第十話 眠らない眠り人
黒曜石の都オブスグンド、西の櫓。大浴場の脱衣室。
『黒き国』オーンの国境封鎖について聞いていたファリスは、チェルシーが把握していた限りの異常事態を聞き終わったのち、少しだけ考えるように腕を組んだ。普段はゆったりした黒い天鵞絨製のドレスで着痩せ傾向の強いファリスだが、風呂上がりで布を巻いただけの今はかなり豊かな体の線がはっきりと出ており、組んだその腕に胸が少し溢れている。
「ファリスさんってほんと着痩せしますよね……」
チェルシーの視線と言葉に気づいたファリスは、オーンの状況などどこ吹く風の余裕で笑う。
「あらありがとう。でも、ユーララやアレッタには余計な肉が付き過ぎとよく言われるのよね。自慢ではないけどあの二人よりも私、よっぽど動けるのに」
ファリスは魔女協会の有名な二人の魔女、『施しの魔女』ユーララと、『傷縫いの魔女』アレッタの名前を出した。アレッタは普通だが、ユーララはその痩身がかなり有名な魔女でもあり、チェルシーは思わず笑った。
「ユーララさんはもう少しお肉が付いた方がいいと思いますけどね」
「私もそう思うわ」
ファリスはゆかしい表情で笑った。
「ところで、オーンの件はどうします? 結構大変な事が起きてると思いますけど。ファリスさんは困ったって顔をしませんけど、今は勝手が少し違うので、手に負えそうになかったらご主人様に話すのもありだと思いますよ?」
「それなんだけど……」
ファリスは言いながら黒い精巧な下着を取り出して身に着ける。それはおそらくエンデールや魔の国でしか買えない高価なものだったが、チェルシーは特に何も言わずに話の続きを待った。
「チェルシーさんは知っているでしょうけど、あの国に何かあったら、私はオーンの王族以上に強い権限を持っているわ。まず王族と連絡が取れないか全ての経路で当たってみるし、駄目なら『古王国連合』は相当な悪さをしているはずだから、こちらは奴らが槍玉にあげようとしている『魔女協会』と共に、あべこべに奴らの悪事を暴いて出し抜いてやろうと考えているの。よりによって狡猾さで私とやり合おうだなんて、面白い人たちよね」
楽しそうに笑うファリスの声には、しかし絶対に後れを取らないと確信させる自信があった。
「もしかして、何か知ってました?」
「ここだけの話、ある程度は把握していたわね。ただ、途中から彼らの手腕にしては妙に手際が良いから、そこだけは引っかかるところよ。注意すべきとしたらその細部を良く見極めてからね。ルインさんは色々と忙しいでしょうから、まだこの話は持っていかなくて大丈夫よ。困ったらちゃんと話すわ」
「そういう事なら……」
ファリスの高い能力と経験を理解しているチェルシーは、それ以上は何も言わなかった。夢魔の勘は何か未知のざらつきが大きく表面化する予感を伝えていたが、今は引き下がっておくべきと判断していた。
『キルシェイドの眠り人』と呼ばれるようになったルインはかなり多忙になり始めていた。
八つの古王国をはじめとする、古ウロンダリアの多くの国々では、『二つの世界樹の都』テア・ユグラ・リーアの出現の話題で持ちきりだった。空気の澄んでいるウロンダリアでは、天気の良い日になると、北はエンデールやオーン、南はガシュタラ万藩王国からでも遥か遠い空にうっすらと二本の世界樹が見えており、各国を巡る講談師たちは魔の国や聖王国から小出しされる情報から、『キルシェイドの眠り人』ルインと、眠り女ゴシュとその狼『骨付き肉』や、探索隊に加わった面々の物語を組みなおしては熱のこもった講談を続け、長く停滞気味だったウロンダリアが熱気を帯び始めていた。
新王国よりはだいぶ熱気の少なかった古ウロンダリアは新しい時代の予感が漂い始めていたが、一方、密かに進んでいる暗い影、壮大な陰謀に目の届く人は決して多くなかった。
『二つの世界樹の都』テア・ユグラ・リーア、湖に面する最下層の大城門。
