蒼い城と、導きの灯火
無数に枝分かれした無限世界の中でも、特に基軸となる、光、中間、闇の三千世界の中で、六つの世界に連なる位置に存在する、『ア・シェの六連世界』と呼ばれる地があった。光溢れる二つの世界、中間の二つの世界、そして闇の二つの世界の連なるこの地は、それぞれの世界の交流はほとんどないものの、それぞれが隣接する他世界の事を認識しており、また尊重する関係が成り立っていた。
それを可能にしていたのは、この六つの世界の中心にある、永遠の蒼き城リュデラーンと、その城に鎮座する城主、青白い不動の星の光を届ける位の高い女神『導きの灯火のハルシャー』の存在感によるところが大きい。
ハルシャーの放つ青白い光はこれら六つの世界の夜に不動の星となって人々を導き、時おり彼女が蒼いヘラジカで夜空を駆ければ、人々はその流れる光に願いをつぶやいた。その蒼い城の永遠の積み石の跳ね返す光は、色の無かった空を美しい蒼色に染め、いつも人々の心に希望をもたらし、いつしか無限世界の多くの空は、このア・シェの地の空の色にちなんで蒼い色に染められるようになっていた。空の蒼さの始まりであるとされている。
今夜もハルシャーは蒼い城の『極星の回廊』をゆっくりと一周し、六つの世界の夜の一つの星となる光を届け、夜を旅する者たちの希望と道しるべとなる務めを果たし終えていた。その手には遠い昔に彼女が世界の果てで見出した、長い白金樹の枝の杖『朽ちぬ白金樹の杖』が携えられている。
「ハルシャー様……」
白い絹地に目の覚めるような青い帯の祭服の巫女神たちが、夜空を眺め続けるハルシャーの後姿に遠慮がちに声をかけた。高貴な青紫がかった艶の白い髪をしたハルシャーは、束ねられた長い髪を揺らして振り向く。
「……あのお話でしたら、お断り致します」
白い瞳にわずかな青い火の燃える目をしたハルシャーは、輝く神気溢れてその口や鼻が良く見えないほどだった。髪と同じ色艶の肩出しのドレスは、薄い青紫の星や花の柄が意匠されたもので、手をそっと掲げた彼女はそこに白く眩しい小さな火を呼び出し、その表情がわずかに曇った。
「やはり、また婚姻のお話ですよね。いつものようにお断りをしてください」
小さな白い火を人差し指の先に移したハルシャーは、もう一方の手を腰に当てて首を傾げ、侍女神や巫女神たちに片目をつぶって見せた。白い髪に載せられた白銀のティアラの光までが親し気に躍ったように見え、侍女神や巫女神たちはふと笑顔になった。
それでも年長の侍女神が慎重に言葉を選ぶ。
「しかしながらハルシャー様、お言葉ですが界央の地の玉座におわします聖魔王様の妻になる事は、偉大なる隠れし神々のお言葉を直接聞ける至上の地位です。それほどまでに心惹かれぬものですか?」
「はい。全く」
より笑顔を強めてハルシャーは即答するが、その笑顔には有無を言わせぬ決意が読み取れていた。侍女神や巫女神とはいえ、六つの世界に関わるハルシャーに仕える者たちの格は高かったが、それでも困惑の空気が漂う。ハルシャーはそれに応えるように話を続けた。
「確かに私も女神です。格が高いとはいえ婚姻は可能ですし、界央の玉座におわす尊きお方の妻となれば真の永遠性を手にし、より権能も増すと伺っております」
「それではなぜ……」
「私はそれを特に望んではおりませんし、この六つの世界の人々の願いはとても多く、変わらずに私のままでいて、その願いを聞いて導く事にこそ、私は永遠性を見出しています。何かを変える気はありませんし、そもそも……」
ハルシャーは言いながら、人差し指の先に白い炎を再び浮かべた。夜だった回廊は束の間、昼間のような光に満ちた。
「私の権能は十分に強く、神の権能は知恵ある者たちの原初の闇を照らし、彼らが己の力で闇を照らして歩けるようになったら、次第に私たちは消え行くべきであると思っています。私たち神とは俯瞰すれば過去であると言えるでしょう。私はそれをよく理解しているつもりですし、それを超える事は何かを歪めてしまう気がしてならないのです」
