第四十二話 そしてウロンダリアへ
ウル・インテス、『二つの世界樹の都』テア・ユグラ・リーア、その最上層『高き渡り枝の街』ル・ラーナ・シ・リーア。
気絶した『血塗れの錬金術師』ダクサスはヴァスモー兵たちによって大きな樽に放り込まれた。空中に存在していた月の落涙を迎え撃つための多段の魔法の足場は消え、ウロンダリアの戦士たちは忘れ物が無いように慌ただしく帰り支度をしている。
ルインを筆頭としたウロンダリアの戦士たちの代表者と眠り女たちは、世界樹の都の三種族の代表たち、さらにオーランドやミゼステとともに、残りわずかな時間で別れを惜しみつつも状況の確認を行っていた。
「では、あなたが『船の民』とともに、この時と世界を超える大術式を織り上げたと?」
古き民の女性が驚いて問うが、バゼリナが奥ゆかしい笑みを浮かべつつ答えた。
「はい。この件だけではありません。私は『船の民』と協力して、運命に関する権能を全て用い、様々な複雑な運命を美しく織り上げる手伝いをました。やがてその運命はこの無限世界全域を取り巻く永劫回帰へと至り、それは黒き炎に燃やされて新しき時代を呼ぶでしょう。その未来が確実に訪れる事は、私の失われた権能が示唆しています。運命の糸を撚り、手繰り、編み、切る。私より下位の女神たちなら三柱で司る事を、私は身一つで可能にしておりましたが、それは今や正しく失われています」
言っている事の難解さゆえに沈黙が漂ったが、女神ミゼステが応じた。
「ああ、このような哀しき世界は多く、あなた様はそれに対する運命を織り上げたと仰るのですね? この世界がその柄に組み入れられた幸運と、あなた様の選択に感謝いたします」
ミゼステは深々とお辞儀をし、おそらく皆に伝わりやすい話に解釈された話となり、多くの者にバゼリナの話が伝わった。
対するバゼリナは微笑む。
「いえ、全ては……」
バゼリナはちらりとルインを見やったが、すぐに視線を戻す。
「全ては大いなる意志の元です。私はそれに賛同し、すべきと思う事をしているまでですから。そして、時を超えた者同士があまり語るのはよろしい事ではありません。私は以降、沈黙いたしますね」
バゼリナはそう言うと、ルインのマントと同じような揺らめく闇のローブを取り出し、身にまとってしまった。魔族の姫が出歩く時のフード付きのローブとよく似たそれは、顔部分が闇に包まれたように見えなくなり、少し近寄りがたい雰囲気になる。
「あとは手短に。そろそろ帰還の力を働かせるつもりです」
その言葉が終わると同時に、バゼリナは姿までもが消えてしまい、皆が驚いた反応をした。
「消えてしまわれた……」
ミゼステも同様の反応をする。
(消えた?)
しかし、ルインにだけは変わらずにその位置にいるのが見えている。異層に身を置いても、黒炎のローブでルインにだけは認識できるようにしたのだと気付いたルインの視線に対し、バゼリナは立てた人差し指を唇に当てて片目をつぶる。この仕掛けはルイン以外には内緒という意味らしかった。
(……そういう事か)
高い神格はみだりに人々の眼に触れるべきではないため、これは正しかった。視線でさえ、双方に良くない効果をもたらす事も多い事をルインはよく理解していた。
「もうあまり時間も無いようですね。お礼の言葉はどれほどあっても足りず、私たちはしっかりした形でお返ししようと考えています。ただ、どうしても気になる事があり、古き民の王統の方にお伝えしたい事があります」
言いつつ、古き民の女性が眠り女たちを見回してセレッサを見つける。
「……私の事ですか?」
怪訝そうなセレッサ。古き民であるせいか、一晩戦い続けたはずなのに疲労の色が見えず、その髪や肌は淡く光っているように清浄で、人間との違いが際立っている。
「はい、お別れの前に話しておきたい事があります。あなたは、『白亜の樹林』パルラク・シェヌの事を仰っていたと思いますが……」
「はい。そういえば、あなたはこの言葉に心当たりがあるかのようでしたね。『白亜の樹林』パルラク・シェヌは、ウロンダリアにおける私たちの古き故郷です。『淡水海』と呼ばれる塩気のない海の彼方にあるとされ、沢山の世界樹が連なった大きな浮島の様なものだったと伝えられています」