この日、ルインは何度目かの調査のため、以前の探索隊の主要な面々と共に大城門横の小さな人道を通り抜けて広場に入った。しかし『二つの世界樹の都』は、この中央広場と街の中の通路は移動できるものの、各所に淡い若草色に光る文字列が浮かび上がり、何らかの力で封印されていてそれ以上の場所には移動ではなかった。
建物や上層に至る通路、階段、その全ての入り口がこのように封印されていて、先に進めない。老べスタス率いる『深淵の探索者協会』の学者でも手掛かりがつかめず、今日はセレッサとラヴナも同行していた。
「今日も駄目かよ。どういう事なんだ! どっかに色々なお礼の品があるって口ぶりだったぜ? いやまあよ、この都と世界樹だけでもすげえんだが、どこにも出入りできねぇんじゃあ眺めてるだけだよなぁ」
ギュルスが苛立たしそうに呟く。この場のほぼ全員が同じ事を思っていたため、誰も何も反論しない。
一行は半日近くの時間を費やして下層の美しい街を隅々まで調べていたが、結局は新しい発見が無く、大城門前の優美な噴水広場に集結していた。
「長年の勘としては、やはりこれが読めねばどうにもならん気はするのぅ……」
広場の中心には木を模した多層の噴水があり、各水盤を様々な種族の女性が支える繊細で美しいものだった。その噴水の手前におそらく世界樹から採れるユグラの銀の銘盤がはめ込まれた石碑があり、探索に加わった者が触れた時だけ、薄紫に輝く不思議な光が浮かび上がる。それは無数の文字をびっしりと多重に重ね書きしたような複雑な模様の長方形が規則正しく並んでいるものだった。
「これは普通の読み方では読み切れないわ。かなり難しい『読み方』が求められるのよ。似たような構築の高位言語はあるけれど、大元の文字が読めないし、特定の人でないと浮き上がらないようになってる。これくらいの封印が必要なのはわかるけど、とても厄介ね……」
腕を組んでいたラヴナが忌々しそうに感想を語る。
「私たちの文字のとても古い形らしいのは分かるんですが、ここまで複雑なのは見た事が無いです。一応補足しますと、この一枚の文字列に、一般的な辞書一冊分くらいの意味が込められています。これは困りましたね」
やれやれといった感じでセレッサもため息をつき、説明を続ける。
「魔導の仕掛けで浮き上がるこの文字列は妙に四角いですよね? これは、一つの小さい区画の中に膨大な文字を重ね書きしており、そのひと固まりが大きな意味を持ちながら、相互に影響し合っているのです」
文字列を眺めつつ腕を組んでいたルインはしばし難しい表情をしていたが、やがて笑った。
「妙に複雑すぎるが、こんな時は大抵、何か意外なきっかけで読み解けたりするもんだ。今はそれに期待して地味な作業を続けていくしかないな」
しかし、全く作業が進んでいないかと言えばそうでもなく、アゼリア率いる工人の製図係が数人、片眼鏡をかけてこの複雑な文字列を縮小して紙に書き写す作業をしており、魔の国や聖王国の学者たちにも解読を依頼する手はずになっている。
「何か些細なことでこの封印が解けるような気もするんじゃが、まあ今は仕方ない。それに今日はもう一つ驚きの話があるとか?」
老べスタスは逸る心を抑えてルインに向き直った。
「そろそろ、その作業の顛末が見えるはず」
ルインは微笑し、再び大城壁の人道を通り抜けて湖にかかる橋に出た。橋の中ほどの広場の横に、ほとんど尖塔の無い胸壁のみの角ばった古城が現れ、湖にその武骨な威容を映している。
老べスタスの目が大きく見開かれた。
「これは! 本当に城が! ……しかし随分と武骨な趣味の城を選ばれましたな! これはバルドスタの様式に近いようじゃが……」
ルインは嬉し気に笑った。
「外観はバルドスタの『コルセドの古城』に近いものを選ばせてもらった。外観はある程度いつでも変えられるそうだが、自分はこんな古城に惹かれるものを感じるので、これで。ただ、中は初代魔王スラングロードのエデンガル城との事だし、彼が構築したとする大迷宮は『古都の門』に入り口を設定するとの事。おそらくこの様子ならそれも既にできているはず」