侍女神、巫女神たちから感嘆のため息がこぼれた。ハルシャーの導きの灯火が必要とされている以上に、多くの者たちから彼女が信奉されている理由でもあった。
「私の考えを明確にすることはあまりありませんし、多くの人々を導く光たる私が、その意思を示す事もまた、神としてあまり好ましい事とは思っておりません。どうか今回はその旨も界央の地の使いの方にお伝えください。私は自らの務めにひたすらに向き合い、励みたく思っていますし、何よりこの六つの世界、ア・シェの人々をとても愛おしく思っているのです。美しき無数の願いが何より尊く、それを導けることに無上の幸福を感じておりますから。これ以上何かを望むのは好ましくないとさえ思えるのです。どうか、分かってはいただけませんか」
「……かしこまりました」
何も言えなくなり、また何も言うべきではないと悟った侍女神たちは引き下がり、二度とこの話題を出すべきではないと考えた。気高く尊いハルシャーの心を誰も曇らせたくないと考えていた。
「今回は、お手紙ではなく私の心と声を正確にお伝えすることに致しましょう。私を見出してくださったことは光栄であり、感謝もすべきだと思っていますから」
女神ハルシャーはそっと掌を広げた。夜空から小さな一条の光が流星のように落ちてきて、複雑で美しい、淡い輝きの巻貝となった。
「これに私の思いと、界央の地に座す聖魔王様の安寧を願う言霊を込めて贈りましょう」
こうして、度重なった婚姻の話の断りの文言と返礼は、美しい貝殻に込めて無限世界の中心、界央の地へと贈られた。そしてこの日以降、女神ハルシャーに婚姻の話が来ることは無くなった。
人の感覚では千年紀が三十ほど巡った頃のある日、リュデラーン城の回廊にいたハルシャーは言葉を失って立ち尽くしていた。ア・シェの六つの世界のうち、二つの闇の世界から届く願いが、無数の救いを望むものと怨嗟、神々を呪う激しい怒りに満ちたものに変わり、やがてそれは何かがはじけるように全て消えて静寂だけが残った。
「何が⁉」
あまりの事に心が震え、感じ取った膨大な量の恨みと悲しみが涙となって滴り落ちている事に気づかないハルシャーは、声を震わせて叫んだ。
「闇の世界の人々、何があったのですか⁉」
回廊の手すりを握りしめ、ハルシャーは権能の限りに闇の世界に呼び掛けた。しかし、虚無だけが横たわり、何も感じられない。
「ハルシャー様!」
異変に気付いた侍女神たちが駆けつける。ハルシャーは権能の限りに消えた二つの闇の世界を知覚しようとした。
「これは……!」
遥か彼方、おそらく闇の千世界の中心部で、いくつもの世界を巻き込む巨大な戦いが起きており、今まさにその戦いは終わろうとしていた。闇の世界の無数の生命はどこかに消えて行こうとしていたが、途轍もなく重い闇と怒りの塊が現れ、それが何かを放つのを感知した。
「いけない! 皆、身を伏せてください!」
ハルシャーは権能の限りに青白い炎で蒼い城を包む。一瞬遅れて、虚無と化した闇の世界のほうから、何者かの怒りに満ちた叫びと共に、天を割るように巨大な暗黒の剣閃が二度、ア・シェの空を割った。それは高密度の暗黒を怒りと共に圧縮した、信じられないほど巨大な何者かの剣閃であり、無数の世界を貫いたその裂け目は遥か彼方までの異なる世界を見通せるほどだった。
(何が? 誰が何をしてこのような事に?)
混乱の極みの中、通り過ぎた暗黒の残滓が闇の蛍のように漂い、掌に落ちたその一つから、ハルシャーは激しい思いを感じ取った。
──我々は滅ぶ。それを予見していた。しかし、我らが建造した怒りの巨神は何者にも破れず、何者をも破る。いつか正しき怒りを持つ操者に渡り、この欺瞞と不条理と、我々の尽きぬ怒りが雪がれる事を望む!
