第十三話 戦女神ヘルセス
暗黒の空から落ちる冷たい雨が、涙のようにアーシェラの目じりに落ちた。それで、うっすらと目を開ける。
「死ね……ない……! あと……少し……!」
どうにか向きを変え、『ハルダーの座』からそう遠くないヘルセスの神殿を見る。徒歩なら通路と階段を超える程度の距離でしかない。アーシェラは力を振り絞って這い始めた。
「アーシェラ……様……!」
リスラは気を失っていたが、マーヤは気丈にも立ち上がった。右手の人差し指と中指が飛び、おびただしく血が流れていたが、エプロンで縛り、アーシェラに向かおうとする。
「いずれにせよ、もう助からん。だが、それでなおその王女を助けると言うなら、次は手加減しない」
言いながらハイデは左腕に大太刀『大安宅磐濤』を挟み、血をぬぐった。
「無意味な献身だ。二人とも死ぬがいい」
「アーシェラ様、今……お助けいたします」
ハイデはゆっくりと歩き始めたが、マーヤは構わず、血だまりを広げつつあるアーシェラに向かった。
「手向けだ。せめて痛みなく……!」
険しいハイデの眼が一瞬閉じ、開く。刹那、澄んだ水色に輝く目となり、また普通の眼に戻る。と同時に素早く飛び退った。数発の銃声とともに、まさにハイデが今進もうとしていた場所を銃弾が通り抜けていく。
「これは何の冗談だ? 座興にしてもあまり笑えないな、これは」
銃口から硝煙漂うリヴォルバーを構え、厳しい眼をしたルインと、同じ眼をした影人の皇女、クロウディアだった。
「これは⁉ ベネリスさんに何を?」
ハイデは面倒そうに息を吐いた。
「君らか。この国の悪しき習慣、その元凶を断ち切ろうとしたまでの事。分かったらお引き取り願おうか」
「クロウディア、これは結界を張っているようだが……」
しかし、ルインは全く意に介さずに周囲を確認していた。
「影人の力を使えば何とかなるわ」
「なら、彼女たちを頼む」
「わかったわ!」
ルインは言葉が終わる前にハイデに向かって矢のように突進した。黒い雷がルインに落ち、その手に再び魔剣ヴァルドラが握られる。
「!」
黒い稲妻のような突きをハイデはいなしたが、続く、黒い牙のような弧を描く獰猛な連撃に、別式の給仕やアーシェラにまでは手が回らない。
「邪魔を!」
予想外に鋭いルインの動きと剣技に、ハイデは苛立たし気に言葉を吐く。
クロウディアは結界を無視した影の力で白い力場の内部に入る。アーシェラと二人の別式の給仕たちは影の中に沈み込むように消えた。
「邪魔程度では見積もりが甘いぞ!」
「貴様!」
疾風怒涛の斬撃から大太刀の間合いの内側に入ったルインは、ここでハイデの顎を蹴りぬくべく回し蹴りを放ったが、ハイデもそれを察知して回し蹴りを放った。それぞれ上段を狙った蹴りがぶつかり、交差し、束の間動きが止まる。そして一瞬の静寂の後、二人は弾かれたように間合いを取った。
(ルイン、全く遅れを取っていない!)
クロウディアは一瞬気を取られたが、まずベネリスこと、アーシェラ王女に声をかける。
「ベネリスさん、アーシェラ王女? とにかくしっかりして! 使い魔を放ったから、誰かがここに来るわ!」
「ああ……クロウディア、さん。駄目よ、時間がない。あそこの、ヘルセス様の神殿に、私……を!」
「何とかなるのね? 死んでは駄目よ?」
「それしか、ないわ……」
「わかったわ! しっかり!」
クロウディアはアーシェラ王女の肩を担ぐと、二人で影の中に沈み込んだ。
『ハルダーの座』では、ルインとハイデが、距離を取って対峙している。
「なぜこんな事をする? 一応強い武人のつもりなんだろう? 女を傷つけ腹を刺すなど、お前の武も業物も泣くぞ?」
ルインの問いに対して、束の間の沈黙。雨と雷鳴が激しさを増してきていた。
「この国は正すべき悪習に満ちているのだ。所詮このような結果になるのに、武人気取りの愚かな女を育て、不必要な試練とやらで心をひどく苛む結果さえいとわない。それでいて、いざとなれば吸血鬼や、君のような得体の知れない男に身体を使ってでも取り入る。あの女はこの国の愚かさと悪しき習慣の象徴だ。誇りも何もない!」
ルインの眼に、一瞬静かな闘志のきらめきがよぎった。
「その程度にしか彼女を理解していないのか。……いや、彼女とは話しかしていないがな、それでも、お前の言っている事は無理解に過ぎると分かる」
「聞いた風な口を……では金か?」
