第十五話 蜘蛛姫の提案
不帰の地ヴァンセン、大魔城エデンガルの外見の古城、その城壁。
ルインと談笑していた夜魔鳥リーニクスの姫ティアーリアは、ひとしきり笑った後で腰の小物入れから薄桃色のハンカチを取り出し、ふわりと広げた。それは豪華な敷物となり、その上に重厚な紫水晶のテーブルと椅子が現れた。豪華な席の側には薄紫に透けた有翼の人工精霊の給仕までもが控えている。
「お座りくださいなルイン様。私がここに来た今夜の用件なんですけれどね、一つはエデンガル城に私のお部屋を頂きたい事と、もう一つは……」
ティアーリアは夜空に目を凝らす。
「何か空に?」
「ええ。チェルシーの使い魔デニスとホッパーが向かっているはずなのですが、絶対に遅れるので私にも立ち会って欲しいとチェルシーから連絡があったのですよ。古き蜘蛛の都ナト・ナトの女王セルドネー様が、エデンガル城復活のお祝いと挨拶を兼ねて娘のシルドネー姫にお祝いの目録と提案を持たせて向かわせたとかで」
チェルシーの使い魔である殺人ウサギのデニスと、空飛ぶアヒルのホッパーは大抵時間に間に合わない事が多く、ルインも四方の夜空に目を凝らしたが何も飛んでいる様子は見当たらなかった。
「……これは駄目そうだな。で、上位魔族の姫がこちらに向かっていると? その姫は眠り女をしたりは?」
「駄目そうですよね? まあ、お茶の準備でもしつつお話ししますか」
ティアーリアはため息をつくと透けた人工精霊に何か小声で指示し、人工精霊の給仕は一礼してハンカチを振ると、そのたびに菓子の乗った皿や青い飲み物の注がれたグラスなどが現れた。
「シルドネーも眠り女をした事がありますからルイン様は思い出すかもしれませんね。彼女の正体は巨大な蜘蛛ですが、下層地獄の蜘蛛と女の混ざった化け物みたいな存在ではないですよ。とても古くて由緒ある蜘蛛なので、この二本の世界樹やこの大魔城とも少し関りのある話が出てくるかもしれませんが、チェルシーは万が一の可能性も考えてシルドネーの天敵に該当する私が立ち会う事にしたのですよ」
「万が一?」
「ルイン様ならまず大丈夫だと思いますが、彼女たちは気に入った男性の血や肉を食したくなる性質がありますからね。とても愛情深いですが代償も大きいのですよ。その危険を考慮すると、私の正体たる鳥は蜘蛛に強いので呼ばれました。……呼ばれなくても来ますけどね。ふふふ!」
ティアーリアの話が終わりきらないうちに淡く輝く糸が城の壁に張り付き、その糸に引っ張られるように素早い人影が現れ、軽やかに宙返りをして降り立った。
霧のようなふんわりした白い髪と対照的な、溶岩のように燃える赤い眼。ゆったりして透けた黒い生地のドレスを着ているが、白い肌が妙に目立つためにその下の黒い肌着が透けており、ルインはさっと目をそらした。
「こんばんは。初めまして……久しぶりと言えばよいのかな? 鳥の姫ティアーリアと眠り人ルイン様。私は尊く古き蜘蛛の一族ハマーグの姫シルドネー。人は私の細やかな髪を見て『夜霧のシルドネー』としばしば呼ぶわ。……あのう、ルイン様は何で目を逸らしているの?」
──古き女王たる蜘蛛の一族、ハマーグの蜘蛛の姫、『夜霧の』シルドネー。
「いきなりそんな姿で下着まで透けて見えている。普通は視線も外すだろう?」
シルドネーの赤く燃える目の美しい眉が困ったように下がる。
「見てよいのですよ? 女だらけの環境にいても心が揺らがないという評判だから、今夜はお気に入りの服で来たのに……しっかり私を見て褒めて下さいよ。遠慮なんて要りませんから」
「ルイン様、以前も言いましたが、私たち魔族の女にある程度しっかりした男の方の視線はむしろ好ましいものです。遠慮しないで見て褒めてあげたらいいですよ。ふふふ!」
口元を隠して笑うティアーリアにルインは苦笑いし、そっとシルドネーに向き直った。その肌は闇夜の雪のように暗く白く、それでいて妖しく艶めかしい。手足はしなやかに長いがティアーリアより線が太く、魔族の姫の多くの例に漏れないかなりの豊満さと魅力が漂っていた。しかし、ルインはそれだけではない圧倒的な存在の量の気配と、その身を包む黒い肌着や透けたドレスの人外の精巧さに目が留まった。
「ああ、やっぱり良いですね。見られていると濁りの無い温かみを感じるもの。何より私に恐怖を微塵も感じていないし、それでいて身体ばかりも見ていないのがまたいいわ」
笑うシルドネーの歯は鋸のようにギザギザで鋭く光っているが、その小さな鋭い歯には可愛らしさもわずかに漂っており、ルインはふと笑った。