「何という、哀しく激しい願いを……」
無数の人々の怨嗟と共に、暗黒世界に何が起きたのかが理解できた。ハルシャーの知らぬ間に、闇の千世界は何らかの理由で界央の地から断罪され、滅ぼさんとされ、不意打ちに等しい戦争によって無関係だった全ての闇の世界も悉く亡きものにされてしまっていた。
ア・シェの二つの闇の世界も無慈悲に断罪されて滅ぼされてしまったらしい。
「なぜ? 何のために無関係の世界まで? 闇の千世界を全て滅ぼす必要が?」
ハルシャーは権能の限りの知恵を使って感知と考察をしたが、何度それをしても、欺瞞、理不尽、隠匿といった、界央の地に疑念を抱かざるを得ないものしか浮かんでこなかった。
(いけない。私の権能では追い付かない。きっと大いなる、深遠なる理由で行われたことのはず。無限世界を統べる界央の地こそは、世界を生み出した隠れし神々の聖地。きっと私ごときでは理解の及ばない……)
そんなハルシャーの心の声に、現実で答えるものがいた。
「いやいや、疑問を持ちたまえよ『導きの灯火のハルシャー』様。無限世界広しと言えども、君の格の高さと知性の高さは、聖魔王の妻たちや、彼の周りの概念の神々に等しいものだからねぇ。ヒィーヒヒヒヒ!」
「あなたは⁉」
振り向いたハルシャーが見た者は、色とりどりの生地がのぞく切れ込みのある衣装に、二股帽子をかぶった道化師そのものといった見た目の、ずんぐりした男だった。
「やあ! 僕は界央の地において無償で働く可哀想な『道化』パロガという者だよ。名前くらいは聞いたことがあるんじゃないかな?」
──聖魔王に仕える者、『道化』のパロガ。
界央の地の玉座に座し、隠れし神々と対話しつつ世界を統べる存在、聖魔王。その至高の存在に仕える道化は、神々より高位の存在に間違いなかった。相手が何者であれ辛辣な諧謔(※笑いの概念の事)を交えて話すこの道化は、界央の地を知る者ならだれもが知っていた。
「界央の地のお方がなぜここに? ……いえ、何が起きているのですか? 恥ずかしながら、私の知恵と権能の限りを尽くしても、今起きている事は……」
「それ、正解だからね?」
「何と仰せられましたか?」
パロガは笑いながら腕を組んでさらに大声で笑った。その太った大きな体が揺れる。
「君さぁ、聖魔王の妻になる資格さえ蹴っ飛ばすくらい至高にして孤高の存在なんだから、ここに来て界央の地とか信じるのはやめて、自分の知性で答えを出したらそれを信じたまえよ」
「そんな……いえ、でもそれは……」
「真実なんていつも残酷な物じゃあないか。導きの女神様、例えば君の導きの灯火を信じた者たちのうち、誰がどれくらい目的地に到達したかね? 現実なんていつも夢が無い物だし、夢に満ち溢れている場所が存在するとしたら、それはきっと欺瞞だろうさ。例えば夢溢れる界央の地みたいにね。ひっひっひ!」
しかし、極めて位の高いハルシャーは、この言葉に自分に対しての皮肉も込められているとすぐに見抜いた。
「私の権能も無意味に等しいと仰いますか?」
「そんなものは君が決めることで良くないかね?」
パロガは笑っているが、その眼の奥に宿る深い光に、この道化がハルシャーに対して『自分の判断に疑問を持つな』と暗に語っているとハルシャーはすぐに気付いた。
「……何が起きているのですか? そして、いかなるご用件でこのア・シェの地に?」
「いやぁ、実に理解が早くて賢くて助かる。僕ら『道化』の仕事はね、『お前らは馬鹿だから笑ってもらってるうちにそれに気づいてとっとと直せ』という、実に重要な啓蒙活動に、諧謔を交えて楽しめるようにした、まことに贅沢な示唆なのだよ。しかし、君のように賢い人にはその必要があまりない。そりゃあ、馬鹿な女の権力闘争が鶏小屋の喧嘩並みに多い界央の地を選ばなかっただけはあるねぇ」
「そのような事が⁉」
「ああいけない。ついつい口が。みんな気高く美しい高位の女神様たちだったよ」