この言葉に古き民の女性の眼が潤み、彼女は深く息をついた。
「きっとこれも偶然ではないのでしょう。あなたの言う『白亜の樹林』パルラク・シェヌは、私たちの世界では伝説の中のものとなり、言葉も変わって今は『パルァーク・シェーヌ』と呼ばれています。意味はやはり『白亜の樹林』です。おそらく、もともとはこの世界にあった場所です」
「何ですって? そんな話は私も聞いたことがありませんよ?」
「この世界の名前、ウル・インテスとは『豊穣なる雨の地』を意味しています。かつて、ウル・インテスには水が豊富で、湖が網の目のように大地に広がり、沢山の船が行き来していました。この網の目のような水場の中にはしばしば小さな海のように広い場所があり、それらの特に広くなった水場には、豊富な水を好む性質の世界樹ユグラ・ウルが浮島のように育ち、何本も繋がって多層の木の陸地を持つ国となっていたのです。かつてはそのような国がいくつもあり、まだその頃は人間たちもいたとされています」
壮大な話に場は静まり返った。その沈黙をセレッサの質問が破る。
「それは、大災害とやらで失われてしまったのですか?」
「いえ、大洪水よりだいぶ前の話とされています。世界樹や私たち古き民を邪悪なものに変質させてしまう疫病の様な災いがあり、多くの世界樹が枯れ、私たちの繁栄した時代も衰退に移り変わっていったらしいのですが、『白亜の樹林』はそれを避けるために異界へと渡ったとされています。この時、ウル・インテスの古き民の皇統の者と、それに従う十四の氏族の勇敢な者たちもこの地を後にした、と伝わっています」
セレッサは少しの間をおいて答えた。
「……その皇統の者は『エンシルデル』を名乗っていたのではありませんか? 十四の氏族の話も伝わっていますよ。僭越ながら、私はその十四の氏族の末裔ですから」
古き民の女性の眼が大きく見開かれた。
「何という事! 間違いありませんね。ウル・インテスの古き皇統は三系統ありました。その内の一つがエンシルデル……『由緒ある蔦の城郭』を意味する名前を名乗っていました。こちらでは遠い昔に皇統は途絶えてしまいましたが、まだそちらでは残っているのですね?」
「いえ、分からないのです。二千四百年ほど前から、『白亜の樹林』は伝説のものとなっていますから。しかし、今も確実に存在しているような気がしてきます」
「なぜそのような事に?」
「原因が分からないのです。ある時古き民たちは急に人間たちを皆殺しにする勢いで侵略をはじめ、最初はかなり優勢だったものの、やがて人間たちに敗れて押し返され、今の私たちの立場はとても肩身の狭いものです」
古き民の女性や、他の古き民の戦士たちが、セレッサのこの話に動揺の気配を見せた。
「もしも、ある時急にそのような凶行に走り始めたのだとしたら、それは伝説にある疫病そのものです。『白亜の樹林』も疫病を切り離せませんでしたか……」
「疫病については詳しい書物は残っていないのですか?」
「『白亜の樹林』にはそれら疫病に対する知識や対策が豊富にあったと言われていますが、今は幾つかの品物が残されているだけです。……ああ、これをお渡ししましょう」
古き民の女性は、首にかけていた古い銀の首飾りを外してセレッサの手に乗せた。
「これは、世界樹が生み出すユグラ銀で造られた工芸品です。王族の様々な家伝薬の製法が記録されており、投影によって読み取ることができます。何か役に立つかもしれませんから、これを」
ペンダントの部分に金属製の巻物をあしらった精巧な首飾りだった。しかし、その刻まれた文字に自分の知る言語と似通った部分がある事に気づいたセレッサは、思わずそれを読み上げる。
「アリアステラ・ルフライラと読めますが、これはあなたの名前なのですか?」
「いえ、四度ほど前の『月の落涙』で命を落とした、私の孫娘の名前です。あなたのように見事な弓の腕を持つ勇敢で優しい子でした。あの子が引き継ぐはずだった首飾りですが、どこかあの子と似ているあなたが役立てて下されば幸いです」
首飾りを持つセレッサの手がわずかに震えている。
「という事は、あなたはルフライラ氏族、つまり十四氏族の一つの血筋なのですね? こちらに残った側の」
