第二十三話 不名誉な火の炉・後編
大魔城エデンガル最下層、『不名誉な火の炉』。フラムスカ六姉妹の四女、夜の火のオーネの領域。
遠い昔の激しい戦いを次第にはっきりと思い出してきたルインは、改めてこの領域を司るフラムスカたちと会って話す意味を理解し始めていた。
「君らは確か、奴らに連れ去られようとしていた。……誰だ? 誰かの途轍もない哀しみに触れて、奴らを皆殺しにした記憶があるな」
ルインは不確かに蘇る過去の戦いの記憶を呟いた。炎を纏った骨だけの馬、獄炎馬を駆るマスティマたちを空の上で熾烈な戦いの末に一人一人殺していく情景と共に、幼子の泣き声と、おそらくその子たちの母であろう女の深い悲しみが思い出された。
『夜の火のオーネ』は頭の羽角を瞬くように動かして微笑んだ。
「うんうん、順調に思い出してますね。ただ、この後あなたは怒りも思い出すかもしれません。でも、全ては燃え尽くした灰のように落ち着いていますから、それは忘れないでくださいね。全て過去の事ですから。あなたの激しい怒りは危険なものと聞いていますから」
「……心に留めておくよ」
「では、『夜の火』の領域の炉はお任せください。再び下らない諸々の秘密と、それを隠そうとする人々の意志を薪にして美しい炎を上げ続け、大魔城の元素へと昇華するでしょう。……ああそれと」
夜の火のオーネは視線をチェルシーに向けた。
「夢魔の姫の言うとおり、放浪の神イズニースの使徒を守る上で、下賤な者たちの有用な秘密はほぼここで手に入ります。何か知りたい事があったら顔を見せに来てくださいね。ただし、ネイ・イズニースは必ず連れてきてください。あの女の心には良い火となる心の傷が無数にありますので。夜の火は彼女の魂の傷を少し癒す事となりますし、それは互いに有益ですから」
「分かった。ありがとう」
オーネは無言で妖艶な笑みを浮かべると彼方を指さした。
「次は三女『竜の火のエレフォル』の領域です。船の民たちがドラゴンと呼ぶダギたちの炎を扱う姉ですが、自分の存在と出自を嘆いているのでうまく話してあげてください」
「『竜の火』つまりは原初の火の一種か。そうなるとマスティマどもの『罪の火』と『竜の火』を併せ持った炎か。とても珍しい性質になるはずだ」
「それだけに自分の出自を嘆いている部分もあるのです。是非話してあげてください」
「わかりました!」
強い義務感をもってルシアが元気よく返事をする。夜の火のオーネは微笑みつつも火柱となって拡散して消えてしまい、暗い領域に火柱の並ぶ道が現れた。
「この道を行けという事か」
ルインを先頭にルシア、チェルシーの順番で進む。暗い領域の中で静かに立ち上る火柱は並木のように延々と続いていたが、火鼠のジュリーが心配そうに話し始めた。
「エレフォル様は優しいんだけど、少し気が弱くてよく泣いているんだ。自分の出自の事とか、とにかく自分が存在して良いものかどうかってずっと悩んでるんだよ。でも、言葉のかけ方が悪いとすごく荒れ狂う事があって、上の二人の姉さんたちでも大変な時があるんだ」
「私が話を聞いて何か役に立てるといいんですけど……」
現世とは言い難い領域で不確かな力ある存在と会うというのに、そのまだ見ぬ相手を慮るルシアにルインとチェルシーは微笑したが、当のルシアは気づかない。
「きっと役に立つさ」
「ですねぇ。『火と語る乙女』としての良い資質を持ってますね、ルシアちゃんは」
「いえ、お世話になりっぱなしでは心苦しいですから」
ルシアは気丈に微笑んで歩き続ける。が、突如として激しい炎が燃え上がった。
──ああ、誰ですか? なりそこないの私を嘲笑いにきた者がいるのですか⁉
小さな、しかし激しい炎の竜巻がいくつも燃え上がり、怒りと警戒を隠さない女の声が響く。この声にルシアは不安そうに周囲を見回した。その様子にチェルシーが落ち着いた笑みと共に声をかける。
「ルシアちゃん、あなたは『火と語る乙女』ですよ。声をかけてあげて」
ルシアは決意したように手を握り、炎の竜巻に名乗りを上げる。
「初めまして! 『緩き火のトロナ』様から『火と語る乙女』の承認を得たルシアと申します! 新たな魔城の主ルイン様と共にお話したく参りました」
──火と語る乙女? これは私の夢想ではなくて? ……ああ、この黒き炎の気配は……!
