第二十二話 不名誉な火の炉・前編
大魔城エデンガル最下層『不名誉な火の炉』、『緩き火のトロナ』の領域。
この『不名誉な火の炉』の管理者であるフラムスカと呼ばれる六人姉妹の末妹『緩き火のトロナ』は、魔族らしい姿をしていながらもどこか輝くような雰囲気が漂っており、ルインは少し複雑な背景を感じ取っていた。
トロナは好奇心に満ちた微笑を浮かべつつも両の掌を火鼠たちに差し出し、数匹の火鼠たちがその肩や頭に上る。一回り大きく、尾の先の火が青い火鼠ジュリーはトロナの膝に乗った。
「その……おれが君の父だという記憶は全くないんだ。申し訳ないが詳しく聞かせてもらえないか?」
ルインは慎重に問いかけた。
「その前に、その子が『火と語る乙女』で良いですか? 私は厄介な姉たちの代わりにここで窓口をしていますが、私自身も複雑な存在で、普通はこのように姿を現して語る事は無いのです。今はたまたま、幾つかの稀有な条件が満たされているからこんな風に話していますけど、本来は『火と語る乙女』だけとしか私は話さないのですよ」
「ああ、それは申し訳ない」
「あなたは条件を満たしていると言うより別枠ですけどね、お父さん!」
困惑しているルインの様子にルシアが機転を利かせた。
「初めましてトロナ様。私、『火と語る乙女』をさせてもらおうとここに来ました。ルシアと言います」
「様呼びしなくていいです。『火と語る乙女』は私のお友達なので以降よろしくね。それと、少し心を見させてもらいます」
ルシアを見つめるトロナの眼の炎が渦巻いたが、その眼はまたも驚きに満ちて、トロナの眼はチェルシーに向けられた。
「ねえ夢魔の姫、もしかして色々とわかってやってる? この子、今後のウロンダリアの重要人物になりそうよ? すごく面白い子連れて来てくれたのね。嬉しい!」
「そうなんですか? 私が⁉」
驚いてルインやチェルシーの顔を見るルシアに対して、チェルシーはどこか得意げに笑う。
「いえー、適当ですよ適当。もちろん、私くらいになると『適当』の質も一味も二味も違いますけどね! ……で、トロナ、ルシアちゃんについて私の見解を聞きたかったら、予言と異なる『最後の眠り人』、私がご主人様呼びするこの人が本当にあなたたちのお父さんなのか慎重に答えてくれますか?」
チェルシーの言葉の後半には少し圧が込められていた。しかし、トロナは気にせずに笑う。
「あら夢魔の姫、あなたの『ご主人様』を困惑させたことを少し怒っているのね? でも、ごめんなさい。謎は私たちを守る大いなる力でもあるの。姉たちの話を少しずつ聞いていけば、きっとその人は真相を思い出すはずよ。それは私たちの謎の終わりと、新たな時代の始まり。先に進んでいいからレンテラ姉さんの話も聞いてみて。ああそれと『火と語る乙女』のルシア、この子を私の使いとしてあなたにつけます。以降よろしくね!」
トロナの膝に座っていた、尾に青い火を灯した火鼠がルシアの側に走り寄り、身振り手振りを交えて挨拶した。
「よろしくね! 新しい『火と語る乙女』ルシア。ぼくは火鼠のリービ王家の王子『青火のジュリー』っていうんだ。トロナ様にずっと仕えているよ!」
「私はルシアです。よろしくお願いしますジュリー王子!」
「ジュリーで大丈夫だよ!」
ジュリーはしゃがんで手を伸ばしたルシアの肩に駆け上ると、そこにしがみついた。
「これで姉さんたちも、あなたが私の使いだと知っていきなり焼いたりしないと思います。ただ、一番上の姉さん、『火の魔女』と呼ばれるアドナ姉さんの従者、火猫のトムには気を付けてくださいね。すごくお馬鹿な猫なんですけど、いつも何とかしてジュリーを食べようとするんです。何度怒られたりやり返されてもやめないの」
トロナはおかしそうに笑った。
「まあぼくなら大丈夫だよ、トロナ」
ジュリーはルシアの肩の上で得意げに胸を張った。
微笑んだトロナは座ったまま燃え上がる領域の彼方を指さした。海が割れるように炎が退いて道になる。
「この先に次の姉、『蝶の火のレンテラ』がいます。レンテラ姉さんはとても性格が良いですが、その上のオーネ姉さんから上はみんなちょっと……厄介なので気を付けてくださいね。特に『どちらが長女か?』という問いかけには要注意! ですよ」
