第十六話 セダフォル荘にて

第十六話 セダフォル荘にて

 モルオン・サダの上空の浮島、バルドスタ戦教国せんきょうこく王族の隠れ家、セダフォル荘。

 飾りガラス越しの温かな光さす窓際で、マイシェラ王妃は柔和な笑みを浮かべた。

「あなたが眠り人ルイン様なのね。不思議なものです。バルドスタにも屈強な勇者は多いですが、あなたは私が見てきたどんな人よりも穏やかで自由そうなのに、とても強い方なのがわかります」

「恐縮です。マイシェラ王妃」

「王妃、ルイン様は先ほど、アルドス王子にせがまれて、いずれ武技を教える約束をしてくださったのですよ」

 微笑んで話すアーシェラ。マイシェラ王妃の目は大きく見開かれた。

「まあ! それは名誉な事ね。伝説の眠り人様に武技を教わる約束をしていただけるなんて! あの子には武運があるようです。ありがとうございます、眠り人様」

「それくらいは別に、感謝の言葉こそ勿体ないというもの」

「ふふ、鷹揚おうようにして気さくな方ね。ねえルイン様、美しい魔族の姫様や、影の帝国インス・オムブラのクロウディア皇女もそばにいるようですが、アーシェラもとても素敵な子なのですよ? 強くも優しい、古き良きバルドスタの女なのです。まだ心に決めた方が居ないのであれば、ぜひおすすめしておきますわね?」

「マイシェラ様?」

 マイシェラ王妃はそんな事を言いつつ微笑んで片目をつぶり、アーシェラは慌てて反応した。

「ルイン様も困りますわ、いきなりそんな事を言われては」

「あらあら、私は本気よ? そうしたら我が子アルドスはいつも武技を習う事が出来、大変な武人になるかもしれませんもの。我が子を思う母の心が私に余計な事を言わせたのですよ。王族は自分の国と一族を強くするためなら手段を択ばぬものですわ」

 マイシェラ王妃は奥ゆかしく笑いつつそんな事を言った。アーシェラは苦笑するも強くは否定しない。

「かないませんわねぇ、それを言われては」

 しかし、マイシェラ王妃は話をそこで止めなかった。

「眠り人ルイン様、アーシェラの事、よろしくお願いいたしますわ」

 王妃は真顔でルインの目を見てそう言った。

「いや、まあ……礼を失しない程度に」

「……ふふ、困らせてしまいますね」

「マイシェラ様?」

 いつもは何かを強く推す事の無いマイシェラ王妃の意外な姿を見て、アーシェラは少し困惑した。しばしの沈黙ののち、廊下を移動しつつルインに話しかける。

「普段はあのように念を押すような言い方をする方ではないのですが……気を悪くされませんでしたか?」

「いや、君の事が心配なんだろう? おれも王妃様の気持ちはわかるよ。何か手伝ったり、話を聞いてやることくらいしかできないが、あまり一人で背負い込まない方がいい」

 アーシェラは静かに足を止めた。セダフォルの湖の冷たい照り返しが眼の下あたりをゆらゆらと照らしていたが、それがいつもの暗い瞳の中を照らし、悲し気に澄んだ夕日色の目が不思議そうにしている。

「わたくし、あまり強い女と思われていませんか?」

「強いさ。しかし、強いというのは本来、悲しい事なのかもしれないぞ? 特に女が強くならねばならないなんて事はな……」

「そうなのですがね。まあ、ままならぬものですわ。……ルイン様、私は少なくとも、アルドスとミリシアが年老いてこの世を去るまでは使徒としてバルドスタを見守り、また、あなたの『眠り女』でいようと思います。不死になった私にとって、不死の方々や長命の方々がいるのはとても心強いのです。せめて、憎からず思っていただけたら幸いですわ」

「勿論だが、何だい? あらためて」

 アーシェラは出来る限り、ルインに対して憎からず思われたいむねを伝えようとしたが、どうにも遠回りな言い方になる。当然、ルインの返事も困惑気味だった。

「いえ……」

 次に二人は、セダフォル荘のヘルセスとハルダーの神像が安置されている広間で、『大戦父だいせんふ』と呼ばれる老人アレイオンと会った。

「なんと、アーシェラよ、ヘルセス様の使徒となったうえ、本当に眠り人を連れてくるとは! ワシは果報者じゃ! 我が人生にこのような日が訪れようとは!」

 気のいいアレイオンはくしゃくしゃの笑顔を見せ、眼を輝かせてルインとアーシェラを何度も交互に眺めた。

「ヘルセス様が心を開けと仰ったので、それに従っております。『絵画聖堂かいがせいどう』にはどうも悪魔のわざが絡んでいるようで、私の心を軽くせねば対応が難しくなるとの事でしたから」

