薬物の中毒だと。その根拠はなに?」
ダディバはすぐには答えず、尊大な空気で記録官に合図を送った。人間の記録官がオーンの蔦紙(※蔦から抽出した繊維で作られたオーン独特の紙)の巻物を手渡し、ダディバは芝居がったようにも見える仰々しさでそれを広げてみせる。『投影』の術式によって、その巻物の内容が議場の幔幕の一つに拡大されて映し出された。
『狼人の病と中毒に関する報告書』とあるそれは、歳を重ねた狼人がある時から次第に虚脱状態になり、これを緩和するためには『黒き神獣の森』の何種類かの植物が有効だが、次第にそれら植物の効果に対して依存症が現れ、それが悪化するともうどうにもならない、という内容のものだった。
この内容を最初は興味深く、しかし次第に怒りに手を震わせつつも見ていたファリスは、王と王妃に厳しい目を向けた。
「……あなたたちにはこれがどんな現象か説明できるはずだわ」
「私たちも最初はそう思っていた。しかし……」
言いよどむガルマ王の様子を見越したようにダディバが割り込む。
「この記録には続きがございましてな」
「これは……?」
次に投影された記録では、この中毒症状の軽いものがオーンの全域に、成長期を過ぎた広範な年齢層に見られるようになったことが示されていた。真剣に記録を目で追うファリスに対して、ダディバは仰々しく話を続けた。
「あなた方狼人が聖地とあがめる『黒き神獣の森』の植物は、どうにもあなた方に良い力だけを与えるとは限らないようですな。伝統の名において悪しき秘密を隠すのは辺境の異種族にはしばしばある事ですが、これはいささか看過できぬ規模かと。よって」
「よって、古王国連合の手による調査でもすると?」
ファリスは微笑んで話を先回りした。
「……そのような可能性もある」
これが少し予想外だったらしいダディバは不機嫌に同意した。
「なるほどね。……ねぇ王と王妃、私は聖域で母に語り掛けて我が国の狼人たちの心をどうにか救えないか探ってみるわ。だから外国の介入と武力での制圧はもう少しだけ待ってもらえるかしら? 母なる狼の力で皆の心を整えて見せるわ」
「そんな悠長な時間などない! 一刻を争うのですぞ!」
ダディバは視線をファリスからガルマ王に移した。促すようなそれに応えるようにガルマ王が議場を見回して意を述べる。
「ファリス殿、過去の我が国の決定で意見が分かれたにもかかわらず、狼の御子たるあなたの申し出はまことにありがたい。しかしすでに事態は一刻を争うのも事実だ。これは我々で何とかしなくてはならない問題のはず。狼の王としては、時に我が子を噛み殺すような (※非常に重く苦しい心境を意味する言葉)判断もせねばならぬ……」
ファリスはガルマ王の遠慮にある種の都合の悪さのようなものを感じ取った。かつて自分との見解の相違があったこと以上に都合の悪い何かを。
「王、まだ何かあるのね?」
ファリスの率直な問いにガルマ王は目を逸らす。
「私にはわかる。あなた達は私に何か都合の悪い事実を隠しているわ。それは問題解決に欠かせない何かよ。それは何?」
ファリスの視界の隅のダディバはこのやり取りまでは想定していなかったようで、何のことかわからない困惑の気配を出している。
「母なる大狼が怒り、その祝福を無くされた可能性があります」
沈黙しているガルマ王の隣で、狼の妃ヴォルテが苦し気に告白した。
「そんな馬鹿な! ルロは、母さんはそんな事しないわ! 誰かが何かをしたのよ。そもそも……」
ファリスは足早に窓辺に向かうと、屋内まで伸びている黒蔦に触れた。国を網の目のように覆う蔦はファリスの心の中で白く輝く血管のように捉えられ、その血管の向こうには心臓のような大きな力の塊、このオーンという国に祝福を与えている巨大なルロの魂が感じられるはずだった。
しかし、それは見つからなかった。白く輝く血管のようなそれは、ある場所から遮断されており、国をめぐる祝福の力もこのままでは次第に失われていくことが予想された。
──ルロ、何が起きたの? 応えて、母さん!
しかし、いつもなら答えてくれる母の声は感じられなかった。
──母さん、何があったの⁉
ファリスは神なる狼としての声の限りに蔦の彼方に呼び掛けた。白い血管のような祝福の彼方から、何かに阻まれたような声が聞こえる。
──ああファリス、『混沌』が……。
──母さん!
