第二十五話 探索前夜

第二十五話 探索前夜

 よいの入り。黒曜石の都オブスグンド、西のやぐら付近の城壁内の隠し部屋。

「一体何があったというのだ……」

 不帰かえらずの地での見えない月の魔物、ピスリ・カ・グとの戦いの後に救助された、男女二人の探索者の状態と身元を確認した老べスタスは、両手足の再生を促す薬液につけられた二人を見つつ、額に深い縦皺たてじわを浮かべていた。

「話には聞いておったが実際に目にすると、異端審問会いたんしんもんかいが何を考えていたのか計り知れず、空恐ろしくなるな」

「違います。中身は退魔教会たいまきょうかいなのです。異端審問会は。あの人たちが最終的に何を考えていたのかはわかりませんが、意図的に『月の落涙』を起こせるところまでは研究が進んでいましたから」

 ルインの隣におり、フードを目深にかぶっていた者が厳しめな声で話を続けた。

「……お前さんは誰じゃ? そんな事が出来ると?」

 フードをいで現れたのは、少し物憂げな茶色の切れ長の目と、途中から編まれた長い黒髪だった。

「シェアです。シェア、イルレス。そう言えばわかりますか?」

「そうじゃった! あんたも眠り女じゃったな。しかし、見目好いとは聞いていたが確かにこれは……」

 べスタスはシェアの持つ清浄さと立ち姿からも漂う女の魅力、そして修羅場をくぐって来た者の空気が混ざり合った、独特の雰囲気に言葉を失った。

「べスタス顧問、彼女はそういう話題はあまり好きではないみたいだ」

 軽めのルインの言葉がその場の空気を変えようとするものと気付いて、べスタスは話を続ける。

「すまんの。つまり、この件は見た目以上に大きな陰謀の尾だという事かな? あんたがお尋ね者にされた件も絡んで」

「はい。学園都市アンダルヴィルで起きた月の落涙は意図的に起こされたものです。今回の不帰の地にある『古都の門』と呼ばれる場所と見えない月の魔物は、何か全て繋がりがあると私は見ています。この人たちもべスタスさんのギルドも、最初から巻き込んで利用する前提だったのでしょう。何が目的かは分かりませんが、それくらいは犠牲とさえ思っていないのです。あの人たちは……」

 険しい目をして、べスタスはチェルシーに確認をした。

「チェルシー姫、この二人は手足と元気を取り戻し、何が起きたか話せるようになると言っておったの?」

「ええ。吸血鬼の施療院せりょういんと話はついています。どういうわけか、アルカディアがこちらにマリスを返してくれるとかで。難しい状態ではなくなりましたね」

「オード・ブラッドのアルカディア姫が? そしてマリス? まさか『古き吸血鬼マリス』か? 実在しておったのか……」

 人間の多くはその名を知らないが、知識を重んじるものは知っており、老ベスタスにとっては有名な部類の名前だった。

「ええ。つまりこの二人を回復させることに、何か大きな利があるとアルカディアも踏んでいるという事です」

 珍しく真面目な口調でチェルシーが要点を強調する。

「ルイン殿はどう考える?」

 ルインに向き直るべスタスの眼は決意に溢れている。それを察してか意図せずか、ルインは鷹揚おうように答えた。

「もちろん、おれはギルドの主張を最も正当だと支持し、明日には探索に出るよ。奴らが次の手を打つ前にその腹を引き裂いてみるのが一番いいだろう」

「やはりそう思われるか。了解じゃ! ダギドラゴンが出るか巨人が出るか(※鬼が出るか蛇が出るか)わからぬが、決定的な物を掴まねばなるまいて!」

「準備は入念に。明日は長丁場になるはずだ」

 ルインは腕を組んで楽し気にそう言ったが、しかしチェルシーにはその声に戦いの予感が漂っているのを感じた。ルインは何か大きな戦いの気配を感じているらしい。

(……そうなのね? ご主人様)

 チェルシーは微かに何かがざわつく気配を感じた。それはここしばらく感じた事のないもので、もう少し何かを感じ取ろうとした矢先に、伝声管から厨房のメイのものと思われる声がする。

──チェルシーさん、魔王府から問い合わせです。西の工人アーキタの都市カ・シから訪ねてきた職人がいるとかで。

「あっ、来たんですね? 対応しまーす!」

 こうして、ある程度準備の整っていた『古都ことの門』への探索決行の日は明朝で確定となった。

──『吸血鬼の施療院』は、ウロンダリアの医術と薬学の最高峰の技術と知識を持っている。これをもたらしたのは『血の神マリス』が正体だとされる古き吸血鬼マリスだが、マリスについては詳しい事が全く分かっていない。