 アレイオンは無言で深くうなずいたのち、ルインに向き直った。

「眠り人、ルイン殿と申したか? 少し、このおいぼれの頼みを聞き、そこに立ってみてくれんかの?」

「……こんな感じでよろしいかな?」

 ルインは飾り窓を通した日の射す広間の一角に無造作に立った。アレイオンの目は大きくなり、次に厳かな眼となり、やがて穏やかな笑みを浮かべた。

「……すまんな。長生きはするもんじゃのう。アーシェラよ、大したもんじゃな。すごい男を連れて来たのう。ワシはこれほどに腕の立つ男を見た事が無いぞ!」

「まあ! 上魔王シェーングロード様も同じことを仰っていたそうですよ?」

「ほっほ、ワシの目もまあまあじゃろ? うむ、何と恐るべき武人よ。貴公はあれじゃな、兵を率いれば、鋼の湖の如く静かに、そして鋼の風の如く力強い用兵をするであろうよ。兵に安心と自信、静かな高い士気を与える類の将の相を持っておる。将器あり、鷹揚おうようたる恐るべき武人じゃ」

 ここまで言って、アレイオンの目はわずかに細められた。

「しかし……このようなおいぼれにしか分からぬ、深く遠い悲しみが見える気もするのう」

大戦父だいせんふ様もそのように?」

 先ほど考えていた事をアレイオンが口にし、アーシェラは驚いた。自分の想像だけではなさそうだった。

「長い時を生きれば、積み重ねられた何かがそう見せるだけで、案外何もないかもしれぬもの。少なくとも今の自分は何も覚えていないので、どうにも」

 ルインは笑って答えた。しかし、その答えがまたアレイオンには好ましいものだったようで、老戦士は微笑みつつ話を続けた。

「……聞けば貴公の周りには、魔族の姫やかげの帝国の皇女やら、相当な美女ばかりだと聞く。想像の足らぬ者はそのような立場を羨むであろうが、実際は対応一つとっても大変なはずじゃ。貴殿のような孤高の男には特にの。おそらく、助けつつも巧妙に距離を取り、出来る限り女人たちが傷つかぬようにと気を使っておるはずじゃ。ワシにはわかるぞ!」

 ルインは苦笑を浮かべる。アーシェラにはしかし、この言葉が自分に対する注意喚起でもあると気付いた。

「参ったな。アレイオン殿は買いかぶり過ぎだ。おれはせいぜい、本当は伸びている鼻の下を隠すので手いっぱいかもしれず」

「……そういう事にしておこうかの。ルイン殿、時にはここに茶でもみに参られよ。このセダフォル荘には、バルドスタ流じゃがフソウ国伝来の茶室もある故な。この老骨ろうこつれる茶はなかなかめぬのじゃぞ?」

「茶ですか? それは光栄な事。いずれみに来ますよ」

「うむ! 待っておるからの!」

 この時のルインは本当に嬉しそうで、アーシェラは少し驚きを感じた。年老いた武人とは分かり合えるものを感じているらしいが、それが何かわからない。しかしアレイオンの言う事は先ほどからとても大事な事ばかりのように感じられてもいる。

「それでは大戦父様、また夕餉ゆうげの時にでも」

「うむ。良き時間であった! またのう、ルイン殿」

「ええ、また」

 眩しいほどの広間とは対照的にやや薄暗い、壺や絵画の飾られた灰白色の壁の廊下を移動していく。

「驚きましたわ」

「何が?」

「大戦父アレイオン様は、王族以外には気難しくて有名な方なのです。なのにあんなに嬉しそうにして、さらに一見の方にお茶の約束までするなど。やはりルイン様には、歴戦の武人にならわかる何かがあるのですね。私もだいぶ女だてらには武を磨いたつもりでしたが、今ひとつわかりません」

「そうかな? それくらいでいいと思うが。もしもそこまで行ってたら、きっと君は全身傷だらけになり、片目には眼帯をして、筋骨隆々な男と見分けがつかない戦士になっていたかもしれないぞ? そんな君よりは……それよりは、今の美しい姿の方がいいな」

