第二十六話 蔦の王宮
『黒き国』オーンのとある秘匿された通路。
ファリスは青と白の複雑な鉱脈が縞模様を描く洞窟に立っていた。遠い昔に化石化した世界樹の道管であるこの通路は、白い鉱脈が地上の日の光をここまで届かせており、ひんやりとして明るい。
『西の櫓』から何箇所かの寄り道を経て、自分を含めたごく限られた者しか来れないこの場所に立つと、ファリスはどうしても身が引き締まる思いだった。
「さてと……」
魔力の素たる純粋な元素が漂うこの空間は清浄で、ファリスはこの後のことを考えて深呼吸をしかけ、しかしそれは何者かの気配によって遮られた。ファリスが転移して来た門の前、二体の狼の石像の陰から、黒い硬革と毛皮の甲冑の二人が姿を現す。
一人は、褐色の肌と長めの白髪、左目には眼帯をした初老の黒き狼人。
──オーン『親衛黒狼騎士団・蔦守』、『蔦守の長』ベルギロ。
もう一人はファリスと同じ青黒い髪に白い肌の若い女で、開いた甲冑の胸元には横一線の大きな傷跡があった。
──オーン『親衛黒狼騎士団・蔦守』、次席にして補佐官、ヴィルカ。
ファリスは一瞬の真面目な顔の後に柔らかな笑みを浮かべて声をかける。
「あら久しぶりね二人とも。でも、『蔦守』の主席と次席の二人が揃って現れるなんて、大事件が起きてるらしいわりには余裕があるのかしら?」
穏やかなファリスの言葉にはそこそこに皮肉の響きが込められていた。
普段なら余裕が漂っていそうなベルギロの表情が親し気な苦笑に変わる。
「そういじめんで下されファリス様。あなたに敵するものがいたら、我々くらいでないと歯が立ちませんからな」
苦笑するベルギロに対して、ファリスは皮肉ではない笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね。ここに来る前にあちこち寄り道をしてきたのだけれど、何が起きてるかはともかく、原因は少し思い当たるのよね。それできつい事言っちゃったわ。ここに……」
ファリスは女の方を見やる。
「ヴィルカ、あなたがいるって事はそういう事でしょう? あなたはかつての私の立ち位置に賛同していたものね。他の者なら私が機嫌を崩すと見立てたのでしょう?」
黒い狼人の女騎士、ヴィルカは凛とした顔に隠さぬ悲しみをあらわにした。
「はい。我が国が突如としておかしくなってから、王宮では連日対処と原因の究明に追われていましたが、ファリス様がかつて異を唱えたあれらにも原因があるとする人々も多くなってきたところです」
ファリスは深いため息をついた。
「やっぱりね。かつてはオーンという国の独り立ちとして納得しようとも考えたけど、そうはならなかったと。……でもここは私の母の国。いつまでも力を貸して見守る事はやめないわ。せめてこれがとても痛い教訓で済むようにしたいところね」
ファリスは笑顔から厳しい顔になってベルギロを見やる。それが何かを促すものであることを察したベルギロは状況の説明を始めた。
「現在、我がオーンは各市町村や集落と連絡がほぼつかずに大混乱に陥っています。我らが『蔦の王宮』の城下町たる『蔦の葉の下』はようやく混乱が収束しつつありますが。原因が『あれら』にもあるとしたら相当に厄介なことになりそうです」
「そのように想定すべきよ。行きましょう? 対策を考えなくては!」
ファリスの声に合わせるように三人の狼人はその身体を核として、うっすら透けた黒い大狼の姿を取り、影のような速さで駆ける。秘匿された洞窟から光のこぼれる竪穴へと至り、跳び上りつつ駆けあがって外に出ると、ここは黒い蔦にびっしりと覆われた折れた巨木のうろであると分かる。
三人の狼人は幻影のような黒い狼から人の姿に戻り、感慨深げに周囲を見回すファリスの為にわずかな時間を取った。
「あの時以来だから十年? それとも二十年かしら?」
ファリスの目の前には巨大な木の切り株のような山がそびえており、それもまた黒い蔦にびっしりと覆われている。なだらかな裾野は彼方まで続き、一面が黒い葉の蔦で覆われて道や街が見えない。
用心深い狼人の生活圏は全てこのように黒い植物の下や陰に巧妙に隠されており、だからこそ『黒き国』と呼ばれている。ファリスの母にあたる『母なる黒狼』ルロが遠い昔にこの大地に祝福を与えた名残だ。
──『黒き国』オーンの王宮『蔦の王宮』と王都『蔦の葉の下』。