それきり、『母なる大狼』ルロの声は何も答えなかった。それは間違いなく母の魂の波動と声だった。
(混沌ですって?)
母との意思の疎通ができないこと以上に、深刻なある事実がファリスの胸の内を占めていた。これまでにも国難に等しい出来事は何度かあったが、これほどまでに物事の把握で後れを取った事は無かった。その気になれば血と意思を通わせられる体の一部のようにこの国について把握できている自信があった。
しかし今になってそれは崩れた。神なる狼である自分や母を出し抜く力が働いており、漂う混沌の匂いと母の残した警告の意味することは……。
「御子様、どうされた?」
固まっているファリスに狼の王ガルマが声をかける。
「王、一つ確認しておきたいわ。母が眠る『黒き神獣の森』の中心部は禁域のままでしょう? 狼の司祭と『獣の殯』の為に訪れる巡礼者を除いては」
「それは原則に則って厳しく守られたままだ。『狼の司祭』とその守護戦士については私より御子殿の方が詳しいはず」
「彼らと連絡は取れていて?」
「年に一度の祭事以外では連絡は取っておらぬ。『紀元祝福の大祭』は冬だが、彼らとは秋が深まった頃に連絡を取り合うのが通例で、普段はあまりやり取りせぬのは御子殿も知っておられる通りだ。そこは変わらぬ」
「そうよね……」
ファリスは速やかに状況を整理した。自分に匹敵するか、それ以上の力が働いている。それが状況の把握を困難にしている。狡猾さを使わずとも賢さではほぼ誰にも遅れを取らないはずの自分がここまで後れを取る欺瞞の力の正体は『混沌』と断じてよさそうだった。
(母さんとこの国に危機が迫っている……!)
ファリスはゆっくりと議場を見回した。何が『混沌』を呼び寄せたのか? ファリスが三十年ほど前に危惧し、ヴィルカが悪態をついた事柄しか思い当たらなかった。
「ダディバ卿、あるいは他の誰かでもいいわ。我が国の特産品の生産量と輸出入、私がこの国から距離を取り始めた頃から今までの数字が分かるものを持って来てくれるかしら?」
「なぜそのようなものを?」
ダディバの訝しげな様子は自然なもので、そこに嘘は無かった。しかしそれがかえって状況の厄介さを示唆している予感を嗅ぎ取りつつも、ファリスは王と王妃に目を向ける。ガルマ王はやはり良い顔をしていなかった。王は渋面を隠さないが、それはファリスとの遠くない距離感によるものとファリスは解釈した。
「ダディバ卿、貴公は数字にも記録にも強い。御子殿に望む記録を見せてやってほしい」
王はそれでもファリスの意志に沿う指示を出した。
「それは構いませぬが……」
ダディバは幾つかの資料を記録官たちに申し付け、間を置かずにオーンの蔦文字の資料が幔幕に投影される。ファリスは自分がこの国と距離を取った三十年前から現在までのある食物、特にオーンの特産品である黒狼麦の動きを注視した。
「ああ、これは……」
その数字にほぼ答えが出ていた。
三十年前、オーンは特産品である黒狼麦や貴重な植物の一部を国外に売って財貨を得て、国民たる狼人の食糧はもう少し育てやすい別の麦や豆を増産または輸入することにした。当時、母の祝福の結果であるこれらを国外に出して財貨を得る事にファリスは反対したが、より豊かな国民の生活と、『狼人の気まぐれ』という無気力な期間を安心して過ごせるこの決定に、ファリスは自分がこの国を見守る時代の終わりを感じて身を引いた。しかし、訪れた現状の結果はそうではなかった。
「王、もう我が国の一般的な狼人たちは母の祝福の働いている黒狼麦や黒蔦、肉豆、黒柘榴などもほとんど口に入っていないのではなくて?」
「その通りだが、それは我が民たちが望んだことだ……」
「彼らの思うがままにしては駄目でしょう? あなたは王なのよ?」
「しかし、各郡の郡司たちから上がってくる民の総意を無視は出来まい? 私とてかつての御子殿の苦悩は分かるのだ。今となって御子殿の憂慮が形になっていたのだとしたら、今後の協力は王として惜しまぬ」
「母は『混沌』の関与を私に伝え、それきり意思を交わせなくなってしまったわ。重大な危機が迫っている気がする」
「『混沌』だと⁉ もしも本当に『混沌』が関与しているとなれば我が国は大変な災いを呼んでしまった事になる。どうしたらいいのだ?」
ファリスとガルマ王のやり取りに首を動かしていたダディバは、やっと訪れた沈黙に慎重に口をはさんだ。
「失礼、いまひとつ話が見えないのだが、私が関わる食糧の輸出入と此度の件、そして『混沌』とはいかなる相関が? 定命の者たる私は財貨については長けておりますが、神秘や魔術については全く理解が及ばぬゆえ……」
ダディバは意外にも誠実な困惑の様子を見せている。
(この人は敵ではない?)
