第六話 異変と陰謀と・中編
それは『キルシェイドの眠り人』こと、ルインたちが『二つの世界樹の都』と共にウロンダリアに帰還した頃。
──南方新王国、モーダス共和国の水銀鉱山都市ゼイド近郊にある、とある施設。
鉱毒で荒れた赤茶けた原野のただ中に、その石組みの大きな建物はあった。大型の闘技場ほどの大きさの、ボタ(※鉱山採掘時に出る不要な土石の事)を混凝土で高く固めた壁を持つ長方形の施設。しばしば有毒の塵が飛ぶ夏の暑い風の中、この暗い灰色の砦のような建造物には無数のうめきと叫びが響いている。
この施設の壁上を守る兵士たちは皆、緩慢に腐敗の進む生き死人によって構成されていた。多くは犯罪者だったこの兵士たちは、悪臭漂う黒い腐汁や蛆をこぼしつつ、不気味な緩慢さで城壁の上を行き来している。
生き死人の兵士たちはしばしば、様々に腐敗した眼窩を建物の内側に向けた。無数の死体とその腐った汁で赤黒い水たまりが広がっており、既に地面は見えない。生身の人間なら一呼吸もできないほどのすさまじい死臭が煙のように立ちのぼっていたが、恐ろしい事にこの出口のない城壁の中にはまだ生きて苦悶の叫びや、或いは気が触れて獣のように叫ぶものなど、いずれにしても多すぎる人間が閉じ込められており、その恐ろしい絶望の声は止む事が無かった。
やがて、施設からそう遠くない原野と空に薄緑の禍々しい雷が走る。生き死人の兵士たちは何らかの力を感知して一斉にその方向を向いた。
薄緑の雷は半透明の、どこか猿の特徴を持った顔の巨人の姿となり、透けた巨人は原野に同じように透けた二本の旗を立てると、その間に暗い空間が開き、やがて『カイナザルの仮面』を被った灰色のローブの男たちが規則正しい行列で現れ始めた。古王国で悪名が高くなりつつある異端審問官とその兵士たちだった。
しかしその規模は大きく、次第に異端審問官ではない集団もその行列に続いた。朱色の布を目印として身に着けたモーダス共和国の兵士たちが多数と、丸太を利用した大きめの檻車が数台。その隙間からは弱々しくも多くの手が助けを求めて伸びて蠢いており、囚人たちはこの後に起きる恐ろしい運命を予測しているようだった。
檻車の後から更に異様な集団が続いた。濃いオレンジ色の祭服やローブの集団だが、その全員がフードを目深にかぶって顔を隠している。その集団の衣装の背には一様に、大きな一つ目を八つの目が囲む印章が刺繍されており、ウロンダリアの宗教や神教の事情に詳しい者なら、これが最近急速に勢いを増している『統一神教』のシンボル『九眼紋』であると気付いた事だろう。
行列はより物々しくなった。『染金』と呼ばれる技術によって緑がかった鋼で馬甲まで揃えられた統一神教の神官騎士たちが現れ、特徴的な四又の銃槍が夏の日差しに輝く。この騎士たちに続いてオレンジ色の布で覆われた四角い馬車が現れ、どうやらこの禍々しい神官騎士たちはこの馬車を警備しているようにも見えた。
さらに、真鍮色に輝く祭壇のような巨大な十数頭立ての馬車が続き、壇上の同じ色に輝く椅子には後頭部が異様に大きく、黒い顎髭と垂れた長い眉毛が特徴的な男が頬杖をついて座していた。
──統一神教の大神官、ダグエラン・バドラ。
ダグエランは不遜な笑みを浮かべると、両脇に座していた露出の多い女たちに声をかける。
「実に良い。下層たる美しき腐敗と被虐。これぞ盤石の権力と神々の真の力をより強めるものだ。平等とはその下の哀れな者どもの姿を地上に示してこそ保たれる。神々が無数の地獄を作ったようにな。そして我々こそはその教えを忠実に守るものだ。神々は偽善を厭われるからのう。世に真実を示さねばならぬ」
言いつつ手を伸ばすダグエラン。イシリアのきわどい踊り巫女の衣装に身を包み、身長より遥かに長い黒髪も美しく、磨かれた褐色の肌に金粉をまぶした女が、その手を取って深く礼拝する。
「仰る通りにございます。我ら踊り巫女はこの後の美醜入り混じる神事に存分に献身させていただく所存にございます。世に真実を示すために」
──統一神教の踊り巫女の主席、追放されし踊り手、クルシャダ姫。
クルシャダは後方の自分たちが通ってきた転移門を見やった。二本の旗の間の暗い空間は背後の荒れた平原の景色に戻り、猿めいた巨人もその姿を消す。