「もう三十年近くになると思いますよ、ファリス様」
「……そう」
ヴィルカの案じるような声にファリスは特に感情を込めずに呟くと、黒いレースのとんがり帽子を外した。現れた狼の耳の大きさにベルギロとヴィルカが息を呑む。
「まずいわね。狂気と混乱、そしておかしな匂いもするわ。『混沌』の気配よ。敏感な私たちがいる蔦の王都は混乱を控えめにしている気配を感じるわ……」
ファリスは蔦に覆われた切り株のようなオーンの王宮『蔦の王宮』に厳しい目を向けると、再び大狼の姿になって密な蔦の上を走る。オーンでも位の高い者だけが知る隠し道を駆ける三人は、茂った蔦で巧妙に隠されている開口部の一つに飛び込むように姿を消した。
「ここからは慣例通り、『人の作法』で……」
「分かっているわ」
遠慮がちなベルギロの言葉に、ファリスは再び人としての、魔女としての姿に戻ると慣れた様子で廊下を歩く。
「みんなはどうせ議場でしょう?」
「ええ、まあ」
削り出されたのか天然なのか見分けがつきにくい加工のされた通路を三人は進む。オーンの王宮こと通称『蔦の王宮』は、遥か古代からこの地にあったとされる化石化した世界樹の切り株を加工したものであり、乳白色の洞窟のようなこの通路は淡い光を通して薄明るくひんやりとしている。
通路は用心深い狼人の王宮のものらしく、階段になだらかな坂や曲がっては少し戻って混乱を誘う意図の場所を経て、やがて楕円に開けた広間に出た。広間と言ってもこの場所は無数の幔幕で仕切られており、王宮に詳しい者以外はその正確な形と広さを知らない
ファリスは様々な思いのあるこの場所をゆっくりと眺めまわした。黒地の幔幕は各所に『蔦を纏う狼と大樹』のオーンの国章が刺繍されている。
「久しぶりね。この場所はあまり好きではないけれど」
ため息交じりのファリスの言葉に、ヴィルカは申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し上げにくいのですが、状況はあの時よりも悪いです」
「……それも想定しているわ」
──狼の御子様がお戻りになられた!
『拡声』の術式で拡大された声が響く。それが、この場に狼人以外の種族も少なくない事を意味すると理解したファリスは少し険しい顔になった。するすると巻き上げられた幔幕に、思いのほか広い『議場』が開ける。
オーンの王族たちが座る、砕石で築かれた白い小山のような場所をほぼ中心として、足を下ろす場を溝のように彫られた席が何列も取り囲む形になっている。王族に狼藉を働こうとしても真っ直ぐには走れず、たどり着いたとしても軽い砕石の山は崩れて王族の場まで駆け上がる事は難しい。これをやすやすと飛び越えられるのは、『純血の狼』と呼ばれる神獣の血を濃く引く狼人たちだけだった。
「オーンの……狼の民ではない人がずいぶん増えているわね……」
議場の様子を見たファリスの声は不信感を隠していなかった。
「ファリス様と我が国の考え方が少し異なるものになって三十年ばかり。我が国は確かに財貨を多く蓄えましたが、ファリス様の危惧していた方向にも我が国の雰囲気は流れ、ここにきて今回の大騒動です。果たしてどうなるものか」
ベルギロの言葉は既に相当に厄介なやり取りがあった疲労を感じさせていた。
「財貨や商いに携わる者たちの声が大きくなりすぎているんですよ。私は爪と牙で語れない (※武力が低い、手を動かさない、という意味)者は信用できないので、彼らの話を聞くだけでうんざりですけれどね」
ヴィルカはやや見下し気味に言い捨てる。そんな三人に声をかけるものがあった。
「こちらまで心と声が漏れ聞こえておるぞ、御子殿とふたり」
小高い砕石の山の上、背もたれの無いオーンの様式の玉座わきに、白い蔦の冠と黒い外套に身を包んだ王と王妃が立ち、王は苦笑を、王妃は困惑を浮かべている。二人は人間で言えば初老を過ぎた威厳ある男女の見た目をしていたが、疲労の色も濃かった。
──『黒き国』オーンの『狼の王』ガルマ。
──『黒き国』オーンの『狼の妃』ヴォルテ。
ファリスは魔女の帽子を取り、指で小さな輪を描く。指の軌跡は白く輝く輪となって蔦の冠のようになり、ファリスの頭上に輝いた。議場の人々から驚きの声が上がる。オーンという国に祝福を与えた『母なる大狼ルロ』の娘であるファリスがいまだに持つ、『聖なる蔦の祝福』が可視化されたものだ。オーンの王と王妃の蔦の冠はこの祝福を模している。
