落花流水、泥沼蓮華

落花流水らっかりゅうすい泥沼蓮華でいしょうれんか

 魔の国キルシェイドの黒曜石の都オブスグンド、ある夜の西のやぐら

 金庫室で帳簿ちょうぼの管理をしていたチェルシー、アゼリア、シェアの三人は、今月の寄贈金きぞうきんの収益、支出のまとめを終え、ゆっくりと背伸びをしていた。

「終わりましたね。本部と工人アーキタの都市からのご寄進きしんが増えていますが、こんなに私たちの教会に流してくださるのですか? ……いえ、とても助かりますけれど」

 経理の仕事に疲れたのか、シェアが珍しくフードをはいでおり、灰色の艶のある黒髪がさらさらとこぼれた。

「んーっ、疲れたぁ。経理とかは得意だけどさあ、ここは項目が色々あって大変だよね」

 深い青色のすらりとしたワンピース姿のアゼリアは、頭の後ろに手を組んで伸びをしている。

「いやー、助かりましたよ。ここの予算、だんだんと秘匿性ひとくせいが高くなってきてますからね」

 同じく、伸びをしながら感謝を述べるチェルシー。

「秘匿性、ですか?」

 気を抜きかけていたシェアが少しだけ真面目な表情になった。

「はい。ここだけ、表向きは対立していたり同盟関係に無いはずの組織がお金を出していますからね。どこからどれだけのお金が出ているのかわからないようにするのは大切な事です。例えば……」

 チェルシーは席を立つと、金庫から黒革の真新しい目録を取り出した。目録の表紙にはウロンダリアの東の大国、バルドスタ戦教国せんきょうこくの『龍の頭を刺す剣』の国章こくしょうが金で陰刻いんこくされている。

「まだ非公式ですけれど、バルドスタ戦教国は魔の国と眠り人と同盟を結ぶ予定なんですよ」

「ベネリスさん、いえ、アーシェラさんはそのような判断を?」

 いぶかし気なシェアの考察の余韻に、明るい声が続いた。

「なるほどー! つまりお兄さんを介しては、私たちの工人アーキタの都市とバルドスタは同盟関係みたいになっちゃうのね」

 アゼリアの例えにチェルシーがにんまりと微笑む。

「そういう事ですねー。まあ、ご主人様はなーんにも気にしないから、うるさいのは外野のよこしまな勢力でしょうけどね」

「ま、お兄さんなら大丈夫だね!」

「ルイン様は本当に揺らがないですものね。どうしてあんなに鷹揚おうようでいられるのか、時々羨ましくなります。……いえ、私はとても気が楽なんですけれど、見習いたいのです」

 シェアはため息をつくと冷めたガシュタラの紅茶を飲み干し、金庫室の小さな窓から外を見やった。『気流きりゅう制御せいぎょ』によって運ばれてくる魔の都の夜気は温かく、安全なこの場所をより一層気の休まるものにしてくれている。

「何はともあれお疲れさまでしたね! このお仕事のお給金はちゃんと出ますから、今日はもうゆっくり休んでくださいね!」

 この日の帳簿の管理は終わり、解散してそれぞれが自由な時間を過ごす事になった。

──工人アーキタの女性はしばしば、敬愛する男性の事を『お兄さん』などと兄呼ばわりする事がある。これは彼らの徒弟とてい的な人付き合いと、慣習に基づいた婚姻制の影響によるところが大きいとされている。

──ダラカー・ザワン著『工人たち』より。

 自室に戻ってしばらくしてからも、シェアはなかなか眠りにつけなかった。しばしば訪れるこんな時、シェアは長い髪の編み込みをほどき、くしを入れてはまた編み直す。腰よりも長い髪は容易に櫛が通り、いつもはしばしば面倒に感じつつも絶妙ぜつみょうに気をまぎらわせられるこの作業さえ、今夜は妙に順調に終わってしまった。

(眠る気になれませんね……)

 普段着に等しい灰青色のローブに着替えたシェアは、素直に櫛の通る髪を夜風にさらすように、珍しくフードを被らずに部屋を出た。その白い手は聖餐教会せいさんきょうかいの年次計画をまとめた分厚い冊子さっしを掴んでいる。

