第二十三話 吸血鬼の姫アルカディア
魔の国は黒曜石の都オブスグンド、西の櫓そばの大城壁内の隠し部屋。
不帰の地で救出された男女の探索者たちは、淡い緑に光る薬湯を満たした上位黒曜石の浴槽の中に安置されており、全身もまた同じ色の光で包まれている。二つの寝台の間にはチェルシーが座っており、この二人の額に手を当てて夢の世界で二人の心の安定を図っていた。
「今回の『夢繋ぎ』も時間が長い。月の狂気は恐ろしいものですね」
給仕服姿のセレッサが心配げに呟いた。その手には様々な色と形の空になったガラス瓶が抱えられている。
「本当にそうですね。チェルシーさんだから大丈夫だとは思いますが……」
同じく、ガラス瓶の入った古びたバスケットを手にしたルシア。
「ん……」
身じろぎをして、チェルシーが目を開ける。
「あっ、お帰りなさい、チェルシーさん!」
「……ふあ? ただいまー! これで何とかこの二人は心を落ち着けて眠り続けると思うの。こちらでやっといた方がいい処置はここまでかな。あとは、やっぱりある程度再生をかけないとダメね。時間がたちすぎているからこのままだと両手両足を失ったままだもの」
「そんな……方法はあるんですか?」
見ず知らずの冒険者たちとはいえ、ルシアはとても心配そうにしている。
「あまり使いたくない方法だけど、手は打ってますよ。幾つかは方法があるんですが、ぜーんぶ一長一短があるのね。で、結局は吸血鬼たちの施療院かなぁと。この二人の身元は判明しているから、ギルドの保険で何とかるはず」
「……なるほど、吸血鬼たちの施療院ですか。噂には聞いていましたが、こんな特殊な欠損も治せるのですか?」
セレッサが首をかしげる。
「治せちゃうんですよねぇ。それにここだけの話ですが、吸血鬼たちにも派閥があって、私たちの考えに近い古い吸血鬼たちで一番の再生技術持ちがいますから、たぶん何とかなるはずなんですよ」
そこに、どこからともなく声がした。
──セルフィナが……起きていたら……何とかなるのに。
「シルニィ?」
部屋の隅の暗がりになっていた壁の一部がドアのようにわずかに開いており、薄赤い目をした白い猫の獣人がこちらを見ている。背後の部屋はいつものように可愛らしい色遣いだった。
「セルフィナなら……一瞬で治せるの。でも……まだ起きないから……」
「セルフィナさんってそんな力があるんですか?」
「うん……だから狙ってるものが多くて……隠さないと駄目って言われてて……」
「そういえば、クームがそんな事言ってたような? 生命の根源の力とか何とか。なるほどね……ウロンダリアでも珍しい力です、それは」
「あ……櫓の正門に……馬車が……。赤い宝石の……紋章……の」
「あっ、来ましたか。オード・ブラッドね」
チェルシーたちはこの独立した部屋を後にし、西の櫓の正門に向かった。上位黒曜石の薄板という高価に過ぎる装飾で仕上げられた、黒い半龍馬(※馬の姿をした竜の仲間)四頭立ての馬車。派手さはないが見る者が見ればわかるとんでもない大金をかけた趣向は、馬車に乗っているのが誰かを分かりやすく示している。
赤い宝石で『茨に包まれた心臓を刺す二本の剣』の紋章が飾られた両開きの扉が開くと、半透明な魔力の薄紫の絨毯がわずかに宙に浮いて展開した。その上に優雅に降り立つ黒い革のブーツ。白と黒と紫という貴い装いの、やや小柄で高貴な金髪の女が降りてくる。
──大財閥オード・ブラッドの当主にして、吸血鬼の最大派閥の姫、アルカディア。
アルカディアは高貴な紫のスカートと白いビスチェに、黄金をふんだんに使った黒曜石のコルセットを付けている。
「これはこれは! まさかあなたが直接来るなんてびっくりですよアルカディアさん」
どこか皮肉めいた口調で挨拶するチェルシーに対して、アルカディアも見せつけるように意地悪な笑みを浮かべた。
「久しぶりね古い夢魔の姫。あなたと眠り人の依頼だもの。そろそろ顔でも見せておこうと思ったのよ。私を知らないで上位魔族の姫を語らせてしまったら眠り人が可哀想だわ。古い美意識しかない男と思われてしまうもの」
「相変わらず高飛車でとてもいいと思います! お元気そうで何よりですね。我褒めの性格も磨きがかかっていますし」
「あなたも相変わらずの減らず口で何よりだわ。身体は幼児退行したのに口ばかり達者になっていくのね。存在はとても古いくせに」
「まあ小娘にはわからない魅力はあると思っていますから、気にしないでください、どうぞ」
「我々魔族は自己否定をしないものね。良い心がけだわ。時には勘違いも個性よ」
「へぇ~」
にこやかな二人の会話は、裏腹に火傷しそうな敵意に満ちている。
(うわぁ~、これは何とも剣呑ですね……)
セレッサは上位魔族の姫の焼けつくような皮肉の応酬に立ち去りたい気持ちが強くなっていた。しかし、隣にいたルシアが予想外の感想を漏らす。
「わぁ、アルカディアさんてすごく綺麗な方なんですね! お二人は仲が良かったんですね?」
(仲が良い? これで?)
