第十一話 長靴をはいた猫
ルインたちが深夜に魔王の城に向かってから三日ほどが経過していた。
魔の領域では『不帰の地』に向かう眠り人を補佐すべく、充実した後援としてギャレドの氏族とつながりのあるヤイヴの志願兵や、ヴァスモー兵のギュルスの百人隊なども派遣されることに決まり、城外の街ローグンドの駐屯地には物資や武器、建材などが運び込まれ、合戦の前のように活気づいている。
ルインはチェルシーや他の何人かの眠り女と共にこの様子を検分していたが、この活気はルインにはあまり意味の分からない盛況ぶりだった。
「一つ気になるんだが」
「何ですー?」
「湖と山に森はあるようだが、ここまでの資源と人員を投入して割に合うものか?」
「ああ、それはですね、未踏の地には様々なものが流れ着くからですよ。洞窟、怪物、宝物、遺跡……。ウロンダリアは詳細な地図が出来上がるまでは本当に油断できませんからね。地図が出来てもいつ異界が流れ着くか分かりませんし」
「つまり、未踏地に拠点を作れば必ず得られるものがあると?」
「ほぼ確実です。まして有名な『不帰の地』の一つですから。様々な国から一番近いのに未踏地のままなんですよ、今回の地域は。古代には町もあったと言われていますけれどね」
「『全てが漂着する地』か……」
「そもそも、ご主人様も漂着しましたしね!」
「そうだったな。そうだ」
灰色の天然石を、混凝土を使わない高度な石組み技術で組んだ頑強な壁とアーチ型の建物の並ぶ駐屯地は、とても駐屯地とは思えない高度な建築技術と芸術がふんだんに用いられている。古代の武人の格言とともに、様々な武器の理念や正しい姿勢が壁に彫り込まれていた。
二人は話しつつ演習場脇の広い通路に出る。そこで仔牛ほどの大きさの灰色の猫たち四頭に曳かれた、鮮やかに赤く塗られた丸い車体の馬車ならぬ猫車がある事に気付いた。
「チェルシー、あれは?」
珍しいものを見たルインがチェルシーに問うている間に、猫車を曳いていた大柄な猫たちは直立してルインに敬礼をした。
「おっとなんだ? 猫が立った?」
ルインも慌てて敬礼を返す。それに気づいたチェルシーは嬉し気に説明した。
「来た来た! ご主人様、彼らは『高貴な猫族』カルツ族の車力たちです。あの赤い馬車は、カルツたちが運営する、ウロンダリアで第三位の財力を持つ商団カルツェリスの物ですねー」
「猫の財団カルツェリス? そんな彼らがなぜここに?」
「ふふふ、何でだと思います?」
チェルシーの言葉が終わらないうちに赤い馬車の扉が開き、礼服姿に単眼鏡を身に着けた、いかにも執事然とした猫が降りてきた。続いてその猫は後部座席のドアを上品な仕草で開くと、中から灰一色の貴族の服をした猫の剣士が出てきた。
「かたじけないチェルシー殿。このような形で話し合いの場を設けて下さるとは」
言いながら出てきたのは、革のブーツとベルト以外は、洋袴も上着もマントも全てを濃い灰色で統一した、子供くらいの背丈の猫の剣士だった。大きな灰色のつば広帽子に着いた、ふわふわの羽根飾りだけが白い。
ルインはこの猫の剣士が左腰に帯びている細身の剣と、使い込まれた右腰の三本の短剣の組み合わせを見て、決して侮れない技量の持ち主であることを見抜いていた。
「猫の剣士どの、初めまして。おれはルイン。巷では眠り人とか呼ばれている者だよ」
猫の剣士は降り立つと帽子を取り、胸にあてつつ深々と一礼した。毛並みの良い明るい灰色の毛が柔らかに風になびく。
「キルシェイドの眠り人殿、おしかけた形になって申し訳ない。私はこのウロンダリアで第三位の商業規模を持つとされる、『高貴なる猫族』の商人集団カルツェリスを束ねる一族の者にして剣士、『見極める灰色』ジノ・ヤトゥと申す者です。以降よろしくお見知りおきを」
声と落ち着き具合から、ジノは青年くらいであるとルインは目星をつけた。
「ご主人様、実はカルツェリスはシェアさんや聖餐教会そして眠り人にも沢山支援をしてくれているんですよ。一応、アステフェリオン家やオード・ブラッド家も支援はしてくれているんですけど、額が全然違いますねー」
「ああ、そういう話はあるだろうなと思っていたがなるほど。……で、今ここでその話が出るという事は何か事情が?」