「人の価値感では収まりきらない美女が多すぎやしないかといつも思っているが、とはいえ皆個性的で極めて眼福なのもまた事実だな。まず来訪と再会に感謝したい。ありがとう」
「こちらこそです。もう一つの姿も見せておきますので私の手を取って下さい」
握手のように伸ばしたシルドネーの白い手を握ったルインは、その背後に城のように大きな白い蜘蛛の姿をうっすらと見た。大きな二対、小さな二対と、額には一つのそれぞれ燃える赤い眼が見下ろしているが、その炎のような揺らぎの中に敵意はなかった。
「大きいな……」
「まあ、私はとても若いのでこれでも女王の蜘蛛たるハマーグではまだ子蜘蛛なのですよ。それよりも大きさと言えば……」
大きな蜘蛛の幻影は消え、シルドネーは黒いマントを出現させつつ優雅な動作でくるりと回って見せた。
「このように神の似姿たる人の女の姿をしている時の、胸やお尻の大きさでも好ましく思っていて下さればと思いますよ」
豊満と妖艶に過ぎる姿とは裏腹に奥深く品の良い笑顔を見せると、シルドネーはマントで身体を隠し気味にして席に着いた。ルインとティアーリアも席に着く。
「最初に説明しておきますがルイン様、今夜はシルドネーの嗜好に合わせてお菓子が虫を素材にしたものとごく一般的なものがあるので、よく見て食べて下さいね。一応人の口にも合いやすい虫のお菓子だと、大カミキリムシの幼虫の砂糖揚げや、蓮蜂の幼虫を飴に閉じた物などが初心者向けです」
「虫か。……例えば蟋蟀などは食材になるかな?」
「蟋蟀? そんなものは人が進んで食べるものではありませんよ。おかしなことを言いますね」
「……言ってみただけだ」
「ティアーリア、あなたは相変わらずよく分かっているわね! 頂いても?」
ルインとティアーリアの妙なやり取りをよそに、シルドネーはこの席の趣向にかなり感動して目を輝かせていた。
「どうぞ」
「いただくわね。……んっ、美味しい! 良い木についているものを厳選したわね?」
こんがりと焼き上がった幼虫を口に運んだシルドネーは至福の表情を浮かべている。
「それはガシュタラの古い甘蕉(※バナナ)の木にしか付かない珍しい種類よ。美味しいに決まっているわ」
ティアーリアも躊躇なく口に運んでいる。ルインも意を決して揚げられた幼虫を口に運んだ。
「これは……!」
幼虫の表面はカリカリとした揚げたパンのように香ばしく、噛むと中には植物性の香りに満ちたとろりとした身が入っており、尾を引く絶妙な甘さがあった。
「驚いた。クリーム入りの焼き菓子みたいだが濃さが全く違う。これは旨いな」
「でしょう? 虫にも美味しいものはあるのですよ。良かった。こんな会談では同じものを食して分かり合うのが一番ですからね。同じ場所で同じものを共有し合う。これは性欲にも当てはまりますが、今夜はつまり前哨戦のようなものですね。分かち合うのは大切な事ですよ」
ルインはティアーリアの言葉にむせた。
「それはどういう……」
「さあシルドネー、お話があったのでしょう?」
ティアーリアはルインの反応をほぼ流してシルドネーに話を促す。しかし、蜘蛛の姫は珍しい虫の菓子に夢中でティアーリアの話を聞かずに黙々と食べていた。
「シルドネー、突っつくわよ?」
シルドネーははっとして手を止め、ティアーリアとルインに向き直る。
「あっ、ごめんね? 美味しくて夢中になってしまったわ。私は少し欲望に弱い面があるから大目に見てね?」
「いいけど、話を済ましてしまいましょう?」
「そうね。えーと……話すべき事柄は色々あるのだけれど、まずルイン様、魔城の主になった事をお祝いいたしますね。懐かしい大魔城に戻って来れて嬉しいです。スラングロード王はわが父ですからね」
「何だって?」
「私たち蜘蛛の一族の性質もあり、私は王位などの継承権は最初から放棄していますが、寡婦だった我が母セルドネーを好色だった父はずいぶんと気にかけて可愛がり、結果生まれたのが私です。私はそんな母の大変な魅力と父の知恵を受け継いでいるのですよ」
「ラヴナもそうですが、何人かそのような血筋の姫は居ますよ。でも、私たち古き魔族は強い男系の家と血筋を尊重して永らえてきましたからね。……とはいえ私たちの歴史や慣習は何冊もの本になるほどのもの。まずは本題を幾つか話してしまうのが良いと思いますよ」
脱線しがちな話をティアーリアがまとめる。
「そうだったわね」
シルドネーは姿勢を正してルインに向き直った。