 ルインは笑いつつ冗談めかした事を言っていたが、アーシェラはその言葉に何の欲求の意志も乗っていないことに気付いた。良く見られようと、または好意を持たれたいといった意思もなく自然に、『美しい』と言っている。だがこんな自然な賛辞こそ嬉しいものだ。悪い気のしない自分に、アーシェラは驚いた。

「ああ、前言撤回いたします。『暗い瞳のベネリス』を、バルドスタの『鉄血の玉座』を護るこの私を、そんなあっさり『美しい』ですか。男性に美しいと言われて腹が立たないのは初めてです。こういう気持ちなのですね」

「普通は腹を立てないだろう? いつも腹を立てていたのか?」

 少し呆れたように問うルイン。

「お世辞や取り入ろうとする方ばかりですからね。本当は私が邪魔だったり怖いくせに、皆そう言うのです。年頃の女には辛いものでしたよ? 自然な賛辞が一言も貰えないのは」

「……縁談や恋愛は?」

「全くありませんわ。運よくそれで、『眠り女』になる資格が残っていたのですけれどね。気付いたら不死の行かず後家になりそうな女の誕生ですわ。身体は清らかなままなのに、心には度重なる凌辱りょうじょくの記憶を背負い、女吸血鬼には悪戯をされ、なかなか最悪なのですよ」

 アーシェラは肩をすくめてため息をついた。

「それは……」

「少し裁定さいていを仰ぎたいと思います」

 ルインが何か語りかけたところで、二人はセダフォル荘の北の区画の地下に至った。そこはおそらく、貴人きじんを監禁するための用途で作られた部屋であり、調度品は立派だったが頑丈な鉄の扉は間違いなく牢獄ろうごく用のものだった。黒い袋頭巾を被った武装した戦士が二人、この豪華な牢獄を警備している。

「幻術の壁を解除せよ!」

「はっ!」

 アーシェラの命令と共に、石壁の一部は鋼鉄製の格子に変わった。その向こうには簡素な衣服を着たハイデが立ち、険しい眼で二人を見つめている。

「よう、十日ぶりだな」

 気やすい挨拶をするルイン。

「アーシェラ、今度はどういう意図だ? 眠り人を連れてきて私を笑いものにするつもりか?」

「いえ、今の私は『眠り女』としてここにいます。なので、ルイン様の判断を参考に致したく」

拷問ごうもんの上で処刑すれば良かろう、私など! ……君を殺そうとしたのだぞ?」

「それで、第三王家のあなたと、あなたの義理の姉である、愛する人でもあるフェルネはどうなります? 連座れんざしてあなたと一緒に惨たらしく殺せばいいのですか? それとも、いつまでも牢獄に死ぬまで放置すればいいのですか? あなたが私の考えを嫌い、どうしても私を使徒にしたくなかったのは理解できます。フェルネは気高く優しい人ですもの。このバルドスタの行く末を案じていたのも知っています。病弱でも、強い人ですわ。しかし、『絵画聖堂かいがせいどう』の試練は凄惨せいさんに過ぎ、また邪悪な知恵も働いているようです。それが全ての原因です」

「私は、女に武技や陰惨いんさんな試練を強いるこの国の現状は間違っていると考える。まして君も結局、女の部分を使って『眠り人』を味方につけているだろう? 女というものは守られるものであるべきだ!」

 語気を強めるハイデ。

「それで牢屋にぶち込まれて、大事な女を護れなくなったり、連座の危険さえ負わせたら、本末転倒だろう? 実のところは好きな尊敬すべき女を玉座につかせたかったのだろう?」

「第三王家のフェルネはハイデにとって、形の上では血のつながらない姉に当たる人ですが、結婚はそのままではできませんからね。ハイデは貧民から剣の才を認められて養子にされた経緯がありますから、せめて彼女の夢をかなえたかったのは理解できるのです」

「そうか……少し、話しても?」

「ええ、もちろんですわ」

 ルインは少し長い間を置くと、険しい目を向けるハイデの空気を全く気にかけずに話し始めた。

「夜会での『座興ざきょう』はなかなか見事なものだった。出来る事なら今後も何度かあのような場を設けてもいい。あの武技は死や監禁によって失われるべきものではない。大事な女を護ってやりながら磨けば、もっと強くなるだろうな。そして、幸運な事におれの周りには魔族の姫たちがいる。彼女たちなら、そのフェルネの心を何とかする方法も知っているかもしれない。アーシェラには、与えた被害を凌ぐ働きで返せばいいさ。ここまで言っても駄目なら次は遊びではなくなるな。ただし、全力での戦いに応えたうえで送り出してやるが」