「あくまで偶然を装う必要があるのですが、物資の検分をしながら話せばいいかなって」
「なるほど。話を聞こうか」
チェルシーの言う事に何の疑問も持たないルインは、いつものようにあっさり同意する。
「これは驚きました。我々にも驚かない上にこの快諾。噂に輪をかけて鷹揚な方なのですね」
ジノは目を細めて笑う。
「既に支援を頂いている上にチェルシーのお勧めなら。それに何か大事な話があるのだろうし」
「ええ。まあ……」
ジノは目的地があるらしく、また、チェルシーもそれを知っているようで、迷いなく駐屯地の貯蔵庫の並ぶ通路を進んでいく。
「ここですね」
チェルシーの声に従って入った貯蔵庫には、黒塗りの木箱がたくさん並んでおり、中には何か銀色の液体の入ったガラス瓶が六本ずつ収まっている。そこには台帳らしきもので検品をしているシェアの姿もあった。
「あ、ルイン様にチェルシー、そしてジノさん!」
「これはお疲れ様です、シェアさん」
ジノは丁寧に帽子を取って一礼した。
「シェア、ここにいたのか。ジノ殿とは面識が?」
「はい。ジノさんやカルツェリス商団にはとてもお世話になっていますから。水銀は良く扱いましたしね。」
「水銀?」
「我々のように人間たちが亜人種と呼ぶ多くの様々な者たち。皆、得意分野があるわけですが……」
言いながら、ジノは重々しくガラス瓶を取り出す。
「人間が他種族を頼りにしているものに、この水銀の採掘と精製があるのです。錬金術や神秘の研究に必須の、この水銀の」
「これは水銀か」
ため息をつきつつ、灰色の高貴な猫は続けた。
「水銀は我らカルツェリスを中心とした、人間の言葉で言うと亜人系商会が圧倒的な販路を持っています。ウロンダリアの魔術と錬金術の研究には欠かせない多くの希少な素材もですが。しかし近年、人間たちは傲慢になり、我々の仕事を圧迫して、水銀の採掘や精製の権利を少しずつ奪おうとしています。そこで、私たちは人間への流通を減らすという圧力のかけ方をしました」
シェアも続ける。
「その結果、退魔教会は古王国のアンダルヴィルで、十分な量の水銀を確保しないままに『月の落涙』を起してしまい、大変な災いを招いたのです。そして今、水銀の価格はとても高騰しています。安全に保管するのが難しいほどに。かつては孤児や捕虜を新王国で集めて水銀鉱山に送っていたのに私たち聖餐教会の活躍でそれが出来なくなってきましたしね」
水銀の瓶を見るルインの眼が少し険しくなった。
「なるほど見えてきた。全ては繋がっているのか。つまり……」
ジノは水銀の瓶をルインに手渡した。それは見た目に反してかなりの重量だった。
「眠り人ルインさん、我々カルツェリスは人間以外の種族にも平等に接する聖餐教会とシェアさんを支援しています。もし可能なら『不帰の地』での探索に我らも加えていただきたい。シェアさんの話によれば、今回の敵には月の魔物もいるとの事。月の魔物に水銀はとても大きな効果があるのです。ぜひ、役立てていただきたい。人間たちの何か底知れぬ悪事も暴きたいですしね」
意を決して話すジノに対して、ルインの答えは全くあっさりしたものだった。
「それは全く自由にしてもらって構わないが? むしろ、協力に感謝する!」
「なんと!」
猫の眼が大きくなる。続いて、ジノはシェアとチェルシーを見た。シェアは静かな微笑みを浮かべており、チェルシーは片目をつぶっている。
「鷹揚とは伺っておりましたが、なるほど、あなたは不思議な風格をお持ちだ。伝え聞く恐るべき武人にしてその風格。なら、我々の判断も決まりです」
言いつつ、ジノはベルトに付属していた革製の筒から、さらに小さな黒革製の筒を取り出した。
「ルインさん、これをあなたに預けます」
「これは?」
しかし、ルインにはその文字は一部しか読めなかった。人間の共通言語と上位魔族の言語は読める。
「これは? 水銀の……保管? 管理権?」
「その通り、水銀の保管・管理権です。それだけで大きな利益を生む、いわば利権です。人間たちはこの利権を狙っていますが、あなたに預けます。わがカルツェリスは今後、いずれ貴方が構える魔城の領域に水銀を保管し、そこから出荷することになるでしょう。古王国連合がそれを奪うには、あなたと事を構えなくてはならない、という事です」
