第十四話 放浪神イズニースの追憶

第十四話 放浪神イズニースの追憶

 二つの世界樹の都テア・ユグラ・リーア、湖上の『精霊の船』サナラ・アルラの船室。

 『キルシェイドの眠り人』ルインからの保護の言葉を皆に聞かせることが出来たネイは、風の精霊たちからもこの場所が極めて安全であるという啓示けいじをもらい、大きな水晶から削り出されたベッドでようやく眠りに就こうとしていた。

「ではコーデル、お願い」

 ネイはベッドわきの弦細工つたざいくの椅子に座る、銀髪に褐色の肌の美少年に声をかける。女物の透けた寝間着ねまぎを着たコーデルは、あまり嬉しくはなさそうにベッドに入った。

「いつもごめんなさいね。一人では眠れないけど、かと言って女はみんなか弱いし、男はほとんど動けない人ばかり。しかも私にそういう気持ち・・・・・・・を持たないでいてくれる人はあなたしかいなくて」

「はいはい、わかってますよ。ネイ様が寝付くまで隣にいますね」

 苦笑気味にベッドに入ったコーデルをネイは引っ張り込むように強く抱きしめた。華奢きゃしゃな腕とは対照的な豊かな胸にコーデルの顔がめり込む。

「ネイ様きついです! 胸で息が辛いですってば」

 しかし返事は返ってこず、華奢な腕からも力が抜けていた。ネイは既に眠りに落ちてしまっており、コーデルは静かに微笑んだ。

「おやすみなさいネイ様。僕やみんなを守り続けてお疲れですよね……」

 コーデルもまた追いかけるように眠りに落ちて行った。

──人々がしばしばエルフと呼ぶ古き民たちは、自分たちの事をアルンまたはアールンと呼んでいる。アールンには『過ぎ去りし時の人々』という意味がある。闇の古き民たちは自分たちの事をオルンまたはオールンと呼び、これは『闇に隠れた人々』を意味するとされる。

──インガルト・ワイトガル著『ウロンダリアの種族』より。

 ネイはしばしば訪れた事のある夢の中の草原にいた。ネイがこれまでに身につけてきた技術や知識を象徴する星座が幾つか、眩しいほどに色彩豊かな夜空に輝いており、足元の草原は夜風が吹くたびに蒼く暗い光の粒を漂わせている。

(ああ、ここは……)

──闇の古き民の放浪の神イズニースの領域りょういきの一つ、『ザルストリヤの野営地やえいち』。

 ネイは初めてではないこの場所で周囲を見回す。そう遠くない場所に白い焚火たきびの光がゆらゆらと揺れており、その光に照らされた小さな白銀の世界樹せかいじゅの若木の輝きも見える。そこにおそらくこの領域の主がいると悟ったネイは、手のひらをひさしのように目の上にあて、あまり遠くまでは見えないようにした。夢の中とはいえ、神を直接見ないようにするための作法だった。しかし、そんなネイに語り掛ける声があった。

──ああ、そんな事しなくていいよ。今日の僕は顔を隠しているからね。覗き込まれたって見えないから大丈夫さ。

──かしこまりました。

 ネイは無言のまま心で一礼をし、『踏まぬ歩み』と呼ばれる礼拝の作法の静かな歩みで焚火のすぐそばまで近づいた。焚火の光と闇の境界あたりにネイの背丈の二倍ほどの高さで青い獣の目が開く。

「ジャーダ様、お久しぶりです」

 ネイの挨拶に合わせるように焚火の光が拡大して、その獣の眼の持ち主の青白い巨躯きょくと長く白い牙が現れる。それは放浪の神イズニースの従者である大きな剣歯虎けんしこ、『鱗裂うろこざきのジャーダ』だった。小屋のような大きさの剣歯虎は大きく伸びと欠伸をして再びのそりと寝そべる。

 焚火には小さな濃い青のガラスの薬缶やかんがぶら下げられて良い香りのする湯気を出しており、それを見つめるように四角い黄金木おうごんぼくの椅子に座るフード姿の女戦士がいた。

 純白のマントと短いスカート以外は黒い龍鱗りゅうりんと光沢のある黒い金属の鎖帷子くさりかたびら具足ぐそくを身に着けており、肩とももの一部だけが濃い褐色かっしょくつややかな肌が覗いている。顔は言っていた通り黒い布のフードで隠れていて見えなかった。その左肩には燃える炎のように赤く見事な鱗の小さなドラゴンが乗っている。

