第十四話 剣神合一の果て
ベネリスことアーシェラ王女とクロウディアの前に立つ戦女神ヘルセスは、何かを懐かしむ目をしていた。
「あの方を知る女性存在の多くは『砂糖菓子のように甘い』と言葉を残しています。非常に優しいという意味です。一方で、このウロンダリアに限らない外つ世界『無限世界』においてさえ、最悪に等しく恐ろしい存在とも言われています。力ある多くの存在があの方を恐れています」
「とても矛盾をはらんだ言葉に聞こえますが、まず、ルイン様はヘルセス様も知るようなお方なのですね?」
「そもそも全ては矛盾に満ちているものでしょう? ……そう、知る者は知っているわ。多くを語る事は許されていないけれど。ただ、あなたたちはあの方の眠り女でしょう? なので、大切な身の処し方を一つだけ教えておくわ。優しさや誠実さは、時に女を必要以上に近づけぬ強力な手段になり得るのよ。あの方はそれができる人。ゆめゆめ、それを忘れないようにする事ね」
「……」
アーシェラはヘルセスが自分たちに何を伝えたいのかが、今ひとつ理解できなかった。一方で、腕を組んで考えていたクロウディアが口を開く。
「ヘルセス様、もしかしてそれは、何か困難な事を成してもらったとしても、何も求められず、ゆえにそれ以上の関係にはならず、すべて終わりになる可能性がある、という意味ですか?」
「影人の皇女、あなたには意味が分かったようね。そう、心しておくといいわ。望むものがあるなら。それはとても困難な道よ?」
「なぜそんなに人を遠ざけるのでしょうか?」
寂しげに聞くクロウディアに対して、ヘルセスは察して微笑む。
「そのような優しさもあるという事よ。それを決して忘れない事ね」
「優しさ……」
「さあ、ではアーシェラ、手を出しなさい。あとは言葉なくとも理解できるでしょう」
「はい」
アーシェラはそっと掌を伸ばした。ヘルセスは右手の黒い籠手を外し、その優美な手でアーシェラの右手に触れる。周囲に青白い光が炸裂し、クロウディアはその眩しさに腕をかざした。
光芒が引くのを感じて腕を戻したクロウディアは、月明かりの射す静かなヘルセスの神殿に戻っていたが、アーシェラの姿がヘルセスの衣装になっていた。
「ああ、何というこの力! そして、この目に映したおぞましい様々なものが心の中の光によって押しやられていくわ!」
心を強い光で内側から照らされていく感覚に、アーシェラは驚きの声を上げた。
「よかった! 本当に良かったわ! あそこで死んでしまうなんて悲しすぎるもの……」
クロウディアの眼には涙が滲んでおり、まるで長年の親しい友でも案じるような眼をしている。アーシェラはここでようやく、武人の姿に隠されていた影人の皇女の無垢さを理解した。簡単な嘘が付けず、そこまで親しくない者の死にも涙する純粋さを持っている。
(ああ、陰謀渦巻く私の生とは違う。愛を重んじるマヌ様は影人の皇女をこんな無垢な武人に育てたのね。この人が頼ったのがあの方でよかったわ)
「ありがとう、クロウディアさん。あなたは得難い友ね」
「クロウディア、でいいわ」
「私の事も、ベネリスでも、アーシェラでも。自分より格の高い家の人がいると、だいぶ気が楽になるものね」
「そうなの? それにしてもどう呼べばいいのかしら? 少し考えさせてもらっても?」
「ええ。それは構いませんが……」
ここで二人は、空気が震えるような剣戟の音に気付いた。
「そう、ルインが戦っているわ!」
「行きましょう!」
二人はヘルセスの神殿を急ぎ出た。
『ハルダーの座』では、ハイデとルインの激しい戦いが続いている。
(なぜだ、なぜここまで練り上げたわが武と、ハルダーの力の見事な合一が、この男にかすり傷一つ付けられない⁉)
下層地獄の魔族の将軍を一刀両断したと伝わるハルダーの剣技、上位者の力の加護で大きく引き上げられた技の数々が、この不遜な黒衣の眠り人にはことごとく通じていなかった。
──流石、通じぬか。
自分のものではない意思を感じてハイデは戦慄する。武神ハルダーの武力が通じないことを、ハルダー自身も認め始めていた。
「認めん!」
ルインから大きく距離を取り、納刀するハイデ。武神ハルダーの使徒となった時から脳裏に降りてきていた、超絶の秘剣を使う事に躊躇は無かった。
「これは躱せまい!」
──虚空分かつ一閃。
『時間減速』の上、相手の移動を高度に予測し、『縮地』あるいは『瞬身』で移動しつつ、極大の『幻体の刃』にて伸展する居合の連撃を放つ。研ぎ澄まされた斬撃は空間そのものを断ち、銃と剣を構えていた眠り人ルインを両断するはずだった。
しかしその刹那の時間にルインの姿が消えた。
(馬鹿な⁉)
数歩ではきかない右方向にルインをみとめるハイデ。しかし減速された刹那の時間の中で、既にルインは両手の銃で照準を合わせ始めていた。光る銃口を視、躱しきれぬ二発の銃弾を斬りつつ、『瞬身』でさらに移動する。
(武神の使徒たる私に遅れを取らないこの男は何者なのだ!)
