第十七話 薄明

第十七話 薄明

 ルインがバルドスタのアーシェラ王女に呼ばれていずこかへと出かけた夜、魔の都の眠り人の本拠地『西のやぐら』の眠り女たちは、自然発生した深夜の飲み会で親睦を深めていたが、何人かの眠り女は少し落ち着きを欠き始めていた。

 特に、影人かげびとの皇女クロウディアは夕方から自腹で高級な酒を買い入れ、皆にふるまっている。しかし、それがとある心配事を隠すために無茶な呑み方をしているのは一目瞭然で、その様子が皆の酔いを今一歩止めている。

「クロウディアさん、なんかすごく飲むペース早くないですか?」

 クロウディアの酒の飲み方が異常に早いことに気付き、心配するチェルシー。

「だよなぁ、影人の皇女さんさぁ、すんげぇ酒が強いかと思ったけど、これ、無理して飲んでるだけだよな?」

 陽気なミュールが真顔で心配しだしている。

「えっ? 私ですか? 全然ルインの事は心配してないです! ベネリスさんがバルドスタのアーシェラ王女だったのは驚きでしたし、美しい人ですが、ルインはどうこうなるような人ではないって分かっていますから! ……そんな事よりみんなとお酒を呑むのはとても楽しいです! さあ、無礼講ぶれいこうで心を開きましょう! ……シェアさんもどうぞ! 聖餐教会せいさんきょうかいもお酒は大丈夫でしょう? ガシュタラの果実酒やオーンの黒蒸留酒くろじょうりゅうしゅもありますよ?」

 クロウディアは言いながら、隣の席のシェアのジョッキに黒き国オーンの高級な黒い蒸留酒を注いだ。既にだいぶ酔いが回り、ワインを取ろうとして上手に選べなかったようだが、誰もそれについて何も言わなかった。

「あっ、すいませんこんな高価なお酒を何度も」

 誰かが何かを指摘するたびに、このやり取りを何度繰り返したかは分からないが、嘘の付けない皇女の注いだ酒をシェアは何杯も顔色を変えずに飲み干している。

(何杯目だよあれ、大蛇みたいに呑んでるぞ!)

 酒豪の自分を凌ぐ教導女きょうどうじょに戦慄するミュール。

(ご主人様が心配で仕方ないのね。というか、思ったまま全部口に出しちゃってますけど……)

 どう突っ込めばいいのかもはや面倒になってきたチェルシー。

「とても美味しいお酒ばかり頂いて、クロウディアさんには何か恩返ししないといけませんね」

 わずかに紅潮した顔で空にしたジョッキを置くシェア。肝心の話題には全く触れないあたり、実は相当酔っているのかもしれない。むしろ酔っていなかったらおかしいと誰もが思っていた。

「気にしないでシェアさん、私の事は呼び捨てでいいですよ! 戦女神ヘルセス様の神託しんたくを一緒に聴いたとはいえ、美貌も地位もある強い国の王女とルインを二人きりにする説明をしたのはみんなに対してとても心苦しくて!」

「一番心配してるの、クロウディアでしょう?」

 ラヴナはみんなが気を使っていた事を率直に口にした。

「しっ、心配してないです! 心配なんて……酔い過ぎたのかしら? 視界がぼやけるわ」

 クロウディアは涙目になった。

「あっ……」

 率直に過ぎた自分の言葉と、素直に過ぎたクロウディアの心の差が想定外で、絶句するラヴナ。

「ちょっと、ラヴナちゃん!」

 チェルシーはラヴナに素早く『話題を変えて!』と仕草と目で伝える。その様子を見ていたアゼリアが助太刀した。

「だっ、大丈夫だよ、お兄さんは、ルインは理性がすごくしっかりしてるからね。まだそんなに親しいわけでもない人といきなりどうこうならないよ」

「そうよ! アゼリアが胸をくっつけたって何もしないし何も求めない、ルイン様ってそういう人よ!」

 ラヴナも加勢する。しかし……。

「ちょっと⁉」

 皆を見ていたアゼリアの視線がラヴナに移った。空気が明らかに変わる。

「あっ……」

 失言に気付いたラヴナ。

「ラヴナちゃんちょっと黙ってたほうがいいかも」

「えーと、うん、黙ってるわ」

 チェルシーは笑顔だが明らかに怒っていた。珍しく小さくなるラヴナ。

「ほう、ずいぶん積極的な接し方をしている方もいるようですね。しかしルイン殿は美を理解する方。例えば女性の胸の大きさがどうこう、という話ではもともとないのですよ」

 目の座っているセレッサが得意げに語りだした。

(もともと誰もそういう話してないと思う。同意見だけど)

