第五幕 月のイシュクラダル、ミゼステとオーランド

第五幕 月のイシュクラダル、ミゼステとオーランド

 ウロンダリアの遥か上空、二つの月の大きなほう『レダの月』の神都しんとの一つ、イシュクラダル。

 つ世界と呼ばれるウロンダリアの外、無限世界イスターナルの各所から集まって来た月の民たちの技術のすいを尽くしたこの大都市は、ともすれば寂しげな光を跳ね返す月面であることを忘れさせるほどに、活気ときらめきに満ちていた。

 きらめく起伏にとんだ針のようないくつもの尖塔と、その間を走る水色に淡く光る術式じゅつしきの通路。その上を、半実体の円盤に乗った背の高い細身の月の民たちがゆっくりと行きかっている。

 その様子を眺めているのは、目の覚めるような深い青のドレスを着てたたずむ、船と航海の女神ミゼステだった。

 ミゼステは『船の女神の塔』と呼ばれる、イシュクラダルの都では異彩を放つ青い塔の最上階におり、丸い窓から都を見下ろしていた。その眼は愛しくも尊敬に値する男、月光の英雄オーランドが二日前に向かった、ウロンダリアの辺境の星の海に向けられている。

 彼女が加護を与えたウロンダリアの神々の船は、星の海の辺境にある『巨神の裂け目』と呼ばれる世界の亀裂に向かっており、それは何日か前に観測された、つ世界の救援を求める声の主を救いに向かっての事だった。

「ミゼステ様、アンブローズをお持ちしました」

 青と銀の繊細せんさいな装飾の衣装を着た月の民の侍女が、水晶の盆に載せた銀のゴブレットを差し出す。

「ありがとう」

 ミゼステは月の民の様式である繊細な細工の施されたゴブレットを手にしたが、それをすぐには口にしなかった。

「オーランド、そして皆様、どうかご無事で……!」

 加護を与えた船団が、巡航からその速度を索敵に変えたのがわかる。ミゼステは真珠色のアンブローズをゆっくり飲み干すと、再び船団の為に祈った。

──ウロンダリアの夜を良く照らす二つの月のうち、大きなレダの月の陰の部分に見いだせる夜景は月の民の都だとされている。このうち、言い伝えでは特に大きな都がイシュクラダルと呼ばれ、神々がウロンダリアの夜を見守っていると言い伝えられている。

──エメリン=ルパス著『夜に見出す』より。

 ウロンダリアを取り巻く星の海の辺境、『巨神の裂け目』付近。

 暗黒の概念宇宙がいねんうちゅうの中で様々な色に変容へんようするしまを帯びた、歪んだ菱形の『巨神の裂け目』。その先の見通せない空間の中に、夜の曇り空の間の星のように弱々しい光がしばしば見えており、ウロンダリアの神々の戦船いくさぶねがその様子を見守っていた。

 ウロンダリアの神々の星船は、その背景から多くの文化や様式の影響を受けており、単一の仕様ではない。色も形も大きさも実に様々なものだったが、今は特に大きな碧銀へきぎんの戦船が旗艦きかんを務めていた。碧銀に淡く輝く結晶金属で装甲されたそれは、頭の部分を一部切り落とした優美な鯨のようにも見える。

 その切り落とされたように見える部分は、淡く光る術式の力場で形成されており、舞台のように開けた鈍色にびいろの場には、夏の月のような色の長い髪をし、深い青の戦闘用のコートを着た剣士と、黒いフードとマントを羽織った人物が並び立ち、『巨神の裂け目』を注視している。

 青いコートの剣士は隣の小柄な人物に問うた。

「インスミル殿、今は私も気配を感じるぞ! そろそろではないか?」

──ウル・インテスの月光の英雄、オーランド。

 オーランドの問いに対して、小柄な人物はフードをはいだ。少年とも少女ともつかない、無垢さと深い知性の同時に宿る複雑な灰色の目。その黒いマントの背に施された刺繍ししゅう七芒星しちぼうせいと天地に向かう剣』の印章いんしょうは、ダークスレイヤーを意味するものだった。

「ええ。外つ世界の避難者たちの船はもうじきこちらに届くでしょう。ただ、彼らを追う何者かの気配がやや強いのです」

──『叛逆はんぎゃくの十賢者』の一賢、侏儒しゅじゅにして陰陽いんようの大賢者インスミルとインスミラ。

 リンス族と呼ばれる賢い侏儒しゅじゅ(※小人のこと)の種族の中でも、一人で男女の双子でもある特殊な生まれを持つこの大賢者は、全く相反する価値観から深遠な考察によって答えを導き出す力を持っている。

「オーランド様、救済には責任と因果も常に伴うものです。それを見分けない事には……」

「理解はしている。してはいるのだがな」

 オーランドは苦笑したが、それは自分の逸る心を抑えるためでもあった。戦船の中に、外つ世界からの避難者たちのものと思われる救いを求める声が響いていたためだ。

──本当に、『永遠の地』にたどり着けるのですか?

