第八話 黒狼サバルの森

第八話 黒狼サバルの森

 古ウロンダリア南西『サバルタの古き森』。

 全滅したモーダス共和国探索隊の炊事係だった男、ラジャックは深い夢の中にいた。

 夏は一面の緑だった森が、冬の近づいた今は葉が全て落ちて緩やかな起伏がどこまでも続いている。そんな寒気の強くなってきた夕方の森で、ラジャックは亡き父と焚火に向かっていた。

 折り畳み式の金網に乗せたウサギの肉と、スープを入れた小さな鍋を交互に見る父は細面だが、どこかに狩人の無駄のない精悍せいかんさが漂っており、若い頃は退屈な男に見えていた父に、今は歳を重ねたからこそわかる経験の重みがあった。

(親父、随分老けちまったな……)

 奇妙なことに、少年のころの夢のはずが父はだいぶ年老いて白髪が多くなっており、焚火に向けて細められている眼はもう老人のものだった。

「ラジャック」

 父親は目を合わせないまま名前を呼ぶ。

「お前は何かになろうとして家を飛び出したな。しかしな、人は何かになろうとして何者かになるのではない。狩人が森から獲物を与えられて初めて狩人になれるように、他の誰かがお前を何者かにするのだ。自分でなるのではない。それを忘れるな」

 ラジャックの父、ダノヴァンは言いながらスープを木の器に注いで手渡し、そこで初めてにっこりとほほ笑んだ。

「永らえろよ?」

「おやじ……」

 ラジャックの夢はそこで終わり、五感が戻った。

(……夢か?)

 後頭部や首筋にわずかに日の光が射す温かみを感じ、ラジャックは夜が明けた事に気づいた。しかし、周囲は何やら気配がしており、そっと辺りを伺おうと目を動かしたが、そんなラジャックに声をかけるものがいた。

──周囲を見ても良いぞ。永らえたる狩人の息子、罪深いクロムの民ではない者よ。

 恐る恐る顔を上げたラジャックを見下ろしていたのは、昨夜姿を現した大地の精霊セルセリカだった。しかし、今回は一体ではなく大木の間から他にも数体のセルセリカが現れ、ラジャックを見下ろしている。よく見るとそれぞれ髪や肌や顔つきが少しずつ異なって個性があった。

──何人か、クロムの民ではない若い男は生かしてある。

 見れば、それぞれのセルセリカの視線の先には、うつろな表情をして立っている若い兵士たちがいる。その全員が全ての甲冑や衣服を脱ぎ棄てて裸の状態だった。

(何を?)

 虚ろな目の兵士とセルセリカはしばらく見つめ合っていたが、やがてその一組のうち、髪の短いセルセリカが大きな蛇の口を開けると裸の若い兵士を呑み込んでしまった。

「く、食っちまった⁉」

 他のセルセリカたちも同様に次々と若い裸の兵士を呑み込んでいく。しかし、驚くラジャックを察したように、昨夜現れたセルセリカが笑った。

──食ったのではないぞ? むつむために我らの体内に入れたのだ。怪我を治し、祝福を与えて戻す。お前は自分の役目を果たすのだ。

 人ならざる存在たちの考えや行動を理解しようとしても分かるはずがない、と早々に割り切ったラジャックは、適当な背嚢はいのうに保存食や道具を詰めこむと、ウレドの天幕から報告書や印章、隊長の身分を証明できる短剣や小銃などの品物もまとめ、足早に野営地を後にした。

 心が既に麻痺していたのか、あるいは人外の存在たちからの役割を与えられたせいか、不思議と恐怖を感じる事はなかったが、若い裸の兵士たちを丸呑みにするセルセリカたちの行動には何か性的な意味を感じ、いつまでも留まるのも無粋に感じられていた。

(よくわかんねぇが、死ぬって事はねぇんだろう)

 昨日までとは森の様子が大きく変わっており、今は見た事のない植物や灌木かんぼくの多い開けた地形になっている。足の不自由なラジャックでもだいぶ歩きやすそうな気配があり、折れた槍の柄を杖がわりにしたラジャックは、野営地の多くの死体を振り返って独り言ちる。

「すまねぇ。なるべく早くあんたらを弔えるようにするから、待っててくださいや……」

 ラジャックは決意も固く『黒狼サバルの森』に向かって歩き始めた。

──森や大地の上位精霊とされる蛇身の精霊セルセリカは、人の時代より遥か昔の『岩と大樹の時代』の複数世界を貫く大樹の根より生まれたとされ、『分かたれたる根』とも呼ばれている。この大元となる存在は『木の蛇』と呼ばれる古き女神セルセリーとされている。