無数の炎の竜巻は角のある大きな炎の蜥蜴となった。蜥蜴と言ってもドラゴンを思わせる威厳と獰猛さがあり、それらは青白く燃える目を三人に向けている。
「火の竜蜥蜴ナーダギーだよ。エレフォル様に仕えている子たちは大人しいから大丈夫だよ」
火鼠のジュリーはルシアにそっと忠告した。
「火の蜥蜴たちは『竜の時代』の残火を受け継いで様々な種類がいますが、船の民たちはひっくるめて『サラマンダー』なんて呼んでいますね。実際には一冊の本がしたためられるほど火の蜥蜴サラマンダーは種類が多いです。クームシェリーが呼び出した『槍持つ炎のハイダル』なんかも含まれますね」
チェルシーが得意げに説明する。火の蜥蜴たちはそれぞれ風を送られた炭のように白みがかった高熱の輝きをはらみ、この場所が荘厳な神殿のように多くの装飾された石柱が規則正しく立ち並んでいる事が分かるほどに明るくなった。
ルインたちの正面には一段高くなった石の段差があり、さらにその背後には壁と石柱で区切られた火の海がごうごうと燃えている。その火の海から小屋ほどの大きさの何かが獣のように飛び出し、一段高い区画に音もなく着地する。
「これは……」
小屋ほどもあるその存在は異様な姿をしていた。暗い灰褐色の肌をした、燃える二本の角のある大きな女のようでありながら、肘と膝から先は黒い鱗と鋭い爪のあるドラゴンの手足をしており、その背からも大きなドラゴンの翼が伸びている。
「私はエレフォル。『竜の火』のエレフォル。生まれるべきではなかった不名誉な存在。しかし火の炉を燃やす約定により生き恥を晒し続ける哀れな者」
──フラムスカ六姉妹の三女、『竜の火』のエレフォル。
赤熱する威圧的な二本の角はよりその輝きを強めた。しかし、エレフォルの癖のある黒髪は所々で可愛らしく編まれており、炎の燃える瞳にも邪悪さはない。ここまで見て、ルインはエレフォルの胸が全く隠れていない事に気付いて慌てて背中を向けたが、その一瞬前に胸元に輝く青い首飾りに気付いた。
(あれは?)
ルインは遠い昔、菱形をした蒼水晶の首飾りが誰かの胸元で輝いていたのを思い出しかけた。その誰かの言葉も蘇る。
──今の私ではあなたを穢してしまいかねません。こんな口惜しい事があるでしょうか?
(誰だ?)
「なぜ背中を向けるのですか? 不名誉な生まれの私の姿を見るのも嫌という意志ですか? ……良いでしょう。目を背けられていてもこのエレフォル、火の炉を燃やす約定は果たし続けます……」
一方的なその言葉は意外にも涙声になった。
「違う。胸が隠すものなく丸見えだから背を向けただけだ。たとえ人外の存在でそのような事を気にしない存在だったとしても」
「えっ? ひゃああああ!」
ルインの声をエレフォルの意外に若々しい悲鳴が打ち消した。
「ああ、何という不名誉な行いをしてしまったんでしょう。我らの父たちのような破廉恥な血がきっとこの身に流れているせいです。『罪の火』よ、不名誉な私を隠して!」
周囲から猛烈な火柱が何本も上り、ルシアが驚きの声を上げる。しかし、その炎に相反するようにルインの側に浮かんでいた氷の花がきんとした音と共に冷気の波動を放ち、エレフォルの炎はルインたちの周囲から押しやられてしまった。
「その氷の花、承認以上の力と思いを感じます。羨ましい……なぜ私はこんなみじめな存在だというのに、世界にはこうも恵まれし者が多いのか」
エレフォルの声が危険な憎しみの気配を帯び始めた。ルシアが不安そうにルインの顔を見たのち、エレフォルに気丈に話しかける。
「エレフォル様、私にはあなたがとても力のある方に見えるのですが、なぜそんなに自分がみじめだと仰るんですか?」
『罪の火』の火柱がやや収まり、泣き顔のエレフォルが顔を出した。溶岩のように燃えるしずくが目から流れ落ちている。
「私たちフラムスカはこの地を除いては必ず迫害される定め。でも、人の姿すなわち『人なる神の似姿』を持つ姉妹たちはこの地ならまだよいです。同じ姿をした多くの者たちと交わる事が可能ですから。……でも私は違う。憎むべき父たるマスティマたちが我が母の岩室と化した胎内で行った戯れから生まれた故に、私と同じものは存在していないのですから。……リドキアの煮え立つ鉛の海にかけて、なぜ私のようなものが生まれてしまったのでしょうか?」
「うーん……」
エレフォルの告白にルシアは困ったように黙ってしまった。腕を組んで眺めていたルインは慎重に言葉をかける。