「大魔城エデンガルの主にして眠り人のルイン様、まずは偉大にして由緒あるエデンガル城の主となられたことをお祝いいたします。そしてこのお城が現世に出現した今、スラングロード王の落胤であり眠り女でもある私に一室を頂きたい事と、我ら『女王たる蜘蛛の一族』ハマーグは明確にあなたのお味方となる事を約束いたします。私たちは上位黒曜石など様々な木や岩、金属を糸にする技術と、それを美しく編み上げる能力を持ちますので、それをあなた様に献上することも約束いたしましょう」
「もちろん構わないが……むしろこちらがそこまでしてもらうのは過剰ではないのか?」
困惑気味のルインに対してシルドネーは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。いえ、全く過剰ではありませんよ。私も『夢繋ぎ』の時点でとても大きな恩恵を受けていますからね。チェルシー姫と同じようなものだと思っていただければ」
「自分の預かり知らない範囲での事だから何とも。ただ、増長せずに良い関係でいるように心がけたいと思っているよ」
「あなたの事は私なりによく分かっていますから大丈夫ですよ。それでも嬉しい言葉ではありますが。……で、今夜は他に二つの提案があります。一つは、エデンガル城の正門上に蜘蛛の図柄の『ヴァトムの刻印』というものがあります。これは我が祖父、溶岩蜘蛛の王ヴァトムがエデンガル城の警護を申し出た約定の証なのですが、一室頂くと同時に私がその役を交代して務めさせていただきたいと思います。広大なエデンガル城に我が領域を重ねて糸を張り、速やかに侵入者を感知して排除する仕組みです。また、私を伴えば気難しいヴァトム爺も簡単に城の内部へ通してくれますからね」
「そういえば『守護者の蜘蛛ヴァトム』の事を忘れていたわ。確かにそうね」
「そんな守護者が? 君がいないとどうなる?」
「祖父は岩のように頑固で人の姿をした者を見下していますが、私たちほども強くないのでルイン様と戦って心身ともに傷つくと思います。それは可哀想なのでこの提案をした次第です。女性が多くなるであろう今後を考えると、警護や感知を私が対応したほうが良いかとも思いますしね」
「分かった。魔の国の技師たちは今夜も内部の区画の入れ替えをしているそうだが、明日には魔城に入れるそうだし、そうさせてもらおう」
即答に等しいルインの答えにシルドネーは微笑んで話を続ける。
「良いご判断だと思います。もう一つのお話ですがルイン様、いずれ先々で兵力が必要になると思いますが、ルイン様はどうお考えですか? あなたの武力は恐るべきもののはずですが、ある程度この地に兵力を保持していないと、増長した者たちが侮って無用の災いを持ち込んでくると思いますが」
この問いにルインは腕を組んで考え込み、しばらくしてシルドネーに目を向けた。
「確かに一理あるが、費用も掛かるしおれはこのウロンダリアについて詳しくなく、どのような基準で信用のおける兵士を集めるべきかもわからない。チェルシーや皆に相談してもいいが、あまり物々しくなるのもまた本意ではないんだ。何より……おれはおそらく『夢繋ぎ』によって君らを信用できるが、基本的にあまり多くの人々と関わりたい方ではなかったように思う。人の心は移ろいやすいからな」
ティアーリアとシルドネーはそれぞれ微笑んで虫の菓子を幾つか口に運んだ。
「仰りたい事、分かりますよ。ですのでまず裏切る事のない、かつ質の高い兵士を集めるすべを提案したいと思いました。『蜘蛛人兵』を集めれば万事解決すると思います」
「ああ、確かに良い方法ね」
シルドネーの話にティアーリアは微笑して頷いた。
「蜘蛛人兵?」
「はい。我が蜘蛛の都ナト・ナトには多くの女の蜘蛛がいますが、夫は少なく困ったものです。一方、戦乱多い新王国では勇猛なのに手足などを欠損して戦場に立てなくなった戦士たちも数多く、そのような者たちのうち戦意横溢にして人外の美女を求めるような者を選んで契約を交わし、失われた部位を蜘蛛の力で与えてあなたの優れた兵とするのはいかがでしょうか? 我ら蜘蛛は女の方が強く、女を裏切る事は許されませんし、私たちはその心変わりも容易に知れるのです」
ルインの目がわずかに細められた。
「つまり、例えば手足を失ってなお戦意溢れる者たちと情愛の通う契約をして、手足を与えると?」
「ええ。例えばこんな感じの手を与えます」
シルドネーは立ち上がって左手を伸ばした。その手は黒い靄に包まれると黒光りする昆虫のような腕になった。