─大賢者アンサール著『喪神記そうしんき』より。

 ラジャックが死体だらけの野営地を後にしてからだいぶ時間が経ち、既に日は傾き始めていた。

 片足を引きずるように歩くラジャックはそれでも懸命に歩いていた。この黒いほどに濃い緑の森に定まった姿などなく、あまり背の高くない茂みで遠くまで開けた道のようになっている眼前の景色も、おそらく使命を持たされたがゆえに歩きやすい状態になっていると理解出来ていた。

 何か大いなる意志が森をこのような状態にし、自分を歩かせている。その不思議な使命感は今までの人生で一度も感じた事が無かったものだ。

 既に『黒狼サバルの森』らしい大きな丘は目の前に迫っており、山のように大きな狼が伏せたまま森になったような不思議な形の丘と、その周辺には折れた枯れ木が何本も塔のように、または何かの墓標ぼひょうのように立ち並んでいる。

「これが『黒狼サバルの森』か? でけぇ狼みてぇだ……」

 ラジャックのつぶやきに合わせるように、丘のあちこちから狼の遠吠えが上がり始め、それらは次第に遠ざかり、やがて緊張感の漂う静寂に至った。より近づくにつれて、最も大きい伏せた狼のような丘の他に、周囲にも同じようなやや規模の小さい丘や、寝そべる狼のような形の丘があり、やはり枯れた巨木や、たくさんの石組みの塔に簡素な祭祀場さいしじょうのような建物、集落のように点在する丸木組みの小屋なども見えてきた。

 背の高い古木や石組みの塔には何本ものつたがそれぞれを行き来しており、それらの蔦からは木の枝や様々な色の布、動物の頭骨などもぶら下がっている。このようなものの規模の小さいものは、多くは獣の民たちの縄張りを意味するものだと、ラジャックはかつて父が説明していたのを思い出した。今はそれがいくつもの丘を取り囲むように続いている。

 再び何頭もの狼たちの遠吠えが聞こえると、おそらく縄張りを意味しているであろう蔦と、そこにぶら下げられている様々なものが揺れ始めたが、ラジャックの周囲は対照的にとても静かで、そよとした風一つ草木を揺らさない。やがて、それら結界の内側から牛よりも大きな黒い狼の群れが数頭、ラジャックのそばに疾風のように駆け寄ると、黒いもやに包まれて人の姿を取った。

 肌の白い者、黒い者もいるが、全員が青黒い髪をしており、人の耳の他に、頭に大きな狼の耳がある。その全員が黒地に暗い青の刺繍ししゅうのされた祭服さいふくを着ていた。

 数名のうち、大柄な黒い肌の若い男と、しなやかな白い肌の女が一組、腰を抜かしそうなラジャックの前に歩み寄った。まず女が犬歯の発達した口を開く。

「永らえたる狩人の徳により、『語り部』として選ばれた男だな? 我らはこの偉大なる黒き狼サバルの聖地を預かる狼の祭司さいしにして、『母なる大狼おおおおかみ』ルロや、この聖地を祝福している狼、大戦士サバルの血に連なる黒き狼だ。この度は異変に対して、本来は我らの敵たるモーンの言葉を伝えると大地の蛇たちより聞いた。大戦士サバルは直接お前の話をお聞きになるだろう」

 ここで、大柄な黒い肌の男が歩み寄り、古い木の器をラジャックに渡すと、同じく相当に古い陶器の壺から茶色い液体を注いだ。

「飲め。サバルの魂は強すぎて、会っただけでお前の魂は身体から吹き飛ばされかねん。この酒は精霊の木ルイドの古い樹液と様々な薬草を混ぜた酒だ。お前の肉体と魂の結びつきを強くする」

 酒はそう嫌いではなかったラジャックは、この酒を一気に飲み干した。幾つかの薬草を思い出させる匂いに、ぴりりとしたかなり辛口の味。肉の身体の中にあった自分の魂が、身体と同じ形となって皮膚の内側にぴったりと満たされるような、不思議な感覚がある。

「おお、こいつは変わった酒で……」

「感想は分かるがサバルと話す時は気を付けろ。余計な事を言えば踏みつぶされるか食われるぞ。戦士たるサバルは特に無駄口を嫌うからな」

 狼人の女の祭司のたしなめにラジャックは深く頷いた。祭司たちは伏せた狼の形をした丘に向き直ると、全員が再び人から狼の姿となって吠える。

 突然、空気が明らかに変わり、ラジャックはまるで殴られた時のように足の力が抜けて崩れ落ちた。

──大戦士サバルが現れるぞ。

 周囲の狼たちの心の声がラジャックの胸中に伝わる。周囲は夕方にはまだ早かったが妙に薄暗くなり、古木や石組みの塔にめぐらされた蔦と、そこにぶら下げられた多くのものが激しく揺れ始めた。

