第二十五話 黒き国の異変
※この話は『第五話 異変と陰謀と』の続きとなります。
『黒き国』オーンに隣接する、小国シハルの国境の村クレテ。
聖王国の密使にして詩人だという『天の人』アデニアは、銀の横笛の美しい音色で人々を癒しつつ導き、遂にはオーンとの国境に近い山間の隘路(※細く狭い道)に差し掛かっていた。
青みがかった長い銀髪も美しいアデニアの後ろには、二体の屈強な自動人形が曳く箱型の荷車が続き、その後ろに狼人の妻を乗せた荷車を曳く初老のゼドと、若い旅の施療士イレンと助手の看護師や、ゼドとマシア夫婦のように黒き国で『獣の殯』を迎えたい人々の集団が続いている。
アデニアは足を止めて荷車の後ろに回ると、後方の集団に微笑みつつ声をかけた。
「皆さん、もうじき国境に至りますがお疲れではないですか?」
およそ食間一つぶんの時間、上り坂を歩き続けたはずの集団はほぼ全員が遠慮がちの笑みを返す。アデニアは柔らかに頷くと、少し凛とした口調で語りかけた。
「皆さんお気づきでしょうか? これまでの時間、国境からこちらに来る旅人が一人もいない事に。古王国及び聖王国の取り決めでは、国境の封鎖は我が聖王国及び神聖乙女に届け出が必要ですが、それがなくこのような状態です。古王国連合は重大な契約違反を行っていると同時に、何かとてもよくない事が起きている気がします」
集団は不安にどよめく。アデニアはその不安を消すように微笑み、人々の表情もまた緩んだ。
「あと少し歩きますと国境前の開けた野営地があります。私たちは確認の為に先行しますが、皆さんはそこで休憩なさってください。護衛には我が二人の従士、アドンとサムソンをお付けいたします。一騎当千で刃も通らぬ二人ですので、安心してお待ちください。……アドン、サムソン!」
凛としたアデニアの声に合わせて、荷車を曳いていた青銅の巨漢二人は驚くべき軽快さで宙返りをしてアデニアの前に片膝をついた。着地と共にその重さに小さくない振動が伝わる。
「二人とも、皆さんをしっかり護衛してくださいね」
青銅の巨漢二人は立ち上がって集団に向き直った。自動人形とも生ける青銅の像にも見える二人はしかし、その眼だけは生きている人の眼だった。二人は重々しく集団にこうべを垂れる。
「我らが……!」
「お護り致す!」
この頼もしさに息を呑むような気配が伝わり、アデニアは微笑むと聖王国の紋章の入った革袋から二枚の呪符を取り出した。意志あるように荷車の前に飛んだそれらは透けた霊体の馬となって荷車の曳き馬となり、次にアデニアは青いマントを裏返した。
「では、お先に!」
裏返されたマントには精巧な羽根の銀刺繍が為されており、人々がその精緻な美しさに驚いていると、マントは実際に銀の翼となり、アデニアは隼のように隘路の彼方に飛び去ってしまった。
「あれが聖王国の『天の人』なのね。とても強くて自由な存在とは聞いていたけれど、何だか安心できるわ」
もうじき天命を迎えるであろう狼人の妻マシアの笑顔に、ゼドは荷車にかかったマシアの手に触れながら答えた。
「きっと大丈夫だ」
施療士のイレンとその助手の看護師はそんな夫婦を微笑んで見守っていた。しかし、この場の全員が心の底には何か嫌な予感を感じ始めている、そんな空気が漂い始めていた。
美しい銀の翼を顕現させて隼のように飛んでいたアデニアは空気に混じる嫌な臭いに気付いた。それは戦場で何度も嗅いだ死臭に近く、死の穢れに満ちたその匂いを避けるべく上昇する。
曲がりくねった隘路の向こう、国境の砦は二つの塔と大型の門によって構成されていた。しかし、その城門の上で兵士たちと俊敏な動きの人間たちが明らかに交戦状態に陥っている。
(あれは? オーンの狼人とシハルの国境警備隊?)