──星船の障壁、もう持ちこたえられない!

──魔物どもめ、どこまでも追ってくる気か!

──せめて、せめてこの子たちだけでも!

 外つ世界のどこかの言葉が、ウロンダリアの上位言語じょういげんご翻訳ほんやくされて流れてくる。どこかの世界からの避難民が『巨神の裂け目』に気づき、永遠の地ことウロンダリアを目指していたが、追手の魔物もまた相当な数のようだった。

「インスミル殿!」

 悲痛な声にしびれを切らしかけたオーランドだったが、難しい顔をしていたインスミルの表情が晴れた。

「『先見さきみのエリセラ』から予言が届きました! 彼らの心はウロンダリアに災いをもたらしません。これより『巨神の裂け目の門』を開放し、あの外つ世界の星船を救済します! 歌い手たちは『開門の唄』を!」

 インスミルの声とともに、周囲の星船から暗さと希望を感じさせる不思議な歌が響き始めた。同時に、様々な変容する色に濁っていた『巨神の裂け目』は、暗く澄み始め、彼方に薄緑に輝く球体が見える。

「……これは!」

「大きい!」

 息をのむオーランドと、大賢者インスミル。『巨神の裂け目』の中に現れたのは、淡い薄緑の球形の力場りきばに守られた、宙に浮かぶ大きな城塞であり、その城塞を抱えるように白銀の尖った大きな星船が、左右から下方内側にたわんだ翼を展開している。

「かなり高度な文明です。大事な城塞と都市を力場で包み、それを抱えた星船で避難してくるとは。またも『界央セトラの地』の不条理にさらされた世界でしょうか?」

 しかし、その美しい星船は羽虫のようにまとわりつく無数の魔物と、追手であろうその背後の黒雲のような魔物の大群に攻撃され続けている。

「行くぞ! ウル・インテシアよ、最大戦速! これよりあの星船と民たちを救う!」

 オーランドは号令をかけ、愛する世界の名を冠した戦船ウル・インテシアは、その乗組員たちの高い士気を反映するように、いち早く『巨神の裂け目』へと向かう。

──多重増幅術式たじゅうぞうふくじゅつしき、発動!

 戦船ウル・インテシアは碧銀の光に輝き始めた。あわせて、オーランドの全身も同じ光に包まれる。絶剣『月光シンラーン』を抜いたオーランドは呼吸を整えつつ目を閉じ、その美しい大剣を構えた。

「『界央セトラの地』の暴虐に、いかなる民も決して毀損きそんされてはならない!」

 目を開けたオーランドは、『月光』を揮った。何十倍にも増幅された碧銀の光波の斬撃が星船から放たれ、外つ世界の優美な星船付近の無数の魔物を消し飛ばしてゆく。

「僕も、私も、負けてはいられませんね」

 大賢者インスミルは、途中から少年と少女の声が混じった声になり、両脚器りょうきゃくき(※コンパスの事)のように開く不思議な杖を持ち出すと、それをわずかに開いて外つ世界の星船の周りに小さな円を幾つか描いた。

──真規円しんきえん異空隧道いくうずいどう炎蛇えんじゃもん

 大賢者インスミルは、無限世界イスターナル原器げんきの一つ『真規円しんきえん両脚器コンパス』により、主物質界プライマ・リアには存在しないはずの『真なる円』を描くことができる。この『真なる円』は世界の座標を理解しているものが用いると、異なる世界を接続させることが可能だ。

 暗黒の大穴から、炎そのものの巨大な燃える蛇が数匹現れ、魔物たちを存分に丸呑みし始めた。

「上層地獄界の炎蛇ブレフゲルドよ! 時の終わりに力あるものを丸呑みにすべく、貪欲に全てを食らい燃やせ!」

 大賢者に呼応するように巨大な炎蛇たちは叫び声をあげ、無数の魔物たちを存分に喰らい始めた。

──降魔夜浄月光ごうまやじょうげっこう

 巨大な星船を覆うほどの碧銀の光の柱が、冷たい炎で魔物たちを焼き尽くしていく。

 『界央セトラの地』でさえ安易に手出しができないとされる十賢者の一人と、その力を戦船により何倍にも高められた英雄オーランドにより、外つ世界の避難民たちの脅威は急速に薄れつつあった。