 これ以上話がややこしくならなければ何でもいいと思い始めるチェルシー。

「面白い話だな。私がベネリス殿と冒険をしている間に、眠り人殿はピステとバルドスタの件ならず、何人かの眠り女の心にも変化をもたらしているのだな」

 闇の古き民オールンの好む、香辛料の入った辛いワインのグラスを置きつつ、ギゼが状況を分析している。しかし、この後の話が良くなかった。

「で、胸を押し付けたりといった事を何人がしているのだ? それは少しずるいというか失礼かとも思うのだが。聞けばかなり理性的な武人のようだし、私を見る眼にも好奇は全く感じられなかったからな」

 木製のジョッキが落ちる音が響く。

「あっ、ごめんなさい、少し酔ってしまったかもしれません」

 シェアがジョッキを落としたらしい。

(ん?)

 焦りの感情を感じ取るチェルシー。すかさずラヴナの方を見ると、ラヴナも夜の大気に溶けだしたシェアの焦りに気付いたようで、驚いた顔をしていた。

(これは……面白いことに!)

その一瞬の静寂を、再びクロウディアの声が破った。

「私、道を共にする皆さんは同士で、得難い仲間でお友達だと思っています。でも、物事によっては予断を許さなかったのね。でもやっぱり、ギゼさんの言う通り、あまり積極的な事をしてはいけないような気もするのよ……」

 今度はフォークが落ちる音がした。またシェアが落としたらしい。

「嫌だわ、私ったら。すっかり酔ってしまって。ごめんなさい」

「すげぇ呑んでたもんな。でも大したもんだよ、あんなに飲んでそれくらいなんてさ。今後も一緒に呑みたいもんだぜ!」

 何が起きているか全くわからないミュールは気安くシェアに声をかけている。

「あ、はい! 私で良かったら」

「決まりだな!」

 新たな飲み友達が見つかって嬉しいミュール。

「えーと、クロウディアさんが見てられないしお酒もご馳走になったので真面目な話をしますね」

 チェルシーには、何人かの眠り女が真剣に耳を傾け始めたのが分かる。

「ご主人様の夢の世界には、女の人もその裸も全く出てこないんです。もう全く! 欲求もなさそうです。でも、戦い方はすごいでしょ? だから、言いづらいけれど何かあって女の子の事はあまり考えたくないんじゃないかと思うの。でも、拒絶とかしたら私たちが悲しむから、笑って応えようとしてくれているのね。つまり、あまり好意をぐいぐい寄せる段階じゃないし、ベネリスさんと一緒でも何も起きないです。というか、ここの誰が裸で迫ったって無理です。しつこかったら距離置かれますよ? たぶんそんな状態です」

 宴席は静まり返った。

「わかるわ。うん、きっとそういう人。意気に感じて動いてくれてるけど、私たちに気に入られようとか、あるいは私たちが色香でどうこう、という人ではないわね」

 アゼリアの言う事は一番説得力があった。

「でしょうね、何かあると思います。つかず離れずの我ら古き民アールンの距離感が一番良さそうです」

 セレッサも同調する。そこに、ラヴナが立ち上がって話を続けた。

「あたし、べたべたくっついてるようですごく気を使ってるからね? 実際にはほとんど触れてないもん。あまり私たちメティアの手練手管は明かしたくないけど、良くない方向に物事が進まないように言っておくわね、ルイン様、きっと昔はとても大事な人がいたような気がするのよ。もしかしたら誰かと婚姻を結んでいた可能性だってあるわ。そういう落ち着きよ。でも、そんな人が知らない世界で記憶をなくしたまま、知らない女たちに囲まれて色々な事を期待されているのよ? そこは考えてあげないと」

「……と、知らない女たちの中で一番くっついてるラヴナちゃんが何か言ってますよ」

「はいそこ、茶化さない!」

「ごめん! でも、わざと気やすい女の子を演じていたり、他の女の子の助太刀をしたりする健気なラヴナちゃんの言う事はやっぱり違いますねぇ」

「ふふん! でもそこまで言わなくていいわ、チェルシー」

(そうだったんだね)