時間の減速が途切れ、ハイデの奥義により巻き込まれ斬られた石像がガラガラと崩れる。再び減速された時間の中に入りつつ、ハイデは大太刀を納刀し、眼を閉じると、その鍔が眉間の前に来る独特な構えを取った。
(ならば、あれしかあるまい)
──虚空斬り・七辰二重の型
ハルダーと完全に同調しているハイデは、目の前に展開した歪んだ空間に居合からの連撃を十四連、型通りに一瞬で放ち、納刀する。
「なんだ⁉」
ルインは泡立つ右腕の肌の感触にしたがい、左方向に黒い稲妻のように一瞬で移動しつつ、魔剣ヴァルドラで凄まじい速さの突きを放ちハイデに飛び込む。そのルインを追うように、薄暗くなった空間が展開して鋼の色に閃く斬撃が十四回、走った。
「これさえ躱すか!」
ハイデは大太刀を抜きつつ魔剣ヴァルドラの突きをいなすと、巧妙な足さばきで下がりつつ、大上段からの兜割りを放った。
「通らんぞ!」
黒い魔剣がその一撃を受け止める。受け太刀をしてもそのまま頭を叩き割れるほどの斬撃が止められた。噛み合った剣は下がり、そのまま鍔迫りに移行する。
「膂力もおよそ人のものではない。何という力だ!」
「……!」
ギリギリという耳障りな剣の拒絶し合う音が響くが、二人とも全く譲らない。魔剣ヴァルドラは交差した箇所に黒と青の反射を見せ、ハイデの『大安宅磐濤』はその箇所が赤熱し、降りしきる雨が白煙と音をたてた。人ならざる者どうしの膂力が剣を通してぶつかり合った予想外の結果だった。
「なんという戦いを……」
様子を見に戻ったアーシェラとクロウディアは絶句してその戦いの行方を見つめている。
「ならば手数で押し切るのみ! 限界までゆかん!」
「面白い!」
鍔迫りから距離を取り、斬り合いに絶妙な位置を得た二人は、人ならざる者の能力による減速された時間の中、さらに達人の手返しにより無数の斬撃の応酬に移行した。その剣風は二人の周囲に雨をはじくドームのように見える。
(強い! これほどに強いか、眠り人は!)
もはや嘲りは消え、驚愕と興味がその心に沸いてくるハイデ。
「高速の剣技の応酬で、あの二人の周囲だけ、巻き込まれた雨が!」
ヘルセスの使徒となったアーシェラには二人の無数の太刀筋が見えており、限界に近いハイデと、底の知れないルインの様子が良く理解出来ていた。
(ルイン、ここまで強いのね!)