──闇の古き民オールンの放浪神イズニース、『放浪戦士の相』。

「久しぶりだねファル。僕に非ざる者ネイ・イズニースよ。まあ座って」

 イズニースは少年とも少女ともつかない美声で親しげにネイの本名を呼び、そばにある黄金木の椅子に座るように促した。

「失礼いたします」

 『放浪戦士の相』のイズニースに対しては、旅先で出会った人のように砕けた対応をするのが礼儀だとされており、ネイは遠慮せずに座った。

「まずはよく頑張ったね。みんなをここまで導いてくれてありがとう! ただ、霊薬れいやくのがぶ飲みは身体と魂を傷つけちゃうから、もう少ししたらそのガラス鍋の薬湯やくとうを飲んでね? たぶん後遺症は無くなると思うから」

 イズニースはそう言って精巧せいこうな細工のされた銀の小さなコップをネイに手渡した。砕けた口調でも深い慈愛が声に含まれており、ネイはぼろぼろと涙を落としている自分に気付いた。

「……ありがとうございます」

「そんなに泣かないで。大事なところまでたどり着けたんだしね」

 イズニースの声はねぎらうような笑いを含んでおり、やがて焚火の爆ぜる音だけになった。少し長い沈黙をイズニースの声が破る。

「話せる事は沢山あるんだけど、話していい事を選ぶのは難しいよね。彼の事となると大抵そうなるから困っちゃうんだよな」

 『彼』が誰か思い当たったネイは驚いた。

「イズニース様はあの、『キルシェイドの眠り人』の事をご存知なのですか? 私たちの保護は引き受けてくださいましたが、その……大変な力を持っていて……」

「わかるよ。不安になるでしょ? わかるわかる」

 イズニースは屈託くったくなく笑った。

「だからちょっとだけ昔話をしようと思うんだ」

 軽い口調のわりに、明らかにこの領域の空気までが少し重くなった。何か重要な話が語られることを察知したネイは気を引き締める。

「ずっとずっと昔、彼がまだ今ほどは強くなくて、まだ何も呪いを背負ってなかった頃なんだけどね。僕と彼は出会ったんだ。敵と味方でね」

「えっ……今なんと仰られたのでしょうか?」

「僕と彼は敵同士だったんだよ。まあ、僕の勢力は彼と彼の率いる軍勢に負けちゃって、僕や家臣たちは彼に全員捕えられたけどね」

「イズニース様とあの方が敵同士で、イズニース様は敗れて捕えられたと?」

「そう。当時の僕の勢力は血統も弱くなってて、王族の直系は僕しかいなかった。僕は男装して男の子として育てられ王子として振舞っていたんだけど、彼に捕らえられたし女の子なのも見破られちゃった。……ではここで問題だけど、彼は僕をどうしたと思う? 普通ならどうすると思う?」

「……その、例えば手籠てごめにされたり、何らかのはずかしめを受けたりだとは思いますが……」

 かなり気を使った言い回しをするネイに対し、イズニースは愉快そうに笑った。

「ははは! 普通はそう考えるよねぇ! 自慢じゃないけど僕もかなり可愛いからね」

 愉快そうな声の後に、イズニースの空気は懐かしげなものに変わった。

「当時ね、あの世界で一番強くて偉い存在が僕の事を知れば、僕はそうなっていたと思う。あれは本当に……綺麗な女に目が無かったから。おぞましかった……」

 イズニースの声には隠さない嫌悪があった。

「あの方が誰かに仕えていたのですか?」

「うん。彼はあの頃は若い将軍だったよ。『血も涙もない』と言われていた。でも違うね。『血も涙も流せなかった』んだよ、彼は」

 愉快ではないイズニースの気配に気づいてネイは息を呑んだ。それは涙をこらえているような空気だった。

「いつも思い出すのは、軟弱な王子だと思っていた僕の裸を見た時の彼の顔。彼のあんなに驚いた顔を見たのは、無限世界イスターナル広しと言えどもたぶん僕くらいじゃないかなぁ。『胸がどう見ても男だと思った』っていう言葉は、今でもちょっとだけ頭に来るけどね」

 空気はまたわずかにおかしみの漂ったものになり、イズニースはガラスの小さな鍋を外して焚火の脇に置いた。

「彼はね、女の子だった僕が神都しんとに連れていかれたらひどい目に遭うと思って、僕を美少年の小姓って偽って近くに置いてずっと守ってくれたんだ。……彼は風評でちょっとだけ苦労してたけど」

 愉快な思い出があるのかイズニースは肩を震わせた。

「そんな事が? ……なぜそこまでする必要があったのですか?」

「まだ詳しくは話せないけど、僕たちのいた世界はそれくらい酷かったんだよ。そしてもっと……酷いことになった。大丈夫だったのは僕たちだけ。……正確に言うと僕だけか。僕だけがひどい目に遭わないで家臣たちと共に別の世界に行けたんだ」