「はい。なぜそれが分かりましたか?」
セレッサの手の震えが大きくなった。呼吸を整えて、セレッサは話を続ける。
「私の本当の姓もルフライラだからです。私はルフライラ氏族の末裔です。名前は略称でエレセルシス・ルフライラです。とても長い正しい名前はまだ知らされておりませんけれども」
声のない叫びのように、古き民の女性の口が大きく開いた。
「何という事! 私で途絶えると思っていたルフライラの血統は異界で残っていたのですね……あの子を失い、血統も途絶え、生きる意味さえ見失いかけていたのです!」
古き民の女性は泣きながらセレッサの手を両手で強く握った。
「私の略称はウルセリエン・ルフライラと申します。今日は何という日でしょう。悔やまれてならなかった多くの事に答えが示されるなんて!」
古き民には珍しく強い感情をあらわにして、ウルセリエンと名乗った女性はぼろぼろと涙をこぼした。その思いが伝わったのか、セレッサの静かな目もまた潤んでいる。
「ウロンダリアでも、たち古き民の未来は決して明るくありませんが、何か隠された希望と運命を感じます。自分が何をすべきかよく考えてみようと思います」
「行く当てのない者たちも沢山いるのですか?」
「正直、国さえないものも多い有様ですよ」
「……わかりました。私たちもまた、今回の返しきれぬ恩に対して何を成せるかよく考えてみるつもりです」
思わぬところでセレッサの本名と遠い起源、古き民のウロンダリアの伝説との繋がりが見いだされた。このやり取りの中、皆には見えていないバゼリナをちらりと見たルインは、視線に気づいたバゼリナが眼を合わせて静かに頷くのを見た。
(そういう事か……)
あとで何らかの説明がある事を想定するルインに対し、バゼリナはさらに口だけを動かして意思を伝えてくる。
(そろそろ帰りますよ?)
「皆、そろそろ帰還の時らしいぞ?」
「本当にありがとうございます。永遠の地の方々。このご恩は必ずお返しします!」
ウルセリエンの涙ながらの感謝に続いて、世界樹の都の人々は無数の感謝の言葉を口にする。その賞賛と感謝の言葉の洪水の中、ウロンダリアの戦士たちの視界は淡い光に包まれた。世界樹の都もその人々も、薄暗く時が止まったように静止し、ウロンダリアの戦士たちはその地平が押し上げられるようにぐんぐんと高い位置に上昇していく。
そして、何者かの声が響いた。
──それからの概要を説明しましょう。
『二つの世界樹の都』の上空の空が、何度も昼と夜を繰り返し、星々の位置が少しずつずれていく。長い時の経過を意味しているものと思われた。
──界央の地の理を巧妙に守りつつも、私たちは月の都と地上を行き来するようになり、純血に回帰しようとする者、純血にこだわらないものと、どちらも可能性として尊重し合い、少しずつ勢いを回復していきました。
二つの世界樹の周囲の荒れていた大地に、少しずつ緑と市街地、森が広がっていく。
──私たちはやがて、純血の三種族にほぼ戻った者たちと、複雑に混血した者たち、混血により、より優れた進化を見せた者たちの三種類となりました。月に封じ込めた闇の母神ハドナの子らの怪物たちの中にも、稀に私たちと融和する者が現れ、いつしか純血と混血が調和を保った状態となり、私たちの問題は稀に起きる小規模な『月の落涙』だけになりました。
ミゼステの船で月の都らしき都市と行き来する世界樹の都の民たちの姿が見られるようになり、月にはきらきらと銀に輝く優美な尖塔の多い都市が栄え始めた。
──月に封じ込めた闇の母神ハドナは生命を生み出す力も持っており、私たちが暮らしていけるだけの環境もまたもたらされたのです。こうして、私たちは二つの世界樹の都と月の都の間で、少しずつかつての勢いを取り戻そうとしていきました。
ここで、景色が暗黒になった。
──しかしある日、世界の終わりが訪れたのです。
再び見えてきた景色は、今までとは全く異なっていた。夕日の様な赤い空の中、天から無数の隕石が降り注いでいる。
その赤い空の中、星のように燃え輝く一点の蒼い光があった。
──私たちの世界に『時の終わり』が訪れ、界央の地の使徒を名乗る者、マスティマ・ウンヴリエルが現れ、断罪の言葉と共に天の石を嵐のように降らせ始めたのです。