「この腕は固いために矢や刃物など容易には通らず、手から糸を出して壁や木を登ったり、物を引き寄せる事ができ……」
手のひらから糸が飛び出し、それはルインが見張りで座っていた椅子に張り付くと、シルドネーは糸を引き寄せて椅子を手に取った。それを再び戻してみせる。
「他に、手から刃を出したり棘を飛ばすことなどもできます。再び戦いたいのにそれが出来ず絶望に沈んでいた者たちは、新たな手足と戦う力を得て信頼に足る兵士たちになるでしょう。各国が不要としていた人材を抱えるわけですから軋轢も生じ難いですしね。何より人助けにもなります」
シルドネーは左腕を白く美しい普通の腕に戻して座り、ルインに微笑みかけた。少し難しい顔をしていたルインもやがて微笑する。
「よろしく頼もう。不屈の心を持つ戦士たちは嫌いじゃない。良い戦士たちと出会えたら嬉しい」
「私たち蜘蛛の女はとても目が高いのでご安心を。……特に私は誰よりも目が高いので、こうしてあなたの元に来ていますよ。あら?」
シルドネーの視線の先、夜空には小さな光を伴った鳥が飛んでおり、どこか上手ではない飛び方のその鳥はルインたちのすぐ近くに着地した。桃色のスカーフを首に巻いたアヒルと、その背からぴょんと飛び降りる黒い片目のウサギは、遅れてきたチェルシーの使い魔だった。
──チェルシーの使い魔、殺人ウサギのデニスと飛べるアヒルのホッパー。
デニスは腰の葉巻入れから人参を取り出して口にはさむと、眩しい物でも見るように二人の魔族の姫を眺めた。
「こうして兎の姿になって生きるのも悪くないもんだぜぇ。人として生きていたらまずこんな近くでは見られない、何がとは言わないが豊かな丸い山々を持つ二人の美女を見られて眼福この上ない。そんな美女を見ながら食う人参は格別だな!」
「遅れて来たくせによく言うわね!」
ティアーリアは呆れ気味に笑っていたが、シルドネーは手から糸を伸ばしてデニスを幾重にも縛ると引き寄せてぶら下げた。
「待ってくれ蜘蛛の姫様、情熱的過ぎてこんなの対応しきれないぜ!」
「そんなに私の胸が良いならしばし私の谷間にうずめてあげましょうか? その代わり、あなたの魂は美味しそうだから丸呑みにするけど」
シルドネーは妖艶な笑みを浮かべてデニスを持ちあげると、その口の端に切れ込みが入って開き、牙の並んだ大きな口となった。
「あっ待ってくれ、遅れて申し訳ない。それはお嬢が悲しむからやめてくれ! おれ一人だったらそんなに悪い結末じゃないんだけどさ」
デニスはもがいていたがどこか余裕があり、ルインもまた殺気の無さに気付いて何も言わなかった。シルドネーは口を戻して溜め息をつくと、笑ってデニスをテーブルに下ろし開放する。
「立会人さんが遅れては駄目でしょうデニス。まあいいけれどね。もう話はほぼ終わったわ」
「いやー実は、今回はおれって遅れてなくて、途中で銀髪の戦乙女のねえちゃんに呼び止められてたんだよな。なあホッパー?」
デニスはアヒルのホッパーに呼び掛けた。
「はい、その通りであります。小生、時間を厳守しようとしたのに途中で戦乙女ジルデガーテ様に捕まり遅刻してしまいました。なぜ、出かけた途中で戦乙女に出会う可能性を考慮してもっと早く出発しなかったのかと問われれば何も言えず、自責の念に駆られております」
アヒルのホッパーはそう言ってがっくりとうなだれた。しかしどこかおかしく可愛いその様子にティアーリアとシルドネーの肩が震えている。
「ふふふ、そんなの予測できるわけないでしょうよ。……え? 詳しく話しなさいよ、ジルデガーテが何て?」
「あの銀髪のいかれた戦乙女のねえちゃん、明日ルインの旦那に決闘を挑むから覚悟しとけって言ってたぞ。何だか約定の壁に名前が刻まれているから、保護を受ける前にケリを付けたいんだと」
「そうだったわ! 父はジルデガーテ様の事も保護はしていたわ。そうか、ルイン様が魔城の主として『約定の壁』を確認する前に戦いたいというわけね」
シルドネーは納得と溜め息の入り混じった吐息を吐く。
「確かにそんな事があったわね! ルイン様、明日は戦いのようですね……」
ティアーリアも困惑気味にルインを見やる。
「明日の天気は戦いか。もちろん受けるよ」 ルインは頭の後ろに手を組み、大きく伸びをした。
first draft:2023.3.3
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