「『蔦の冠を頂く王』ガルマ、『蔦の冠を頂く妃』ヴォルテ、異変を感じて約定の通りに、『ルロの娘』ファリスとしてここに推して参りました」
王と王妃はファリスの言葉に冠を外し、それを捧げるように掲げてファリスに一礼する。
「『母なる大狼ルロ』の祝福と我らの血の系譜の繋がりが、我が国を覆う黒き蔦の如く豊かに変わりなき喜び、ここに深く謝して礼を奉る」
「礼を受け取ります。我が血族よ」
ファリスと王と王妃は遥か昔から変わりない作法で挨拶を交わし、その後の空気は少し厳かなものとなった。
「で、ガルマにヴォルテ、この状況はどういう事かしら? 私のずいぶん昔の危惧が形になったような気がするのだけれど、実際の状況は?」
「それが……」
「僭越ですぞファリス殿!」
ファリスの柔らかな口調に相好を崩した王の言葉を、何者かが叱責で遮った形になった。これはオーンの王族をはじめとした『純血の狼』たちの間では、『狼の御子』たるファリスへの大変に無礼な行いと受け止められる行いだった。
「僭越はそなただ、ダディバ・アステフェリオン卿」
柔和なガルマ王が厳しく叱責する。ファリスはその名前の苗字に驚いた。
「以前は見なかった顔ね。……え? アステフェリオンですって?」
アステフェリオンとは、古ウロンダリアで知らぬ者はいない大財閥の一族の苗字だった。
「ダディバ・アステフェリオン卿は十年ほど前から交易や財務の担当大臣だ。おかげで我が国の国庫はかつてないほどに潤っている。しかしファリス殿、彼はあなたが我が国の『狼の御子』である事には以前から懐疑的であった。我らはこの身に流れるルロの純血で魂から理解しているのだが……」
ファリスはすぐには答えず、無言でつかつかとダディバの前に進んだ。周囲に緊張感が漂い、息をのむ気配が満ちる。
「古ウロンダリアでは知らぬ者がいない大財閥の一族ね。あなたがなぜわが国で大臣の位まで出世しているの? これは流石に驚いたわ。露骨もここまで来ると感心してしまうわね」
宝石の多い外套に身を包んだダディバは、アステフェリオンの一族の特徴だとされる大きな鷲鼻と灰銀色の長髪に、しっかりした顎と意志の強そうな目をした男だった。帽子や外套は黒光りする上位黒曜石のものらしく、古王国の中流貴族の全財産でも買えないような高価なものだった。
ダディバは揺るがぬ不敵な笑みを浮かべる。
「私は定命の人間です。ゆえにこの国の神秘にはどうしても浅学で半信半疑な面があり、それによる失礼は容赦していただきたい。何しろ遥か古代の建国神話の狼の娘がいまだに健在で御子として奉られており、しかし当の御子はいかがわしい魔女などという身分であるなど、まるでおとぎ話の様でしてな」
「……何ですって!」
ファリスはこの失礼な物言いに怒りを隠さなかった。
「ダディバ、無礼であるぞ!」
狼の妃ヴォルテもまた大臣を窘める。しかし、ダディバは引き下がらなかった。
「失礼にして僭越ながら、『狼の魔女』ファリス殿がこの国の象徴であることはこの眼で見て理解いたしました。しかしながら国家の経営、ひいては民に豊かな生活をさせるにはやはり財貨が必要です。私はこの国の為にひたすら血と汗と涙を流し、狼の民たちを豊かにし、国庫を潤し、南方新王国には広大な農地を得て食糧を輸出しております。ファリス殿は実績に対する正当な評価をまずなされて欲しいものですな」
「随分な言い様ね……ならなぜ今回の災いは起きたの?」
ファリスのこの質問に、ダディバの目と空気に嫌なものが漂うのをファリスは感じ取った。
「はて? むしろその問いに関しては私の方がファリス殿に問いたい。この国の中心に存在する広大なる聖地『黒き神獣の森』から、好ましからざる薬物が蔓延しており、それが此度の騒動の引き金になったと私は推測しておりますが。そもそもあの聖域は死期が近づいた狼人とその伴侶たち以外は原則として立ち入れず、深部に自由に入れるのは基本的にあなただけでしたものなぁ」
「何という無礼な言いがかりを! あれはこの国と母のかけがえのない聖地なのに!」
ファリスは髪が逆立つほどの怒りを見せたが、その怒りに対するダディバの空気に嘲りが感じられ、相手にその表情が浮かぶ前にファリスは怒りの空気を消すと余裕のある笑みを浮かべた。
