第六話 遠く懐かしきラーナ・ハーリ
西の櫓、ルインの部屋。
「昔話? おれの記憶に関係があると?」
ルインの問いに、腕輪の姉妹の姉、フリネは無言で微笑んで頷く。一方、隣にいる妹のレティスはフリネとルインの様子を交互に見ていた。
「そういえば姉さま、覇王の霊廟でネザーメアがどうとか……」
「永劫回帰獄の事ね。無限世界の神々の至高の地が創り出し、様々な不都合を永遠に封じ込めたとされる地獄。でも、ただ一人そこから出て反旗を翻し、暴れ続けた恐ろしい戦士がいると伝わっているの。その戦士はかつて、滅亡を免れなかった私たちの故郷ラーナ・ハーリに現れては、私たち姉妹を引き裂く予定だった二柱の神、軍神アストラ様と、黒き嵐の暴竜ヴァルドラ様を相手取り、どちらも倒してしまったとも」
フリネは大変な美声でとうとうと語った。
「それは姉さまの解釈ですよね? 確かに、あの二柱の方々は黒い戦士に倒され、武器にされたとの噂を聞きますが、それを為したのがあのダークスレイヤーだと裏付ける話は何も無かったと思います」
意外な事にレティスが異を唱える。
「それはそうね。でも、流れ着く多くの話からは、ダークスレイヤーがしばしば雷の双剣や、黒い嵐の魔剣を使うものがあるの。何よりあの二柱の方々を同時に相手取って戦える戦士なんて他にいるのかしら?」
「それはそうですね。……で」
レティスはいぶかしげな顔をルインに向けた。
「このお館さまがそうだと? ダークスレイヤーは獣の如く残酷で、神々の使徒の腕や首を引きちぎったり、素手で神の心臓を抜き取って喰らうとも聞きます。とてもそんな感じには見えませんけどね」
「人は見かけによらないものよ」
微笑んでルインに向き直るフリネ。しかし、ルインの中では浴場で思い出していた数々の情景の向こうに、フリネが言ったそのままの凄惨なものもあるような気がして一瞬考えた。その様子を察してか、フリネが微笑む。
「私たちの言葉は強すぎて、無かったこともあったように感じられる事があります。あまり気にしないでください、お館さま」
「どうだろうな? いずれにせよ、何か眠っている力があるなら思い出したいところだが」
「そうでしたね。前置きが長くなってしまいましたが、私たちにまつわる昔話をしても?」
「聞かせてもらおう」
「貴重なお時間をいただきますものね。では……」
──神々の黄金の邸宅たる地、ラーナ・ハーリは偉大なる物語と歌、黄金と美酒の地であった。勝利者を称えるために存在したこの地は、古い蛇身の神群ナシャファたちが『蝶の声』と呼ばれる美声で神々をもてなし、称えていたとされる。
──アーカシア著『褪せた黄金』より。
「遠い昔のことです。このウロンダリアの外、『外つ世界』と呼ばれる無限世界が始まって間もない頃、神々は世界の始まりを告げ、祝うべく、黄金と美酒と歌の満ちた神域を創りました。『偉大なる物語の地』ラーナ・ハーリです」
フリネの言葉とともに、部屋の天井を通して黄金の光が降り注ぎ、そこに山と積まれた財宝とどこまでも続く宴席が現れた。歌を唄い、給仕をする、腰から下が煌めく鱗の蛇である人外の艶めかしい女たちの様子もありありと浮かぶ。
「このラーナ・ハーリで神々をもてなしたのは、現在の多くの世界に存在している蛇身の種族ナシャンたちの始まり、『花咲く鱗』ナシャファたちでした。私たちもそうです。偉大なる蛇にして根である大地の母神セルセリーがこの『人なる神の時代』に契約と共に生み出し、遣わした美しき者たちでした」
神の眷族たる『花咲く鱗』ナシャファたちは冷たい蛇のような目をしながらも暖かな肌と愛情を持ち、かつての戦いで傷ついた神々にも甲斐甲斐しく世話をしては、踊り歌い、その声は先ほどのフリネの声のように、深く強く魂を震わせる力があった。たとえ心が絶望の泥濘に浸かっていたとしてもふわりと浮き上がるような優しい祝福に満ちた声。ラーナ・ハーリの宴は永遠に続くかのように思われた。
「これは……」
ルインの声に、部屋の様子が元に戻る。