クロウディアの希望がさらに強くなった。豪快な剣を揮う宿敵に対して、ルインの剣技は全く遅れを取らないであろう確信が持てた。
ひときわ強い音がし、再び、二人の剣が噛み合う。半球のように弾かれていた雨が落ち、桶の水をぶちまけたような音がした。
(く、限界か……)
ここでハイデは、全身が次第に重くなりつつあるのを感じた。上位者の力を扱う自身の体力と霊力の限界が訪れ始めている。加減すれば万の軍勢さえ切り伏せられるほどの力の、ほぼ底が見えるところまで追いやられていた。
「息が上がり始めたな」
微笑するルイン。
「何という強さだ。私は負けるな。だが、死すとしても絶技の最中で!」
ルインはその言葉に、数歩分の距離を飛び退った。それはまさに、ハイデが次に放ちたい技に最適な位置だった。
「私の技をそこまで読んでいるか!」
「偶然だ!」
笑うルイン。
「しかし、我が至高の一閃で!」
もはや武神ハルダーの上位者の力は働いていない。ハイデはおのれの力のみで最後の一閃を放つ。そこにルインも合わせて突進するが、ハイデの抜刀より早く、ルインの魔剣ヴァルドラが剣身でその胴を打ち、すれ違いざまに左の首筋を打った。
「馬鹿な! これさえも……」
振り向きつつ、ハイデは倒れた。黒い剣を降ろしつつ向き直るルインを見ながら、ハイデは水たまりの中に崩れ落ちる。稲妻の逆光となり、黒い影のような姿の中、わずかにその右目しか見えなかったが、その眼は不敵かつ獰猛に、しかし自分を認めるような笑みが見られた。
「楽しかったぜ?」
(私を、強かったと……)
不思議にもどこか満たされた思いの中、ハイデの意識は闇に沈んだ。
「……ふぅ、なかなかに斬新な趣向の夜会だった!」
「ルイン!」
「ルイン様!」
超絶の戦いに気を取られていたクロウディアとアーシェラは、ルインに駆け寄る。
「ハイデを殺さないでくれたのですね? 本当にありがとうございます」
「もっと強いだろう? この男も、この男が纏う神も」
「お気づきでしたか? ハルダーはおそらく、こうなることを見越して、抑制しつつもルイン様にぶつかるようにし、ハイデの怒りを汲んだのだと思います。ルイン様、導いてあげたのですね?」
言葉ではない、共有に近い感覚で、ヘルセスの意志がアーシェラにこの状況の真相を伝えてきていた。ハルダーはルインの技量と考えに気付いており、ハイデの心の濁りが取れるまでルインにぶつかるように仕向けたのが真相らしい。
「そんな大層なものではないさ。これは夜会の催しだろう? それに精いっぱい答えただけだな。……ああでも待てよ?」
ルインがどこかふざけた空気を出した。
「何ですの?」
「『暗い瞳のベネリス』の腹を刺したんだから、憐れ、この男はきっと市中で牛裂きや車裂きに……」
「あっ、市中引き回しで磔の上でさらし首にされるかも……」
クロウディアもルインの冗談に合わせる。
「しませんよ! ……私、どういう女として見られているのかしら? ハイデの気持ちは理解できる部分もあるのです。私を殺しかけた部分は何かで贖ってもらいますが、ハルダーの使徒が務まるくらいには高潔ですからね」
「……女がらみみたいだな」
「その通りですわ」
三人はこの後、二人の別式のメイド、リスラとマーヤの手当てをした。強力な回復の祈願を扱えるようになったアーシェラの力で、二人の怪我は元通りに回復する。そこに、頭にクロウディアの使い魔である鴉、ニーンを乗せたチェルシーが合流した。ニーンは翼を広げ、小さな傘の役割を果たしているらしい。
「あっ、もう全て終わった感じですね?」
「ああ、そちらは?」
「王女様が登場すれば、いい感じに場を締められると思いますよ!」
「全く驚きですわね。流れる血が少し減りそうですわ」
「ちょっとニーン、だめでしょう? 人の頭の上に乗っては」
「あっ、この子は私が乗せたんですよ。雨を防いでくれますし、何だかおさまりが良いです! 可愛いし」
──そういう事だ。
「そうなのね」
クロウディアはそれ以上何も言わなかった。無口な使い魔、影の鴉ニーンが、なぜかチェルシーの頭の上に満足げに乗っている。チェルシーにはどこか不思議なところがあり、誰からも好かれやすい。きっとその影響だろうと考える事にした。
「その男はどうする?」
ルインは倒れているハイデを見やった。
「ヘルセス様の『拘束』をかけます。しばし投獄はしますが、非公式なものとし、じっくり話してみますわ」
ルインの問いに対するアーシェラの答えには、報復も罰の意志もなかった。