 イズニースは何かを求めるように手を伸ばし、意味に気付いたネイは手にしていた銀のコップを渡す。イズニースは焚火の脇に置いてあったガラスの鍋を掴むと、湯気の立つ薬湯を注いでネイに手渡した。

竜鱗りゅうりんこけと『狭間はざまのロエ』に世界樹ユグラの樹液を混ぜたものだよ。君の肉体と魂を修復してくれるから飲んで」

 ネイは目の覚めるような香りの青い薬湯を少し口に含み、呑み込んだ。清浄な青白い光が体の中を駆け巡り、肩や手足の指先から疲労が噴出して涼やかになるような感覚に声を上げる。

「ふあっ!」

 思わず出た声にイズニースが笑った。

「とっても効くでしょ? 竜鱗の苔と『狭間のロエ』に世界樹の樹液だから、組み合わせをよく覚えておいてね。火加減はもうじき出会える『火の魔女アドナ』が教えてくれると思うよ」

 ネイは古い伝説に出てくる魔女の名前を手繰ろうとしたが、イズニースの話が続く気配を感じ取った。

「ここから先をどう話していいのか難しいなぁ」

 イズニースは頭上の空を眺めるように頭を傾けた。美女や美少女とされているが、その顔を見たものは居ないともされている。今もその顔は陰になっていて見えない。

「あの頃、僕の性別に疑いを持つものや、僕と僕の民たちを根絶やしにしたい人間たちも多かったんだよ。だから僕はいつも彼の側にいて、遠征の時なんかは大抵同じ天幕にいたし、時には一緒に寝てたくらいだよ」

「一緒に……」

「だから、あざむくためにだよ? 美少年の僕との関係を楽しんでるように見せかけてるだけで、実際に男女のあれこれとか、男の戦士と美少年のあれこれとかも無いから、そこは誤解しないでね?」

「わかっております。でも、失礼ながらイズニース様も当時は若い女性で、しかも魅力あるオールン闇の古き民の王女だったのでしょう? 我が物にしたいと考えない男はまずいないと思いますが……」

「だよねぇ。あ、一つだけ訂正ね。『当時は』じゃなくて『当時も』だよ?」

「申し訳ありません。でも、なぜ彼はそれほどの理性を?」

「あまりに悲しい事が起きていたんだ。本当に悲しくてひどい事が。だから僕にはそんな目に遭って欲しくなくて、自分のものにさえしなかったんだよ。僕自身はいつからかな? そうなっても全然良かったんだけどね。何度か酔って彼に当たり散らす位には。でも、僕が間違ってた。世界は残酷過ぎて、もう彼はそれが許せなかったんだよ。僕を巻き込みたくなかったんだ」

 イズニースは再び空を見上げた。それがまるで涙をこらえているようで、ネイは胸が締め付けられる気がしていた。

「ねえファル、世界ってどうしてこんなに残酷で不条理なんだろうって思わない?」

「思います……とても。失礼ながら、神々が沢山いるのにどこまでも世界は残酷で」

「そうだよね。……彼は探しているんだよ。この世界をそうした『何か』をね。これはとっても長い旅なんだ。で、それを僕や一部の女神様たちは知っているんだ。だからみんなあまり彼の邪魔をしないようにしているんだよ」

「そんな人が私の保護を? 確かに時々、遥か上から何かに見られている気はしていましたし、不思議な導きを感じる事もありました。でも、こんな汚れた遊女の私がなぜ……」

 空を見上げたままのイズニースの悲しみがより色濃くなったようにネイには感じられた。

「あまりそうやって自分をおとしめないでね。あの頃に彼の心を支えていたのは、あるおぞましい存在が無理やり彼に遊女として引き合わせた女の人だったんだ。今でも少し悔しいけど、彼女はとても素敵な人だったよ。彼女も永遠に失われてしまったんだけどね」

「そんな事が……」

「駄目だなぁ。どうしても彼の昔の話は長くなっちゃう。あまり話せる人がいないから、仕方ないんだけどね」

 イズニースはもう涙声を隠していなかった。

「イズニース様……」

「まあ、君はひとまずこの話をほとんど忘れちゃって、心身の健康をさっきの薬湯で保てる事と、彼は信用できるって話と、これから言う事だけを覚えているんだけど」

「そうなってしまうんですか?」

「うん、僕話し過ぎちゃったからね」


 イズニースはしばしばこのような勝手な面があったが、慣れているネイは何も言わなかった。

「彼の近くにいるセレッサこと、エレセルシス・ルフライラ王女と、『薔薇ばらの眠り人』ロザリエ・リキアは、どちらも僕と同じように男装の麗人として育ってきた時期があるんだ。そんな彼女たちが彼と出会う縁には僕の意向も入っているから、彼女たちとはあまり喧嘩しないように気を付けてね。……じゃあ、おやすみ!」