道化パロガの面白おかしい話には、全く笑えない真実が含まれていた。界央の地が信頼に値しない場になりつつあるという情報は、ハルシャーの心を一瞬揺るがせかけたが、それが同時に、自分のあるべき姿勢も明確にした。
「私は自分をより強く信じて、何かを護り続けるべきと?」
「ふむ。平たく言おう。このア・シェの地の残り四つの世界は、暗黒世界に隣接していた事により、ただそれだけの理由でいずれ滅ぼされる。僕にはそれはとても悲しい事と思えているので、何か手が打てないかとここへ来た、というわけだ」
すでに、ハルシャーは素早くパロガの話を読み取ろうとしており感情的にはならなかった。
「なるべく多くのものを護り、残したいと思います。私は聖魔王様の妻になれば良いのですか?」
道化パロガはにんまりと笑う。
「話が早い。残り四世界のそれぞれ一部と、いずれ訪れる終末でも自分を見失わない者たちは、滅ぼされずに何とか別の世界に連れていける。それには君とこの城を、とある男に差し出すのが条件となるはずだ。それまでのいささか長い孤独と共にね」
「とある男? 聖魔王様では無くですか?」
「ひっひっひ! 婚姻を何度も断って今更それはないだろう? 道化の僕を笑い死にさせる気かね? 今さらそんなのは僕だって断るさ。気分悪いからね! ……君は今回の暗黒世界の滅亡の謎に絡み、いずれ現れるとされる男の妻になってもらう覚悟でいてもらいたい」
「それはどのような方なのです?」
道化パロガは真顔になった。
「すでに存在しているかもしれないな。いずれこの無限世界には聖魔王に匹敵する存在が現れ、闇の時代が訪れると噂されている。闇の千世界は、まあそれの予防で天使たちに焼き尽くされたのだが」
「そんな事が……」
「もし本当にそのような存在が現れたら、君は世界が闇に包まれないように、その存在に嫁いで世界の維持に努めてもらいたい。この約束と引き換えに、僕は残り四世界の一部と、生き残った人々を安全な世界に届けることを約束しようじゃないか」
ハルシャーは一瞬の憂いを浮かべたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「その方がいかなる方であれ、この約定が守られるなら、私にとっては良き夫となります。時が来たらその方が私の大切なものを理解して尊重してくださるように、私もその方を理解して尊重すべく在りたいと思います」
「素晴らしい考え方だ! どっかの女たちに聞かせてやりたいものだよ全く」
「邪悪な行いを成す者の心はいつも哀しく、導きの光が見えません。私なら、たとえ闇のお方の心にとってでも、その光となれるかもしれません。……いえ、そうあろうと努めます」
この言葉にパロガは諧謔の気配の漂わない、深遠な笑みを浮かべた。
「何か?」
「ふむ。例えばそんな君が、導きの光さえ必要としない、闇の中でも己を信じて延々と歩み続ける戦士と出会ったらどうなるのかと思ってね」
この問いはかつてハルシャーが長い旅の日々にあって浮かんだ問いの延長でもあった。ハルシャーは予期せず微笑みを浮かべる。
「そんな方だったらむしろ私が教えを請いたいです。尊敬に値する方ですね」
「そんな人物であると良いねぇ。さあ、約束は成立した。いずれ君は長い孤独と共に、わずかな従者たちとこの城と共に世界のはざまの闇を漂う事になるかもしれないが、求める者にはその間も君の光は届くだろう。覚悟はいいかね?」
「はい。残り四つの世界と、愛すべき人々をよろしくお願いいたします」
「いいだろう。気高きハルシャーよ。約束は必ず守られよう」
永遠の蒼い城リュデラーンと、その城主である導きの灯火の女神ハルシャーは、こうしてのちの時代にダークスレイヤーと数奇な出会いを果たす事となった。これは、その秘められた前日譚である。
初稿2021.12.03
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