セレッサは普段は隠している片目の髪を思わず上げてルシアを凝視し、その屈託のない笑みに驚きつつ、固まっているチェルシーとアルカディアを見た。
「えっ? そう? ありがとう」
「ええ……?」
驚いたアルカディアとチェルシーは、その会話が途切れてしまった。
(すごい、全く空気が読めていませんが、ここまで来るとある種の器の大きさに感じますね……)
機先を制するようにアルカディアが微笑む。
「ふふ、まあいいわチェルシー。眠り人の顔を見たいのだけれど、彼は来ないの?」
「アルカディアさんが来るなら事前に言ってもらえればよかったんですけどね」
「そう? まあ来てもらう事は難しいくないと思うわ。風聞が事実なら……」
アルカディアの髪が一瞬波打ち、強い殺気と力の波が伝播していった。無数の大鴉や黒鳩、小鳥たちが魔の都から飛び立つ。
「ちょっと、何をするんです⁉ って、ええっ?」
そのチェルシーとアルカディアの間に、黒い帯電を纏ったルインが一瞬で現れた。
「えっ⁉」
「ふぅん、やるわね」
「少し挨拶が過ぎるな。君は誰だ?」
「初対面の挨拶が殺気なのもまた、魔族の流儀らしくていいでしょう? 初めまして、眠り人ルイン。私はアルカディア・ルーミナス・オード・ブラッド。上位魔族の姫が一輪にして、進歩派の『追われし魔族』の派閥の首魁。そして吸血鬼の姫であり、大財閥オード・ブラッドの当主でもあるわ」
「なるほど、つまり……大人物か」
「そうね、ウロンダリアの大人物の一人と言ってもいいでしょうね。先ほどの非礼を詫びて、あらためて挨拶をするわ。以降宜しくね」
アルカディアは左の掌を胸に当て、右の掌を上に向けて右腕を伸ばし、品よく目礼した。
「えっ? なんでその作法を?」
上位魔族の女性が男性に対しての信頼と、敵意の無いことを示す丁寧な所作であり、普段はあまり用いられない作法だった。
「よろしく、おれはルイン。眠り人と呼ばれている」
「そのようね。聞こえてくる噂はとても痛快なものだわ。今回は不帰の地でひどい欠損をした男女の治療を求めているとか? 私たちは決して古い存在のままではいないつもりよ。よって、吸血鬼の能力から派生した再生の医術で協力するのにやぶさかではないの。断って意地悪してやろうとも思ったけれど、その小娘と私の間に現れたのは気に入ったわ。だから協力してあげる」
「ありがとう。それは助かるな」
「ああそれと、あなたは公平性を重んじるほうかしら?」
「……どちらかと言えば」
「それなら、公平を期すべく少し話させてもらうわ」
(もしかして……)
チェルシーはアルカディアが何を話すかに思い当たることがあった。しかし、特に止めるものでもないと判断し様子を見る。アルカディアはその空気を察してか微笑み、威厳ある仕草で魔の都を手でなぞるように目線を導いて話し始めた。
「この魔の領域には上位魔族の派閥が二つ存在しているの。魔王様を至高の存在とする本来の『古き魔族』の派閥。『魔王派』などとも呼ばれているわね。そして、私たちは『追われし魔族』の派閥に属しているの。『進歩派』などとも呼ばれているわ。その上で、あなたの周りの上位魔族の女たちは皆、『古き魔族』、つまり魔王派の者たちばかり。それは、この魔の領域の人物を半分しか見ていない事になりかねないわ。知らない間に派閥の都合にあなたが巻き込まれ、正しい視野を持てないのは上位魔族としては恥ずべき事よ」
「筋は通っているように聞こえるな」
「もっともらしい事言ってますけど、魔王の座を狙ってて、ご主人様の力が役立ちそうだからですよね?」
「少し違うわね。私の目的はそれだけど、それだけではないわ。眠り人が全てを見たうえで私たちの側についてくれるのが理想だと思っているから。何ら強制するものではないわ。ただ……もし、今の環境に恩義を感じているのなら、それらを全て金銭で肩代わりしてあげてもいいし、女も好きなだけ連れてきてあげる。あなたの出せる結果と働き次第では、もっと色々なものも、望むものもあげるわ。およそなんでもね」
「……そこまでする理由はなんだ?」