 アゼリアは、以前浴室にラヴナが居合わせていたのが、邪魔や監視の意図ではなく、自分を応援しつつ、ルインを見守ってもいたのだと気付いた。

「それよりも、あたしが気になるのは、何でクロウディアが急にそんなにルイン様の事を意識し始めているか、なのよねぇ。何かあったの?」

 ほぼ全員の視線がクロウディアに集中する。嘘の付けない皇女は戸惑っていたが、観念したように突っ伏し、耳まで真っ赤にして小声で語り始めた。

「……影にね、潜ってしまったの。拒絶なしで」

「どういう事?」

「私も知らなかったのよ。影人は敵の影に潜って奇襲したりもするから。でも、相手にもこちらにも拒絶の感情がほぼ無いと、素肌で触れるように、心が解け合うように、分かり合えてしまうみたい。不安は消えたのだけれど、何だかずっと妙な感じ。何かを知ってしまったような」

「それは、例えば裸でくっついているような?」

 ラヴナの問いかけに、クロウディアは顔を上げた。

「ええ。たぶんそんな感じなのだと思うわ。それに、心が流れ込んできたの。それからよ」

「すごく安心できたでしょ? クロウディアさん。私は『夢繋ぎ』でそんな感じになって、この姿に戻れたの」

「やっぱりそうなのね。直接誰かを理解出来たような、不思議な感覚よ。どうしてそこまで? って思うくらい、私たちには気を使っているみたい」

「うーん……そこまで分かっちゃったなら、私とラヴナちゃんが知ってる事を話すね。ご主人様はね、たぶん、とても大切な何かを失っているの。あの夢の中の寂しくてきれいな世界はきっとそう。そして、それは多分女の人だと思うの。私たちの事は、『誰かにとってかけがえのない人だから』って思って接してるの。自分のものにしようって考えは無いのよ、今のところ」

「ああ、やっぱりそうなんですね」

 意外な事に、シェアが声を上げた。

「わかるの? シェアさん」

 驚いたように聞くラヴナ。

「男の人が女を見る時の目、ルイン様は一度も見せた事がないですから」

「ああ、そういう事ね」

「とりあえず……」

 チェルシーはいつの間にかテーブルに突っ伏したまま酔いつぶれているクロウディアに気付いた。

「あんなに悲しそうだったクロウディアさんがここまで元気になった事に喜んどいて、ご主人様の負担は増さないように気をつけときましょうか」

 眠り女たちは頷くと、明日の『絵画聖堂かいがせいどう』の件もあり、その後は早めに散会にした。

──ウロンダリアには実に多くの酒がある。酒とは文化であり、豊かな人生を生きるためには避けて通れないものなのだ。

──ジュード・タイルス著『ウロンダリアの酒』序文より。

 深夜。バルドスタの王族の別荘セダフォル荘の一室で、豪華な寝椅子ねいすに座っていたルインは、静かな声で目を開けた。

「眠り人ルイン様、お休みの所申し訳ございません。アーシェラ様が約束通りお会いしたいとの事です」

 腕利きの給仕の一人、リスラの声だった。

「ああ、どうすればいい?」

「これから、アーシェラ様がいらっしゃいます。よろしいでしょうか?」

「わかった」

 ほどなくして、白いワンピース姿のアーシェラが現れた。

「しばらく人払いいたします」

「かしこまりました」

 鍵のかけられる音がし、足音が遠ざかる。この屋敷には腕利きの護り手や隠密おんみつもずいぶんいるようだが、それらの気配さえ今は遠く、ルインはアーシェラが本当に人払いをしたのだと気付いた。

「気配にお気づきですか? 流石ですね」

「まあ……いや、見女麗しい王女がこんな事をしていいのか?」

「だって、ルイン様は私に危害を加えないでしょう? すでに口さがない噂も、賞賛する噂も立っています。それとも……ふふ、『鉄血の玉座』を護るバルドスタのアーシェラ、または『暗い瞳のベネリス』を我がものとするなら別に構いませんよ?」

 アーシェラはいつもの雰囲気だったが、白いワンピース姿に白いリボンで髪を束ねたその姿は清楚で、あまり言っている事と釣り合っていなかった。どこかに等身大の雰囲気が出ていた。

「そういう話がしたくて来たんじゃないだろう? やっぱり、そんな姿が君の本当の姿なんだろうな」

「そうでしたわね。ええ。この姿でいつも泣いているのですよ。これからたくさん泣きます。素敵な殿方もいませんし寂しいので、気の毒ですがルイン様の胸をお借りする感覚で、少し話を聞いていただきたく……存じます」