 全ては深い眠りの闇の中に沈んでいった。

──『真珠のエルフ』と呼ばれる悲惨な扱いをされている古き民は、その天寿を全うした事はなく、また墓地も無いとされている。あまりにも悍ましい事に、裏の世界では彼ら、彼女らの肉体は薬効があるとされているかららしい。あとは想像にお任せしよう。

──枢機卿すうきけいコリヴ著『冒涜的ぼうとくてきな報告書』より。

 魔城エデンガルの城壁の一画。

 『真珠のエルフ』と呼ばれるしいたげられた人々を保護する約定やくじょうは、現時点では個人的な約束に過ぎないため、ルインは粗末な椅子を置いて城壁から『精霊の船』サナラ・アルラを見守っていた。

 近頃妙に眠気を感じず、また女性が多いため無防備に眠る事にも気が引けていたルインは、気を引き締めるのにちょうどよいと考えて見張りをしている。

(何という星空だ)

 ルインは時々頭上を見上げては感心していた。ウロンダリアの夏の夜空は『女神が星の砂をこぼした』としばしば表現されるほどに星が多く、光が変容へんようするとされる輝くケープのような星の群れは見飽きる事が無かった。

 精霊の船と二つの世界樹の都、大魔城に星空。特に敵の気配を感じる事もなく満ち足りていたルインは、また次第に二つの世界樹に目が向いていく。心の中の何かが思い出せそうな、しかし確信の無いおぼろげな違和感。これを確実に触れて引き出せるようにと淡く明滅する世界樹を眺める。

「あれは?」

 星々をさえぎって移動する影に気付いてルインは椅子から立ち、長い六角棍にしたオーレイルを手にして目を凝らす。

「あらあらルイン様、女にそんな怖い顔しないでくださいな」

 背後に響く小気味良い靴音に気付いて、ルインは笑顔で振り向いた。夜でもわかる熾火のように光る赤い眼と深紅のドレス。そして夜の闇のような黒い髪。

──鳥の魔物リーニクスの姫『魔の国一の淑女』ティアーリア。

「すまない。大丈夫だろうとは思っていたが、まあ見張りだからな」

 笑うルインに対してティアーリアも小鳥のようにくっくっと笑う。

「何やら空の国クレン・ルフの飛空艇にその乗組員を得られ、さらには『真珠のエルフ』に保護を宣言したとか? いつもいつも面白い事ばかりしておられますね。でも何より面白いのは、こんな城壁の隅っこで一人で見張りをしているルイン様ですよ。本当にもう! ふふふ!」

 ティアーリアは少し笑うと、幻影の翼でふわりと飛んで胸壁の歯の部分に腰かけた。

「ルイン様がただ一人で見張りをしておられる事がまずおかしいですが、そのただ一人の武力が実際のところは滑稽こっけいなほどの規模のもの。あの船で休む者たちは今、いかなる規模の力によって護られているかきっと想像もつかないでしょうね。まさにこのお城と同じです。外見はバルドスタの地方の古城のようですが、その中身は神々も唸る大魔城ですもの」

「それは買いかぶり過ぎだ」

「そういう事にしておきましょうか。それにしても少し気になったのですが、ルイン様は世界樹を眺めていると追憶ついおくの気配が漂っていますね。失われた記憶に、何か大きな木に関するものがありそうですよ。それで気になって声をおかけしたのですけどね」

「気になって?」

「男の人の追憶なんてどうせ女の事ですもの。私と話すなら、昔の女の事なんて胸の内から追い出して欲しいですからね。まあ、女の事なんて思い出してもどうせろくなことはありませんよ。ふふふ!」

「ふ、そうかもしれないな」

 ルインとティアーリアはひとしきり笑った。不帰かえらずの地ヴァンセンは、今やウロンダリアでも稀有けう幻想郷げんそうきょうになりつつあった。

──神々の戦いにおいてしばしば重要なのは軍旗及び戦旗である。神とは領域であり、この領域を示すものが旗である。戦いは時に旗の奪い合い、または旗の立て合いの形を取る事も多い。したがって、神々の軍勢に旗の数は非常に重要であるとされる。

──戦斧帝オーダル・ハーシュダイン著『神戦の唄』より。

first draft:2023.2.23

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