「私たちはある至宝を探しているのよ。それは私たちを開放する力を持つの。でも、魔族である私たちには『戒』という生まれ持った定めにより、その至宝に関わる一切を認識できなくされている可能性があるわ。だから自由な存在であるあなたの力が必要なの」
「至宝?」
「『断罪の箱』ですよね? でも実在してるのかなぁ?」
「無ければ私たちが真に哀れな存在となるだけよ。もしかしたら、探し続ける事に意味があるのかもしれないわ」
「そんなものをご主人様に探してもらおうと?」
「対価は払うのよ? 不服かしら?」
「例えば、ご主人様がアルカディアさんを所望したらどうなります?」
チェルシーはこの質問が、男嫌いのアルカディアには最も効果的なものと考えていた。しかしその答えは意外なものだった。
「そうね? 服を脱ぐ、肌に触れるくらいはさせてあげてもいいわ。でも、それ以上を望むなら私の心を何とかして手に入れる事ね。残念ながら心は渡せないの。私のものだし、私でさえ自由にできないものだから」
「うーわ、大した自信ですね! そんな厄介ごとを頼んでそれですか」
「あらチェルシー、あなたのご主人様はそんな無粋者かしら? あの美しいアーシェラの信頼を得るような男よ? 気高い女の方が好みに決まっているわ。まして、こんなに美しい私よ? 簡単ではない女の方が楽しんでもらえると思ったのだけれど」
チェルシーとアルカディアが見たルインは、こらえきれずに笑っている。
「ふ、清々しいほど正直で自信があるのは好感が持てるな」
「ほら見なさい、笑っているでしょう?」
「悔しいけど一理ある……」
アルカディアは改めてルインに向き直り、今度は柔和で品のある笑みを浮かべた。
「眠り人ルイン、あなたは上位魔族の女と相性が良いようね、気に入ったわ。再生の必要な患者の治療に絡んで、そちら側にマリスを返してあげる」
「ええ⁉」
チェルシーが素で驚きの声を上げた。
「そんなに驚く事かしら?」
「マリス? 人の名前のようだが?」
「昔、アルカディアさんたちと戦って敗れた、古い吸血鬼の真祖の一人です。今アルカディアさんたちが手掛けている医術の起源ですね。ただの吸血鬼ではないと思います」
「殺さずに特殊な封印を施して、長い間施療士の一人にしていたわ。今後は私への窓口にしたらいいと思うの。あの子はそちら側だし、かと言って私を絶対に裏切れないのは知っているでしょう?」
アルカディアの赤い眼がうっすらと恐ろし気に光った。
「あー、なるほど。……でもいいんですか? 言い伝えが本当ならあなたの印象が悪くなるんじゃないですか?」
「それも含めて名刺代わりよ。良い印象ばかりであまり好かれても困るもの」
「清々しいくらい大胆。ほんと、大した自信……」
(チェルシーさんが押され気味ですか、さすが、上魔王の座を狙っているとされるだけはありますね、この吸血鬼の姫は一筋縄ではいかないでしょうが……)
セレッサから見ても、アルカディアには王たる者の威厳が漂っている気がしていた。何かが違う。誰にも気を使っていないが、そこにあまり嫌悪が漂わない。
(私の兄よりも格上ですね……)
死線に気付いたのか、ここでアルカディアはセレッサに向き直った。
「ところであなた、珍しい血の匂いがするわ。古くて深い森の清浄な匂い。しかもまだ男の匂いもしない。……確か、『サバルタの古き森』では、上代の古き民の王女が一人、行方知れずになっているわね」
「そうでしたか。それは初耳ですね」
「まあ、何も見なかったことにしてあげるわ。大金でも積まれない限りはね」
「……そうですか」
「ええ。そして、良い方法があるわ。たとえ大金を積まれていたとしても、私は我がサロンの会員とその関係者の情報は売らないのよ。……ネルセラ、我がサロンの会員証はあるかしら?」
アルカディアが馬車内に呼び掛けると、紫のドレスに赤紫の艶を持つ黒髪、そして、ねじれた二本の角が特徴的な魔族の女が現れた。銀象嵌の小箱を手にして馬車から降りた女は、上品な仕草で一礼する。
「はいはい。相手の言動まで予測した見事なお芝居ですこと。ここにあるわ。……チェルシーさん以外は初めまして、ですね。私はネルセラ。アルカディアの付き人でオード・ブラッドの秘書長でもあるわ。あと、これはいつも言っているけど、私はアルカディアの恋人ではないの。これだけ覚えていてくれればいいわ」