上位魔族の初代の王、スラングロードは、大魔城と呼ばれたエデンガル城に多くの部屋や空間を配置し、防衛と娯楽、秘宝の秘匿と優れた人物の選別を兼ねて大迷宮を構築したとも伝わっている。
城の外観を選び終えたルインに対して、魔の国は魔導の技師とエデンガル城の封入された宝珠を引き渡し、今日その構築作業が終わる予定だった。巨大に過ぎるエデンガル城の外観は比較的小さいバルドスタ戦教国の名城『コルセドの古城』を模したものとなり、内部は広大な魔王の城、付随する伝説的な迷宮の入り口は近くの『古都の門』に設定される段取りだった。
「して、ルイン殿、つまり我々のような探索者のギルドが仕切れる場所がここには現時点で二か所あると考えてよろしいのですかな? 『二つの世界樹の都』の全容の把握と、魔王スラングロード様の『エデンガル城の大迷宮』と」
老べスタスの慎重な問いに対して、ルインは武骨な城と周囲の景色を眺めつつ向き直り、ふと笑った。
「その通り。古王国連合がべスタス殿の『深淵の探索者協会』に圧力をかけて来るなら、表向きは責を取って特別顧問を辞任しても、こちらの二か所の未知の領域を探索するギルドを設立していただけたらいい。おれはそういうのは向いていないし詳しくもないから、助かる」
ルインのこの言葉に老べスタスの眼にぎらついた野心が光り、好ましく思ったルインは再び笑った。
「なんと! 何と心躍る申し出を! この老骨、死ぬまで冒険者魂を燃やせますわい! 利益の配分や貴重な物品、情報は全てルイン殿を主として取り掛からせていただきますぞ!」
「ぜひよろしく頼む。こちらはあの二人の冒険者の治療にも全力を尽くさせてもらう」
ルインは『不帰の地』で救出された、手足を失った男女二人の冒険者についても言及した。
「こちらこそですぞ! すぐに万端整えまする!」
老べスタスは右拳を左手で包む武人の礼をし、あわただしく立ち去った。ウロンダリアの腕利きの探索者たちがこの地に集まり始める前夜となる出来事だった。
夕方。ルインは『二つの世界樹の都』と、その手前の湖に佇む、内部が大魔城エデンガルになった四角い城を見下ろしていた。長く隠されていた森はそれでも、何事もなかったように独特な物悲しい蝉の声を鳴り響かせている。
「さて、と……」
懐から、シルニィより預かった女神シルニスからの手紙を取り出す。ルインの予想したとおり、今は蒼い光の封印が消えていたため、『棋盤の上で休む猫』の可愛らしい封蝋を慎重に外すと、良い香りのする手紙を取り出した。最初の一文は意外なものだった。
──おそらくバゼリナ様が近くにいるはずなので、一緒に見ても構いません。
「……だ、そうだバゼリナ」
ルインの言葉が終わらないうちに、バゼリナが姿を現した。現われるのが微妙に早い気がしたが、ルインは何も言わなかった。
「私も立ち会ってよいとはいかなる意味でしょうか?」
「まあ読んでみるさ」
──この手紙をあなたが読んでいるという事は、きっと今頃、あなたは私にひどく怒られたのち、伝説の都を見下ろしている事と思います。
「……くっ!」
バゼリナが笑いをこらえきれない様子だったが、ルインは構わずに読み続けた。
──遠い昔、私はあなたに言いました。『私たちを置いていけば、結果としてあなたに寄って来る厄介な女性は増えるだけで、あなたの優しさは何の意味もなさないどころか、かえって逆効果である』と。さてここで周囲を見てみましょう。厄介な女性がとても増えているのではないでしょうか? この事象をあなたとの賭け事にしなかったことを少しだけ後悔しています。あなたを借金漬けにしたら、さぞ楽しかったでしょうにと。
「…………」
ルインは無言だったが、バゼリナは笑いを必死にこらえていた。