「それは遠すぎる邪推だ。……あえて言うなら、彼女の心は悲しみと涙に満ちていた。おれは夢の向こうでそれを知った。彼女の事を多くは知らないが、気高く、しかし王の道を進むには気弱で、それでも大切なものの為に涙を流しつつ狂気さえ支えにして進んでいるのはわかる。それを放ってはおけないさ」
「ほう、大した騎士道だ。もっともらしい事を!」
しかしハイデは嘲るように笑う。ルインの話を全く聞いていなかった。
「ああ、そういう反応か。ならいい。こんな趣向が夜会の催しだと言うのなら……」
ルインは魔剣ヴァルドラを右の肩に担ぎ、左手のリヴォルバーをハイデに向けた。
「返礼には、こいつが一番だろう?」
ハイデもまた真顔になり、納刀した『大安宅磐濤』に再び手を掛けた。決して相いれない二人を象徴するかのように、対峙する二人の間に、亀裂のようにひときわ激しい稲妻が走る。
「この状況といい、一つだけ計算違いがあった。あの女の連れてきた『眠り人』が、そこそこに腕が立ち、そして……」
『大安宅磐濤』の鯉口を切る音が鳴る。
「これほどに不遜な男だとはなッ!」
ルインのリヴォルバーが連続で火を噴き、六発の銃弾がハイデに迫る。しかし、ハイデは武神ハルダーの能力により、時間の減速された空間に在り、さらに神力による攻撃の予測を行っていた。『大安宅磐濤』による高速の居合いと返す刀が銃弾を切り、さらに続く切り上げ、斬り降ろしには、神力によって形作られた幻体の刃による刀身の延長が含まれていたが、そこにルインの黒い稲妻のような突きが挟み込まれてきた。
「何だと!」
二人は一瞬ですれ違う。ハイデの頬に、一筋の赤い刃傷が現れていた。
「馬鹿な! ハルダーの『攻撃予測』に、『時間減速』と『幻体の刃』を超えて来るだと⁉」
ルインは振り向きつつ、放り投げた銃弾を流れるような動作で再装填し、再びリヴォルバーを構える。
「どうした? 強い男は迂闊に驚くべきではないぞ……と言いたいところだが、少し気分が悪い。仮にも腕の立つ武人なら女を斬ったり刺したりするな。武が陰るぞ?」
「そんな思慮など必要ないというのが、この国の女たちの愚かなしきたりなのだ」
「そうか。だがいずれにせよ思い上がりも甚だしいな。まずおれを超えたら話を聞こう」
「その愚弄、後悔する事になるぞ! ……我が体術は流水の如く、我が剣は鋼の軍船の如く!」
ハイデは深い呼吸と共に流れるように、しかし獰猛さを秘めた体捌きで低く構えた。
「全力で来い! 少し遊んでやる!」
「ほざくな!」
再びルインが撃った銃弾が弾かれ、そこからは激しい斬り合いになった。
ヘルセスの神殿の青銅張りの大きな扉を開けたクロウディアは、脂汗を流して呼吸も不安定なアーシェラに肩を貸して進んでいた。
「しっかりして! ここまで来て死んでしまっては駄目よ! ルインならきっと大丈夫だから!」
「ええ。わかって……いますわ。私を、祭壇の……上に……横たえて……」
クロウディアは影人の力でアーシェラを抱きかかえると、素早く進んで祭壇の上に横たえた。アーシェラは両手を組み、眼を閉じて祈りを捧げる。
「大鷲を従える、我がバルドスタの美しき大鷲……戦女神、偉大なるヘルセスよ。今……ここに、試練を超えて……あなたの使徒となるべ……く……」
ここで、アーシェラは最後のため息のような呼吸の音を最後に、静かに首が横に傾いた。クロウディアははっとしてその胸の上下を見、次に口元に手を当てた。
「そんな! 嘘でしょう? 死んでは駄目よ! ここまで来たでしょう! 目を開けなさい! あなたはたどり着いたのよ!」
クロウディアは涙を浮かべて呼びかけたが、あの暗い瞳は開かなかった。
「そんな……! そんなの……」
どこか自分と似た境遇のアーシェラの事は、クロウディアにとって他人事ではなかった。
「えっ?」
アーシェラの腹のあたりに光の点がある、と気付いた時には、その光は広がり、アーシェラが横になっている祭壇全体が白くまばゆい光に包まれた。その光は屋根を透過して降り注いでいる。
──我が使徒は間に合いました。死を超えて戻り来なさい、アーシェラ。
クロウディアの心に直接、美しくも勇ましい声が響く。
「これは!」
まばゆい光が溢れて流れ、波をかぶるように視界が別のものに切り替わる。そこは荘厳な白い石造の神殿であり、壁には無数のありとあらゆる武器が架けてある。さらに、赤い宝石のような清浄な炎がいたるところに燃えていた。その炎は集まり、竜巻のようにねじれて、一人の女の姿を取る。それに合わせるように、アーシェラはゆっくりと目を開け、立ち上がった。
(これが、バルドスタの戦女神、ヘルセス! なんと美しいの!)
