第二十二話 下層地獄界・炎の領域

第二十二話 下層地獄界かそうじごくかい・炎の領域

 ルインは落ちていく。下層地獄界かそうじごくかいへと穿たれた穴の中を。

しかしルインは何ら気負ってはいなかった。遥か下方に見えていた砂粒のような赤い点は徐々に迫り、それが赤く霞たなびく火の粉とも蒸気ともつかない、灼熱しゃくねつの下層地獄界を流れる赤い微粒子なのだと分かる。それはこの領域りょういきに多い、血とも溶岩ともつかない灼赤しゃくせきの沼地や川の色を映したものであり、また、漂う悪意と情念が可視化されたものでもあった。

「神々も没個性的だな……」

 落下に伴う激しい風の中、ルインは不敵に呟いてその口角を上げる。濁って赤い天蓋てんがいの穴から下層地獄界の空に姿を現したルインは落下の一瞬に遥か彼方を見やる。遠くに不自然に黒い巨大な四角い城塞をみとめると、さらに鎖の魔法陣を下方に数段出現させ、それを通過するごとに落下の速度は弱まり、最後は静かに着地した。

 下層地獄界のこの領域は色調の違うほぼ赤一色の世界で、所々に岩や古い人間の家や街の残骸ざんがいのような遺跡いせきなども見られる。これらはかつて何らかの契約の結果この領域に呑まれたものだろう。漂う匂いは火事の焼け跡や硫黄のような刺激臭に、戦場で嗅ぐ人の血と臓物の臭いや死臭ししゅうが混じった不快なものだが、どこか原始的な闘争心と狂気をかきたてるものでもあった。

「さて……」

 周囲を見回していたルインに幾つかの小さな火球が飛んできた。小柄だが筋金すじがねのような筋肉質の小鬼たちが数匹、様子見がてら火球を放ってきたようだが、ルインはこれを拳銃で撃退する。 

「何者だ! 生身の人間がこの下層地獄界の、我らが炎の王ザンディールの領域に現れるとは! 王の契約者ウラヴの話では、現れるとすれば清らかな王女であるとの話だったが」

 不快な耳障りな大声がし、ルインは空に目を向ける。家ほどの大きさの醜い肉の球体が浮かんでおり、それには黄色く濁った大きな目玉と、大きく上下に、小さく左右に開く牙だらけの口を持った魔物が浮かんでいた。

「おれはその王女に雇われた殺し屋だ。こんな汚い穴倉に引きこもってるウラヴという馬鹿を引きずり出しに来たのさ。ついでに、バルドスタの人々の魂も解放してもらう必要がある。速やかにな」

 ルインは挑発的な言葉を吐いたが、意外にもこの大きな目玉は攻撃をしてこなかった。

「『はざま投錨とうびょうの地』から来る者には注意せねばならぬ。生身でこの領域に来れる者には特にな」

 大目玉の化け物の言葉はどこか他に注意が向いているような散漫さが感じられ、ルインはそれが、何者かにこの映像を送っているせいだろうと推測した。ルインは空気が震えるほどの声を上げる。

「見ているか地獄の者ども! ウラヴ王を引き渡し、契約を全て解除してバルドスタの人々の魂を全て解放しろ! さもなければ、魔王以下全て皆殺しにするぞ! この領域もろともな!」

 ルインの叫びは、確かに別の場所に届けられていた。

──下層地獄界と上層地獄界の大きな違いは幾つかあるが、上層地獄界の存在は完璧に人間の姿を取れるものの、下層地獄界の存在はどこか魔物の姿を残した不完全な人間の姿しか取れない、というのも大きな特徴であろう。

──神学者ミアルム・ハイタクス著『二つの地獄界』より。

 ルインが降りた場所からそう遠くない黒い城塞じょうさいでは、人間の悲鳴を楽器にした悪趣味あくしゅみな音楽で食事を楽しんでいるウラヴ王の姿があった。この領域に多くの人間の苦悶くもんと魂を届けた上質な契約者であるこの王は、自分を見下したバルドスタの王族たちが苦悶する様子を、長きにわたって眺めて過ごしてきていた。

「お知らせいたします。領域内に生身の人間が現れました。『はざま投錨とうびょうの地』からです」

 背の低い、しかし筋骨隆々の角ばった顔の悪鬼あっきが報告する。血と臓物と骨を意匠いしょうに組み込んだ、悪趣味な大テーブルの上の食事に向けていた注意を、ウラヴ王はその報せに向けた。