慎重に高度を下げるアデニアの眼には、砦の屋上に追い詰められた十数名の兵士たちを狼のように取り囲んで、少しずつ削るように殺していくオーンの狼人たちの様子が確認できていた。
アデニアは砦の塔の最も高い屋上に降り立ち、狼人たちの注意も引くように大声で呼びかける。
「シハルの国境警備隊の方々ですか? 私は聖王国の密使です。いかなる理由で狼人たちと争いが?」
シハルで主流の黒褐色の革鎧を着た兵士たちのうち、傷の多い大柄な男が悲痛に叫んだ。
「聖王国の密使? 空から? これが幻覚でないのなら、なにとぞ助太刀を! 彼らはおそらく善良なるオーンの一般人たち。しかし、首の後ろや背中をご覧に! 憑りついているのです、何かが!」
「憑りついている?」
アデニアがオーンの狼人たちを注視する間もなく、兵士たちに向いていた狼人たちは焦点の定まらないぎろぎろとした目で涎をたらしつつ、信じがたい素早さで塔の屋根に駆け上がってきた。
狼人たちは狼の力を開放して、人ではなく狼の鋭い爪の生えた手にしてアデニアにつかみかかろうとした。アデニアは眼にわずかな険を宿して呟く。
「……禁じます」
飛び掛かってきた数人の狼人たちがアデニアを包む球場の力場にはじき返される。声にならない叫びをあげる狼人たち。弾き飛ばされる一人の狼人の首の後ろから、ぼんやりと暗く透けながらもその眼だけはオレンジ色に燃える目をした、毛むくじゃらの小さな顔がアデニアに視線を向けた。
──女、うまそう。
呼応するように、焦点を定めないままに姿勢を立て直した狼人たちの首にしがみついていた薄暗い猿のような存在たちがアデニアに目を向ける。
──邪魔な奴、きた。
──おれたちの獲物。
──おれは目を食いたい。
──おれは腕。
──おれは腹。
バラバラに声を発していたうつろな猿たちの声は突如としてやみ、何かを受信しているような奇妙な間が過ぎる。やがて、猿たちは共鳴するように同時に同じ言葉を耳障りに叫んだ。
──我ら混沌の、敵!
「まさか、混沌と言ったの?」
アデニアの驚愕に対して、猿が憑りついた狼人たちはその疑念を許さないように再び一斉に飛び掛かる動きを見せ始めた。アデニアは銀の横笛を取り出すと、それを剣のように構えて深く息を吸い、詩のように言葉を紡ぐ。
「我が内なる竜は心を離れて力となる。聖く分かたれたる我が心身の言葉よ!」
アデニアは深く息を吸い込んで目を閉じ、再びその眼を開けた。人間のものではない、まるでドラゴンのように縦に割れた瞳に変わっている。雰囲気もどこか力強さに満ち、人ならざる者たちの言葉で叫ぶ。
──雷の剣!。
アデニアの銀の笛は竜の言葉で雷の光剣となった。状況を見守っていたシハルの国境警備隊員たちからは驚きの声が上がる。対して、混沌の猿が憑りついた狼人たちは唸り声をあげて一斉に襲い掛かった。アデニアは見事な斬り払いの一閃でこれに応じる。
狼人たちを透過する雷の刃は混沌の猿たちをのみ断ち切り、猿たちは叫び声をあげて消え始めた。
──オヤジが、黙っていない……!
──我らの父が……!
「うっ!」
猿たちが消えるとともにあらゆる悪臭を煮詰めたような匂いが拡散して、アデニアは顔をしかめる。憑りつかれていた狼人たちは全員が糸の切れた人形のようにくずおれて動かなくなった。
周囲に敵の気配がない事を感知したアデニアは、一段高い屋上から階下の壁上に軽やかに飛び降り、シハルの国境警備隊員たちに声をかけた。
「皆さん、ご無事ですか?」
大柄な隊長格の男は立ち上がって右手の拳を胸にあてる作法で一礼した。
「ありがとうございます、聖王国の密使のお方。我らは階下を得体の知れぬ新王国の兵士たちに占拠され、その後はオーンの方から来た旅人たちがこのようにして襲ってくる始末。自分たちの砦を奪還するどころか、こうして屋上に追いやられ、もう駄目かと」
「階下を? つまり敵はまだ……!」
アデニアの言葉を打ち消すように、兵士たちの背後の頑丈な木の扉から重いものをぶつける音が響き始めた。
「くそっ、ここまで来たか!」
「敵はどのような?」
「古王国連合の役人が連れて来た新王国の兵士たちです。顔色の悪い奴らだと思っていましたが、どうやら生き死人の術をかけられていたらしく、獰猛な生ける屍と化しています」
兵士たちはアデニアに気を使ったのか闘志を奮い起こして剣や斧を手にしたが、アデニアには既に限界を超えている様子がありありと伝わってきていた。
穏やかなアデニアの美しい顔に漂う険が強くなる。
「『生き死人の術』は原則として禁じられている術式です。いけませんね、私たちが把握できない間にこんな大きな悪事が進んでいるのは大問題です」
アデニアは言いながら腰の呪符入れから三枚の呪符を取り出し、短く聖句を唱えて投げつけた。呪符は頑丈な扉に張り付いて青白い輝きを放ち、その向こうから緩慢な悲鳴が聞こえてきた。