「思ったより寛容だな。殺されかけたのに」
「いずれお話しますが、ハイデの気持ちは理解できるのです。さあ、参りましょう?」
ルインはここで周囲を見回した。ハイデを担げそうなのは自分だけだった。
「しょうがない」
鎖を呼び出して手足を拘束すると、ルインはハイデを担ぎ上げて皆と共に大広間に向かった。
大広間に戻ったアーシェラは目を丸くした。夜会の主な参加者だった元老院派とベティエル派の貴族たちが、非常に熱のこもった眼で自分を出迎えていた。
「何と神々しい!」
「我らの真の盟主、アーシェラ王女様!」
「我らは愚かであった……」
アーシェラは近くの部屋にハイデを降ろして戻ってきたルインに小声で問う。
「あの、言いにくいのですが、何かよこしまな力を使ったわけではございませんわね?」
「何でも、真に尊い義務に目覚めるように促す歌を謡ったらしい。まあ、身もふたもない言い方をするが、自分を賢いと思っている人々なんてこんなものだろう? 運命的に最も良い時に苦労人の王女の有難さに気付いたのさ。まさに時節到来だな」
ルインの少ししらじらしい返事に、アーシェラは苦笑しつつも肩をすくめた。
「……わたくしより王族に向いてますわね。流す血が減るのは感謝いたしますわ」
アーシェラは大広間のバルコニーから見下ろす位置に立つと、貴族たちに向き直った。
「今宵、私はバルドスタの守護神ヘルセス様の承認を得て、使徒となった。使徒となった者は玉座につかぬ古の約定に従い、私は正統なる次の王を擁し、王族をこのダスラの王城に呼び戻し、このバルドスタをしばし腐らせた老血と、進歩的な幻想を粉砕して、戦の教えで我が国の錆びた箍を締め直します! 皆の気付いた真に尊い責務はこの私が血と共に背負う。そして我が国をより強く、栄えさせん!」
「より強く、栄えさせん!」
貴族たちが気勢を上げる!
「退廃ではなく武の気配が空気に混ざり始めたな」
呟きつつ、チェルシーがどこかから取り出したタオルで雨に濡れた髪を拭くルイン。
「どうでしたか、御屋形様」
「なかなか役に立つでしょう? 私たち」
フリネは謙虚に、レティスは自信ありげに聞いてくる。
「連れてきて正解だったよ。しかし大変な力だな」
「その気になれば私たちの声と力は、大国どうしの戦争さえ止められます。だからこそ、誰もが恐れる御屋形様のそばにいるのが一番良いかもしれませんね」
柔らかに微笑むフリネ。
「長く生きててこんなふうに力を使ったのは初めての事よ。でも、悪くないものね」
珍しく、清々しい笑みを浮かべているレティス。しかしここで、異を唱える声が響いた。
「専横だ! アーシェラ王女、『眠り人』に怪しげな力を使わせてまでこんな事を!」
三大老の一人ジラドだった。大広間の扉の外に、本来ならアーシェラを捕えるはずだった兵士たちがこの変事を熱い眼で見守っており、その最前列には縛られて座らせられた三大老とベティエルが苦々し気な顔をして成り行きを見ている。バルコニーのアーシェラはこの集団に向き直った。
「元老院と三大老、及びベティエルに対しては、功績も認められますが、それこそ専横も逸脱も多いと認識しております。不正な蓄財と汚職、我が国の綱紀を緩めた意味では負の面がはるかに多いでしょう。調べはついておりますが、いずれ正式な裁きと沙汰を下します。それまではオルリスの政治犯収容所に拘束します。引き立てなさい!」
「くっ、このような!」
「専横だ……」
「……」
「このままでは終わらぬぞ!」
三大老とベティエルは無言の者、異を唱える者もいたが、収容所に引き立てられていった。アーシェラは再び玉座の間に移り、変事の始まりを告げた時と同じく、巨大な幻影を浮かび上がらせ、女神ヘルセスの承認を受けて使徒になった事をバルドスタ全土に告げた。神から受けた王権を再び示すことによって、元老院に形骸化された王家の権力を取り戻す宣言であり、変事の正統性を主張するものでもある。
「ご主人様、色々と面白い夜会でしたね!」
頭に鴉を乗せたままのチェルシーが微笑む。
「ああ、全くだな」
空腹を感じてテーブルにつき、冷え始めた料理を今頃になって食べ始めていたルインは、それでも美味しいバルドスタの宮廷料理に感心しつつ返事をした。こうして、政変の挟み込まれたバルドスタの夜会は終わりを迎えようとしていた。
first draft:2020.05.30
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