「つまり、おれの父親疑惑は全員と会わないと謎が解けない、と」
どこか予測していたような諦めの空気と共にルインは呟くと、炎の退いた道を進み始めた。その背中にトロナが声をかける。
「大丈夫ですよ。あなたは位の高い女神様たちが『黒い方』と呼ぶような人なんですしね、お父さん!」
「なぜそれを?」
トロナの言う『黒い方』という呼び方はルインの記憶では女神たちしか用いないもののはずで、フラムスカたちがそれを知っている事は何か意味が込められているとルインは考えた。
「行ってみればわかりますよ」
手を振るトロナを背に三人は炎の退いた道を進む。次第に熱気は強くなっていたが、サーリャが託した氷の花が冷たい光を放ち、おそらくルインたち三人を高熱から守っているらしかった。
「ルインさん、何だかとても綺麗ですよ!」
トロナの領域の暗めの赤い火とは異なり、大地は磨かれた石の床に、周囲の火はトロナの領域のものよりも澄んだ明るいオレンジ色を帯びて、全てかまどや火鉢、大小さまざまな坩堝のぶら下がった炉から立ち上っている。
「これは……」
何より特徴的なのは、それらの火から明るい色の火の蝶が舞うように現れては飛び交っている様子だった。
「これは『火の蝶イグモナ』ですね。火の精霊の一種です。適切に管理された高熱の火を好みますし、ホルヴァンという小人たちとは共生関係です。えーと……」
チェルシーは次第に鍛冶工房のような雰囲気を帯びてきたこの場所で周囲を見回し、少し先に黒ずんで見える大きなテーブルを指さした。
「確かあれが技巧の小人ホルヴァンたちの小さな集落ですよ。『小人の庄』なんて呼ぶのが一般的ですね」
やや低めのテーブルは大きめの家一軒の敷地ほどの広さがあり、その上に小さな村のように家や広場、古めの溶鉱炉や鍛冶の工房まで、まるで精巧な模型のように散在している。しかし、これが模型でない事は動き回る小さな村人たちの様子で明らかだった。
小さな村人たちは灰や緑、くすんだ青などの色に統一された半ズボンと上着、少し山の高い帽子を身に着けており、自分たちを見下ろす三人に気付いて忙しく駆け回り、中にはいそいそと櫓に上って半鐘を鳴らすものまでいた。
「このテーブルの上の集落は『レンテラの職人の庄』と言います。職人頭はルズッコという気のいいおじさんなんですけど、いつも何か作ってるから作業中かな?」
チェルシーは小さな集落の散在する庄を見回した。半鐘は止んでおり、少し高めの声が庄の中ほどの広場から聞こえてくる。
「誰かと思ったら久しぶりだな夢魔の姫。上位黒曜石の髪飾りは今でも使っているか?」
ひときわ大きな煙突からもくもくと煙の立ち上る三角屋根の工房の前に、革製のエプロンをかけた職人然とした初老のホルヴァンが手を振りつつ話している。
「ああルズッコ親方、久しぶりですね! あの髪飾りは少し前にバルドスタ戦教国の夜会で使わせてもらいましたよー!」
「そいつは良かった。あの七色に光る細かな削りや磨きはわしらでないと難しいからな!」
──『蝶の火のレンテラ』に仕える技巧の小人ホルヴァンの職人頭、ルズッコ親方。
「あの時の髪飾りはそういう由来だったのか」
ルインは眠り女たちを含む美女十人を連れて参加したバルドスタ戦教国の夜会で、チェルシーが身に着けていた七色の花園のように輝く黒曜石の髪飾りを思い出した。
「んで、そっちの若い娘はトロナ様のジュリーがいるから『火と語る乙女』か。いや待て待て、ならその男は新たな魔城の主か⁉」
「おれはルイン。影人の工房を構える必要があってこの大魔城を借り受けた者だ。ルズッコ親方、以降よろしく」
途中までは微笑していたルズッコがその表情を曇らせた。
「影人の工房って事は『混沌』と戦うって事か? 穏やかじゃねえな。まあ大きな人らの難しい話はわしらにゃわからん。レンテラ様も来なさったようだし、わしらは作業に戻るかな」
「手を止めてごめんなさいね、親方」
「いいって事よ。また何か仕事があったらいつでも声をかけてくれりゃいい」