「そうか。きわめて珍しい生まれと姿の為に、人生の伴侶や恋人が見つからないと嘆いているのか。しかしそれは思っているほどは難しくないだろうな」
燃える涙の満ちていたエレフォルの目に興味の光が現れた。
「なぜそう思うのですか? 私におもねる様な事を言うつもりですか?」
エレフォルの声が怒りを帯び始めた。しかし、ルインは涼やかに話を続ける。
「姿や体の大きさは珍しくても普通に女だと分かる。だからおれは目を逸らしたが、その時点で必ず君に興味を持つ者は現れるだろうよ。男の趣味というか許容性は存外幅広いものだしな。チェルシーはどう思う?」
ルインはエレフォルからチェルシーに視線を移して話を投げかけた。チェルシーも少し腕を組んで考えたのち、答える。
「うん。同意ですね。私たち夢魔は夢の世界に詳しいですが、男の人の性癖や趣味ってすごく幅広いんですよ。私の同族にクラリスという子がいるんですが、その子が昔『壊れた馬車に欲情する男』の話をしていました。あなたはどうしたって壊れた馬車より遥かに魅力的ですし、例えば体の大きさの異なる相手と相思相愛になったら、ご主人様に力を貸していたら何とかなるかもしれませんね」
「ええ? 壊れた馬車に?」
ルシアが驚いて絶句する。その後にエレフォルがその翼を大きく揺らした。
「壊れた馬車! そんな話は聞いた事も無かったです。ふふふ、壊れた馬車って……確かにそんなものよりは女の姿をしていると思います。でも、その方に力を貸したら体の大きさの問題も解決するとはいかなる理由ですか?」
「それはですね……ご主人様はわかります?」
チェルシーはルインにその話題を振る。
「クロウディアの母親の話しかな、それは」
チェルシーは微笑んで頷いた。
「ならおれが説明しよう」
ルインはしばし考えを整理する様子を見せ、話を続けた。
「おれがこの大魔城を借り受けるようになった理由は、『混沌』に有効な影人の武器を作るために古い影を持つこの城が最適だったことによる。今、おれの近くには眠り女として影人の皇女クロウディアがいるが、彼女の母親である眠り人のマヌ殿は『恋人』という相思相愛の者たちの障壁を取り去って結ぶ力があるそうだ。こうしておれに協力してる君なら、マヌ殿を救い出せればその恩恵を受ける事も難かしくはないだろうな」
少し考えこむ様子を見せていたエレフォルの顔がぱっと明るくなり、周囲の炎の色も同調した。
「今日は何という素晴らしい日でしょう。我が爛れし母ムルマの腰帯にかけて、やはり邪悪なわが父たちを殺し、母と私たちを救い、私たちを黒き炎で清めたお方は別格ですね!」
「ん? ムルマと言ったか?」
ルインは聞き覚えのある名前に洪水のように過去の情景が蘇ってきた。しかしエレフォルは感動でルインの声が耳に入っていなかった。
「……これ、答え合わせしちゃってますよね? あっ!」
チェルシーはルインに小声でこぼすが、何かに気付いて素早くルシアに近づいてはたきを揮った。どこからか飛んできた火球がはたきで弾かれ、その火球は長い耳の先に火のともる赤い猫の姿となって着地する。
「ちくしょう! ジュリーを食う好機だったのに!」
赤い猫は忌々しそうに吐き捨てた。
「トム! アドナ様の従者の火猫のトムだよ! ぼくを食べようとしたんだ!」
ジュリーの声に、ルシアはジュリーを大事そうに両手で包んだ。
「駄目ですよこの子を食べちゃ!」
「新しい『火と語る乙女』か。しかし猫が鼠を食べるのはこの世の摂理! おれはアドナ様に仕える誇り高き火猫のトム! そんな鼠とは格が違う!」
──火の魔女アドナの従者、火猫のトム。
「格というのは言葉で他人に語るものではないと思います!」
「正論を! それなら猫が鼠を食べるのも正論だぞ、生き物なんだからな!」
「鼠だって生き物だよ!」
ジュリーが興奮して返す。
「猫だって生き物だ!」
ルシアとジュリーの言葉に苛立つトムは、肩をいからせて威嚇の姿勢を取ったその時に、鳥かごのように燃える炎に閉じ込められ、頑丈な鉄の籠が現れると鎖で吊り上げられてしまった。
「あっ、しまった! アドナ様これはそういうつもりじゃ……!」
慌てて謝罪するトムに対して、包容力に満ちた柔らかな声が響く。
──誰がジュリーを食べろと言ったの? しかも久しぶりの『火と語る乙女』に暴言を返すなんて本当に駄目な子ね。しばらく籠で反省していなさい。
ルインたちの側に大きな花のような炎が立ち上り、その炎の中から親しみやすい笑顔をしたかなり豊満な美女が姿を現した。