「邪悪な術式で縛られた魂に聖なる一撃を与え、魂の混濁を治す効果があります。生き死人たちはおのれを思い出す事でしょう。ただ……」
扉の向こうの攻撃的な音や気配は次第におとなしくなり、やがて哀しみを伴ったか細いうめき声が多くなってきた。
アデニアが静かに扉を開けると、死臭そのものの酷い匂いが吹き出すように漂い、シハルの国境警備隊員たちも顔をしかめる。
その向こうにはやや粗い仕上がりの金属鎧を着た生き死人の兵士たちが倒れ、座り込み、あるいは壁にもたれかかっては、腐りかけの濁った眼でアデニアたちを見ていた。
「うう……ああ……!」
他の者たちより鮮度の高い生き死人の兵士が、アデニアに悲痛そうに言葉にならない声で何かを訴えかける。
「酷い匂いだ……!」
「マリーシアの美しき幻影にかけて、何と凄惨な有様だ……!」
落ち着きを取り戻したシハルの国境警備隊員たちは悪臭とむごたらしい有様に言葉を失っていた。しかし、アデニアは手袋を外して生き死人の頬にじかに触れると優しく微笑みかける。
「望まないのに生き死人にされ、死する肉体に生きた魂を閉じ込められた苦痛と恐怖はいかばかりでしょうか? あなたもお仲間も、死すに等しい罪がない限りは救済します。今はお眠りなさい」
「ああ……!」
生き死人の兵士は膿とも涙ともつかないものを目から流す。アデニアの手の周囲は淡く輝き、その光が霧のように流れて生き死人の身体を包むと、生き死人はどこか安心したように目を閉じて伏してしまった。
「おお、聖王国の『天の人』たちは神々に近い聖なる力を持つと聞くが……。アデニア殿、我々も何か手伝います。我が国か古王国連合か、あるいは両方が何らかの悪だくみをしたのかも突き止めなくては到底納得できませんしな」
痛みと疲労困憊でも手を貸そうとする隊長と警備隊員たちに、アデニアは心安らぐ笑みを返した。
「あなたたちも休息が必要ですよね? 私の荷車がもうじきここに到着しますが、あれは聖王国の神罰の騎士団の大管風琴(※パイプオルガンの事)の鍵盤なのです。神聖乙女ラルセニア様から持っていけと言われたものなのですが、このような事が起きると予見されていたようですね」
「聖王国の大管風琴ですと⁉ ひとたび奏でれば様々な奇跡を起こすという、あの伝説の?」
「はい。私はその奏者の一人です。これより、この砦の周囲を全て聖き楽曲を奏でて聖別し、生き死人と怪我人、不慮の死者を全て救済します。この陰謀はとても看過できませんので」
「何という事!」
折しも砦の門の近くに霊体馬の曳く馬車がたどり着き、アデニアは銀の翼を広げて壁上から馬車へと降り立った。
さらにアデニアは聖王国の『四龍旗』を掲げた荷車の扉に手を当てると、両開きの扉の隙間から青い光が満ち、やがてその光は非現実的なほどに拡散して砦とその周辺を包む青い光の柱となった。
「これは、奇跡か……!」
シハルの国境警備隊員たちは驚いて周囲を見回す。
「開錠せよ、至聖の大管風琴リア・オリファンよ! 美しき摂理たる鍵盤を並べよ!」
荷車の扉が開放するとともに、アデニアの周囲に半円弧の鍵盤が多層で取り囲むように展開した。
「この楽曲を奏でる上で、旅装はいささか不作法でしょうか?」
くるりと回ったアデニアは青銀地に白い蔦柄の輝くようなドレス姿となった。精巧な彫金のされた銀の椅子に座ったアデニアは短く目を閉じて祈りを捧げる。
「天空の動かざる船たる聖王国よ、白き飛沫の姉妹の五女『蔦のアイヴィー』の聖なる蔦の葉を震わせることをお許しください。乱されたる悪しき律の咢を音曲にて打ち払い清め、迷いし魂と霊肉が白き霧に包まれます事を!」
アデニアの指が鍵盤を押し込む。遠雷のような震えがシハルの国境警備隊員たちの心と視界を揺らし、地震かと思った彼らは周囲の木々が揺れていない事に気付いた。天変地異のように迫力のある音色が自分たちの心を激しく揺らしている事に驚愕し、心の底が抜けて聖い水があふれだしてくるような感覚に言葉を失って膝をつく。
「これはなんという、ああ……!」
隊長も隊員たちもいつしか膝をついて何かに祈り、理由の分からない涙が溢れている。感動が突き上げて来ながらも心は疲弊せず、むしろどこまでも底知れぬ力が湧いてくる感覚に皆が歓喜の混じった困惑をし続けていた。
やがて、遠雷の様な音と共に白く甘い雨が激しく降り注ぎ、足元が白い霧に覆われて見えなくなってしまった。警備隊員たちはいつしか自分たちの傷や疲労が消え去り、力が満ち溢れている事に気付いた。大変に驚くべきことであったのに、それよりも自分たちの全てを揺さぶる感動で何も出てこなかった。
しかし、白く輝く雪原に一点の汚濁を落としたように、耳障りな複数の声が騒ぎ立てている事に気付き、国境警備隊員たちは声の出所を目で追う。
──秩序だった小汚ねぇ雨を!