「私たちの扱う『蝶の声』は、いわば魂魄のはざまを自在に舞飛ぶ心の声。つまり私の見てきた過去そのものを言葉に乗せる事も出来ます。ほとんど失われたであろう眷族ナシャファの美しさに思いを馳せていただけたら嬉しいです」
「分かった。話を止めてすまない」
フリネは話を続けた。この世の終わりまで続くかの黄金の宴。財宝なのか食べ物なのか見分けのつかない料理に、愛らしい者、気高く美しいものと、個性的な蛇身の女神ナシャファたち。彼女たちは口元と胸をうっすら透けた様々な色の布で艶めかしく隠しており、その声はどれも視界がかすむほどに魂を喜ばしく震わせた。
「しかしやがて神々は各世界に散り……」
昼から夕方に変わったように、黄金の宴席は光を失い始めた。
「いつしかラーナ・ハーリには、厳格に過ぎる雷の軍神アストラ様と、黒い嵐の暴竜ヴァルドラ様のみが残ったのです。あとは私たち姉妹や、私たちナシャファの最初の娘、『黄金の蛇』アウラ様といった私たちの眷族のみです」
黄金の宴席のひときわ高い壇上には玉座ではなく黄金の寝椅子があり、黒髪に黄金の蛇身の存在が魅力あふれる微笑みを浮かべている。灰色にけぶる瞳の先にはしかし、随分と寂しくなった宴席の両端に、黒い肌をした荒々しい巨人と、黄金の輝きを帯びた甲冑も眩しい、堂々たる軍神が寡黙に酒を飲み続けていた。
そんな重苦しい空気を白と黒の蛇身の二柱の女神が歌声で癒している。姿は今と違うものの、それがフリネとレティスであろう事にルインは気づいた。
「あの女もいたわ! 欲深いレヴァナ!」
レティスの声とともに、豊満かつ妖艶な白い蛇身の女が、宴席の両端の巨人と軍神の間を忙しく行き来しては機嫌を取っている様子が現れた。他の蛇身の女性たちは距離を取っているのに対して、この女は気難しそうな二柱の神々に時に触れたりもする様子に、どこか媚びたものをルインは感じ取っていた。
「しかし結局、この気難しい二柱の神は欲深いレヴァナを気に入らず、ラーナ・ハーリを去る際に私たち二人を求めたのです。悩んだアウラ様は私たちにそれぞれどちらかのお方の元に向かうよう説得しましたが、私たちもまた、引き裂かれるのを良しとしませんでした。やがて……」
空に浮かぶ広大な眩い黄金の都が現れた。深く青い空は次第に暗く濁り、激しい嵐と雷がこの黄金の都を崩し始める。さらに、二柱の神の咆哮もこの都の崩壊を加速させた。
「もともと合わなかった軍神アストラ様と黒い嵐の暴竜ヴァルドラ様は、それはもう激しい争いをはじめ、それはいつまでも続きました」
雲間を走る神々しい稲妻はしばしば軍神アストラの姿を取った。白い竜馬を駆り、四本の腕に剣、戟、盾、双刃剣を持つその姿は強大で、それらの武器が黒雲に幾筋もの雷霆を放つ。しかし、雲間に黒い鱗が並ぶ絶壁の様に巨大な何者かが垣間見えるのみで、その鱗の一つ一つが小山のように大きく、その体から延びた何枚もの鈍色の翼はまるで空を挽かんとする鋸のようだった。その刃が何度も軍神アストラに迫り、アストラもまたそれを武器でさばく。二柱の神の戦いは完全に拮抗しており、この戦に巻き込まれた黄金の都はなすすべもなく次第に形を失っていった。
「ラーナ・ハーリはこうして時と世界のはざまに墜落して失われたと伝えられていますが、その少し前に黒い戦士が現れ、この二柱の神々を同時に相手取り、恐ろしい力で討伐してしまったとされています。私たちが覚えているのは……」
──これはただの不運な出来事ではない。大いなる、許されざる陰謀を感じる。母なるセルセリーの元、私たちはこの『人なる神の時代』との契約によって生まれ落ちたというのに、どうやら今の神々の秩序は私たちの側ではないようだ。口惜しい! しかし、このまま終わるはずもない! 我こそは黄金の蛇なるぞ!
『黄金の蛇』アウラがこの期に及んでも不敵な笑顔で本音を漏らす。その気高い不敵さには何者かを全く許さないという強い決意と怒りが見えていた。
──あの乱暴な二柱の神にお前たちは渡さない。引き裂かせてなるものか。ああ、誰かあの神々を倒し、お前たちの良き主となり、我らが母なるセルセリーの顔を涙で曇らせる事の無いよう、この時代との契約よ、有効であってくれ!