「シェアさん? 誰かと思ったら、雰囲気が全然違うので驚きました」

 階段室を上がりつつ声をかけてきたのは、巨人族の女魔術師メルトだった。栗色の長い髪を馬の尾のように束ねており、風呂上りなのか淡い桜色の寝間着ねまぎを着ている。

「メルト、お風呂上りなの?」

「いま頂いたばかりです。夜風に当たりながら魔術書を読んで、あとは眠ろうかなって思ってます」

 背がとても高いのに、柔らかで親しみやすい笑顔でメルトが微笑む。いつも溌溂はつらつとしていて声に力強い芯のあるメルトには、関わる者の心を元気づける何かがあった。

「今夜の夜風は気持ちいいですものね」

「はい。髪に良い夜風の気がするので、少し夜風を当てたいと思ったんです!」

 自分と同じ考えだったことに気付き、シェアは思わず微笑んだ。そのゆかしい微笑みに思うところがあったのか、メルトが屈託のない感想を漏らす。

「いつもと雰囲気が違いますけど、やっぱりシェアさんって美人さんですよね!」

「はあっ! わ、私が美人……!」

 屈託がないだけにそのまま心に届いた慮外りょがいの言葉は、シェアをとても驚かせた。

「はい、とても美人だと思いますけど……」

 ここで冊子が床に落ちた音がした。それが自分の手から離れたせいだと気付いたシェアは慌てて手を伸ばした。

「……あれ? 美人って言うのは駄目でしたか?」

「そっ、そんな事ないです! ただ……慣れていないんです。男の人から言われるのは苦手ですが、女の人から言われるのはこう、何というか……分不相応かなとか……」

 シェアの言葉の最後の部分はメルトにほとんど届かなかった。しかし、察したメルトはより一層微笑んだ。

「そんな事ありません。シェアさんはとっても美人さんです! 自信持たないと勿体ないですよ? ここには素敵な人が多いですけど、シェアさんもとっても素敵です」

 屈託のないメルトの言葉に、シェアは何か気が楽になるものを感じた。

「……ありがとうございます。一周回って落ち着けた気がします」

「それなら良かったです」

 メルトはにっこりと微笑んでは通路の奥へと姿を消した。シェアからすればほぼ上半身一つ分以上も背の高い巨人族だが、しかしそれでも巨人族としては極端に小さい部類のメルト。シェアも詳しくは知らないが、彼女は古い巨人たちの里ヨルスタの豪族ごうぞくの娘でありながら、考えも体格も合わず、絶縁状態でこの西のやぐらに来た経緯があると聞いていた。

(みんな、どこか似ているわね……)

 眠り女たちはみんな能力が高く魅力があるが、世間とは合致しない何かを抱えている。シェアは魔導まどうの光が芸術的に流れる黒曜石こくようせきの通路を歩き、大きなバルコニーのある階に向かった。

 階段の上のルインの部屋からは、まだ灯りがこぼれており、腕輪の姉妹の詩文の朗読や、多くの国々からの書状を読み上げる声がわずかに漏れ聞こえている。いつもと変わらないルインの様子がうかがい知れ、シェアはわずかに微笑んではバルコニーのベンチに向かった。

──シェア殿は美しい。

 少なくない数の男たちからそう言われてきたシェアだが、それはいつも心の奥底にある、忘れられた恐ろしい何かを思い出させる気がして、シェアは男性を避けてきていた。男たちの眼の奥には隠しようのない欲望が必ず見て取れ、シェアはそれがとても苦手だった。

 シェアはバルコニーのベンチに座り、ルインの部屋のアーチ窓からこぼれる光を見やった。ルインの眼の奥には男が女を見る時に必ずある物が見つけられない。あの目を思い出すと、シェアの中の悶々もんもんとした何かが少しずつ抜けていく気がして、ため息をつけるような気になっていた。