 ルインの言葉には武人としてのハイデへの最大級の敬意があった。しばらく沈黙が流れたが、ハイデは苦しそうに口を開いた。

「……なぜ、そこまでする?」

 ルインは小さな高窓から射す光に一瞬遠い眼をしたのち、深いため息をついて続けた。

「確か遠い昔、愛や女の為に全てを燃やして生きた時代があった気がするんだ。しかしそれは踏みにじられ、おれは長く復讐の日々を生きることになった。その日々の末に、さらに取り返しのつかない罪が重ねられ、おれはずっと彷徨う事になった気がする。これは全て漠然とした感覚だが、ひとつだけ、はっきり言える事がある」

 アーシェラは胸が苦しくなるのを感じた。ハイデの顔からは険しさが消えている。ルインはたんたんと続けた。

「かつてのおれや、今のお前のように生きたところで、後に残るのは例えようもない孤独だけだ。……そんな生き方はするな」

「孤独だけ……」

「おれの武技が強いと思ったか? だがあんなもの、おそらく永遠にあがなわれない罪と孤独の副産物に過ぎないさ。お前ほどの武人なら、刃を交えたんだ、この意味が分かるだろう?」

「あれほどの武を磨いたのが、罪と、孤独だと……」

「消えない怒りと言ってもいいかもな。それでも死にたかったら好きにすればいい。おれが言える事は以上だ」

「消える事の無い、怒り……」

 ハイデは思うところがあったのか、二人の方を見ずに考え込み始めた。

「よく考えてみてくださいな、ハイデ。……ルイン様、部屋をご案内します。少し休んでください。夕食になったらお呼びしますので。今日は兄上は体調がすぐれないので、お会いするのはまたの機会にした方が良いと思いますから」

 この後、ルインにはアーシェラの通称、『ベネリス』のもととなった灰色の髪に黒い眼のメイドが割り当てられた。部屋に案内されながら、そのいきさつを聞く。

「君が本物の『ベネリス』だって?」

「はい。貧民街出身の孤児ですが、ベティエルに拾われ、暗殺者として育てられてアーシェラ様の信頼を得て、ある時暗殺を仕掛けたのです。が、思うように体が動かず、未遂に終わりました。極刑を願いましたが、貧民街を無くすことを約束され、今でも私を信用してくださっているのです。あの方は優しすぎますから、私のように心のうつろな者が身を守るべきなのです」

「心がうつろ?」

「はい、不幸な事に少し見た目が良かったので、幼少の頃からベティエルの戯れ・・に使われていましたから、今の私にはあまり感情がありません」

「ああ、余計な事を聞いてしまったな、すまない」

「お気になさらずに」

 その声の抑揚が少しだけ親し気なものに聞こえた。

「そんな君には、おれはどう見えている?」

「わかりません。ただ、表情豊かに見えて、その心はほとんど動いていないような、そんな不思議な感じがいたします。そして、なぜか信用できる気がいたしますね」

「そうかね?」

「はい。一つだけ、僭越せんえつですが言わせていただくなら、アーシェラ様は孤独で、よく泣く方です。その涙を止められる方が居ないのは、私にとってはとても心苦しいのです」

「ああ、言われてみれば、そういう目かもしれないな」

「ここに呼ばれたという事は、もしかしたらそんな姿を見せる事もいとわないという事でしょうから、あなた様がアーシェラ様の心を軽くする方であればと思います」

「わかった。覚えておこう」

「……ありがとうございます」

 ルインは部屋の光水晶ひかりすいしょうの照明も点けず、陽が落ちて行くセダフォルの湖の様子を眺めながら何かに思いを巡らせていた。地平線は続かず、空に浮かぶこの陸地は途中で途切れ、草原の向こうに雪の残る険しい山脈が見えていたが、ルインにはそれが、自分の断絶した過去と現在を象徴しているようにも見えていた。

──戦時には貧民街が消え、長い平和の時代には貧富階層の差が出て貧民街も現れる。このような事を繰り返すのが人間なら、戦時も平時も我々人間には身に余るという事だろうか?

──隠者ルクセス著『我は愚かなり』より。

first draft:2020.06.13

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