「おお!」

 伏せた狼の形をした丘は木々が激しく揺れてぶれ、次第に影のような暗さに満ちて細部は見えなくなり、やがて影のように暗い、山のように巨大な黒い狼の姿が立ち上がった。その青い目だけで一般的な家よりも大きかった。

──黒い狼の神獣、大戦士サバル。

 立ち上がったサバルはしばらく、鼻を利かせるように空を眺めていたが、やがてその大きな顔を下げるとラジャックに向き直った。地響きのような声が轟く。

──よく来た。我が名は黒き狼の戦士サバル。一族を守る長き戦いの旅の末にこの永遠の地へと至り、おのれの宿命の終焉しゅうえんを悟った今は、妻や一族と共にこの大地に祝福を与え、我らが同胞と末裔、そしてわが地に連なる民たちを見守る者なり。

(こりゃあ、吹っ飛んじまう!)

 ラジャックは先ほどの酒がどれほど大事な意味を持っていたのか身をもって理解していた。サバルの一言一句が響くたびに、魂が肉体から剥がれてどこかに吹き飛びそうになるのが分かる。

(いけねぇ!)

 おのれの役割を思い出したラジャックは座り直すと、神妙な顔で昨夜の事の顛末を伝え、最後に狩りの女神モーンの使いの言葉と、『荒野の狩り手ワイルド・ハント』が放たれた事を伝えると、サバルは地面が揺れるほどの遠吠えをした。

──我らの母たる大狼、ルロの気配がとても弱い。なにか死のけがれに阻まれているような感じがしていたが、あのモーンが出てくるようでは大事になるのは間違いない。こうなると頼りになるのは……。

 黒狼サバルは言いよどみ、ラジャックに向き直った。

──永らえた狩人の息子にして、語り部に選ばれた者よ。これより『精霊の道』にお前を通す。我らにとても近しい『狼の魔女』ファリスと、ファリスが信頼する恐るべき戦士がいるはずだ。その二人にこれまでの事を伝え、あとはモーンの使いの言葉に倣うが良い。

 ラジャックは深く平伏したが、黒狼サバルはためらいなくその大きな頭を下げると、牙を器用にラジャックの服に引っ掛けて投げ飛ばした。初老の男は夕闇の迫る空に高く放り上げられる。

「何をなさるんで⁉」

 叫ぶラジャックの声は尾を引いて歪む。ばたばたと泳ぐように暴れるラジャックだが、その視界に薄緑に淡い、心安らぐ光が見えてきた。

(あれは?)

 思わず目を引き付けられたラジャックが見たのは、塔のような折れた巨木の幹の中で、光り輝く水をたたえたようにも見える淡い光だった。

──それこそが『精霊の道』だ。少し前まではなかった偉大な世界樹の都への道が開いている。頼んだぞ。

 ラジャックは巨木の幹の中の淡い光に落ちてゆき、そこで意識も視界も途切れた。

──狼の神獣のうち、黒い狼たちは勇猛だがしばしば狡猾こうかつさを持つとされており、その狡猾さゆえに良く生き延び、また大きな勢力を持つに至った。一方で、その狡猾さにより神としては位が低いとされ、他の神獣たちに疎まれ、狩りを司る神々に獲物とみなされることがある。

──薔薇の眠り人ロザリエ・リキア著『神獣の系譜』より。

 時間は現在に戻り、夜。『西のやぐら』、療養室りょうようしつ

 心身の不調が続いて私室からこの部屋に入院している形になっていたシェアは、薬湯やくとうを飲んで落ちていた深い眠りから目覚めた。魔導まどうの仕掛けで夏の夜空が透過する天井と、詳しい仕組みは不明なものの、岩塩塊を用いて魔力的に中性と静寂を保つ仕掛けがあるとされる部屋は心地よく、そっと身体を起こして周囲を見る。

(ああ、これはまた、チェルシーさんとルイン様が……)

 嗅覚の鋭敏なシェアは、部屋にわずかにチェルシーとルインの残り香が漂っている事に気づいた。妹弟子カレンとの戦いの後、ネイ・イズニースの忠告に従って、チェルシーは薬湯で眠りについたシェアの手をルインに握らせ、シェアの心の安定をはかる処置をしばしば行っている。今回もおそらくそれが行われたのは間違いが無かった。

 シェアはそっと自分の胸に手を当てた。残り香の他にも、この処置を行われた後はいつも胸の奥に自分のものではない温かさが感じられ、それがどこか悲観的な自分の心を心地よく否定している感覚がある。

(もう少し、しっかりしないと……!)