「ウジーギ様がお姿を消されましたが、モーダスの方々は『儀式』に同席されないのですか?」
ダグエランはクルシャダの吸いつくような頬に触れつつ皮肉めいた笑みを浮かべた。
「モーダスの最高権力者たる『五人の録者』たちはいずれ探索隊の者どもを連れて陸路で現れる手はずになっておる。我らはそれまでに、この祭祀場が我らの為す儀式の術式に沿うか入念に調べ、九大神への非礼が無いように確認せねばならぬ。おそらく問題はないであろうが……」
大神官は立ち上がり、前方の聖騎士たちに指示を出した。
「『聖女』の檻の遮断を解け!」
統一神教の神官騎士たちは大きな四角い馬車からオレンジ色の覆いを勢いよく引きはがした。現れたのは虹めいた光沢を帯びて輝く銀の檻で、中には頭から全身を白い布で覆い隠した裸足の女が座り込んでいる。
──統一神教の祭器たる謎の存在、『檻の中の聖女』。
しかし、覆いを取り除かれたことで何かを感じたのか、『聖女』は驚いたように反応して檻にぶつかり、哀し気に身もだえた。
「…………!」
何かを叫ぼうとしているが、鉄の口枷がはめられていて声が出せないらしく、その目も鉄の錠と目隠しで塞がれ、後ろ手にされた手と足首も鉄輪と鎖で拘束されていた。
「……無駄なことを」
ダグエランは不快そうに吐き捨てる。
「……!」
檻の中の女は声にならない叫びをあげた。背中から透けた白い翼が現れ、その身体が一瞬浮いたが、銀の檻に激突して落ち、声にならない嗚咽を上げる。籠に入れられた小鳥の暴れる哀しい様に似ていたが、この場の誰もが何の同情も示さずに見下していた。
大神官は満足げに笑う。
「ほう、『聖女』のこの苦悶。モーダスの連中はなかなかに良い完成度で儀式の場を整えていたと見える」
ダグエランの邪悪そうな笑みに対して、クルシャダ姫も満足そうに微笑む。ダグエランは立ち上がり、檻の中の『聖女』に声をかけた。
「外つ世界から流れ着いた『檻の中の聖女』よ。いずれ我らの儀式が全て完遂すれば、われら統一神教の真なる九大神が全てウロンダリアに現れる。その暁にはお前の不壊の檻を破壊し、お前は九大神の妻となれば良い。これは素晴らしく栄誉な事だぞ。世に真実を示せるのだからな!」
この言葉に『檻の中の聖女』は何かに祈るように両手を合わせて握り、見えない目で天を仰いだ。大粒の美しい涙が哀し気に落ち続けていたが、この場の邪悪と腐敗の空気はそれを遥かに凌いでいた。
二日後、魔の国南西の広大な『サバルタの黒き森』、南方新王国と隣接する『識外の地』。
広大な荒れ地に突如として緑がかった稲妻が縦横に走り、朱色の旗を掲げた三百人ほどの武装した男たちが出現した。その構成は騎士に戦士、魔術師に、テントや食料を運ぶ輜重隊と、陣地の設営をする工兵隊というもので、ウロンダリアでの大規模な探索隊によくある構成だった。
この集団は誰もがどこかに薄い朱色の布を身に着けており、南方新王国に詳しい者なら一目見ただけでこの集団がモーダス共和国に所属するものと識別できた。
この集団の代表らしい騎士は黒と銀に互い違いに色づけられた甲冑を着ており、髭を生やした男を象った面を上げる。
──モーダス共和国探索隊の隊長。貴族にして騎士、ウレド。
ウレドは腰の筒から複写された古い絵を取り出した。ろくに草の生えないなだらかな丘と、その峰に立つ崩れかかった塔が描かれているが、眼前の景色もまさにそれと同じ峰と、絵よりは崩れた古い塔が立っている。
「統一神教の神官の祈願も大したものだ。多数の人間の命を捧げなくてはならないとはいえ、我々をこんな場所まで転移させるとはな。古い絵画から見れば目的地は近い。あの塔は古代の狩人たちの塔だ。あの峰まで登れば、眼下には『サバルタの古き森』の南端に至り、どこまでも森が広がっているはずだ!」
禁じられた転移の大祈願でここに現れたモーダス共和国の探索隊の目的は、古王国側からは南方の最奥となる聖地『黒狼サバルの森』に北上して容易く至り、適当な理由でこの森を確保してしまう事だった。
この行程は古代から何らかの理由で禁じられているとされていたが、その伝説の根拠はモーダス共和国では誰も見つけられず、ある理由から探索を急いでいたこの国では、クロム人たちの崇める『統一神教』の神官たちの力で、禁忌に等しい捧げものをして探索隊の大転移を行い、ここに至っていた。