その立ち姿にクロウディアは言葉を失う。その肩には青い炎を纏う大鷲がとまっていた。
「ここは、私は? ……あなたは、ヘルセス様?」
アーシェラは苦痛の消えた体を不思議に思いつつも、その美しく威厳ある存在に問う。勇ましくも優しい、聞いているだけでも勇気の溢れる声が返ってきた。
「いかにもです。私は古き約定により、バルドスタの子らを守護するもの。『炎と鋼鉄の戦女神』『美しき大鷲』『バルドの民を守護する者』ヘルセス。……アーシェラ、よくぞ呪わしい試練にさえ耐え、我が使徒となる資格を得てここまで来ましたね。これほどに喜ばしい事は無いわ。これであなたの涙の日々はもうじき終わるのよ」
微笑むヘルセスは背の高いすらりとした女性で、その表情には勇ましさと深い愛があった。澄んだ藍色の眼と、長く眩しい黄金のような髪をしており、顔の左右の輝くような髪は縦に巻かれている。その姿は戦装束であり、黒い金属の胴鎧と、深紅の短めのスカートに、おそらく黒い金属で編まれた目の細かいタイツと、踵の高い赤い金属の靴を履き、両肩のわきには内張が黒い深紅の半マントが浮かんでいる。
その黒い優美な籠手をはめた両手は、同じく黒い金属の赤い炎を纏う剣を杖に、全てを睥睨するかのように立てて添えられていた。
「あの、六本の腕と聞き及んでおりましたが……」
「それはイェルナが扱っていた六種類の武器にちなむ比喩よ。私は武器と名のつく物は全て扱えるわ。ただ、銃と大砲が無いのよ。なので、全てが終わったら奉納してくれれば嬉しいわ」
「はい。それは必ずや!」
「あなたはこれから、地上での私の力の代行者たる使徒になります。使徒は不死であり、あなたが使徒である間は、元の肉体はこの神域に安置されます。ハルダーの使徒に負わされた傷は少しずつ癒えますが、時には生身の肉体も必要になるでしょう。いずれ、その肉体を治せる時が来ますから、変事を終え、しかるべき者を玉座に就けたなら、以降、あなたは『眠り女』として生きなさい。それにより受ける恩恵の一部を、私への供物とすれば良いでしょう」
ヘルセスの言葉の意味が良く分からなかったアーシェラは、詳しく聞き直した。
「申し訳ございません。ヘルセス様、わたくしには神の深遠なる言葉の理解が一部難しく、仰っている意味が良く分からないのです、生身の身体が必要になる時と、恩恵とは何でしょうか?」
「あなたも見目麗しいバルドスタの女です。殿方と素敵な夜を過ごすこともあるでしょう? その時に使徒のままというのは私も気が引けると同時に、あなたが得た喜びは私への供物にもなりうる、という事です」
ヘルセスは片目をつぶって微笑んだ。
「……理解いたしました!」
この後の人生にそのような時間が訪れる可能性がある、と教えられた事が、長いアーシェラの苦悩を大きく和らげ、涙があふれだした。そして、ヘルセスに言わなくてはならないことを思い出し、アーシェラは意を決して口を開く。
「しかしヘルセス様、私は、使徒になる資格を失うかもしれません。私は絵画聖堂と一連のしきたりを無くす考えなのです」
ヘルセスは一瞬の沈黙の後に、重々しく口を開いた。
「それは何も間違ってはいません」
「えっ?」
「絵画聖堂の凄惨なる記憶の追体験も、あなたたち王族にかけられた呪いも、その真の元凶はイェルナ女王だからです」
「イェルナ様が⁉」
「どういう事なの?」
「遠い昔、なぜウラヴ王とウリス人たちがここバルドスタで暴虐と凌辱の限りを尽くしたか……それは、この地に下層地獄界の門が存在していたからです。外つ世界での戦争に劣勢だったウラヴ王は、禁術を駆使した末にこのウロンダリアにたどり着き、この地の地獄の門を開け、下層地獄界から強力な忌まわしい力を呼び出し、おのれの世界での戦争に勝つつもりでした。が、私はイェルナに加護を与え、二人の『眠り人』召喚士サリエナと名工フォーマスの力により、『要石』にて下層地獄の門を閉ざしたのです。ただ……魔族の巧妙な罠がありました」
「巧妙な、罠ですか?」
「ウラヴ王は、略奪したイェルナがいつか自分たちを殺す可能性を考えていました。あの男は、自分の妻にしたイェルナが自分を殺した場合、その魂が下層地獄の穢れし大樹の炎の魔王、ザンディールへの供物となる呪いを、婚姻の儀式に巧妙に組んでいたのです」