 しかし、インスミルが異常に気付く。

「オーランド様!」

「分かっている。異様に数が多い!」

 外つ世界の避難者たちの星船の向こう側に、雲のように巨大な魔物の塊があると見えていたが、その規模が予想よりはるかに大きかった。

 大賢者インスミルはさらなる力を発動させる。

──真規円しんきえん異空隧道いくうずいどう燃星焦熱光ねんせいしょうねつこう

 いずこかの燃える星の間際に設定された異空の隧道から、灼熱の光がほとばしり、黒雲のような魔物の大群を燃やしていく。

「私とて!」

 オーランドもまた、さらなる低い構えから超絶の剣技を放った。

──降魔夜浄ごうまやじょう無尽月光剣風むじんげっこうけんぷう

 多方向から同時に放たれる無数の光波の斬撃が魔物の大群を切り裂いてゆく。

 折しも、外つ世界の城砦を抱えた優美な星船は『巨神の裂け目』からウロンダリア側へと出てきた。

「どうする? インスミル殿」

 オーランドの問いは『巨神の裂け目』にまだ多数存在している魔物たちについてだった。おそらく『界央セトラの地』が何らかの理由で避難民たちの世界を滅ぼすべく放ったこれらの魔物を漸減しておくことは、いずれ訪れるとされる大戦で大事な意味を持つと思われていた。

「少しでも多く減らしましょう。後の戦いで大きな意味を持つはずです!」

「同感だ!」

 大賢者と英雄は様々な技を繰り出していく。と、二人の視界の片隅に、鈍色にびいろの新たな戦船の艦隊が現れた。

 そのひときわ大きい旗艦は城を乗せた角ばった鯨のような、やや古風な趣味を感じさせるものであり、この武骨な戦船に二人は見覚えがあった。

──武王ガイゼリックの戦船、シスラス。

 オーランドの戦船の術式で構成された壁面に、武骨な老戦士が豪快な笑みを浮かべた映像が現れる。

「若いの、手を貸しに来たぞ。こちらはもう片付いた故な」

「これは武王殿、ありがたい!」

「ガイゼリック様、そちらの務めはもう果たされたのですか?」

 インスミルの怪訝そうな問いに対し、ガイゼリックはより豪快に笑って見せた。

「もちろんだとも! あれではとても食い足りぬゆえ、寄り道したというわけだ」

 インスミルの千里眼もガイゼリックの話を裏付けた。

「何という事。是非この場に手を貸していただきたいです」

「言われんでも貸すぞ!」

 見事な古竜こりゅうを模した大型の斧槍おのやりを手にし、精巧な古竜の彫刻された重厚な鎧のガイゼリックは、その鎧が音を鳴らすほどに豪快に体を揺らして笑う。その曇りのない武人の豪快さに、オーランドも思わず笑顔になった。

「どれ、魔物どももまたこの世界の摂理せつりの犠牲者ではあるが、かと言ってこの残酷な理を正す力はわしには無い。迷いは戦いの後に置き、まずは……」

 ガイゼリックの戦船は素早く前に出て、その戦船の舳先に立つガイゼリックはあろうことか斧槍を片手で大きく後方に引いて構えた。

「力によって叩きのめすしか、あるまいのう!」

 白い帯電たいでんまとう見事な斧槍おのやりは一閃され、その鈍色の斬撃ざんげきは拡散しては古竜の咆哮ほうこうを伴って魔物の大群を薙ぎ払う。

──古竜『鋼雷こうらいのウルドニクス』の斧槍おのやり

「まだまだ、こんなものではないぞ!」

 ガイゼリックは斧槍を風車のように振り回し、白い雷を纏った鋼色の竜巻が魔物の大群を削り取るように薙ぎ払う。

「私も負けてはいられないな!」

 オーランドもまた、老戦士の武威に当てられたのか、競うように絶技を繰り出し始めた。やがて、戦いの趨勢すうせいはほぼ決し始めた。

──武王ガイゼリックとその妻、美しい人セシレは、今でもしばしばウロンダリアを旅しているとされる。古王国の一つ、シスラ共和国の武王廟では、現在でも毎年数例、彼らと出会ったとされる人とその体験を事実と認める行事があり、武王の根強い人気の一因にもなっている。

──アースタ・ライグ著『古王国の風土』より。

 しばし後、月の神都イシュクラダル。

 『船の女神の塔』の螺旋階段らせんかいだんを厳かに降りたミゼステは、神都イシュクラダルの地下から神々専用の隠された転移門てんいもんに至って姿を消した。

 ミゼステの転移先は薄くかすむ雲の中に空を縦断する塔のような柱の一室で、この美しくも機械仕掛けの塔から長くせり出した桟橋さんばしの先を見やると、ちょうどオーランドの乗っていた戦船『ウル・インテシア』が連結されたところだった。