 階段室の暗がりからエプロンの白い形が現れ、聞きなれたチェルシーの声がする。

「あ、いたいた! シェアさん、ここにいたんですね!」

「はい。何か用事でしたか?」

 軽い足音で歩み寄って来るチェルシーは、猫のように親し気な微笑みを浮かべている。

「用事と言うより、シェアさんが何かすごくモヤモヤしているなあって。夜気にそんな空気がいつもより溶けているので、気分転換にお仕事でも頼もうかなって」

「お仕事ですか?」

「転移門で行って帰って来るだけ、大砂時計おおすなどけいで半分程度の時間のお仕事です。でも、金貨一枚お支払いします」

 報酬の額で緩まず、素早く何かを飲み込んだらしいシェアの眼が少し細められた。

「金貨一枚? ……つまり密書みっしょの類ですか?」

「そうです。あて先はガシュタラ万藩王国ばんはんおうこくのハレムを仕切っている、ハリファナ王妃の娘、アラムカラヤ様ですね」

「あっ、眠り女を極秘でされたこともあるという、やんごとないお方ですね?」

「ええ。ガシュタラの『万王ばんおうの王』マーハダル大王が一番寵愛ちょうあいしていた第三王妃、ハリファナ様の長女ですね」

「私でも良いのですか?」

「シェアさんが誓約せいやくを誓っている女神シェアリスはガシュタラの神様ですし、同じ眠り女。さらに、シェアさんは『純潔じゅんけつの誓い』もありますから、警戒されずにハレムに入れますからね」

「なるほどです……」

 シェアは初夏の夜空を見上げた。疲れてもおらず、心地よい夜風が髪や肌を撫でていき、何かを誘っているような気さえする。

「お受けします。行ってきますね」

「よろしくお願いします! ……まあ、ハレムに合わせた格式ある服装にはしてもらいますけどね」

 チェルシーが小声で言った後半部分は、シェアの耳にはそう重要な話であるようには聞こえていなかった。

 こうして、シェアは深夜の密書係を務めることになった。

──ウロンダリアの八つの古王国の一つ、自然豊かな南の大国、ガシュタラ万藩王国ばんはんおうこくの王は、『万王の王』の尊称を持つ。この国は古来からハレムが存在しており、各藩王国から二人ずつ女性が出向いている。しかし、その総数が明かされることは無いとも言われている。
 

──ラクサラ・ハリファ著『ガシュタラのハレム』より。

 『西のやぐら』の転移門から、特殊な合言葉で現れた転移先に姿を現したシェアは、飛び交う蛍火ほたるびの中、暗くてもなおわかる濃い緑の庭園の中にいる事に気づいた。

(それにしてもチェルシーさん、この服は以前から用意していたんでしょうか?)

 シェアは自分の身を包んでいる純白の衣装が気になっていた。普段の地味な灰色のローブとフード姿を踏襲しつつも、レースの多い高価な純白のガシュタラ絹のドレスと、同じく透けるような奥ゆかしいフード。もしも自分がハレムにいたらこんな服装なのだろうか? という想像と、どこか恥ずかしい気持ちが熱く湧き上がってくる。

 しかし、そんなシェアの心を、甘くもすっきりした薫香くんこうが落ち着かせてしまった。

(なんて良い香り……)

 濃い緑の中に、夜の色でうっすらと濁された無数の薔薇ばらが咲いており、その薫香くんこうがシェアの心の憂いを消してゆく。ガシュタラの薔薇は香水の原料になっているものも多く、その色や種類、香りは専門家でも把握しきれないとされていた。

「この庭園の薔薇の香りがお気に召したかね? ここにあるのはハレムの中だけの品種だ。薫香を楽しむがいいよ」

 年配の女性の声に驚いて振り向くシェア。白い細密彫刻さいみつちょうこくの優美なベンチに相当に高齢な女性が座り、暗くても分かるほどにしわでくしゃくしゃの顔に奥深い眼光と笑みを湛えている。

「私は先代の王アルハダルの第五王妃だったものさ。『薔薇好ばらずきのアルジェナ』と呼ばれているがねぇ」

──薔薇好きのアルジェナ。

 ウロンダリアの多くの人々が知る名前にシェアは驚いた。必ずしも美女である必要はなく、むしろ知識や利発さが求められるガシュタラのハレムにおいて、並み以下の容姿でも、幅広い知識、特に薔薇への造詣ぞうけいと王への適切な助言が気に入られ、世継ぎを成した伝説的な人物だった。

「あなたが、『薔薇好きのアルジェナ』様ですか?」

「そうさ。あなたは話題の『眠り女』だね? キルシェイドの眠り人を起こした女たちの一人だ。伝聞が正しいなら……そうさね、あなたは教導女きょうどうじょシェアかい?」

「はい。ご存知でしたか」

「見た目に反して血の気はそこそこ多そうだからねぇ。伝聞の通りだよ」

 悪意なく楽しそうに笑う老婦人に、シェアはどこか嬉しさを感じた。

「あっ、私の伝聞は、やはり血にまみれたものが多いですか」

「そうだが、悪い事じゃないね。あなたのような女は強い子を産むと、ガシュタラでは歓迎されるさ。まして、我が国の女神さまの有名な信徒でもある。シェアリス様は滅多に御業みわざをお示しにならないが、あなたには何か意図があって祈願の力を貸しているようだしね」