空を揺るがす二柱の神の怒号飛び交う天を見上げ、黄金の蛇アウラは叫んだ。
「アウラ様はこの一連の出来事が全て欺瞞の可能性があると言いました。そして、私たち二人がどちらにも、誰にもわたらぬようにと願いを込め、私たちの魂を一対の精巧な蛇の腕輪に移したのです。それからしばらくは全てが闇の中でした」
その言葉と共にルインの視界も暗闇に染まった。
「えっ? お館さま?」
フリネの慌てる声が遠ざかる。ルインはしかし、これが何か必要な流れだと感じ取り、その心は落ち着いていた。
──無限世界の多くの世界に名を知られる大地の母神セルセリーは緑肌をした蛇身の女神とされ、その起源は『岩と大樹の時代』の分かたれぬ大樹の根であるとされている。この根は地脈と名を変えて受け継がれ、また彼女は大地に還った者たちの国『根の国』の主でもある。
──大賢者オルモッサ著『普く大神たち』より。
ルインは激しい雷雨の中、いずこかの空のただなかにあった。静寂から一転して、音と感覚が洪水のように押し寄せるが、それらの全てを押しのけて、強大な何者かの気配にルインの心は静止した水面の様に静かになる。
気配に対して振り向きざまに右拳を突き出し、黒い雷霆が放たれると、それは迫っていた黄金の雷霆とぶつかり合い、巨大な球電を生じたのち、さらに押し返して彼方で叫びが上がった。
──我が雷霆を押し返す黒い雷……貴様は何者だ?
しかし背後から暴風そのものの怒りに満ちた叫びが上がる。
──我らの戦いを汚す事は許さぬ。我が嵐の刃翼で細切れになるがよい。
黒雲から山の様に巨大な鈍色の刃の翼が何枚も現れ、それが嵐のように迫りくる。
ルインは不敵に微笑んで手のひらを広げると、そこには黒く燃える棘だらけの鉄球が現れた。鎖のついたそれを振り回しては放り、砲弾のようなそれが刃翼の一枚を打ち砕く。
──わが刃翼を?
激しい戦いの高揚がルインを満たし、ルインは嵐の中で叫び声を上げた。
「……ここは?」
暗い部屋でルインはがばりと起きた。青白い薄明かりが灯り、そばに座っていたラヴナの微笑みが浮かび上がる。
「目が覚めたのねルイン様。今は真夜中よ。腕輪の姉妹の話の途中で意識を失ってしまったから、ベッドに移したの。体調は……」
ラヴナのヘイゼルの目がうっすら光った。
「ん、どこも悪くないみたいね。膨大な記憶の呼び出しと整理の都合かな?」
「ああ、何か夢を見ていた。戦いの夢だ。確かあの戦いの後……」
ルインは空中に手を伸ばし、何かを掴むような形にすると、記憶に残る言葉をつぶやいた。
「魔剣ヴァルドラ……」
黒い帯電がルインの手を迸ったが、すぐにそれは収まった。
「え? それは何? 一瞬だけど嵐の精霊に似た力を感じたわ」
「いや……まだ何とも」
「ウロンダリアの嵐の精霊で最も強大なものはヴァズシーというの。でも、それとも性質が違うようだわ。何というか、黒っぽい」
「そう、そんな感じだ」
暗いなかでもうっすら光るラヴナの目がルインの目をのぞき込む。
「でも、今夜はもう休んだ方がいいみたいね。その前に、腕輪の二人がとても心配していたから声をかけてあげて。それと……もしも良くない夢なら一緒に夢の世界に行ってあげるけど、それをしたいなら添い寝するわ」
どこまで本気かわからない笑顔でそんな事を言うと、ラヴナは首をかしげてにっこりと笑った。
「おそらく大丈夫だ。ありがとう」
ルインは素早く起きると奥の部屋に向かい、カーテンをめくる。腕輪の姉妹、フリネとレティスの心配そうな顔が、特にレティスの心配そうな顔がルインの目に飛び込んだ。
「全く問題ない。むしろ何か思い出せそうで助かった」
二人が何か言いだすよりルインが先んじる。
「でも……」
「何も問題なかったと言っている」
ルインの笑顔に、フリネとレティスも安堵して笑った。
「では、私たちは安らかな眠りを誘う砂漠の国の物語でも語る事にします。明日から大変な旅でしょうから、ゆっくりお休みください」
ベッドに戻るルインの背中で、フリネとレティスはいずこかの砂漠の少年の物語を語り始めた。貧しい砂漠のオアシスに暮らす少年の物語。旅をして商いをしないと生きていけない家族は、入れ代わり立ち代わり家を出て長い旅をして帰ってくる。その再会の喜びと少年もまた成長して旅に出て、家族に迎えられる側になっていく、そのような物語だった。