 周囲を見やれば、同じような柱が様々な角度で上下に伸びており、雲のような霞の先には大森林や幾つかの都市があり、その視界の果ては巨大な球体の内側のように歪んでいる。

──レダの月の内側の世界、レダス。

 ウロンダリアの人々が眺める二つの月の大きなほう、レダ。その内側は空洞になっており、広大な内面の世界が広がっている。この世界の人々が空を見上げると、こちらと彼方を結ぶ多くの頑丈な柱をまず目にし、それらの柱の中心は程よく地上を照らす巨大な光球が輝いて暖かな光を放っていたが、この光球の内部はウロンダリアの神々の戦船の大きな港の一つでもあった。

 ミゼステは今そこに降り立ち、今は夫となった男を出迎えようとしていた。

 碧銀へきぎんの戦船、ウル・インテシアの横に光る術式が展開して開口部が展開する。

「ミゼステ、わざわざ出迎えに?」

 降りて来たオーランドは喜びよりも驚きが勝っていた。

「おかえりなさい、オーランド。祝福を与えた船たちの様子から、『巨神の裂け目』付近の星の海がいかなるものか、私にも伝わってきていましたから。それ以前に、たとえ戦いが容易であるとしても、それが戦いという凶事きょうじであることに変わりはありません。無事に帰る事を願い、また、帰ってきたら出迎えて再会を喜ぶ。私にはとても大切な事なのです。かつて闇に落ちて冷たい絶望に身を任せていた私には特に……」

 ミゼステと長い付き合いであり、また半神でもあるオーランドは、奥ゆかしいこの言葉が、『とても心配した。寂しい』という意味のものであるとすぐに理解できた。

「……ああ、すまない。とても心配をかけてしまったようだ。シグマス様に共に状況の報告に上がったら、私も少し休息する。塔で本でも読みながらとりとめのない話でもしようか」

 この言葉に、ミゼステが奥ゆかしくも光の射すような笑みを浮かべた。

「はい。ましてあなたは困難な戦いを終えたのです。十分な休息を取るべきだと思います」

 穏やかだが有無を言わせぬ何かを感じて、オーランドは曖昧あいまいな微笑を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。折しも、霞む雲の中に暗い大穴が開き、球形の力場りきばに優美な城塞都市を抱えた、巨大な星船が姿を現す。

「あれが今回の避難民の星船ですか? ずいぶん大きいですね!」

「『イルガ』という世界の角のある民なのだという。不始末で多くの民が邪悪な魔物と化してしまったそうだ。星々は『混沌カオス』に呑まれて変容し、もう取り返しがつかないらしい」

「そんな……」

「人の姿と心を保っていた人々は、どうにかして大切な地を切り取り、共に『永遠の地』ことウロンダリアを目指して旅を続けてきたのだそうだ」

「どうしても、かつての私たちの民と重ねてしまいますね。……黒炎纏こくえんまとうあのお方のお陰で、私たちの民は滅亡を免れましたが」

 ミゼステとオーランドは月の内側の大地レダスに目をやった。かつてウル・インテスに住んでいた三種族は現在、ウロンダリアとこのレダス、そして他の幾つかの世界に散っているが、いずれウル・インテスに戻る日もまた訪れるはずだった。

「オーランド、『船の女神の塔』に戻り、イシュクラダルの都を眺めつつ一休みしましょう? 私たちはいつか再び、ウル・インテスを大いに栄えさせる務めがあるのですから」

「……そうだな」

 二人は挨拶と報告を済ませると、イシュクラダルの『船の女神の塔』のミゼステの部屋へと帰る。

 遠い昔、ダークスレイヤーと関わったミゼステとオーランドは、長い時を経ても零落れいらくせず、むしろ再び故郷たる世界ウル・インテスが栄える日を待ちつつ、静かに力を蓄えていた。

 そして、どれほど長い年月が経っても、二人の信頼は強くはなっても弱まる事はなく、眼下の美しくも永遠に等しいイシュクラダルの都を見下ろす二人にもまた、どこかに永遠が漂っていた。

──永劫回帰獄ネザーメアとは、いかなる存在も決して逃れられない運命によって全ての存在を縛る暗黒の世界だと伝えられている。しかし、唯一現世に戻り来たりて復讐者と化したダークスレイヤーの存在は、この定説を覆すものでもある。

──賢者フェルネーリ著『ダークスレイヤー』より。

first draft:2022.05.27

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