「それは私が『純潔じゅんけつの誓い』を立てているからだと思います」

 謙遜けんそんするシェアに対して、老婦人は不思議な申し出をした。

「ふむ、なら……ちょっとこの私に、正面を向いて立ち姿を良く見せておくれ」

「はい。……これで良いでしょうか?」

 言われたままに立ち位置を変え、姿勢を正したシェアを、老婦人は興味深げに眺めた。

「これはこれは……キルシェイドの眠り人、なかなか奥深い男のようだねぇ。うちのじゃじゃ馬も少ししおらしくしてしまったし、あなたも難しい所のある女のようだ」

「自分でも少し気にしてはいます」

「なるほどねぇ、そういう事かい。……うちのじゃじゃ馬姫は、この先の蓮池はすいけのあたりにいるはずだよ。このハレムの庭園を存分に堪能たんのうしてからお帰り」

「はい。ありがとうございます!」

 シェアはお辞儀をして立ち去った。素朴でも品のある立ち振る舞いを感じたアルジェナは、その後ろ姿が夜の闇に消えるまで見送り、独り言ちる。

「うちのアラムカラヤに、このシェアさん、そして魔族の姫か。実に良き泥沼どろぬまのような男らしいねぇ。カラヤめ、何とかこのガシュタラに眠り人の血を入れてくれるといいが……そう簡単にはいかなさそうだねぇ」

 一方、老アルジェナの思惑は知らず、美しい蓮池を見つけたシェアは、白いガシュタラ石の大噴水わきのベンチに、細密なレースの多い青いガシュタラ様式のドレスを着た女の人影を見つけた。

「アラムカラヤ様ですか? 魔の国キルシェイドの西のやぐら、眠り人の暫定ざんていの拠点より参りました。眠り女の一人、シェア・イルレスです」

 女性の人影は遠目でもわかる品の良い所作で立ち上がり、優美な一礼をする。その周囲に、三つの花精フラナの光が飛び交っている。

「ようこそお越しくださいました。夜の密書の運び手、お疲れさまです。シェア・イルレスさま。私はこのガシュタラの『万王の王』マーハダルが娘の一人にして、第三王妃ハリファナの長女、アラムカラヤ・ラトーヤ・イマンガシュトです。略称にて失礼いたします」

 シェアはりんとして威厳のあるアラムカラヤの声に感心したが、続く言葉は予想外のものだった。

「さ、かたっ苦しいのはこの辺までにして、気楽にいきましょう? 会いたかったですよ、シェアさん! 私が眠り女をした事は機密なのですが、聞こえてくるあなたの噂に、ぜひ本人に会いたくなったのですよ!」

「あっ、はい……ええ?」

 予想外の気さくさに一瞬置いていかれるシェア。そんなシェアに、褐色かっしょくの肌にして美貌の姫はぐっと近づき、シェアの眼や髪、身体をくまなく観察している。

「素敵な髪質に珍しい艶。とても長くしているのね! ……憂いを含んだ目、品があるわ! うーん、このローブの上からでもわかる体つきは、適度に鍛えてもありますね。体術もなかなかのものではありませんか? これは驚いたわ。いい女というものですねぇ」