 灰青色の療養着を着ているシェアは、長い髪を束ねて左肩から垂らすと、気持ちを変えるように動き始めた。

 聖餐教会せいさんきょうかいの教徒で誰かに『献身けんしん』を誓った者は、その誰かの生が良いものになるように全力を尽くさねばならない。これは、『人一人の人生を変えるには、同じ重さの人一人の人生が必要』という慎重な考え方に由来している。これを良く理解し、しばしば他者に説く立場であるシェアは、それが全くできていない自分の諸々に無力感を感じていた。

(私、結局みんなのお世話になってばかりで……)

 シェアの視界はいつしか涙でぼやけ始めていたが、その哀しい静寂をノックの音が破った。慌てて居住まいを正したシェアは気丈な声で返事をする。

「ルイン様?」

 ドアをそっと開けて入ってきたのは、普段着姿でそでを無造作にまくったルインの姿だった。

「なぜここに?」

 ルインは壁際の真鍮しんちゅうの指針版をわずかにいじり、天井にはめ込まれた光水晶ひかりすいしょうが部屋を薄明るくした。

「女の病室に立ち入るのはあまり良くないが、なかなか外で偶然出会う事も無くてな。……少し心配だが声をかける機会が無くて、ちょっと顔を出してみたところだ」

「ああ、また心配をおかけして……」

 シェアは礼を言いつつ頭を下げようとしたが、それをルインが止めた。

「お礼は禁止だ。……水臭い。もっと気楽に、『私に優しくしろ!』くらい言ってもいいんだぞ?」

「えっ? いえ、流石にそれは……」

 驚いているシェアに対して、ルインは親しげな笑みを浮かべた。

「まあそんな事を言わない性格なのは分かっているが、少し一人で抱え過ぎか、または自分について悲観に過ぎるんじゃないかと思ってな。しかし、過ぎた悲観主義は自分勝手と変わらないんじゃないか?」

 このルインの言葉は、多くの慈善活動をしてきたシェアにはとても腑に落ちるものがあった。どれほど助言や助力をしても、自縄自縛じじょうじばくで自分を不幸な世界に置き続ける者はしばしばおり、それは確かに自分勝手に過ぎない結末を呼ぶことがある。

「……!」

 しかし、何よりシェアが嬉しかったのは、自分にそれを言ってくれる人が現れた事だった。新鮮な気づきに、シェアの眼は驚きで見開かれる。

「……どうした? 少し強く言い過ぎたかな?」

 ルインは決して強くはなかった自分の語気を省みている。

「いえ、そんな事ありません! 何といいますか、私がしばしば他の人たちに感じていた事を指摘されるなんて」

 しかし、ここで再びシェアの心に暗い影が差した。カレンに指摘された『自分が厳密には魔物である』という可能性。その迷いを、シェアの中の何かがルインにぶつけてしまった。

「……ルイン様、もし私が魔物でも、今と変わらずにそんな事を言ってくれますか?」

 ルインの表情は驚くほど変わりなかった。

(ルイン様?)

 あれほどに煩悶はんもんに満ちていた疑問をルインに投げかけてしまった自分の情動に、シェアはわずかな嫌悪と後悔を感じ始めていたが、ルインの返事はあっさりしたものだった。

「チェルシーもラヴナも、ティアーリアも、ラグの店のミッシュたちも、みんな強大な魔族の女だぞ? 強大なだけでなくとても魅力的だが。例えばシェアが魔族だったとしても全く変わりないどころか、整った容姿に納得するだけだな」

 シェアの中の何かが再び強く動いた。

「例えば、私の正体がとても恐ろしい魔物だったとしてもですか?」

 ルインは一瞬の間をおいて答えた。

「ティアーリアはその正体が恐ろしい鳥の魔物だと言っていたぞ? もちろんおれは全く気にしてないし、彼女の教養には敬意を持っているくらいだが。ああ、綺麗な立ち振る舞いにもな。だからシェアに対しても何も変わらないと思う」

 シェアは自分の悩みが軽くなるどころか、むしろ小さすぎて恥ずかしくなってきていた。上位魔族ニルティスの女性たちがしばしば口にする分け隔てない『好ましい男』という概念。ルインは見事にその資質を持っている。そんな男に、自分は『献身』を誓ったのだと今になってようやく理解し始めていた。

──古代に聖女フラセルが始めた『聖餐教会せいさんきょうかい』は、ウロンダリアの歴史に決して無視できない影響を及ぼしている。この教会の教導女たちの『献身けんしん』が、幾つかの国の勃興や存続に影響した事があるからだ。

──聖王国編纂『ウロンダリア神教・宗教要覧』より。

first draft:2022.12.17

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