「おい……」

 既にアーシェラの声は涙声に変わりつつあった。

「そんなに権力やお金が欲しいものでしょうか? 元老院やベティエル派の方々、皆家では良き祖父や父や夫の顔を見せていたでしょうに、出過ぎた事をしたせいで、既に二百余人を斬首いたしました。新王国にも家族を追放せねばならないでしょう。我が国は定期的に台頭してきた者たちに血の粛清しゅくせいを仕掛けます。何度こんな事を繰り返せばいいのか、私の手は既に血にまみれていますよ。彼らの、私たちを呪う声が耳から離れません」

「そんな物を拾い上げる必要はない。蹴りとばしてどぶに放り込んで良いものだ」

「ええっ? どぶとおっしゃいまして?」

「ゴミ箱でもいいぞ? 優しいのも大概にしといたらいい。そんなものまで拾ってたらろくな事にならない。……これはまた随分と可愛らしい鉄血の玉座の護り手だな。そんな事で泣いてたら、いずれ涙が枯れて干からびて美人が台無しになるぞ? まったく」

 ルインは気やすく呆れた空気を出した。驚くべきことに、アーシェラの胸の中から重苦しいもやが取り除かれたような気がした。

「そんなに気が重いなら明日以降の首は全ておれがねてもいいが? 麦でも刈るみたいに」

「あっ、そういう話ではありませんわ! 大丈夫です。本当に!」

「ああいう手合いはいくらでも湧いてくるからな。いや、もしかしたら地面から生えてきているのかもしれない。庭の手入れみたいにむしって刈って、さっさと燃やして良い庭にしたらいい。そんな所だ」

「ふふ、さすがに地面からは生えませんわ。何をおっしゃるの? 土筆つくしではないのですよ?ふふふ……」

 涙目で笑う王女。

「まあ、気にしなくていいさ。誰かがやらねばならないことを君がしているだけだ。それはとても尊い事だよ」

「ありがとうございます」

 しばしの沈黙が流れた。薄明の窓の外を眺めていたアーシェラが、再びルインに向き直る。

「……では、夜明け前の時間ですから、そろそろ涙の波も来ますので、ルイン様、私の左の手首を掴んでいただけますか?」

「……これでいいかな?」

「はい、私が苦しそうにしていたら、強く握って下さい。とても強く」

「わかった」

 アーシェラは飾りガラスの窓に向かって目を閉じて俯き、時に呼吸が乱れ、時にうめき、その眼に涙がにじんでいた。

「うう……!」

 ルインはアーシェラが呻くたびに強く手首を握った。女にしては良く鍛えられているが、それでも華奢きゃしゃな骨と柔らかな肉の腕で、全てを背負うべきものの腕ではなかった。その腕にかかる重荷を助けるように、苦悶の世界から引っ張り出すように、時に強い力を込めた。そんな時間がしばらく続いた。

「……ルイン様、もう大丈夫です」

 アーシェラはゆっくりと目を開けた。

「まるで、物狂ものぐるいの様だったでしょう? とても人に見せられる姿ではありません。でも、あまりにも辛く。しかし今夜、イェルナ様の絵画で体験した全ての恐ろしい記憶に、あなたが手を掴んでくれている事で心が繋ぎ止められ、やっと決別できそうです。ハイデの思い人、フェルネもこの悪夢から救い出してあげなくては」

 うっすらと日が昇り始め、細い矢のように光が差し込み始めた。白いドレス姿のアーシェラは悲し気な夕日色の目が、それでも嵐の後のように澄んでおり、まだ涙の残るそれは、ルインを見てわずかに微笑んでいる。

「今日、私は『絵画聖堂かいがせいどう』の邪悪な絵画を全て破壊し、焼きます。あと少し手伝っていただければ幸いです」

 朝日が昇り始め、後頭部で束ねられた髪も、こめかみの長い髪も、ゆったりと巻き気味の癖のあるアーシェラの髪が、深い金色にきらめいている。たくましさのある美しい姿だったが、ルインはその眼にまだ暗さが残っている事に予断を許さない何かを感じ取っていた。

 そして、千九百年続いたバルドスタの『絵画聖堂』の禁断の絵画が焼き払われる予定の朝が来た。

──推測に過ぎないが、バルドスタ最大の禁忌にして秘密とされる『絵画聖堂』の絵画は、全てイェルナ女王や側近、かつてのウリス人により苦悶を抱えた者たちの血肉で描かれているとされ、その絵は非常におぞましいとされている。

──ランドール・カイロ著『バルドスタの伝承』より。

first draft:2020.06.17

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