──バーラム・ボルタル著『吸血鬼の伝承』より。

 少し後の夜。『ラグの暗い森の木陰』店内。

「本当にすまねぇ! 初対面の客に飯を馳走になるなんて……!」

 ヤイヴ族の鍛冶職人ゴラッドは、丸テーブルの上の様々な料理をあまり噛まずに素早く平らげ、腹が相当大きく膨れていた。これは『ヤイヴの食いだめ』と呼ばれる食べ方で、決まった時間に食事をしない彼らの特徴の一つだった。

「いいんですよ。夢の中であなたたちの勇士オゴス様がわざわざ頭を下げてましたからね。『出来れば冬眠前の熊みたいに食わせてやってくれ』って。では、そろそろ商談でもしましょうか?」

 何日か前、チェルシーの夢の世界にヤイヴの勇士オゴスが現れ、ゴラッドの来訪の予測を説明していた事もあり、ゴラッドは想像していたより容易に『西のやぐら』と接触が出来ていた。

「ありがてえ。では早速……」

 ゴラッドはテーブルの上の食器をわきに寄せる。それに気付いた美しい金髪の店員がてきぱきと食べ終えた食器を下げていく。その美しく素早い所作に感心しつつも、ゴラッドはぼろ布に丁寧に包んだ包丁や鉄串、フライパンを並べ始めた。

「ん? 思ってたよりごついですね?」

 不思議そうにつぶやくチェルシー。

「手に取ってみてもらって構わねぇですよ」

 上位魔族ニルティスの姫たちは並外れた感覚を持っているとされたため、下手な説明は不要だとゴラッドは考えていた。

 ここで、店の振れ戻り戸が開き、黒いズボンとバックル式のシャツに腕をまくった、どこか鷹揚おうような雰囲気の男が店に入ってきた。さらにその後ろに続く給仕服姿のヤイヴの娘を見て、ゴラッドは殴られたような衝撃を受けた。

(ヤイヴの若い女? 本物だ!)

 既婚の女なら何度か見た事があるが、滅多に見られない若い女の姿に、ゴラッドの胸の奥の何かが激しく揺さぶられる。

(何て可愛いんだ……!)

 極端に女の出生率が低い分、揺るがされる本能はすさまじいものであり、ゴラッドはこの可愛い同族の娘に対して何かできる事はないかと献身的な感情が湧き上がってきていたが、同時にオゴスの厳しい言葉が思い出される。

──おかしな気を起こしたら罰を当てるからな?

(駄目だ仕事に専念しろ! おれはしがねぇただの職人だ。それも、戦うのが苦手な……)

 ゴラッドは持っていかれそうだった本能的な衝動に、オゴスの忠告や、ここがあまり良い思い出の無い魔の都であることなどを総動員して抗った。自然にその視線は笑顔だが屈強そうな黒服の男に目が行く。

(もしかして、この人が『キルシェイドの眠り人』か?)

 黒服に黒い髪のその男は、無駄のない屈強な体つきをしており、よく見れば腕もかなり太い。親し気だがどこか暗さのある鳶色とびいろの目は、歴戦の戦士たちのものと同じく、遠い何かがうっすらと見えるように感じられていた。

「すまないチェルシー、少し遅れたがゴシュを連れてきた」

 黒服の男はヤイヴの少女の椅子を引き、続いて自分も席に着く。

「遅れて申し訳ない客人。おれはルイン。最近は『キルシェイドの眠り人』などと呼ばれているようだ」

 笑って手を出すその男は、ゴラッドと握手をすると席に着いた。差別的な意識はなく、礼儀正しいその空気にゴラッドは好感を持つ。

 続いてヤイヴの娘は握手をせずに席に着く。これは上位のヤイヴの男女間のしきたりで、ヤイヴの男は本人かその親の許可がない限り女に触れてはならないとされていたためだ。

「あたいはゴシュ。西のやぐらの料理当番さ! よろしくな」

「あっ……よ、よろしく」

「ご主人様とゴシュ、こちらはゴラッドさん。西の工人アーキタの都市カ・シから、ヤイヴの勇士オゴス様の神託で来られたそうです。私の夢にも丁寧な挨拶があったのでこの場を設けました。調理器具の職人さんだそうです」

「へー、あたいと同じ種族で調理器具の職人かよ! これは見ないわけにはいかねぇなー!」

 目を輝かせて並ぶ道具を眺めるゴシュに、ゴラッドはまた心を揺さぶられた。

「手に取ってみても?」

「どうぞ、取ってみて下せえ」

 眠り人の問いに答えるゴラッド。ルインとゴシュは慎重にゴラッドの調理器具を手に取った。しばし眺めたり、その重さを図るように持ち上げている二人だったが、最初にゴシュが感想を述べた。