「……なんて、私が怒ると思った? なるほどねぇ、あの地で何か大きな商いをしたくてそんな事を言っているのね。人間の狡い商人が考えそうなことだわ。しかし、あなたの言う事ももっともね。そこまで言うなら私が信頼のおける人たちを選んであの地を徹底的に調査するわ。その上で問題がない、またはあなたたちが何か悪い事をしていたらそれなりに責任は取ってもらうわね」
「ほう、『象徴』が実際に国の為に何か仕事をなさると。これは見ものですなぁ」
粘着質の笑みを浮かべるダディバに対して、ファリスは無視するように議場の人々に向き直ると、威厳ある『狼の声』で語りかけた。
「誰か、国内の状況を把握している限り教えて」
この時、ファリスの後方にいたダディバの口角がわずかに上がったが、誰もそれに気づかなかった。
議場はファリスの『狼の声』に気おされて静まり返っていたが、次第に軽い鎧のまま走る者たちの音が近づいてくると、議場のある場所に下がっていた幔幕がめくられ、オーンの革鎧に身を包んだ兵士たちの一団が現れる。しかし、兵士たちは人ではなく立ち上がった狼のような獣人姿になっているものが多く、しかもその多くは負傷していた。
「申し上げます。現在、城下の『蔦の葉の下』では一般人の狂乱状態が異常に激しいものとなり、情報院も狂乱した市民の攻撃を受けています。情報院では全土の非常事態を把握しつつあり『黒狼騎士団』および『黒狼戦士団』の招集及び遊撃を提案いたしますが、敵が我が国の民であるのが問題です!」
「全土とは何だ、全土とは! 詳しく報告せよ!」
この報告にガルマ王は声を荒げた。
「それが……南はヴィーリカ郡、東方は山深きモーナ郡、西方はイルスパ郡、北は雪深いバノトラ郡まで全てです。全土です! 黒き八十一郡全てとの事で」
「八十一郡全て……何という事だ、我が民たちに何が起きた……!」
「我が狂乱する民たちは皆何かに憑りつかれております。狼の血の濃い者には猿のような何かが狂乱する市民の背に貼り付いているのが見えるとかで……」
静まり返った議場にダディバの粘着質な声が響く。
「どこかの森から現れた悪霊か呪いの類かもしれませんなぁ。薬物による堕落が悪霊を呼んだのかもしれませんぞ。王よ、私からも献策がございます!」
「……申してみよ」
「このような事も有ろうかと、『古王国連合』に状況はつぶさに報告しております。この騒乱はどうにも狼人にのみ起きている様子。ならば他の種族の軍勢を連合から派遣してもらい、事態の鎮圧に乗り出すことが先決ではないかと」
「鎮圧とは我が民を殺すことを意味するか?」
王の問いに対して、しばしの沈黙ののちにダディバは重々しく答えた。
「……やむを得ぬ場合は」
「そんな乱暴な解決方法は駄目よ! そもそも解決にならないわ」
間を置かずに強く異を唱えるファリスに対して、ダディバはどこか確信めいた笑みを浮かべた。
(この顔……?)
何かを想定していたような空気に、ファリスは警戒を強める。ダディバは議場の人々に聞こえるような大声で話し始めた。
「お優しき御子様の心痛は察するに余りありますが、そうであればなぜ三十年以上も国を出たままにされて放置していたのか? ……中毒者を連れてこい!」
何人かの兵士が議場を出ると、しばらくして痩せて襤褸を纏った狼人たちが数人、縄に繋がれて連行されてきた。
「これは……?」
よく見れば老若男女全ているが、全員がやせ細って汚れているために、すぐには見分けがつかない程にひどい有様だった。ダディバは尊大に説明する。
「件の薬物か何かによる中毒者ですよ。ご存知なかったのも無理はない。我が国はこのような者たちが次第に増えているのを隠していましたからな」
ファリスが噂に聞いていたものの何十倍にもひどい状況が推し量れた。
「王、どういう事なの? 何が起きているの?」
ファリスの問いに対して、苦渋の表情を浮かべていたガルマ王は重々しく呟いた。
「分からぬのだ。何が起きているのか。それが問題だ」
「なんてこと……」
ファリスは三十年ほど前の出来事から、あるいはそれよりはるか前から周到に何かが企てられている可能性に思い至り始めていた。
first draft:2023.09.20
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