「ほほう、思ったより早いな。あの小娘、勇ましいわりに心が折れかかっていたと見える」

 舌なめずりをしてウラヴ王は伝令の悪鬼に向く。

「いえ、男です」

「何だと⁉ 映像を見せろ!」

 幻像のように広間の上部の空間に炎の壁が浮かび、そこに黒いコートの男が映った。

「なぜあの不遜ふそんな男がここに⁉ 私と同じくらいの魔術師という事か?」

 ここで、音声も伝わってきた。

「警告は終えた。これからそちらに向かう」

 男が腕を動かしたと思った直後、映像も音声も途切れた。ウラヴ王はテーブルを叩きつけたが、彫り込まれている骸骨が微かに苦悶の声を上げた。

「地獄の侯爵こうしゃく以下、我が同輩どうはいよ!」

 広間のそこかしこに様々な色の火柱が上がり、大きな体を持つ地獄の侯爵たちが姿を現した。皆、異なる色の装備に様々な体躯、様々な武器を手にし、眼や角の数、口の形なども様々だったが、どこか美しく、暗くまばゆい悪意と力に満ちている。

「あの男は自分を強いと勘違いしておる。下層地獄界の我らが王ザンディールの威光を知らしめるべきだ!」

「オオッ!」

 戦いに飢えている地獄の貴族たちは、雄たけびと共に火柱と化し、姿を消した。

「どれ、食事が終わったら余もあの男の拷問でも楽しもうぞ」

 ウラヴ王は再び嫌らしい笑みを浮かべて食事を再開した。

──下層地獄界の侯爵など力のある存在はそれでも、神秘的でさえある上層地獄界の存在の力には遠く及ばない。しかし、原始的な力に満ち、数に頼るため、決して軽視できない勢力でもある。

──神学者ミアルム・ハイタクス著『召喚士の報告書』より。

 ルインは力を感じる方向に歩き始めた。その背後には、何らかの力で両断された大目玉の魔物の遺骸いがいが落ちており、大量の血が流れている。しかし、その血からは狼煙のろしのように赤い煙が立ち上りはじめた。

「ああ、そういう事か……」

 空の彼方から有翼の魔物たちが多数飛んでくるのが見える。その密度から、ルインは自分の進んでいる方向に目的地があると確信した。周囲には炎を操る小鬼が既に無数に現れ始めている。

「……行くぞ!」

 ルインは腰のベルトから二丁のリヴォルバーを抜いた。走りつつ、火球をかわしながら小鬼たちの頭を撃ちぬいていく。落ちる薬莢やっきょうの数だけ小鬼はのけぞりその頭が破裂していく。上空からは地獄の正規軍だろうか? 燃える盾と武器を手にした二本角の戦鬼せんきたちが翼のある魔物から次々と投下され始めた。

 右手のリヴォルバーをオーレイルに変えると、『殲滅せんめつの人食い牙』の形にして投擲とうてきする。強そうな悪鬼の首をねては戻るを繰り返していたが、いきなり地面から大きな手が現れ、ルインの両足を掴むと、逆さまに持ち上げた。

「そこからか!」

 人食い牙を放ったルインは、散弾銃と破砕銃はさいじゅうに持ち替えて上体を起こし、髑髏どくろに角の生えた容貌の巨大な悪鬼の両眼を撃つ。赤い水のように眼球が二つともはじけ、悪鬼はルインをたまらずに放り投げたが、ルインはその悪鬼に呼びだした鎖を絡めて姿勢を保ち、着地した。

「オオ、貴様、この地獄の騎士を!」

 大型の悪鬼は獰猛どうもうかんでルインを叩き潰そうとしたが、ルインの右手が一瞬光り、その身体は斜めに両断されて崩れ落ちた。

「ゴオオォ!」

 続いて、地響きのような腹に響く吠え声がし、巨大な多足たそく芋虫いもむしに牛の頭骨のような頭を持つ魔物が、近くの燃える沼地から三体浮上してくる。それらは口から激しい炎を吐いたが、ルインは怨嗟の暗黒の空間を展開した。猛烈な火炎は火の粉と化して空間に呑まれる。

「悪くない、いいね……気分が上がって来た。快適なベッドにうまい食事に美女だらけで、少し心に贅肉が付きそうだったからな。戦い、感謝する」

 不敵に笑うルインの周囲に、オーレイルや散弾銃、破砕銃がつかず離れずの位置に浮かんだ。

「生身でここに来てもまだおれがわからない、か。言いたくはないが雑魚ばかりか。おれは空間から武器を取り出せる。広大な永劫回帰獄ネザーメアの武器庫にある武器を、いくらでもな」

 三体の巨大な芋虫様の魔物に激しい雷が落ち、それらは苦悶にのたうち回った後、ひっくり返って多数の足を痙攣けいれんさせていた。魔物たちにまとわりついていた雷はルインの掲げた右手に収束し、稲妻のような薄い黄金色の、双方に刃の伸びた三又の双剣の形を現す。