──この『混沌』への冒涜、高くつくぞ……!
建物を透過してさらに何匹かの半透明の猿たちが塔の壁に取り付いて捨て台詞を吐くと、いずこかへと消えてしまった。
永遠とも短いともつかないアデニアの大管風琴の音は止み、アデニアは奇跡をもたらした存在に感謝の言葉を捧げると、幻影のように展開していた多層の鍵盤は荷車の形に戻った。
感動で動けなくなっていた警備隊員たちの元に、銀の翼にドレス姿のアデニアがふわりと現れて着地する。その姿は青銀の女神としか言いようがないほどの神々しさに満ちており、警備隊員たちは自然とこうべを垂れて感謝の言葉を述べた。
アデニアは気さくな笑顔で応じる。
「『天の人』とはいえ、それでも私たちは『人』なのです。あなたたちは数奇な運命で共に戦ったいわば戦友です。そんなにかしこまらないでください。あとは……この状況を正確に知るために少しでも情報が必要です。目にした異常について色々と話してくださいませんか?」
警備隊員たちはこの言葉に心温まるものを感じるとともに、この聖王国の密使の為に何か役に立ちたいという強い思いが沸き上がってきていた。何人かが思い出したように不気味な猿の言葉を口にする。
「そうだ、あの気味の悪い猿たちが『混沌』と!」
「おれも聞いた!」
アデニアの眼が強さを帯びた。
「信じたくはなかったですが、やはり『混沌』が侵入していると見るしか無さそうですね」
アデニアの話は砦の内部と周囲の狼人たちが息を吹き返したことによる騒がしさで中断された。生き死人だった粗末な金属鎧の兵士たちがよろよろと這い出して来ては、涙ながらにアデニアに平伏する。
また、混沌の猿に憑りつかれていた狼人たちは不思議そうに周囲を見回していた。黒い肌と髪に、オーンの樹皮布の旅装をした狼人たちは困惑して尋ねる。
「ここはシハルの国境の砦か? おれたちはなぜここに? おれたちは確か……あれ? 何だっけ?」
「どうしておれたちはここに?」
国境警備隊の隊長はアデニアを見やり、アデニアは頷きを返した。軽く咳払いをして隊長は狼人たちに向き合う。
「あんたらはおかしな猿に憑りつかれて正気を無くし、おれたちに襲い掛かってきたんだ」
しかし、狼人たちは心当たりが全くないといった顔をして仲間と顔を見合わせている。
「これは八百年前にもしばしば起きたとされている事です。『混沌』に関わると記憶が消えたり曖昧になってしまう事があります。幸い、皆さんは魂まで混沌には浸食されずに済んだようですが、これで状況はますます悪く……あれは?」
何らかの異様な気配を感じて、アデニア他全員が空に眼を向けた。空一面に射手や銃士、二頭立ての戦車を駆る射手、角笛を持つ勢子など、色とりどりの装いの者たちが歌を歌いつつオーンの方角へと滑るように移動していく。
──我らはモーン様の『荒野の狩り手』なり!
──邪悪な獣の神とその眷族は狩り尽くさん!
──心臓を突け、皮を剥げ、牙と爪を首飾りに!
アデニアは手にしていた笛を落としかけた。呆然とした言葉が自然にこぼれる。
「そんなまさか、モーン様が『荒野の狩り手』を差し向けるほどの事態だと⁉」
『黒き国』オーンの異変は尋常ならざる規模を予感させていた。
first draft:2023.09.02
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