ルズッコ親方は手を振りつつ工房に姿を消し、ホルヴァン庄の様子は落ち着いたものとなったが、次は周囲の様々な火元から明るく燃える火の蝶イグモナが無数に舞い上がると、やがてそれらはルインたちの前に集まって火柱となり、若い女の姿をしたものが現れた。
「ようこそ来訪者さんたち。人々は私を『蝶の火のレンテラ』と呼びます。多くの火の蝶イグモナを従え、芸術や工芸に関わる精妙にして時に狂気を誘う火を扱います」
──フラムスカ姉妹の五女、『蝶の火のレンテラ』
レンテラは周囲に火の蝶イグモナがひらひらと舞っているせいか、白い肌が輝くようで、その瞳は渦巻く炎のようだった。魔族の尖った耳に明るい栗色の髪を複雑に編んだ芸術的な髪形をしているが、その頭に魔族の角がなく、女神のような神聖な気配が漂ってさえいた。
その衣装は控えめではない胸元が大きく開いた黒いドレスで、深紅の裏地や飾り袖で赤と黒の調和がとれており、帯の飾りや首飾りも繊細で美しい。しかし、大きな特徴は魔族の蝙蝠
のような一対の翼の他に、白い鳥のような小さな一対の翼もある事だった。
ルインはレンテラとトロナの違いに、何か複雑な背景を感じ取るが口には出さない。対して、チェルシーに気付いたレンテラは気さくな笑みを浮かべる。
「あっ、久しぶりですね夢魔の姫。そのジュリーを連れている古代プロマキス人の女の子は『火と語る乙女』ですか? で、そちらの男の人は……こんな事って⁉」
レンテラは燃える炎の瞳でルインをまじまじと見た。
「もしかして、トロナはあなたの事を『お父さん』とか呼びませんでした?」
「呼ばれたよ。ああ、おれはルイン。大魔城を借り受ける事になった身だ。以降よろしく」
「いえ、こちらこそです。私も遠い昔にあなたと会っているのですが、その頃の私はまだとても幼くてほぼ覚えてないのです」
「おれは君と面識が?」
ルインの驚きに、レンテラは微笑んで答えた。
「はい。私より上の姉たちはたぶん覚えていると思います。あなたはかつてダークスレイヤーと呼ばれた方ですよね?」
「……そうなるな」
「お会いできてとても嬉しく思いますが、私たちに流れる血にはあなたと相いれない部分もあります。もっともその不穏な因子は遠い昔にあなたが黒き炎で焼き清めて下さったので、皮肉や冗談の形でしか発露しないとは思うのですけれどね」
「何の話だ?」
「姉たち全員と会い、母を思い出してくれればきっと理解できると思いますよ。トロナの言っていた事の真偽も含めてですね。そして火の炉の事は任せてください。火を扱う芸術についても」
「わかった。ありがとう」
「次の姉は『夜の火のオーネ』です。本当は厄介な姉なのですが、オーネ姉さんはあなたを尊敬しているので話しやすいはずです。ただ、何か仕事を与えてあげた方が良いですね。お気をつけて」
レンテラが言いつつ彼方の炎の壁を指さすと、火の蝶イグモナたちが螺旋を描くように舞い飛び、炎の壁に隧道のように暗い穴が開いた。
「暗いな……」
ルインの呟きに、レンテラはその言葉を予測していたかのように微笑んだ。
「オーネ姉さんの司る『夜の火』は、暗い闇の中で炎が照らす事で見いだせる諸々の見識を意味しています。だから私たち姉妹の中で一番暗い領域なんですよ」
「興味深いが、まあ行ってみるよ」
「オーネ様は鵂みたいな耳があって、ぼくはちょっと食べられそうな気がして怖いんだ。そんな危険はないんだけどね。あの人は『夜の火』がもたらす沢山の秘密を知っているけど、その秘密を使う機会がなくてつまらないっていつも言ってるから、秘密を使うお仕事がいいと思うよ!」
ルシアの肩にしがみついているジュリーが説明する。
「うーん、『夜の火』のもたらす秘密なら、ネイ率いる『黒い花』に有用なものが多いかもしれませんね」
「そうなんですか?」
不思議そうにするルシアに、チェルシーはにっこりとほほ笑んだ。
「そりゃあ、悪い貴族の下半身の秘密なら『夜の火』に照らされていくらでも出てくるでしょうからね。弱みの本質を見つければ、あとは裏付けを取るだけになりますから楽ですよ」
「あっ、『夜の火』ってそういうものなんですね……」
ルシアは気恥ずかしそうに黙ってしまったが、ちょうど場の雰囲気が大きく変わり、暗く開けた周囲を見回し始めた。暗く広大な空間の空に赤く燃える火球が浮いてぼんやりと地上を照らしている。