「さあアストラ、魔物退治は軍神の本分だろう?」

──雷の軍神の化身たる神剣、雷双剣らいそうけんアストラ。

 雷双剣アストラは獲物を見つけた獣のように獰猛どうもうな低いうなりを発した。既に空が暗くなるほどの有翼の魔物の群れが迫っており、地上にも多数の軍勢が迫っている。

「楽しめる程度に減らすぞ!」

 言いつつ、ルインはいずこからか黒い遮光眼鏡しゃこうめがねを取り出して掛けると、雷双剣アストラを頭上に高く掲げた。アストラは開放され、天へと無数に枝分かれする稲妻と化す。

──天魔殲滅てんませんめつ万雷怒涛ばんらいどとう

 視界の全てが雷の柱で埋め尽くされ、耳が聞こえなくなるほどの雷鳴に混じって、無数の魔物たちの断末魔が響く。この世の全てを落雷で消し去るように、焦げた無数の魔物の死体が累々るいるいとし、空から落ちてくる有翼の魔物はさながら焦げた肉塊の雨のようだった。黒い遮光眼鏡を外し、ルインは独り言ちる。

「強すぎてつまらないが、領域一つを潰すには便利なのさ」

 ルインは広い谷底のような場所に差し掛かった。ここは比較的高所らしく、見晴らしの良い場所に差し掛かると彼方に殺風景な赤い平原が広がり、その向こうには正面やや右寄りに黒い石で組まれつつも炎に包まれた四角い城塞が見えた。ルインの経験上、地獄の王の城にしてはだいぶ小さく、この地獄の様式とも異なる雰囲気に、ルインはそこにウラヴ王がいる目星をつけた。

「最悪でも、何かわかるだろう?」

 謎の痛みと不快な記憶らしい映像と声の繰り返しは治まり、ルインの右目は元に戻っていた。しかし、戦いを楽しみ始めていたルインはその事を忘れていた。

──かつてラーナ・ハーリの地にいた嵐の神ヴァルドラと雷の軍神アストラは、しばしば天と地を揺るがす戦いを繰り広げた。長い年月とともに理性を失ったこの二柱の神は、ある時異界から現れたダークスレイヤーに恐るべき力で討伐され、以降は武器と化したという。

──刻者不明『闇の討伐者の遺碑文ダークスレイヤー・テスタメント』。

 城の大広間の炎に映っては消えていく魔物たちからの視界の映像に、ウラヴ王は焦りを感じ始めていた。単身で現れ、地獄の軍勢を虱潰しらみつぶしにして歩いてくる生身の男など聞いたことが無かった。

「馬鹿な! どういうことだ? こんな事が!……おい、戦艦せんかんを全て出せ! 侯爵こうしゃくたちに戦艦を使わせるのだ! あの男をひねり潰せ!」

 ウラヴ王は広間の各所に燃える炎に向かって叫んだ。あらゆる炎の化身でもあるこの領域の魔物たちは、炎を通して意思の疎通そつうができる。王は生身の男の危険性を理解し、持ちうる最大の戦力で男を叩き潰すことにした。

「ひねり潰せると良いな」

「何者だ⁉ ……あなたは!」

 ウラヴ王が突如聞こえた声に振り向くと、黒い礼服れいふくを着た学者めいた雰囲気の男が立っていた。地獄じごく管理者かんりしゃと呼ばれる謎の者たちの一人であり、滅多に姿を現さない、魔王たちより高位の存在だった。

「あれはダークスレイヤー。何者にも止めることは敵わぬ。展開によっては、この下層地獄の破壊を踏みとどまってもらうべく、交渉せねばならぬ」

「交渉、ですと?」

「貴公と魔王ザンディールを差し出すという事だ」

「馬鹿な⁉」

「馬鹿は貴公だ。あのような者を呼び寄せるなど。長く現世うつしよに干渉し、新たな女を得ようとした浅ましさが変えようのない未来を呼ぶであろう。あれはただでさえ最悪の存在だが、女人にょにんの涙を見ると古き記憶があの男の怨嗟えんさを強め、時に気が済むまで敵の破壊と虐殺を楽しむ。そのような者を貴公は呼び出したのだ! あろうことか理由まで与えてな!」

「あ、あなた方ならどうとでもなるであろう?」

 事態の深刻さを理解していない愚かさを、地獄の管理者は鼻で笑い、口を開いた。

「ほう、たかだかこの程度の地獄の管理者に過ぎぬ我々が、あれをどうにかできると思っているのか。貴公はあの男の言う通り……」

「私を馬鹿と言うな! 許さぬぞ!」 

「ならば健闘と賢明な判断を祈ろう。私はここで状況を見させてもらおう。……おそらく仕事は近い。そして貴公が逃げないようにな」

「……見ているがいい!」

 地獄の管理者は大テーブルの空いている椅子に座った。ウラヴ王は予想外の事態に、長いこと感じなかった、まだ実感のない恐怖と焦りをじわじわと感じつつ、城塞の防備を固めることにした。