「あっ、あの、……こ、困りますそんな、いきなり……。それに、背中は傷だらけでドレスが着られませんし……」

「なのにシェアリス様はあなたに力を貸している。素晴らしい事ですね!」

「……それはとてもありがたい事と思っています」

「ねえ、あなたたちはどう思うかしら?」

 アラムカラヤは飛び交う三つの光に呼びかけた。光はそれぞれ静止し、羽根のある小さな少女たちの姿を取る。不凋花ふちょうか花精フラナたちだった。

──ん、美人。

──心が綺麗ね。でも、深い所ではとても怯えているわ。

 真珠色にうっすら光る衣装を着た二人の花精は、鈴が転がるような声で感想を述べる。しかし、黒い花のような衣装を着た、黒髪の大人びた花精は、少し異なる感想を言った。

──情念じょうねんが深い子ね。今は純潔の誓いを立てているけど、いずれ苦しみそうだわ。

「ええっ⁉」

 一番触れられたくない部分をずばりと指摘され、シェアはあからさまな動揺を見せた。

「タリエ、見通し過ぎは駄目よ?」

──違うわ。見通して欲しいのよ、この子は。気になる人には触れられたいと思い始めているように。

「そんな事……!」

 ひどく動揺しているシェアの肩に、黒髪、黒装束の大人びた花精が座った。

──私はタリエ。あなたの心って退屈しなくていいわ。素敵。

 ここで、アラムカラヤ姫が驚いた表情を浮かべた。

「その子は気高い黒蓮くろはすの花精、タリエといいます。ハレムの女性をあまり好まない子なのですが、シェアさんの事を気に入ったみたいですね。とても珍しい事ですよ?」

「気に入られているのですか? 私が?」

──ハレムの女たちは思惑を優先する子が多いから、情念を綺麗に出せる子は少ないの。

「ああ、納得ですね」

「ごめんなさい、私にはよくわからないわ」

 アラムカラヤは得心しているが、シェアには今ひとつ意味が分からない。

──そう、それがいい所なの。

「でしょうね。シェアさんはクロウディア皇女とはまた違った意味で純粋なのよ。まあ、私なりのお話でもしましょうか。まず、こちらにお掛けになって? このハレムの蓮の池もまた、普通は見られないものなのですよ?」

 白いガシュタラ石で区切られた蓮池には、色とりどりの大きな蓮の花が淡い光を伴って咲いており、シェアは特に、立派な黒い蓮の花にきつけられるものを感じていた。

──あれ、私の花よ?

 タリエはシェアの気持ちを読んだらしく、嬉しそうに囁く。

「そうなんですね? とても綺麗だと思います」

──ねえアラムカラヤ、私、この子と友達になってついていきたいわ。いちばん最初に私の花を気に入ったの、いいと思う。

「ええ?」

「あら、そこまでシェアさんを気に入ったの? なら、構わないわ。シェアさんはどう? 花は枯れることなくこちらで管理していますから、良かったらタリエと友達になってあげてくださいな」

「はい、私は嬉しいですが、良いのですか?」

「タリエが良いと言うなら、喜ばしい事ですよ」

──シェアには私がいた方がいいわ。戸惑いを減らせるから。

「そうなんですね?」

 未来や心が見えるとされる花精フラナたちは、貴重な助言を与えてくれる得難い友になり得た。

「シェアさんは珈琲カフェと紅茶ではどちらがお好みかしら? ……せっかくですから、『ハレムの灰色』をお薦めしておきますが」

──ハレムの灰色。

 紅茶の名産地でもあるガシュタラの最高級とされる灰色がかった紅茶。ガシュタラではハレム内や、国賓こくひんを招いた時にしか出されない至高の紅茶で、完熟した茶葉を秘伝の技術でかびさせたのち、再度乾燥させたものと伝わる。

──んでおいた方がいいわ。

 肩に乗ったタリエがささやく。

「では、いただきます。身に余る待遇で心苦しいのですが」

 アラムカラヤが指をぱちりと鳴らすと、やや離れた場所に、短剣などを帯びたガシュタラ様式の給仕きゅうじたちが手押し車と共に現れた。暗褐色あんかっしょくの肌に濃い緑や青の瞳、そして黒髪。ただ、容姿は一定していない。白い絹の長手袋とタイツが特徴的な彼女たちは、おそらく象牙で造られた小さなテーブルを広げ、格式高い動作で小さな茶会の場を作った。

「どうぞ」

「いただきます。……これは……!」

 口から頭蓋ずがいにかけて明るい密林が広がるような濃厚な茶の味。ごくわずかな酸味と塩味は、果物と海風を思い起こさせる。この味には岩のようなしっかりした土台があり、シェアは海に近い、しばしば果物の実も散見される密林と、そこに横たわる明るい岩窟を思い浮かべた。

 頭蓋が解放され、うれいが夜の中に洗い流されるその感覚に、シェアは言葉を失う。

「お気に召しましたか? 我が国が誇る、時に外交手段にさえなりうる最高の紅茶です」

「こんなものが、この世にあるのですね……。でも、私が頂いてしまっても良かったのかなと思ってしまいます」

「構いませんよ。……私たち、もしかしたらとある方を介して『姉妹』になってしまうかもしれませんし。ふふふ」

 アラムカラヤのきつめの冗談に、シェアは対応しかねた。

「えーと……」

 あらためてその意味を考えようとしたが、アラムカラヤは次の話題に切り替えてしまった。

「さて、男性のお話と言えば、ここ数百年ほど、一部の古王国では『落花流水らっかりゅうすい』なる言葉が再びよく用いられておりますね。本来は移ろいゆく時代に合わせていきつつも、やがて全て失われゆく虚しさを説いたものですが、最近の軽薄な流れのせいか、この言葉を男女の関係に用いるのだとか」