「『悩むより切り倒せ (※案ずるより産むがやすし、の意味)』とはこの事よ! 総員、私に続け。あの峰にのぼって塔を調査したのち、野営地を設営して聖域に至る。四日ほどで着くはずだ!」
未踏の地と価値ある任務に士気の高いモーダスの兵士たちは、固く荒れた大地の歩きやすさもあり、かなり足早に丘を登った。しかし、そこから崩れかかった塔までは異様な光景が広がり、急に砂塵を纏う風が強くなって視界も悪くなり始めた。
先行した兵士たちの様子と視界の悪さに、さっそく地の性格の悪さから来る不機嫌に囚われたウレドは、苛立たし気に声をかけつつ馬で丘を登る。
「さすが『識外の地』よな。しかしなんだお前たち、先ほどの勢いは……」
言いかけたウレドは兵士たちの視線の先の異様さに気づいた。最初それは、大きな牡鹿の頭をした化け物が立ったまま死して朽ちた物に見えていた。
「これは何だ?」
ウロンダリアでは有名な『苔鹿』と呼ばれる、小屋のように大きくなる鹿の立派な角を持った頭骨を頭にした、人の二倍ほどの背丈の乾いた泥人形が何体も立っていた。腹の部分に同じように苔鹿の肋骨部分が使われていたが、しかし不気味なのはその隙間に何人分もの人間の髑髏が泥で塗りこめられており、木の枝で造られた腕がその髑髏を腹に押し込もうとしているように見えていた。
「何だこりゃ、気色の悪い」
「頭のおかしい現地人か亜人どもののいかれた信仰の痕跡か?」
兵士たちは恐怖の根源をなるべく小さくしたいかのように悪態をつく。
「探索記録官!」
ウレドの呼びかけに、既に異変を察知していた魔術師にして学者、そして今回の探索の記録を行う男が既に近くまで足早に寄っていた。記録官の男は異様な粘土の像に顔をしかめたが、すぐに半透明の書物を取り出してページをめくる。
「あまり人間に友好的ではない森の精霊、ウドに似ていますな。あれは鹿などの頭骨と泥、骨や木の枝で実体化しますから。ただ……」
魔術師のローブを着た男はしゃがんで塗り固められた頭蓋骨を良く調べた。
「立ち去れば危害を加えないはずの森の番人、ウドが恐怖の対象になっているであろう意味と、この頭蓋骨の人種や年代がバラバラなのが気になります。とても古いものと、比較的新しいものでも下手すると数百年は間が開いてる。あり得ない……」
何か不気味なものを感じたウレドは前方の古い塔を差して指示した。
「まずあの塔を入念に調べる。探索はそれからだ。銃用意!」
兵士たちは何名か、やや古い先込め式の火打ち石銃を装填し、またある者は弓や弩を用意して崩れかかった塔に向かった。ウレドも馬から降り、先頭集団のやや後ろで慎重に進む。
「魔力や神力は感じられません」
探知の術式を行っていた魔術師は集中を解いて目を開けた。埃舞う風が塔の壁の蔦にぶつかる音も軽く空虚で何の気配もない。その空気を察したかのように三名の兵士が崩れかかった入口に突入した。
「異常……ありません! 内部はほぼ崩落し、階段も登れません。ですが……」
急いて中に入ったウレドは、普通の家の敷地ほどの広さの塔の奥に、うっすらと光を放つ神像が立っているのを目にした。貴重な白銀木で作られたと思われるその像は三頭の猟犬を連れた狩人の神の像らしく、フードを被った頭には大きな鹿の角が生え、フードの下の顔は狼の頭骨の仮面になっている。
「狩りの女神か? しかしこんな恐ろし気な神の名前を知らんぞ……」
神域や神像に不敬を働けば、ウロンダリアではしばしば大変なことになる事は、流石にウレドをはじめモーダス共和国の兵士たちも知っている。しかし、この神の名前が分からなかった。
「女性で、腿に大小二本の銃、そして背中には弓。しばしば強い祟りを為すという古き狩猟の女神、モーン様ではないですかな?」
後から塔内に入ってきた魔術師が見解を述べる。
「モーン? 聞いたことがない神だが……」
ウレドは出来れば何も気に掛けずにいたかったが、魔術師の答えはその希望とは真逆だった。
「私もそう詳しいわけではないですが、聖王国の発行する『神名録』には記載があったはずで、この新王国でも過去には何度か激しい祟りがあったと記憶しています」