「これが世界の終わりじゃと? これが……!」
破滅的な隕石の降り注ぐ中、老べスタスの声が響いた。映像は天の一点の蒼い光に焦点を当てる。その光は拡大して、ウロンダリアの誰もが息を呑んだ。
それは神々しくも恐ろしい存在だった。青い優美な祭服に黄金の髪を持ちながら、身体の中心線から同じ顔の男女として顔や体が分かたれており、右の翼は機械の様な金属の翼、左側は蒼く神々しく燃える炎の翼だった。それが交互に三対六枚あり、慈愛に満ちたその目は閉じている。
──蒼き翼の調停者、マスティマ・ウンヴリエル。
微笑しつつ、マスティマ・ウンヴリエルは口を開き、慈愛に満ちた声が宣言する。
──私は隠れし神々の使徒、聖魔王イスラウスに仕える者マスティマ・ウンヴリエル。偉大なる界央の地の取り決めを守らず、競争と研鑽の理を抜け、偽りの弱々しい怠惰を調和と言い換える堕落した者たちよ、お前たちの断罪の時は来た。
隕石が空を切っていく音のみとなり、束の間マスティマは沈黙していたが、やがて黄金に輝くその眼を静かに開けた。
──罪を悔いて死ぬがよい。このみすぼらしい世界と共に。
微笑するマスティマ・ウンヴリエルが両手を掲げると、赤黒い空に無数の星のような光が現れた。信じがたい数の隕石だった。
続いて、場面は世界樹の都の人々のものとなった。二つの世界樹の都は壮大な歌声と共に力場が形成されて隕石から守られていたが、それでいつまでも凌ぐのは難しいようだった。ふもとの大地の街からも多くの人々が世界樹の都に向かっており、次々と避難してくる。
「早く避難を! 『二つの世界樹の都』は、古の大術式でここではない、どこか別の世界へと飛びます! おそらく『永遠の地』へと!」
この時代の代表らしい人々が避難民たちに呼びかけている。一方で、マスティマ・ウンヴリエルはその笑みを絶やさなかった。
──この世界には無いはずの不正な強い術式を感じる。小細工は罪を重ねるだけだとなぜわからないのか……。
マスティマ・ウンヴリエルは蒼く燃える光の大槍を何本も顕現させた。
「ああ!」
絶望的な叫びが三種族から上がる。
──神の蒼き雷槍を持って、咎人どもを討ち滅ぼさん!
放たれて迫る青い光の槍。世界樹の避難民たちは思わず身を伏せたが、次の瞬間に異質な金属音が響いた。恐る恐る顔を上げた者たちが見たのは、力場の前に形成された広大な黒い鎖の障壁だった。
「何が?」
マスティマ・ウンヴリエルもまた、異質な力に気づいて目を細めた。
天から一条の黒い稲妻が落ち、黒い炎が燃え上がると、三眼有角の黒馬に乗った黒衣の戦士が現れた。黒衣の戦士は旅の空でも眺めるようにゆっくりとウル・インテスの景色を眺め、最後にその視線をマスティマ・ウンヴリエルへと向けた。
「世界の終末の様な派手な状態だが、この馬鹿げた迷惑行為を働いたのはお前か?」
黒衣の男の闇の様なマントから、火の粉が舞い始める。
マスティマ・ウンヴリエルはこの黒衣の男が何者か、目星がつき始めていた。
「その神をも恐れぬ振舞い、無限世界の辺境にて我らにたてつく哀れな者が居ると聞いたことがあるが、貴様がそれか」
黒衣の男は嘲るように笑った。
「絶対者気取りの羽虫が何か言ってるな。口の利き方に気を付けた方がいい。楽に死にたかったらな。……まあ、どの道」
黒衣の男は右手を逆手に伸ばした。両腕に黒い炎がまとわりついて、獣の爪のように獰猛な黒い籠手となる。さらに、右手には低く唸る黒い炎の魔剣が現れた。男は微笑しつつ言葉を続ける。
「……楽に殺してやる気などないがな」
マスティマ・ウンヴリエルも微笑して呟く。
──貴様がダークスレイヤーか。この機に貴様の首を聖魔王イスラウス様に献上するとしよう。
言いつつ、マスティマ・ウンヴリエルは開いた両手を交差させた。その延長線上に十本の蒼く神々しく燃える剣が顕現する。
ウロンダリアの戦士たちはその帰還の途中で、決して語られなかったウル・インテス最後の日の伝説的な戦いの目撃者になろうとしていた。
first draft:2022.02.05
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