「たまに聞く言葉ですね。私はとても『落花らっか』にはなれそうも無く、シェアリス様に『純潔の誓い』を捧げていますから、無縁の言葉です」

「謙遜なさらずに。そして、あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、我がガシュタラには、『泥沼蓮華でいしょうれんか』なる言葉が伝わっているのです」

「『泥沼蓮華でいしょうれんか』、ですか?」

「ええ。豊かな沼の多い我がガシュタラらしい言葉です。多くの人の上に立ち責を負う男は、清濁併せいだくあわせ呑み多くのにごりを抱えながらも、なお表層は澄んだ水をたたえる。そして、流されぬ根のある良き女は、そんな男のもとでこそ美しい花を咲かせられる、と。それこそ、この蓮の花のようにですね」

「素敵な言葉ですね……」

「ここ最近の古王国連合などの進歩主義を、我がガシュタラは快く思っておりません。私とルイン様との関係は、我がガシュタラの本心を意味するものです。よって……あら、密書をまだ受け取っていませんでしたね」

「あっ、すいません、こちらに」

 シェアは小さな黒革の筒を渡した。アラムカラヤは魔導まどう封蝋ふうろうを解除して密書を取り出し、眼を通す。

「我がガシュタラの王家は、密かに魔の国および眠り人ルイン様との盟を確認し、古王国連合の腐敗を静かに牽制けんせいしていきます。今後もよろしくお願いいたしますね」

「あっ、返書があれば伝えます。私はただの使いですから」

 シェアはここで、自分が運んだ密書が何かを理解した。ルインの出現と活躍によって、世界は静かにひそやかに動き始めていた。

「ところで、シェアさんは自分が孤独な生涯を生きるとお考えですね?」

「……はい。今もそう考えてはいます」

「私もそうでした、と言ったら驚かれますか?」

「アラムカラヤ様が?」

「私は、継承権はあるもののその順位は微妙、しかし我が母の政治力と人気は高く、私もまた、幸いなことにこの奔放ほんぽうな性格を国民がとしてくれています。しかしながら、だからこそ嫁ぎ先が無かったのですよ。ハレムを仕切る奥方頭おくがたがしらになるか、婚期遅れた後に格の高い老藩王ろうはんおうにでも嫁ぐしかなかったのです。あまりに咲きっぷりの良い蓮の花は、非常に良き沼が無いと根を下ろせないという事ですね。ふふふ……」

 シェアはこの奔放で聞こえた美貌の貴人に急に親しみを覚えた。背景は異なっても、抱える悩みはとても近いと感じられていた。

「似ている気がします」

「あなたもまた稀有けうな類のはすの花ですよ。立ち振る舞いで分かります。そして、願わくばあの方が私たちにとって根の下ろせる沼であってほしいと思いますね」

「私たちが、蓮の花……」

──それならシェア、きっとあなたは黒い蓮ね。

 タリエがおかしそうに囁く。

 シェアはここで、チェルシーがなぜ自分にこの話を振ったのかが理解できた。夜の闇に溶け出していた煩悶はんもんに少し手がかりを与えてくれたのだと。

「『落花流水らっかりゅうすい』と『泥沼蓮華でいしょうれんか』。私もあなたもきっと後者ですよ、シェアさん。これからはどうやって根を下ろし、美しく咲くかを考えていきたいですね」

「……そうかもしれませんね」

 眼前に広がる夜の蓮池の光景が以前とは少し違った意味合いで見えている。シェアは少しだけ心が軽くなるのを感じていた。

「『泥沼蓮華でいしょうれんか』……」

 シェアはもう一度、その意味を飲み込むようにつぶやいた。

──ガシュタラのハレムに集められるのは、まず第一に知性と教養が高い女性であり、賢ければ見た目は関係ないとまで言われている。王の心を癒すのは容姿や肉体ではなく賢き言葉であるべきとされ、容姿の美しい女性の比率がそう高くないガシュタラのハレムは、このため好意的に受け止められている。

──ラクサラ・ハリファ著『ガシュタラのハレム』より。

first draft:2021.04.22

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