ジノはこの後、覚悟の有無を確認しようと考えていたが、それより先にルインが快諾した。
「なるほど、面白い。仕事にもなるのはありがたいな。おれで良ければ受け負おう。返してほしければいつでも言ってくれ。何だったら君が預かっていてくれてもいい。場所を貸すだけでも構わないしな」
「いや、それはあまりに……」
呆気にとられているジノに対して、チェルシーはくすくすと笑っている。
「ね? 言ったでしょ? うちのご主人様は『美女と災いは不可分で、どっちも楽しむべき』と言って、魔王様を笑わせたんですよ」
「いやはや、流石は伝説の存在と言ったところでしょうか」
帽子を直しつつ苦笑するジノ。ルインはしかし、その表情に長い苦悩の跡を見た気がした。
「長い心労かな?」
「お見通しですか? 古王国連合と関係の深い人間の商人たちの干渉が多いのですよ」
「理解した。そして嬉しい話だ。後ろ盾のように動けばいいかな?」
「お願いできれば、有難く思います」
「了承した。任せてもらおうか」
厄介ごとを楽し気に請け負うルイン。
「いやはや……」
貴き猫族の剣士、『見極める灰色』ことジノは、全く猫らしい表情で目を丸くしていた。
「言った通りだったでしょう? ジノさん。あ、水銀の数は間違いありません」
検品を終えたシェアが柔らかに苦笑しつつ続けた。
「男の人が苦手で名の通った私が信頼している方ですから」
シェアの白いフードからこぼれる長い細めの三つ編みが揺れ、明り取り窓から差し込む光が、その健康な艶に柔らかく跳ね返される。
「本当にそのようですね。私たちもシェアさんの決断を心配していたものです。予想外に順調そうで何よりですが」
ジノはシェアの事をよく知っているようで、どこか気づかわしい空気が漂っている。対して、シェアは自然な笑顔でそれを溶かすように答えた。
「ええ、大丈夫ですよ、とても」
「全く驚きです」
「二人は付き合いが長いのか?」
「シェアさんの聖餐教会には、おそらく古王国連合系の商人が裏で糸を引いているならず者たちの干渉から、私たちの隊商を随分と守っていただいたのです。共に戦った事も何度かありましたね」
「私たちも寄進をたくさんいただいていますしね。ジノさんはとても腕の立つ剣士でもあるのです」
「それに異端審問官の小隊と大司教ガリウスを倒したシェアさんは、人間たちが亜人種と呼ぶ我々にとって英雄のようなものなのです」
「あっ、そんな……」
微笑んで語るジノだったが、シェアは恥ずかし気に目を伏せる。
「シェアは怒らせてはいけないな」
「ご主人様、シェアさんが『本当に』を繰り返したら急いで逃げて下さいね!」
バルドスタでの戦い以降、ウラヴ王とシェアの一戦は、眠り女たちの間では少し面白く語られる話になっていた。
「チェルシーさん⁉ ルイン様に怒ったりはしないですよ?」
少し慌てるシェアは、ルインにも向き直る。
「本当に、怒ったりしませんからね?」
「わかってるよ」
しかし、チェルシーはこの流れが楽しいらしい。
「あまり言うと様式を踏んでしまいますよー?」
「それは困ります!」
慌てるシェア。
「ん? 様式を踏むとはどういう意味なんだ?」
「ああ、ご主人様はまだ知らなかったですよね? 演劇とか魔導の映画とかで、よくある様式美的な流れがあるんですよ。有名なのは戦いの前に『おれ、この戦いが終わったら結婚するんだ』とか言うと、言った人が大抵死ぬみたいなのです」
「物語にしばしばある定型か」
「この場合は『あまり否定すると、かえってそのようになる』って感じですねー」
「怒られないように気をつけておくよ」
少しおどけたように言うルイン。
「怒らないですから!」
慌てるシェアの様子にジノは感心していた。
(これは驚きましたねぇ、本当に)
以前は張り詰めた警戒感と、伏し目がちの暗い目が印象的だったシェアの空気が、どこか柔らかなものに変わっている。しかし一方の眠り人は鷹揚ながらもどこかに磨き抜かれた武器を連想させる硬質な何かが漂っており、この鷹揚な空気を一変させるのは非常に危険だと思わせる気配が感じられていた。