「あれは月? 大きな火の玉でしょうか?」
──いや、目だぞ、『火と語る乙女』よ。
大きな火球はぎろりと開いて燃える大きな眼球となった。ルシアは驚いて尻もちをつく。
「ル、ルインさんあれ、すごく大きな目玉です!」
燃える大目玉は困ったように細められ、燃える炎のような声が響いた。
──わしは『罪を見る目』グスラ。フラムスカたちの母によって、悪徒どもの血肉から創られたる者よ。この領域に燃える『夜の火』が照らし出すものと隠すものを見抜き、オーネ様にお伝えしておる。
炎の大目玉グスラの言葉が終わると同時に、燃える鵂がいずこからか無数に表れ、それらはぼんやりと建物の残骸のように見える高所にとまると、やがて多くの火柱が上がってこの領域を薄暗く照らし始めた。
ルインは記憶の中の戦意を呼び起こされる何かを感じてルシアの手を取る。
「大丈夫かルシア」
ルインの声に警戒の気配が漂っている事にチェルシーが気付いた。
「ああご主人様、敵の気配がしますか? でも大丈夫。気配だけですよ」
──そう、その通り。気配だけですよ。
妖しい艶のある女の声が響くと、炎の鵂たちがルインたちの少し前を渦巻くように飛び交い始め、そこから火柱が燃え上がった。その火柱は背の高い人の姿となり、やがて魔族の特徴を多く持った黒い衣装の女の姿となった。
「気配だけ? いや、それにしても火に漂う『罪の火』の属性に悪徒という言葉は……」
「私たちの秘密に迫りましたか? 私たちの出自にはそれこそある不名誉な行いが絡んでいますが、これをある程度整え、今私たちや母が存在していられるのはあなたのお陰でもありますね」
微笑んで語る女はきわめて豊満な肢体をしており、その胸元で止まる筒仕上げ(※チューブトップの事)のドレスは長い両足から腰まで入った切れ込みで良く映えていた。耳はやはり魔族のように尖っているが角はなく、代わりに頭には鵂のような羽角があり、奔放に長い夜のような髪はその末端が赤熱する炭のように赤く輝いている。
「かつて何度か戦った神の悪徒マスティマどもの気配を感じる。しかし君らはマスティマではなく複雑な存在のように感じられるが、どういう事だ?」
ルインは困惑気味に考察を語った。黒い衣装の女は深呼吸するようにドラゴンにも似た立派な翼を広げると、深々とお辞儀をした。
「気の遠くなるような年月ぶりですね。『黒い方』と多くの女性存在から慕われる、私たちには父にも等しいお方。私はこの『不名誉な火の炉』を預かるフラムスカ六姉妹の三女、『夜の火のオーネ』と申します」
──フラムスカ六姉妹の三女『夜の火』のオーネ。
「なお今はウロンダリアの最後の眠り人で、現在の上魔王様からは『ルイン』という名を贈られ、最近は『キルシェイドの眠り人』と言われているようですね」
「ああ、その通りだ。よろしく。しかし君らは……何か遠い昔の事が絡んでいるのは間違いなさそうだが、それが思い出せない」
ルインの困惑気味の挨拶に夜の火のオーネは燃える目を細めて微笑んだ。
「とうに滅んだリドキアの鉛の海にかけて、今日はとても記念すべき日ですよ」
何らかの意味が込められているであろう言葉に、ルインの記憶が呼び起こされる。
「リドキアの……鉛の海……」
ルインの脳裏に蘇ったのは、延々と広がる煮え立つ鉛の大海原と、その上空で燃える骨の馬を駆るマスティマたちと展開した激しい戦いだった。拡散する燃える炎の槍を放つマスティマたちに対して、雷霆の剣や肉吊り鉤のついた鎖で戦った記憶が鮮明に浮かび上がってきた。
「……そうだな、おれはかつてどこかの鉛の海の上で、赤い炎のマスティマの集団と戦った事がある」
「思い出して来ましたか? その戦いの結果が、今の私たちの安寧と、あなたが今後受けるべき恩恵に繋がっていくのです」
妖しい声音と見た目とは裏腹に、オーネは邪心の無い笑みを浮かべ、その様子がまたルインにおぼろげに誰かの姿を思い出させようとしていた。
first draft:2023.6.2
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