「そんなに世間の誤解が嫌かしら?」
「ええ。吐き気がするほど嫌い。私には女と愛し合う趣味などないもの」
笑顔だがきっぱりと言い切るネルセラ。
「手厳しい事ね」
銀製の小箱を渡すネルセラと、苦笑しつつ受け取るアルカディア。見た目より重そうなその箱を開けたアルカディアは、純金のカードを取り出すと小指の爪を鋭く伸ばして何かを彫った。
「眠り人、これも渡しておくわ。我がオード・ブラッドのサロンの特別会員権よ。売っても構わないけれど上手に使った方がいいでしょうね」
「こんなものまで渡す意味は? 確か、相当な高額のはずだが」
「密会の場くらい持っておいた方がいいわ。サロンを経由してしか移動できない、特別な地域もあるのだし。私と話すのにもね」
「……筋は通っているが、大盤振る舞いだな」
「大盤振る舞い? そこまで世の中に話を合わせなくていいわ。サロンの会員権なんて、実際の価値なんてそれほどでもないもの。あなたも本心ではそう考えているはずよ? こんなものに真の価値があると思うような愚か者ではないでしょうに」
あけすけなアルカディアの言葉に再びルインが笑う。
「ふ……確かにそうだな」
(流石ね。ご主人様を笑わせてるわ……)
「ところで話の腰を折ってしまうけれど、その若い子は何者? 今では珍しい古代プロマキスの、つまりウロンダリウスの民の眼の色をしているようで、さっきから気になっているのだけど」
今度はルシアに向き直るアルカディア。
「あっ、私ですか? えーと、そんな大した身分じゃないです。新王国からの眠り女志願者です」
ルシアは眠り女たちと打合せしていた虚偽の自己紹介をした。しかしアルカディアは笑って返す。
「あなたいい子ね。嘘がとても下手だもの。……ねえチェルシー、この子を女学校に通わせたいなら、私たち進歩派の学校になら推薦状くらい書いてあげるわ。派閥に関係なく、進みたい道に進むべきよ。そうでしょう?」
「筋が通った形で色々と便宜を図る腕前、流石ですね。そこは評価しますけど、それが全部最終的にはあなたの利益になるのは見落としませんよ?」
「当たり前じゃない。何か問題が? むしろ私の申し出をうまく利用して予想外に上手であってほしいわ」
「まあ、ありませんけどね。ほんと、大した自信!」
長命な上位魔族たちはしばしばこのような言動を取って人間たちから『器が大きい』と評されるが、実際は非常に長い視点で最も利益が大きくなる誘導に長けている。アルカディアは特にそれが顕著であり、だからこそ大財閥を築けていた。
「さあ、では要件は済んだわね? 眠り人ルイン、良い返事を期待しているわ。……おいで、クロード」
馬車の中から黒猫が現れ、アルカディアの肩に乗る。その猫の頭を優しく撫でつつ、アルカディアは座席につくと、今度は下手な王女ではとても勝負にならない、清楚な笑みを浮かべた。
「なかなか楽しかったわ。では、ご機嫌よう」
オード・ブラッドの高貴な馬車は、城壁脇の大路を遠ざかってゆく。
「何と言いますか、流石は魔王様の座を狙っていると公言してはばからない人ですね。私の兄より王の器がある方に見えました」
セレッサは感慨深げに感想を漏らす。
「アルカディアさんて、とても綺麗で親切な人なんですね……」
ルシアは微笑ましい感想を呟き、その隣でチェルシーががっくりとうなだれた。。
「はあー……遂に、魔の国最大の厄介と関わる事になっちゃいましたね……。『夢繋ぎ』の疲れを残して話すには、少し荷が勝ちすぎました。……というわけでご主人様、昼寝するので肩借りたいんですけど!」
「わかったよ。お疲れ様」
この日のアルカディアと眠り人との邂逅は、時が砂時計のようなものなら、まさにオリフィス(※砂時計のくびれ)の部分に当たる出来事だった。しかし、それを認識できる者は、この広いウロンダリアと無限世界全てでも、ごくごくわずかな者たちだけだった。
first draft:2021.06.03
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