「あら、良い物語ね」
戻って来たルインを出迎えるように、分厚い本から目を上げたラヴナが呟く。
「物語と言えば、ルイン様が連れてきたあの二人、多くの物語ではあれでめでたしで終わりになってもおかしくない至宝よね。大変な運を操り、財貨と力を呼ぶ。おまけに神の美声と、伝説のイシリアの美姫の容姿を持った二人。でも、それを何とも思ってない人は何を為すのかしらね? あたしも知らない物語みたいで楽しみだわ」
「どうだろうな? まあ明日からやれる事をやるのみだ」
ルインは言いながら、ベッドではなく長椅子に腰かけた。
「あら、ベッドに入らないの? あたしがいると気を使っちゃう感じ?」
ルインは再び手のひらを見つめる。
「何か思い出せそうだし、どうせ明日から旅だ。気を引き締めておきたい」
「良い考えだわ。あたしはここにいても?」
「構わない」
ラヴナはルインの返事に微笑むと、暗い部屋なのに再び読書に戻ってしまった。ルインもまたしばらく記憶をたどっていたが、やがて眠りに落ちてしまった。
──我らの地獄の季節は永遠に終わらぬ。灰纏う風、舞い飛ぶ怒りの火の粉、尽きる事のない怒り。いつかこの地獄の門は破られ、小賢しく穢れた現世のはらわたは引きずり出され、全て焼き尽くされるであろう。
──永劫回帰獄碑文。
同じころ、ウロンダリアの北の果て。天を支えるとされる凍てついた尖った山並みが延々と続く中に、空気の養分が薄すぎて人にはたどり着けないとされるその国はあった。
──氷の巨人の国、ハインランド。
いつもは永遠の吹雪に閉ざされているとされるこの山脈から、今夜は吹雪の霞が取れて青白く澄んだ夜となり、険峻に過ぎる槍の穂先を並べたような山並みがはっきりと見えている。そんな山々の中に、凍てついた古い神々の都が現れていた。
──凍てついた古き神の都、グラネクサル。
冷たく凍った緑がかった石畳の上に月の光が差し込み、長い黄金の髪と緋の衣装も美しい、堂々たる女が現れた。不敵な、あるいは挑発的な目をしたその女は周囲を見回し、高い階段の上の割られた玉座を見やる。
「ご挨拶ねぇ、いるのでしょう?」
緋のドレスの女に応えるように、砕かれた玉座の前に冷たい吹雪がきらきらと舞い、冷気を纏った淡い若草色のドレスを着た女が現れる。その上げ髪は金髪とも銀髪ともつかぬ冷たい輝きを帯び、しかしその眼は強い情念に燃える上位魔族の赤い目をしていた。
その眼に、緋の衣装の女は思わず吹き出す。
「諧謔(※笑い、冗談、ギャグの事)に過ぎるわ。何もあなたがそんな赤い目をする必要はないでしょうに。まあ、似合ってはいるけれども」
笑う緋の衣装の女に対して、冷たい女は小さなため息を漏らした。
「あの方がいつも不機嫌な理由、私は少し察せたかもしれないわ。全く……」
雪が降り積もる時の繊細な音に例えられるその声は不機嫌に始まり、しかし最後は微笑の気配を帯びていた。
「でも、嬉しそうだわ」
「とても悲しい事のはずなのに、そうね」
緋の衣装の女の言葉を、冷気を纏った女は否定せずに微笑んだ。その様子を見た緋の衣装の女は頭上の大きな月を見やる。レダの月と呼ばれるウロンダリアの大きなほうの月。その陰の部分にはまるで街でもあるかのような夜景がうっすらと見え、それは遥か古代から月と陰謀の女神イシュクラダの都、月のイシュクラダルと呼ばれる神々の都であると言い伝えられている。
「時の終わりが始まる。それでも、彼の目覚めは嬉しいと思ってしまう。悪女とされても仕方ないわね、私たち」
「悪女、そうね……」
神か魔か、全く異なりながらも何かを共有している二人の女の語らいが、ウロンダリアの最果ての地でひっそりと交わされていた。
──ウロンダリアで最も名高い月の女神はイシュクラダだとされており、そのきわめて美しい容姿も伝わってはいるが、彼女の神像は全て秘神とされて滅多に公開されず、多くの場合は月を模した円形の黄銅の鏡が神体として祀られている。
──聖王国神名録編纂部発行『神名録』より。
改稿版初稿2025.04.23 旧版初稿2020.02.17
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