「……声を出して笑って構わないぞ?」
「申し訳ありません。ひとしきり笑って落ち着いたら戻って来ます! 本当にもう、シルニス様は……!」
緩く握った拳を口元にあて、笑いをこらえていたバゼリナは姿を消してしまった。
──私の怒りがどうしたら晴れるのか、私にはわかりません。分かりませんが、どうにも近い将来、あなたは世にも珍しい魔王の城の主になるような気がします。もしもそんな事があったとしたら、大きな鏡と暖炉があり、ほどほどに見晴らしのよい部屋などが私の為に用意されていたら、なぜかとても心が晴れる気がします。不思議なものですね。
「なるほど、そういう事か……」
ルインは思わず笑みがこぼれた。エデンガル城に彼女の為の一室を用意すれば、とりあえず機嫌を直してくれるらしい。
「申し訳ございません黒い方、先ほどはつい笑って……」
ルインは現れたバゼリナに手紙の文面が見えるようにかざした。
「シルニス様ったら!」
バゼリナは再び姿を消し、しばらくして表れた。
「とても失礼いたしました。それにしても、何だか昔を思い出します。シルニス様もお変わりないようですね。あの方には本当に笑わされました。言葉ではマリーシア様やモーン様を凌いでいましたが、相変わらずの諧謔の冴えに感心しますね」
バゼリナの出す名前にルインは聞き覚えがあったが、いまひとつ顔が思い出せなかった。
「マリーシアと、モーン?」
「はい。お二人とも大変な強さを持つ御方です。ただ、どうにも気が合わない様でよく揉めていたのですよね。大喧嘩になったこともありましたが、それ以外ではよくシルニス様が場を納めていたものです」
ルインの脳裏に二柱の美しい女神の熾烈な戦いの記憶がよみがえってきた。早すぎて姿が見えないまま幻影のように、または稲妻のようにしばしば残像が見え、そのたびに壊れ、崩れる蒼い城の城壁と、最終的にそれを修理している自分の姿も。
「思い出してきた。ものすごく強い二人か! 確か決着がつかなかったんじゃないか? ……しかも確か、壊された場所はおれが修理をしていたような気がする。何でだ」
「はい。黒い方はあの二人の諍いを仲裁し、その後しばらく『蒼い城』を修理されていたのです。世の百姓の仕事にも通じているマリー様はお手伝いもしていましたが、モーン様は手伝いをせずに珍しいお肉の差し入れをしていましたね。……あら? 黒い方、何か良くないものが近づいてきていますよ?」
ルインと話していたバゼリナは、南方の森の遥か彼方に目を凝らした。ルインもわずかに気配を感じて立ち上がる。遠くの蝉の声は止み、森の木々が谷のように二つに分かれて、平たく長い、翡翠色に淡く輝く優美な船が現れた。
「あれは古き民の技術で造られた『精霊の船』ですね」
風のように早く静かに分かたれた森を進む『精霊の船』の船首に、白いドレス姿の女が立っているのが見えた。ルインにはそれが秘密結社『黒い花』の首魁、ネイ・イズニースだと目星がついた。
「ネイだな。しばらく姿を見せなかったが。バゼリナ、『良くないもの』は彼女たちじゃないだろう?」
「はい。もっと遠く、空の上ですね」
ルインは手を大きく船に向かって振りつつ、大声で呼びかけた。森をかき分けて進む『精霊の船』はやがて湖にたどり着き、水の上に大きな白い波の弧を描いて旋回する。船首に立っていたのはやはりネイで、ルインに向かって手を振ったが、心に直接声が届いた。
──とてもしつこい空賊に追われているわ。
はるか南の空に点滅する光を放つ三つの点が現れ、それは次第に大きくなり始めていた。
「任せておけ!」
すぐ近くの魔の国の帷幕の多い駐屯地に走ったルインは、楽し気に大声で叫んだ。
「敵だ。空賊らしいぞ!」
様々な種族と団体のいる駐屯地は、一気に騒がしくなった。
first draft:2022.12.25
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