──下層地獄の存在と契約して、最終的に幸せになった者はまずいない。彼らは強欲で身勝手であり、必ず一度の成功では満足せず、いつもそれによって因果に囚われ、身を亡ぼすのだ

──著者不明の魔導書『地獄の門の小さき鍵』より。

 広い谷間を抜け、緩やかな坂を下りてきたルインは、次第に硫黄や火薬のような鼻の奥を刺激する匂いが強くなっている事に気付いた。

──地獄界。

 多くの者がおどろおどろしい様々なものを思い浮かべるこの領域も、ルインにとっては上層の神々の愚かしい茶番に過ぎず、質の悪い演劇の舞台装置のようにも見えている。

「ほう……」

 ルインは手ごたえのある獲物を見つけた喜びをうっすらと浮かべた。黒い城塞の方から、伏せた獣や、頭を上げて伸びをする海牛かいぎゅう、そしての無い大型の船のような形をした、巨大な岩の構造物が地響きを立てて向かってくる。それぞれ、人型だが獣のような歩き方をする巨大な炎の魔物にかれて向かってきており、鍾乳洞しょうにゅうどうのように岩の垂れた幾つかの開口部の中は激しい炎が燃え、その中を地獄の悪鬼あっきたちが忙しく動き回っている。

「戦艦か」

 岩の戦艦の甲板や開口部が光り、ルインは大規模な鎖の障壁しょうへきを展開した。金属のぶつかり合う大きな衝撃音に続き、矢や銃弾じゅうだんも飛んでくる。

「殺せ! 殺せ殺せ殺せ!」

 大砲たいほう銃座じゅうざ、大型のいしゆみについている小鬼や悪鬼たちに、かなり身体の大きい武装した悪鬼が指示を出しているが、おそらくそれらの存在は地獄の騎士や貴族、さらには侯爵などもいると思われた。

「……すまないが、地獄はおれとは相性が悪いぞ?」

 ルインは何も持たないてのひらを開き、最も近づいている戦艦に素早く向けた。地面を透過して一本の鎖が立ち上がり、炎をまとうと、一つ一つの鎖はさめの歯のように鋭い刃が生えた形に変質し、それが高速で流れ始める。鎖は疾風しっぷうのように海牛型の戦艦に迫ると、一瞬で通り過ぎ、戦艦はのこぎりに断たれた材木のように真っ二つになってしまった。

 激しい地響きと悲鳴、そして炎が上がる。それで、立ちのぼる炎の中から、ルインの身長の二倍から数倍の者まで、戦意の高い地獄の戦士たちが雄たけびを上げながら迫ってきていた。

「急がない方がいいぞ? 次は横に断つからな」

 次は立てていたてのひらを倒した。ルインの前に、この広い谷底に等しい大きさの鎖の円が現れると、それはまた刃と炎をまとい、向かってきた地獄の戦士たちもろとも、残りの二隻の戦艦を巨獣ごと上下に両断した。それはまさに巨大な丸鋸まるのこのようだった。

 その様子は、城塞の大広間のウラヴ王と地獄の管理者にも届いていた。

「馬鹿な! 戦艦だぞ⁉ それをあのような!」

 椅子から立ち上がったウラヴ王の目は、普段の嫌らしい細目からは想像もつかないほどに見開かれている。

「あれが『ダークスレイヤーの鎖鋸チェーン・ソウ』だ。様々な負の情念で構成された地獄及び地獄の住人は、高度に圧縮された怨嗟えんさの鋼の刃と、その炎を防御するすべを持たない」

「馬鹿な! こんな……こんな馬鹿な事が!」

 ウラヴ王の慌てぶりを見ていた地獄の管理者は、ごく冷静に言った。

「あれを止める方法があるなら、是非とも見せて欲しいものだ。やり遂げれば貴公は地獄の王どころか、神のごと賞賛しょうさんされるであろう。まだその可能性はある」

 その言葉に、分かり切った結果を確信して疑わない者の、呆れた冷笑がありありと漂っていた。ウラヴ王から千九百年ぶりに余裕と嫌らしい笑みが消えていた。

──ダークスレイヤーの、特に怒りに囚われている時の暴れぶりはすさまじいもので、かつて行き過ぎた選民思想に囚われたある帝国は、その増長から彼が保護していた少女をひどく痛めつけてしまい、結果、わずか一夜にして神々に等しい皇統の者と不死の戦士たちを全て滅ぼされてしまった。

──賢者フェルネーリ著『ダークスレイヤー』より。

first draft:2020.07.03

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