ファリスはダディバの反応に嘘がない事が感じ取れていた。しかしそれも全て仕組まれていたとしたら、陰謀の遠大さがかえって恐ろしい予感がしていた。
「ごめんなさいダディバ卿、分かりやすく説明させてもらうわね」
ファリスはオーンの特産品である幾つかの固有の作物が、この国の狼人が大地の祝福を受けて健全な魂を保つのに重要なものであった可能性と、それをほぼ国外に輸出してしまい、狼人の食生活が大きく変わった事が今回の異変と無関係でなさそうな可能性を説明した。
最初は嘲るような雰囲気が漂っていたダディバの目は次第に真剣なものに変わっていくのがファリスにも感じ取れている。
ダディバはしばし腕を組んで沈黙したのち、再びファリスに目を向けた。
「ファリス殿の仮説が正しかったとして、『黒き神獣の森』の植物に対する依存症のような症状が出る事についてはどうお考えか?」
「良い質問だわ。魂が衰弱した人は神獣の森の強い祝福のある植物を求めるけど、衰えすぎていて不全な状態を抜けられないのよ。だから依存症のように見えているのだわ」
「……筋は通っている。しかし、いささか状況が派手に過ぎる気もするが」
「そう、そこに何らかの仕掛けがある可能性が高いわ。それを見破らないと、私たちはより窮地に陥り、或いは大切なものを失ってしまうのよ」
『投影』の術式で幔幕に映し出された蔦文字の資料にしばしば目をやるダディバの空気が、どこか自嘲や諦観に近いものに変わったのをファリスの耳が感じ取った。
「これがもしも謀略のたぐいだとしたら、私まで知らずにその部品に組み込まれている気がしますな」
「アステフェリオンの姓を名乗れるあなたが我が国の財務を担当しているのは驚いたけれど、私は最初、あなたがこの出来事の黒幕側だと思っていたわ。でも、獣の感覚を持つ私の耳はあなたが窮地に追いやられた自分を皮肉に自嘲するものと示唆している。これは謀をした側ならあり得ない事だわ」
「そのように読んでくださるのは助かりますな。ガルマ王様やヴォルテ王妃様、そして純血の狼の方々にも一応信用されている身なのですぞ」
「そこはごめんなさい。疑って悪かったわね。でも、分からない事が増えたわ」
「いえ、それなら少し心当たりが……。しかしそうだとすると、この窮地は予想以上に深刻なはず」
腕を組んだダディバは床に目を向けて押し黙ってしまった。
「どういう事?」
ファリスの問いにダディバは顔を上げ、何か思いついたようにその眼が見開かれる。
「ファリス殿は確か『キルシェイドの眠り人』の眠り女をされておられましたな?」
「そうだけど、ルインさんに何か用? 確かにこういう出来事には強い魔族の姫様たちもいるから頼りにはなるけれど……」
しかしここで、城下『蔦の葉の下』から、狂暴な狼人たちの叫びが一斉に上がった。
「何が⁉」
窓に走るまでもなく、ファリスの耳に正常さを失って狂気に染まっていく狼人たちの魂の叫びが届く。
「いけない、まずは皆を鎮めないと!」
ファリスは駆けだしてひらりと窓の外に躍り出る。山のすそ野のように城下まで広がる蔦の上を大きな黒狼の姿を取って走ると、立ち止まってさらに山のように大きな幻影の黒狼の姿を取った。
「おお、御子殿が『声』を使うのか!」
窓に駆け付けたガルマ王が驚く。
幻影の巨大な狼となったファリスは、母狼が子に呼び掛けるような優しさを含んだ遠吠えで地を揺るがした。
──心穏やかに眠れ、我が子らよ!