(あの衣装は確か……)
ルインはラグの店で働いているラヴナの眷属、三人のサキュバスたちのうち、フソウ国の衣装を好んで着ているミッシュを思い出していた。現れた美女の衣装はフソウ国のものによく似ているが、あろう事か肩や胸元まで大きくはだけた着こなしをしており、しかしそれが良く似合っている。
美女はルインの視線に気づいて親し気ににんまりと微笑んだ。
「おやぁ、私の豊かな豊かな胸元が気になりますか? 私は顔と体つきがとても母に似ています。だから思い出すためならある程度は見て構いませんよ? 私はアドナ。『火の魔女アドナ』または、『母なる火のアドナ』と呼ばれています」
──フラムスカ六姉妹の長女? 火の魔女アドナまたは『母なる火のアドナ』。
アドナはどこか得意げに話しを続ける。
「私こそはこの『不名誉な火の炉』を取り仕切るフラムスカ六姉妹の長女……うわっ!」
慌てて飛びのくアドナのいた場所に白熱する炎を纏った骨の刃が突き刺さり、鎖で連接されていたらしい骨片の刃は縮むように繋がりはじめ、ルインたちの頭上からその長大な骨の連接剣の柄を持つ女が降りてきた。
灰白色の髪のその女は焼けた骨のように輝く白い肌をしており、黒い籠手と具足以外は、下着や水着に等しい露出度の高い衣装にマントという姿だった。しかし、勇猛な魔族の女戦士のような凛々しさが漂っている。
「アドナ、抜け駆けで長女と名乗ろうとしたわね? 私こそが長女よ!」
「危ないわねセレダ! 今のは洒落にならなかったわ。もう少しで胸にかすりそうだったわよ⁉」
「その胸は少し削り落としたらいいんじゃないの? 慎み深くなって少しは長女と名乗る癖も抜けるかもしれないわ」
「何ですって!」
怒って色々とまくし立てるアドナをよそに、白い髪の女は骨の連接剣を大剣の形にして背に帯びると、振り向いてルインたちに深々とお辞儀をした。
「初めまして。私こそは『不名誉な火の炉』を預かるフラムスカ六姉妹の長女セレダと申します。またの名は『送り火のセレダ』。現世から幽世に移すべき諸々を焼く高熱の『送り火』を扱うと同時に、暴虐に過ぎた父たちの武を受けついでもいます」
──フラムスカ六姉妹の長女? 『送り火のセレダ』。
親し気に微笑むセレダの背後で火の魔女アドナがいそいそと何らかの作業をしていたが、ルインはひとまずセレダに漂う剣呑な気配に気づいて挨拶を返した。
「よろしく。おれは大魔城を借り受ける事になったルインという。先ほどエレフォルがムルマという名前を出したが、君からは『罪の火』だけではなく、赤き炎のマスティマそのものの気配を強く感じるな。言いづらいが、君らは……」
ルインはここで、火の魔女アドナが火猫のトムを抱え、送り火のセレダの頭にトムをかぶせるように置くのを見た。凛としていたセレダが悲鳴を上げる。
「猫は苦手だと言っているでしょう! なんて事するのアドナ!」
あまりの速さに一瞬、火猫のトムが空中に浮いていたように見えるほどの動きでセレダが遠くの物陰に移動していた。得意げにアドナがその様子を嘲る。
「ふん、長女だとか胸を削れとか言うからよ! 私の豊かな胸は母なる神の神性そのものだというのに。随分と僭越な事を言うのね」
「猫は嫌い。豊満な女も嫌い。獅子を連れたキュベレどもを思い出すから。特にあの忌々しいバルセをね!」
ルインは美しき上位のサキュバスの一人、バルセ・メナを思い出したが、何か面倒な背景を感じて敢えて口には出さなかった。
「ね、姉さんたち、喧嘩しないで……」
竜の火のエレフォルはそれぞれに心配そうに視線を移しつつ気弱に語りかける。
「ごめんねエレフォル。そうだったわ。私たちのどちらが長女か決められる人が現れたもの」
火の魔女アドナが含みのある笑いを浮かべる。
「そうだわ。今日ではっきりするのよ。私たちや母の大恩ある『黒い方』ことダークスレイヤーと呼ばれた方が来てくださったのだから」
セレダも同意する。アドナとセレダの二人はルインの前に並び立つと、ほぼ同時に同じ問いを発した。
「私たちのどちらが長女だと思いますか?」
──どちらが長女か? という問いには気を付けてください。
『緩き火のトロナ』の警告がルインの中で強く思い出されていた。
first draft:2023.06.15
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