「祟り? どのような?」
「確か、禁忌を犯した狩人が皆、『森に食われる』とかで……」
「それはどのような禁忌だと?」
「私もそこまでは。ただ、狩人は必ずモーン様の禁忌については口伝で伝えられていると聞いたことがあります。誰か狩人上がりの者が居ればいいんですが」
「……この探索隊で狩人の経験がある者はいるか? 特にモーンという狩りの神の伝承を知っている者ならなお良い。探せ!」
話をさっさと進めたいウレドは、魔術師の言葉が終わる前に後方の兵士たちに声をかけ、すぐさま兵士たちはまだ丘を登っている集団のほうに散っていった。
「いや、これは面倒かもしれませんね」
神像を眺めていた魔術師が独り言ちる。
「何が面倒だ?」
「仮説ですが、このように南側からは誰も『黒狼サバルの森』に行こうとしなかったのは、この辺りがモーン様に関わりの深い地域だったからかもしれません。しかも、モーン様の仮面が……これはたぶん狼の頭蓋骨です。モーン様は地域によって仮面が異なり、その地域で保護する動物の頭骨を被ると記載されていた気が」
これもまた、ウレドはあまり聞きたくない情報だった。狼の神域を確保するだけでも繊細な任務だったが、さらに別の神の禁忌に触れるとなると面倒な予感しかしなかった。
「まだ始まったばかりだぞ……」
どこか後ろめたいもののあるウレドは、古き狩猟の女神モーンとされる神像の方にあまり視線を向けず、塔の崩れた壁から見える北側の景色を見やった。
「おお! ……そうだ、これを前にして得体の知れない神について無闇に思いを巡らすべきでは無いのだ!」
眼下には黒く見えるほどに緑の濃い、大樹の広大な森が遥か彼方まで続いている。所々に、森を大きく突き抜けた塔のように高い蔓のような大木や、半端に育った世界樹の切り株が化石化した山、赤黒い斑点の毒々しい緑の巨大な花などが点在し、たまに木々の梢より高く大蛇が頭をもたげては消えたり、木を雑草のようにかき分けて進む巨人の頭なども見えている。
──古ウロンダリア最大の森林地帯、サバルタの黒き森。
この森を自在に移動できるのは緑の小人ヤイヴや古き民、そして妖精寄りの人であるフォリーくらいで人間には非常に厳しい環境だが、だからこそ得られるものも多いと古代から言い伝えられている。
しばらく意気高く森を眺めていたウレドに、戻ってきた兵士の一人が声をかけた。
「いました! 炊事係が一人、親が狩人だったそうで」
ほどなくして、右目が白く濁った、鼻の赤い初老の男がまた別の兵士に伴われてやってきた。使い古された革の前掛けからすぐにその男が炊事係だとウレドは気づいたが、炊事係の男は塔の中に入るや、最初にウレドではなく神像に両膝と手をついて深くこうべを垂れた。
「ああー何という事。モーン様のお守りする地じゃったかね……」
畏れ多そうに絞り出した声で祈りをささげた炊事係の男は、立ち上がってウレドに向き直った。
「隊長様、確かにこの神像はモーン様のものに間違いございやせん。狼の骨を被ってますから、この地では狼に傷を付けたら祟られるんでさ。それと、場違いに綺麗な泉や水場を見つけたら、なるべく早く離れた方がいいし、夜は近寄っちゃいけやせん。モーン様が水浴びをする場所なので、近づいたら目を潰されたり、動物に変えられて狩られるんですわ」
またしても意気に水を差された形になったウレドは不機嫌を隠さずに質問した。
「では塔の外にある、あのおかしな像は何だ?」
「あれは森の精霊ウドに似てますが、正確には『モーン様の使い』と言われてやす。禁忌を破った狩人がいると動き出し、ああやって咎人の頭を見せしめにしてるんですわ」
「気色の悪い話だな」
「モーン様は欲に目がくらんだ狩人や、入っちゃいけねぇ場所に入った者に厳しいんでさ。そうでないと獲物を根絶やしにする馬鹿がいるってんで」
炊事係の男の言う事の筋が通っているのはウレドも理解していた。しかし、それはこの探索と任務を止める理由には全くならなかった。ウレドは短く迷ったが、或いはまったく迷っていない自分に気づいてもいた。
first draft:2022.11.29
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