「卑劣な!」
「なんて外道なの!」
「復讐を果たし、死したイェルナの魂は、現在は穢れし大樹の魔王ザンディールに囚われています。しかし、婚姻の儀式を破り、悪魔と契った形になる者を救うのは、私には困難な事なのです」
「そんな! それでは、私たちは永遠に呪われるのですか?」
「いえ、方法があります。いかなる冥府魔道や地獄の底に落ちた者でも、その者に救われたいと願う心があれば救える方がいます」
「そんな方が? ……誰なのですか?」
ヘルセスはここで、なぜか楽し気に微笑んだ。
「あなたたちが『眠り女』として仕えているあの殿方ですよ」
「えっ? ルインにそんな力が?」
「影人の皇女、あなたは彼が火の粉を纏う姿を見ませんでしたか?」
「見ました。あれがその力なのですか?」
「あの力が何かを詳しく語る事は、私でさえ許されておりません。しかし、あの方にはそれができる、とだけ。そしてアーシェラ、絵画聖堂とイェルナの事を成したいなら、今のままではいけません。心が暗すぎるのです。必ず、一晩だけでいいので、あの方とセダフォルの別荘で一夜を過ごしなさい」
「は……ええっ?」
絶句するアーシェラ。
「あの、それは……どうなんでしょうか?」
クロウディアはうっかり異を唱えてしまった。
「えっ?」
アーシェラが思わずクロウディアに目を向ける。しかし、二人の様子を見て女神ヘルセスは楽しげに微笑んだ。
「早速良い『供物』ね。そんなに簡単な方ではないのは二人とも分かっているでしょうに。それに、褥を共にしろという意味ではありませんよ? アーシェラ、あなたは辛かったことを全て話して存分に泣きなさい。そうすれば、あなたの心は悪魔どもに誘引されず、イェルナに呼び掛けることができるはずです。血族であるあなたの心と、あの方の力が必要なためです」
「でもそれは、結果として褥を共にしてしまう事もあり得る様な……」
「…………」
思った事をそのまま口にするクロウディアをアーシェラは少し困った顔で見つめたが、クロウディアは気づいていない。そんな二人を見て女神ヘルセスはおかしそうに目を細めた。
「そうはなりませんよ。あなたたちからしたら厄介なことかもしれませんが、本当は分かっているでしょう? あの方は『砂糖菓子のように甘い』としばしば言われる方なのです。誰かが泣くような事は決してしませんからね。誰も選ばず孤高である方なのです」
微笑むヘルセス。
「それは……」
クロウディアはその意味に気付いて黙ってしまった。そんなクロウディアを見やるアーシェラは困惑から笑顔に変わる。
「クロウディアさん、いつの間にか、あなたがそこまでルイン様を慕っていたのは本当に驚きですが、私もそんな軽い女ではありませんわ。ただ……ずっと一人で泣いていましたから、それを誰かに見せても良いと言われるのは、とてもありがたいのです……」
慕っている、という言葉が、クロウディアを少し冷静にした。
「慕って、いる? ……違うわ! そういう意味では無くて! ごめんなさい、ちょっとどうかしていたわ。やだわ、私ったら……。あの、決してルインを慕っているとか……そういうのではないのよ?」
アーシェラはここまで嘘が下手な人を見た事が無かった。
「そうですか……あの、私もあの方は憎からず思っていますが、まだ出会ったばかりですから、邪な気持ちなど持ちようがありませんわ」
「そうよね。そうだわ。私ったらおかしな心配をしてしまって……」
「ふふふ……」
ヘルセスの美しい笑い声に気付き、二人は再び女神に向き直る。
「先ほどからヘルセス様は、ルイン様をご存知なのですか?」
アーシェラの問いに、ヘルセスは意味ありげな深い眼をした。
「……そうですね。あなたたち眠り女には少しだけ、話しておくのもいいでしょう」
遠い何かを懐かしむような眼をした戦女神ヘルセスは、慎重に言葉を選んでいる様子で、二人に話し始めた。
first draft:2020.05.27
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