「すげぇしっかり作ってあんな。でも、なんかごつすぎる気がする。いつも使うにはちょっとだけ重いかなぁ?」

「それは……」

 ゴラッドが説明しようとしたところに、眠り人ルインが言葉を続けた。

「いや違うな。これは武器の機能を考えて造ってある。……違うかな?」

 設計思想の核心をついた眠り人の質問に、ゴラッドは嬉しさを感じながら答えた。

「そうでやす! おれたちは体格が大きくないんで、武器と調理器具を別々に持って歩くのは必ずしも効率のいい事ではないんでさ。調理器具が武器にもなるなら、長旅や軍の装備を少し減らせるんじゃねえかなと。ヤイヴの冒険者だっていやすし、食材探す奴らもいやすからね」

「……理にかなっている」

 ルインは説明を聞きつつ、フックのついた大きめの肉切り包丁の刃を透かし見た。ほど良い湾曲となたの手前の厚さ、大きめの短剣に等しい刃渡りは、確かに武器としても十分に使用に耐えるように見えていた。

「なあなあ、このフライパンの底の模様、どういう意味があるんだ? これ、ただ厚いだけじゃねえよな?」

 続くゴシュの質問に、ゴラッドはさらに気を良くした。

「このフライパンは、矢を防いだり相手をぶん殴ったりできやすが、その底の筋彫りには大きな意味があって、まず、肉とか焼く時は熱がさっさと通るんでさ。ただ分厚いだけじゃ重くなるし時間食いやすからね。そして、槍や矢を防ぐ時は、筋彫りが鋭い刃先を欠けさせたり、受け流す効果も期待できるんでやす。この溝に冷えた獣脂を練り込めば、燈心とうしんの代わりにもなりやすよ」

「うおっ、すげーな!」

 ゴシュは目を輝かせてフライパンの底の筋彫りや、肉切り包丁を交互に品定めするように眺めた。次第にその眼の好奇心の輝きが強くなっている。

「よし、オゴス様も言ってたけど、思ってたのの何倍もいい。あたい買うぜ!」

「ほんとでやすか?」

「あたいに二言は無いぜ! なあチェルシー、これ櫓の経費でいけるだろ?」

 微笑んでいたチェルシーはこの一言で真顔になった。

「えっ? 自分のお金で買うんじゃないんですか?」

「こういうのは何だっけ? 設備に投資するって言うんだよな? 必要な経費とかいうやつ。あたい知ってるぞ?」

「くっ、こういうところ賢いんだから! ……というわけでどうしますご主人様?」

 ゴラッドは決裁権を渡されたらしい眠り人ルインを祈るような気持ちで見た。しかし、この黒服の男の返事はあっさりしたものだった。

「もちろんいいだろう? それと、ゴラッドさんって言ったかな? 人間用のこういう道具は発注出来たりするかな?」

「毎度ありでさ! 頼まれればなんでも作りやすぜ!」

 喜びと共に胸を張って答えるゴラッドに、ルインも笑って返す。

「決まりだな! これからよろしく!」

 こうして賢きヤイヴの調理器具職人ゴラッドの道具は眠り人の周囲で使われる事となり、ゴラッドは食い詰める危機を脱する事が出来た。しかし長い目で見れば、これはヤイヴ族が独自の文化を得た瞬間だったが、まだ誰もそれには気づいていなかった。

──何が現れるか分からないウロンダリアの未踏みとうの地の旅において、いつも冒険者を悩ませるのが荷物だろう。何を持ち、何を持たないのか? それがしばしば生死を分かつからである。今日も私は荷物に悩むのだ。

──ルミラン・ヒース著『冒険者の心得』より。

 深夜、ルインの部屋。

「ご主人様、起きてます?」

「ああ。何かあったかな?」

 チェルシーの声にルインはすぐに反応した。寝ていなかったのかもしれない反応の速さと声音だった。

「ふあ、何なのチェルシー、せっかく散歩を楽しんでいたのに……」

 無闇に大きいベッドの隅で、ラヴナも欠伸をしつつ起きた。

「いつの間に? いや、散歩だって?」

 いなかったはずのラヴナがいた事でルインが驚く。

「あっ、何でもないわルイン様。散歩の夢を見ていたのよ。……で、チェルシー、どうしたの?」

 ルインの問いを打ち消すように、ラヴナはチェルシーに問い直した。

「あの、バゼルさん、いえ、バゼリガリが、時間がないから急いでご主人様に会いたいって」

「……わかった。行こう」

 異端審問官バゼルこと、『はさみのバゼリガリ』は、西のやぐら内に聖猫シルニィが構築した多重結界の中に監禁されていた。監禁と言っても、必要な場所とは繋がった空間が構築されており、部屋の中に居ながら食堂やトイレ、大浴場にも行ける状態だった。