(そもそも、女性多くしてこのような空気を持つ人物というのはなかなかいない)
周囲に女性の多い王族や貴族、豪商を多く知っていたジノだったが、この何か違う眠り人と共に『不帰の地』へと探索に出るのが楽しみになってきていた。
西の櫓、夜。
チェルシーはここ三日ほど、ドア越しになんだかんだと理由を付けては姿を見せないラヴナの部屋の前にいた。
「ラヴナちゃんてば、ご主人様が心配し始めてるよ? ラーヴーナーちゃんってば!」
中からラヴナの気配はするものの、返事はない。
「入るからね?」
チェルシーはドアノブをひねったが、鍵はかかっていなかった。ラヴナの部屋はとても広く、いつも埋もれるほどの本だらけだ。その事を知っているチェルシーは高窓から入るわずかな月光をもとに本の影の無い床を進む。と、全てが暗黒に包まれた。
「起きてたのね?」
「……うん。ねぇチェルシー、どうしよう?」
闇の中から声が返ってきたが、ラヴナの声は大人びた涙声で震えている。
「え? ちょっと何でそんな声なの? ……まさか?」
何が起きたかをほぼ察したチェルシーだったが、どうしてそれが起きたかの方に思考を巡らせていた。
「……出来ちゃったみたい」
震えるラヴナの声に、チェルシーは無言ではたきを呼び出すと、銀色の輝きとともに現れたそれは、薄桃色の淡い光をたたえた白銀の長剣と化した。
「待ってちょっと! いきなり夢幻剣呼び出さないで! あれは事故だったのよ!」
「我が剣ヴァリスにかけて、抜け駆けは許さないです! さてはご主人様の優しさに付け込んで、夢の世界であんな事やこんな事を……」
「そんな事してない! 本当に事故だから!」
「何があったかすぐ言う!」
「ほ、『本当の姿』の魅力に耐えられるか試してみたくなって、服越しに背中にくっついてみたの。ほら、あたしの本当の姿は色々と……立派だけど、たぶん『蠱惑の幸運』の力が働いちゃって、それをうっかり忘れてたのね? で、ボタンが飛んじゃってて、生身で触れちゃった上に、谷間から下履きまで、全部見せちゃった……。あたし、こういうの嫌なのに……」
ラヴナの声はさめざめと泣き始めてしまった。その様子にチェルシーはため息をついて剣をはたきに戻す。
「もう! 本当の姿の生身で触れたら火傷するって言ったよね?」
「わかってたけど、ボタン飛ぶの忘れちゃってたし、『蠱惑の幸運』は、あたしの力ではどうにもならないのよ! あたしの魅力に惑わされないでくれてとても嬉しかったのに……」
「まあとにかく、分かったから元気出して、そろそろ顔を出して。生まれた領域については私も一緒に考えるけど、別にそれはそれでいい事でしょ?」
「そうだけど、……それがね、戻れないの」
「……ええ?」
「おとといの朝、起きたら本当の姿になってて、力が溢れすぎてて戻れないの……。ルイン様の強力な理性の力が働いちゃってて、領域の変質がまだ終わってないの。……あたし、あたしどうしたらいい? この姿でみんなやルイン様の前に出たくない!」
ラヴナは完全に落ち着きを無くしていた。
「ああもう……ウロンダリア一の魅力を持つ女の魔族メティア……もとい、知性ある混沌の母神キュベレに触れただけで領域作っちゃうとか、なかなかに無自覚な女殺しですねー……ご主人様ってば」
「茶化してる場合じゃないでしょう! もうやだ……死にたい」
この言葉にチェルシーは慌てた。ラヴナは人間の血も受け継いでおり、時々人間的な弱さや繊細さを見せる事がある。
「待って待って! そういう方向に行かないで! 何とかするから落ち着いて!」
「どうするのよ……こんなの」
暗黒から聞こえてくるラヴナの声は深い絶望に沈んでいる。
「しょうがないなぁもう。何とかするからとにかく落ち着いて!」
素早く思考を巡らせたチェルシーは、幾つかの方法のうち一番良さそうなものを実行に移すことにした。もともとこの問題も、いずれは起きる想定の一つだった。
first draft:2020.11.10
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