城下のいたるところから聞こえていた狂乱の叫びは静かになり、『蔦の葉の下』は静まり返る。ファリスはまた人の姿に戻り、とんがり帽子を取って耳を澄ませた。ファリスの『母なる狼の声』が狂乱状態にある狼人たちの魂をひとまず眠りに就かせた。
しかし……。
「うっ……!」
ファリスは感覚と鼻孔を刺激する、死臭とごみ溜めと不潔な獣を合わせたような匂いに顔をしかめた。普通の匂いではない魔術的な邪悪な匂い。ファリスはこの匂いを八百年ほど前に嗅いだことがあった。
「これは、混沌の……!」
『蔦の葉の下』から、無数の猿めいた邪悪な叫びが聞こえてきた。
──狼の女だ!
──親父の獲物だ……!
無数のオレンジ色の光点が蔦のすそ野に現れると、それらは濁った半透明の緑色をした体躯を持つ猿たちの目だった。その大群が一斉にファリスに突進してくる。
──猿のような混沌の魔物、ムジラ。
「これは、あいつがウロンダリアに来ている⁉ みんな、『混沌』の猿どもを喰らい尽くして!」
ファリスは狼の頭骨の杖を掲げた。周囲に黒い靄のように狼の大群が現れ、精悍に光る青白い目をした狼たちもまた一斉に混沌の猿の群れに襲い掛かる。
ファリスの隣に大きな二頭の狼が駆け付け、人の姿を取った。
「ベルギロ! ヴィルカ!」
親衛黒狼騎士団でも特に王宮を守る腕利き『蔦守』の二人だった。
「お供しますぞ御子様、腕慣らしです」
笑うベルギロは両手に厚刃の幅広い剣を逆手に構えている。
「やっぱりファリス様の言うとおりだった。ま、こいつらは皆殺しね」
不敵に笑って内側に湾曲した鉈のような剣を両手に構えるヴィルカ。
「気を付けて、こいつらを蹴散らすといずれ眷族の姿を取るはずよ!」
ファリスの呼びかけを聞いているのかいないのか、狼たちと二人の蔦守は草原に燃え広がる火のように混沌の猿ムジラたちを押しやりはじめた。しかし、噛み殺され、斬られた猿たちは濁った緑のもやとなって群れの奥に集まっていき、濁流のようにムジラたちも湧いてくる。
「数が多いですな、この規模とは!」
ベルギロとヴィルカは黒い疾風のように駆け抜け、そのたびに何体ものムジラが切り裂かれてゆく。
「ガロム、踏みつぶしてしまって!」
──承知!
ファリスはさらに屋敷のように大きな黒狼ガロムを呼び出した。ガロムはムジラたちの群れの濃い所を重点的に踏みつぶしていく。
「ファリス様、あれを!」
かなりの距離から華麗な宙返りをしてファリスの側に立ったヴィルカが、群れの彼方に視線を向けた。
「あれは……!」
ムジラたちの群れの向こうに、小屋ほどの大きさの頭のない猿のような姿がぼんやりと現れ始めている。しかし、ファリスはそれが何かを知っていた。頭がないのではなく、異常に発達した首と一つ目の小さな頭、そして異常に大きな横一線の口を持つ存在。
──混沌の猿神ウジーギの眷族、一つ目の猿ゲティン。
「ゲティン! あれがいるなら間違いない、あいつがいるわ。混沌の猿の神ウジーギが!」
「うわ最低。また私たち狼の女をつけ狙ってるんじゃないですか?」
ヴィルカは舌打ちをして飛び掛かってきたムジラを真っ二つにする。その近くにベルギロも寄ってきた。
「ゲティンとは剣呑な! あいつの吐く火炎瘴気は厄介ですな」
遠くを見やったファリスはムジラの群れが膨れ上がり続けている事に気付いた。この調子だと現れるゲティンの数も相当に多い。嫌らしい性格をしている混沌の猿の神ウジーギの眷族は、ムジラから始まる小さな眷族たちを殺せば殺すほど、その魂が集合してより強力で大きな眷族と化す性質があり、それゆえに厄介だった。
(まずいわね……)
混沌そのものの目まぐるしい状況の変化に、ファリスは自分たちの主導権がない危険を肌で感じ始めていた。
first draft:2023.09.20
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