 ルインはラヴナとチェルシーと共に、シルニィが開いたドアの向こうへと移動する。そこは神聖な青い金属による優美な装飾のある格子で隔てられた空間で、長椅子に座っていたバゼルは諦めたような微笑みと共に立ち上がった。

「夢魔の姫にキュベレのラヴナ、そして今は眠り人の名を持つルイン、こんな夜中にすまないね。明日、ここを出たらいつあたしはお別れになるか分からないからさ。もうその気配がしてるから話しておきたいんだ」

「どういう事だ?」

「あたしはここまでうまくやってきたつもりだったんだが、遂に意図に勘付かれたよ。裏切りだと気付かれたんだ。そしてこれは、奴がこちらに近づいている事を意味しているよ」

 この言葉に、ラヴナの目が険しくなった。

「『奴』ですって? それは誰よ?」

「あたしは今、その名を直接語れないんだ。『混沌カオスの王神』『愚者の王』『変化の王』と言えばわかるかい?」

「まさか……」

 ラヴナの声が震えている事に気づくルイン。

「混沌の王神ゼスナブルが、またウロンダリアに侵攻を? 『混沌戦争カオス・バトル』がまた起きるんですか?」

 チェルシーの声が少女のものではなくなっていた。バゼルは諦めたような笑いを浮かべて話を続ける。

「『混沌戦争カオス・バトル』は終わっていないよ。一時的に収まっていただけだ。以前より巧妙に、もう侵攻は始まっていたのさ。人の心からね。今回の件もその一部に過ぎない。影の国の事も」

「魔王様の読み通りだわ……」

 チェルシーの声もまた震えていた。

「あれが繰り返されると……!」

 ラヴナの声は何かを絶対に忌避したい響きに満ちている。

「いや、そうはならないよ。そうならない方法がある。なあ、ダークスレイヤー?」

 バゼルは不敵に微笑み、ルインをそう呼んだ。

「記憶を一部失っているとはいえ、お前は既に自分が何者か、思い出しているはずだ。……そして、夢魔の姫にラヴナ姫も、本当は知っているんだろう? この男の正体を」

 しかし、三人は誰もこの問いに答えず、やがてルインが落ち着いて答えた。

「さあな? 何であれそれが傲慢ならおれは戦うのみ」

 この返事はバゼルにとって、暗に答えだった。バゼルはにやりと微笑む。

「ふふ、流石だね。これからあたしに起きる事を伝えておくよ。この檻を出たらあたしは明日どこかで、あたしの本体を監禁している存在の領域に呼び戻される。これを防ぐ方法は二つ。……一つはダークスレイヤー、あたしがここにいる間に、あたしをお前のものにしてしまう事だ」

「えっ?」

「それってつまり?」

 ラヴナとチェルシーは驚きを隠さないが、それをルインの次の言葉が遮るように続いた。

「それは駄目だな。本体が闇に堕ちてしまうんだろう? ……バゼリナ」

 ルインは最後の言葉を優しく、呼びかけるようにつぶやいた。驚くべきことに、バゼルの姿が薄桃色の異国の祭服さいふくに、虹の艶のある長い黒髪の女神の姿を取った。その黒い瞳も虹色に変色する。

「ああ、私の名前を憶えていてくださったのですね、気高き黒きお方……あっ」

 しかし、一瞬でその姿はバゼルに戻る。

「え? 今のがバゼルの本当の姿?」

 驚くラヴナ。

「ものすごい美人さん……」

 チェルシーもまた絶句する。二人はその女神が大変な高位の存在だとすぐに気付いていた。

「こら、この姿だって美人だろうが! 失礼だね。……さてダークスレイヤー、あたしを覚えていたのなら話が早い。明日、あたしはあんたの力が一番必要になる局面で、あたしを捕縛している存在の領域に連れ去られるだろう。助けられるのはあんたしかいない。だが、その時は『古都ことの門』の探索で一番危険な罠が発動する時でもある。十分に準備をしておくんだね。仲間を死なせてもダメだ。あたしを失うのもダメだぞ? しっかりやって助けてくれ」

 バゼルはそう言って微笑んだが、どこかに祈るような悲痛さが漂ってもいた。

「……頼んだよ?」

 もう一度念を押すバゼル。

「……ああ、分かった」

 静かな声だが、ラヴナとチェルシー、そしてバゼルには、ルインの目を一瞬通り過ぎて行った獰猛な光が見えていた。

──多くの世界での運命の女神は、大抵三人である。糸を紡ぎ、糸を巻き、そして切る。しかし、非常に高位の女神の中には、かつてこれを一柱で全て行える女神がいたとされている。同時に、彼女は大変な機織りの技量を持ち、またそれを司っていたとも伝わる。

──大賢者アンサール著『喪神記』より。

first draft:2021.07.31

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